その日は、絶対一回で起きるという意志のおかげか、どうにか起きることができた。午前四時、鬼怒川すら起きてこない時間だ。珍しく余裕のある起床だが、ため息は誘発される。
 できるだけそろそろと動き、準備する。動きに制限がある所為か、結局少しゆとりがある程度の時間になってしまった。早歩きなら間に合うか、とリビングを抜けようとした時、ドアが開く音がした。まだ鬼怒川は起きてこないはずだが、誰か起こしてしまったのかもしれない。
 ゆるゆると眠たげに顔を見せたのは、鳴子だった。
「わり、起こしちまった?」
「大丈夫です。……もう行くのですか? 今日こそ朝食を摂れるのでは」
「それがさぁ、もうちょーっとヤバい時間なんだよ。……行ってきますっ。あ、鍵宜しく!」
「……はい」
 少々返事が芳しくないが、眠たい所為だろう。暫くして冴えてくれば大丈夫と踏んで、ドアを潜り抜け走った。
 今日も今日とて二食抜きで駆けずり回り、最早何も感じていない空っぽの胃と共に帰宅すると、鳴子だけがいた。今日は早く帰ってきていたようだ。
 冷蔵庫に入っていた【朝ご飯】を取り出すと、レンジにかける。じんわりといい匂いがしてきて、死にかかっていた全感覚が一斉に息を吹き返し、空腹を訴え出した。
 動かないのであればいざ知らず、動きまくって走りまくった蔵王にとって、二食抜きは正直あり得ない状況だ。ってかよく死ななかったよ俺。そんな風に思ったのは、皿の上を粗方片づけてからだった。いつの間にやら淹れられていたお茶を飲んで、大仰に、いや、心情的にはちっとも大仰なんかじゃないのだが、とにかく大仰にため息を吐いた。
「お疲れのようですね」
「あー……。これあと半月やんのかよ……死ぬ」
「起床時間をただ早めればいいというわけでもない、というのがネックですね。いっそただ早く来いと言われている方が楽なように思います」
「だよなー……。まああんま早くても結局ダメなんだけどさ。早かったり遅かったり、もーダメだしんどい……」
 鳴子しかいない、という状況の為か、滑らかに泣き言が出てくる。机に突っ伏すと、「お皿落としますよ」と窘められた。ややあって、皿をいじる音と共に鳴子の気配が移動した。下げてくれるらしい。そういえばお茶も淹れてくれたし、相当参っているように見えているのだろう。
 これ以上ご飯を抜くのは死活問題だ。どうにかしたいと思いつつ、蔵王は再び大仰にため息を吐いた。



 新しい朝は来る。寝坊の朝だ。相変わらず予想外の時間を指す目覚ましを投げると、ドアを思い切り開けた。近頃ではすっかり慣れてきた、駆け込み洗面が悲しい。
 手早く身支度を済ませ、リビングを通過。途中、眠たげな由布院の朝ご飯に目をやってしまい、悔しくなるのもなくなってきた。麻痺してきたのだろうか、しかもかなり嫌な方に。
 靴を履き、一瞬紐を整えていると、肩をとんと叩かれた。ん、と見ると、鳴子が見下ろしていた。普段はそこまで身長差のない鳴子に、思い切り見下ろされるのは新鮮だ。が、あまり楽しんでいる暇はない。
 何か用事があって来たに違いないし、【時は金なり】な彼が時間を浪費するわけもないと待ってみたが、何やら迷っている様子で、一向に動きがない。帰ってきたらにしてもらおう、と口を開きかけた時、無言のまま何かを押しつけられた。恐る恐る受け取ると、何だか判らないそれは微かに温かく、余計に判らなくなる。イオが渡してきそうで、あったかいものって何だ?と考えかけ、そういえば時間が差し迫っていることを思い出した。
「イオ、」
「どこかで!」
 行ってきます、の言葉はかき消された。どことなく恥ずかしそうに、鳴子が早口で言い募る。
「どこかで食べてください、朝食替わりですので。以前も言いましたが、そもそも朝食というのは単に空腹を解消する為だけではなく、午前の活動に必要なエネルギーを摂取するという意味があります。しかも君の場合、近頃は昼食すら摂っていないとか。確かに一食抜いたくらいで人間は死にませんが、それだって積み重なってしまえば致命傷へ繋がります。食事は人間の体を作る行為であり、それを怠っていてはいずれ体を壊し、大いに損失が出てしまいますし、」
「……えっと、つまり」
 普段だったら聞き流してしまえばいいのかもしれないけれど、今日ばかりはダメな気がした。つまり、要約すると。
「心配してくれたってことでいい?」
「……っ」
 何か悔しそうだ。なぜだろう。
 もうちょっと問い質してみたいところだが、ぐっと堪えてドアを開けた。走り出す直前、蔵王はひらりと手を振ると鳴子へ叫んだ。
「サンキューな、イオっ! 行ってきます!」
 返事はあったのかなかったのか。確認する間もなく、バス停へ走ってしまったから判らない。ただ、鳴子が用意した【朝ご飯】の存在だけは確かだった。
 遅刻をきっちり免れてから、中身を確認する。しっかり目に焼かれた食パンが見えて、これの正体がサンドイッチだったことが漸く判った。中身は、今日の朝ご飯のメニューである、目玉焼きとベーコンだ。
 食べやすく二つに切られたサンドイッチを口に運ぶ。ソースの味がした。目玉焼きにはソース派の鳴子らしい。そういえば以前、「絶対に美味しいですから! ぜひ試してみてください!」と、珍しく熱弁を振るっていたのを思い出す。まさか、意図せずして試すことになろうとは。
 いつもと同じく朝は早いし、急がないといけない羽目には陥ったというのに、どこか落ち着いていた。食事は偉大だ。それから、誰かの心も。
 思い立って、メールを送ろうと携帯を開くと、新着メールが一件来ていた。
《どういたしまして、行ってらっしゃい》
 返事は、あったらしい。



 何というか、驚いた。
 あの朝、一瞬聞こえてきた物音に鳴子が目を覚ますと、蔵王が正にリビングを出て行くところだった。こんな早くに、というのにも当然驚いたが、そのあとのセリフだ。
「それがさぁ、もうちょーっとヤバい時間なんだよ」
 慌てているのなら、返事なんてしなければいい、いつも通りに準備だってすればいい。いつもの慌てようは知っている。盛大にばたばたしながら準備し、「っます!」と雑な挨拶を寄越し、走って出ていく姿は、よく。あれだけ騒ぐことによって間に合わせているのだとすれば、慌てている以上、もっとやかましくなって然るべきだ。でも、急いでいるはずなのに、蔵王は誰かが起きないように、静かに準備を進めた。これは、当たり前で済ませていいことなんだろうか。
 誰かと一緒に暮らす以上、こういった気遣いは重要だと思う。ただ、それを自分がピンチの時にまで実行できるかと言われたら。
「……イオ? もう起きてたの?」
 少し眠たい目を擦り、鬼怒川が起きてくるまで、鳴子はそこに立ち尽くしていた。
「あれ、もしかしてリュウもう行っちゃった? 朝ご飯間に合わなかったなぁ、あとで謝っておかないと……」
「鬼怒川先輩」
 うん?と首を傾げられ、少しだけ迷う。余計なことかもしれないけれど、だってしょうがないじゃないか。
「リュウの朝食を別の形に変えても良いでしょうか。持ち出しができて、簡単に食べられるものに」
「持ち出しができて簡単……? おにぎりとか、サンドイッチとか?」
「はい。これ以上朝食を抜き続けるのは問題です。それに、どうやら近頃は昼食すら抜いているようなので、朝の重要さがより高いかと」
「そっか……。なら、朝ご飯の中身をそのまま具に使おうか。そうすれば別に大変ってこともないし、みんなで同じものも食べられるしね」
「あ、あの。私が作ってもいいでしょうか」
「イオが?」
 一瞬不思議そうな顔をした鬼怒川だったが、すぐに柔らかく笑って「うん、お願い」と承諾してくれた。
「心配なんだね、リュウのこと」
「そういうわけではありません。……ただ」
 一銭にもならないのに、自分が大変になるのに向こうのワガママに振り回されてやって、人を気遣って、いつか壊れてしまいそうな優しい彼を、どうにか助けてやったっていいんじゃないかと思っただけで。
「……心配、なんでしょうか」
 鬼怒川はあえて何も言わないまま、台所へ入っていった。明日の朝ご飯は、おにぎりかサンドイッチに変えやすいものにしよう、と思いながら。