その家は、黒玉湯からそう遠くない場所にある。
大好きな強羅から離れすぎず、でも少しだけ【ひとり立ち】という言葉が浮かぶ距離だ。
有基はリュックの紐を握りしめると、チャイムを鳴らした。
少し待ってみたが、返事はない。だが、もう高校生の頃とは違い、有基も大人になっていた。恐らく、すぐに返事ができない事情でもあるのだろう。この時間に着くと連絡はしてあるわけだし、待ってみるべきだ――と、思っていたはずなのに。
大きく息を吸い込むと、呼びかけてしまった。
「ちわーっす! 煙ちゃん先輩かアツシ先輩かイオ先輩かリュウ先輩っ、いないっすかー!」
「ちょ、ユモト!?」
大慌てで飛び出してきた鬼怒川に、間髪入れずに抱きついた。
「すっげー! ほんとにアツシ先輩っす!」
「本当に俺だけど、すごいかな……? ってかここ外だから!」
美少年が美青年に抱きついている、という光景は中々目を惹くもので、通行人がちらちらと視線を送ってきていた。半ば有基に抱えられた鬼怒川は、とりあえずそのままドアを開け、玄関へ滑り込んだ。通行人の視線から逃れ、ほっと息を零す。
これで余裕が生まれたのか、鬼怒川の手が頭を撫でた。宥めるような手に、昂っていた心臓が落ち着いていく。
「久しぶり、ユモト」
「アツシ先輩も、久しぶりっす」
柔く目を細めて笑う姿は、最後に見た時と全く変わっていなくて、安心した。そっと鬼怒川から離れると、「とりあえず上がりな」と促された。
「いつまでも玄関で立ち話っていうのも何だしね」
「うっす! お邪魔します!」
ばっと頭を下げてから、脱いだ靴を揃え、短い廊下を抜けた。リビングに繋がるドアを開けると、ソファーに横たわる由布院に遭遇した。
「よぉユモト、よく来、」
「煙ちゃん先輩っすー!」
「ぐえっ」
後輩の追突を想定していなかった様子の由布院から、切ない声が聞こえた。イケメンが台無しだ。
柔らかな髪を堪能するように、本能の赴くままモフる。由布院が大した抵抗をしないのもあって、モフモフはとまらない。
「もう襲われてんすか由布院先輩」
「相変わらず手が早いですね、ユモトは」
「イオリュウ先輩っ!」
「うわっ!?」
「なんですか!?」
傍観者だった鳴子と蔵王も、あっという間にモフりの被害者に変わった。由布院を素早く開放すると、鳴子と蔵王に抱きつく。二人一遍に、だ。鬼怒川の「うわ、事後だ……」というコメントは、由布院以外に聞こえていない。
匂いの薄さの変わらない鳴子と、甘い匂いのする蔵王を堪能する。みんな久しぶりに会ったはずなのに、変わっていないことが嬉しくて嬉しくて、何だか苦しいくらいだ。
ぐしゃぐしゃにされた髪を雑に整えてから、由布院はソファーに座り直した。有基が二人を開放した頃を見計らって、「どうする、近況報告でもする?」と提案すると、鬼怒川が素早く反応する。
「そうだね、煙ちゃんのことは判るけど、三人のことは判らないし」
「だな。まぁ、一応俺からにしとくか」
後から言うのめんどいし、という残念なボヤキが聞こえた気がしたが、全員スルーした。
だがその直後、聞き捨てならない一言が飛び出した。
「俺は、普通に会社員してる」
『……えっ!?』
普通に、会社員。あの面倒くさがりで、夢は「寝て暮らす」ことの由布院が、会社員。衝撃的な事実に三人して言葉を失う。
その様子に、由布院は少しだけ悲しげに眉を寄せた。
「なんだよ、見えねぇっての?」
「いえ、あの………………はい、失礼ながら……」
「由布院先輩雇ってくれるとか、何してる会社なんすか」
「会社ってあっという間に【シャシヘンサンシツ】ってとこに飛ばされるって聞いたんすけど、大丈夫っすか!?」
「お前らが俺のことどういう目で見てるかよく判ったけど、ユモト、お前は何か違う」
微妙に落ち込んでしまった由布院を、鬼怒川が笑いながらフォローした。
「大丈夫だよ、煙ちゃんやる時はやる男だから。うちも出資してるとこなんだけど、業績上々だよ」
「うち……ということは、鬼怒川先輩は家業を継がれたのでしょうか?」
鳴子が聞くと、鬼怒川はちょっとだけ首を横に振った。
「ううん。今はまだ父さんの手伝いが中心だよ。一応、いつかはそのつもりだけどね」
「鬼怒川先輩といい、由布院先輩といい、現実味ないっすね」
「アツシはともかく、俺は普通に会社勤めしてるだけだろ」
「いやいや、由布院先輩がフツーに会社勤めしてるってだけでびっくりなんで」
「どんだけ驚いたのリュウ……」
由布院が完全に拗ねて後ろを向いた時、有基が元気よく挙手した。
「次、俺いいっすか!」
緊張が走った。
実のところ、有基の詳しい進路を知っている者は、一人もいなかった。大学に進学した、とは聞いているが、それ以上は知らない。どんな大学に通っているとか、何を勉強しているとか、そういうことは、一切。
そんな緊張感など、露ほども感じていない有基は、「うーんと」と呟いてから、こう言った。
「今、大学生してるっす! 友達もできて、毎日楽しいっす!」
『…………』
「こんな感じっす。イオリュウ先輩は、」
『終わりかよ!』
「えっ」
あまりにも揃ったツッコミに、目をぱちぱちさせる。ぐいぐいと全員が詰め寄ってきたが、正直何で詰め寄られているのか判らない。
何やかんやと唸りながら、いち早く言葉を探し当てた由布院が「違うだろ!」と叫んだ。
「そんなん知ってんだよ! そうじゃねぇだろ、そういうんじゃなくて、もっと細かいことだよ!」
「そう! 例えば、ほら、何勉強してるとか!」
「昨日は、人体錬成と蘇生について勉強したっす」
「何をメインに勉強する大学なのそこ!?」
「というかそこ、何ていう大学ですか!? ホームページはありますか!」
「○▽◇大っす!」
「え、何もう一回言って?」
「だーかーらっ、☆♪▲大っす!」
「さっきと変わった!?」
「それ超高度な科学技術使ってる大学だろ!」
「そうっすかね? そんなことないっすよ、どっちかって言うと何か古いっす。石盤使うし」
「石盤!?」
この時彼らは、有基の近況報告を先にしたことを切実に後悔していた。このあとに鳴子と蔵王に近況報告をさせるだなんて、酷すぎると。本人たちも「え、このあと報告するの?」というような、不安げな目をしていた。
何とか二人を逃がそうと、鬼怒川はわざと大きめの声を出した。
「そ、そういえば、お腹すかない? ご飯にしようよ」
「あ、ああ。だな。メシにすっか、とりあえず」
「そ、そうですね。実は私もお腹がすきました」
「なに、食べます?」
「え、イオリュウ先輩は今何してるんすか?」
『それはあと!』
むぅと頬を膨らませてみたが、撤回はしてくれないようだったので、諦めることにした。ひとまずご飯、だ。
何にしよう、と頭で唱えていたら、ぱっと浮かんだ。折角の再会で再開なら、もうあれしかない。有基はにっと笑うと、さっきと同じくらい元気に「はいはいっ!」と身を乗り出した。
「カレー! 鬼怒川カレーがいいっす!」
「あ、ユモトに先越された! 俺もカレーがいいっす!」
「リュウもでしたか。私もユモトと同意見です」
「俺もー」
「え、みんなカレーでいいの?」
ぱちぱちと瞬きする鬼怒川に「カレーがっ、いいんす!」と強調してみせる。鬼怒川はちょっとだけ恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに頷いてくれた。
メニューは満場一致で決まったので、材料と道具類を確認する。道具類は申し分なしに揃っているが、材料が全くない。細かく言えば、米しかない。買いに行くしかなさそうだ。
鳴子が調べてくれた情報によると、ここから最寄りのスーパーは【スーパーマーケット田中】のようだ。運命の巡り合わせなのか、はたまた狙ったのか判らないが。
「じゃあ買い出しじゃんけんでもする? 久しぶりに」
「おっ、いいんじゃね。本気出すか」
「こんなところでですか?」
材料を自分の目で選びたい、という鬼怒川を除く四人で、じゃんけんすることになった。勝った人が家で待機、負けた人が買い出し補助だ。
「行くぞ、じゃんけん、」
『ポン!』
手は由布院がグーで、他三人がチョキ。まさかの一人勝ちだ。どういう本気を出すとこういう結果になるのか、謎だ。
「うわっ、負けた!」
「じゃんけんは確率論です。……ですが、こうなると本気の度合いも勝負に関わってくるような気がしてきますね」
「ってことは、俺とイオ先輩とリュウ先輩が、買い出し補助っすね!」
「えっ」
由布院は誇らしげな表情を消し、どことなく寂しげな空気をまとった。確かに人数は言っていなかったが、こうなると何だか仲間外れ感が否めない。別に苛められてないのに。
「煙ちゃんはお米の準備宜しくね。行こうか」
「うっす!」
「え、いいんですか本当に」
「まあ一応そういうルールだし? 仕方ないんじゃね?」
「おー、早く行ってこい。で、…………なるべく早く帰ってこい」
めちゃくちゃ小さく、しかも早口で付け足された言葉に、鬼怒川がふふっと笑った。煙ちゃん可愛いなぁとか、そんな風に思われてしまっていることが判る。
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