由布院が帰宅した時、家が真っ暗だった。珍しく由布院が一番乗りらしい。いつもなら、誰かしら帰ってきている時間だというのに。
 鍵を開け、誰に言うでもなく「ただいまー」と挨拶してからリビングへ入る。と、真っ暗な部屋にぼぅっと光があって、めちゃくちゃ驚いてしまった。あまり後輩には見せられない驚き方だったと思う。
「あ……煙ちゃん……。お帰り」
「……はぁぁぁ……んだよ、アツシか……。いるなら返事してくれって」
「ごめん、今気づいた……」
 携帯片手にぼんやりと返す鬼怒川に、強烈な違和感を覚える。ここ最近ずっとあった違和感だが、今が一番鮮烈に感じられた。何も言わず額に手を押し当てると、びくりと体が跳ねた。
「ちょ……急に何だよ」
「いや。熱はねぇな。……なぁ、アツシ。お前さ、最近ちょっと疲れてね?」
 ずばり切り出してみると、鬼怒川はやや躊躇ったあと頷いた。
 近頃、鬼怒川はどことなく疲れている――ような気がしていた。具体的に何かがあったというわけではないから、由布院の勘だったが。
 ぼんやりしているのをよく見かけた、というのも気づいた理由の一つだが、一番引っかかったのは、晩ご飯にカレーが続いたことだった。
 カレーは、鬼怒川にとって得意料理だ。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので、カレーが好きだったからこそ沢山作るようになり、得意になった。そして極めすぎた結果、カレーなら大体無意識でも作れるようになってしまったという。
『前にさ、すごいぼーっとしちゃってたことあったんだけど、ちゃんとできてたんだよ。まあ、普通のカレーだけど』
 そんな話をしたのを覚えていた。極めるってのはこういうことを言うのか、と感心していたから。
 それがサインになった。
「何かあった?」
「……別に大したことじゃ」
「……いつもだったらしわになっちゃうーっつって、真っ先に着替える奴が着替えねぇで座り込んでたのに、本当に大したことじゃねぇの?」
「…………」
 ふーっと息を吐くと、鬼怒川は部屋を出て行った。え、逃げられた?と不安に思っていたら、着替えて戻ってきた。指摘されて、漸く頭が回ったらしい。
「煙ちゃん、スーツしわになる」
「お、おう。着替えてくる」
 ぶっきらぼうな言い方ではあったが、割といつも通りの鬼怒川だった。由布院に時々当たりが強いのは、いつものこと……とはいえ、明文化すると悲しい響きだ。 
 着替えて戻ると、鬼怒川がぽつぽつと話し始めた。
 つい先日、新しい仕事を任された。今までは父親の後ろについて学ぶことや、簡単な雑務が多かったのだが、小さいけれども責任が伴う仕事を任された。自分の采配一つで、取引先や社員に影響が出てしまう、という重圧は凄まじく、日々体が重くなっていった。好きな料理さえも億劫だったから、何も考えずにできるカレーを沢山作って、誤魔化していた。
「でもまさか、それでバレちゃうなんてなー……。煙ちゃんすごいね」
「勘だよ」
「勘でもだよ」
 疲れた笑顔を浮かべると、鬼怒川はソファーに倒れ込んだ。「もう動きたくない……」と零す姿は、およそ普段の鬼怒川からは想像できない。さて、と由布院が立ち上がると、不思議そうに見上げてきた。
「覚えてるか、俺なりの疲れた時の三箇条」
「覚えてる。一に風呂、二にメシ、三に布団、でしょ?」
「そうそう、これだけやっとけば、ギリ明日も会社に行ける」
「ギリかよ」
「ギリだよギリ。つーわけで、まずは風呂な」
「え、風呂なって」
 戸惑う鬼怒川を置いて、風呂を沸かす。折角風呂に入るなら、シャワーだけで済ませるなんてありえない。湯船に浸かってこその風呂だ。勿論、由布院の持論だが。
 風呂が沸くまでの間に台所へ入ると、座っていたはずの鬼怒川が大慌てで来た。
「いいよ。今日の当番、俺だし」
「あのなぁ……。俺のこと、しんどいって言ってるやつにやらせる人でなしだと思ってんなら、ちょっと引くぞ」
「え……、でも」
「でももだってもあるか。ほら、風呂沸いたら入ってこい。で、メシは一応任せとけ」
 びしっとサムズアップしてみせると、めちゃくちゃ不安げな顔をされた。解せない、と言いたいところだが、普段の行動から考えれば無理のないことだ。自分で言うのが悲しい。
 改めて冷蔵庫を漁ると、昨日のカレーと葱が出てきた。冷凍庫にはうどんもある。と、いうことで。
「カレーうどんにするか」
「煙ちゃんの【テキトーカレーうどん】、久々だなぁ」
 へにゃりと笑った鬼怒川に何か返そうとしたが、丁度風呂が沸くことを知らせるアラームが鳴った。とにかく風呂だ、風呂。
「じゃあお風呂入ってくるよ。早めに出てきた方が……って、何その顔。ふふっ、ゆっくりしてきます」
「おう」
 あまりにもむぅっとした顔をしてしまっていたのか、鬼怒川が微笑んだ。風呂場に行くのを見送ってから、カレーうどん作りを開始する。