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 その少女は物心ついた頃から、真っ暗なところに一人でいました。怖くて心細くて、逃げ出したくても、閉じ込められているので出来ません。
 昼も夜も知らない少女は、日に三度ほど食べる物を持ってやってくる誰かに、ここから出して、一人にしないでと、何度も懇願しました。その度にその誰かは、これはなんだ、と謎々をかけてきますが、なにぶん真っ暗なものですから、少女にはなにがなんだかわかりません。答えられないでいると、舌打ちをされ、冷たくあしらわれて、誰かは去ってしまいます。悲しくなって、少女が泣いてしまっても、慰める者は誰一人としていませんでした。恨みと憎しみが少女の心に芽吹いたとして、誰が咎められたでしょう。
 ある日のことです。どこからともなく、奇妙な音が聞こえてきました。まるで恐ろしい魔物の唸り声のようなその音に、初めのうちは怯えていましたが、どうやら違うようだと気付き、勇気を振り絞って近付いてみることにしました。
 それは小さな隙間でした。少女のまろい頬や、細い髪を、心地よい空気の流れが撫でていきます。聞こえていた奇妙な音は、この隙間の向こうから吹き込んでくる風の音だったのです。
 少女は幼く、小柄だったので、どうにかその隙間に入り込むことが出来ました。向こう側に何があるか予想もつかないし、たどり着けるのかもわかりませんでしたが、あの真っ暗なところに閉じ込められたままでいるほうが耐えられませんでした。
 少女は必死に、出口を求めて隙間を進み続けました。
 そうして――少女は、向こう側の亀裂から差し込む白い光をついに見つけました。あまりの眩しさにしばらくは目が慣れず、足踏みしてしまいましたが、少女は思い切って亀裂の向こう側へと飛び出しました。
 白い光に飛び込むと、不思議なことが起こりました。だってそうでしょう。真っ暗な中は、真っ暗一色です。けれど白い光の中には、さまざまな色がありました。青い空。白い雲。緑の葉。茶色の木。桃色や橙色の花。灰色の石。
 ――それから。
 少女はその日、目にした極彩色に心を奪われました。
 その後すぐに真っ暗なあの場所に連れ戻されることになりましたが、瞼の裏に、心の奥に、その極彩色はいつまでも鮮やかに焼き付いて離れることはありませんでした。
*


 夜目の一族との因縁をほどき、和解への足掛かりを作った翼の一族の鷲王、ネツァワルピリ。
 確執が完全に無くなったわけではないが、長きにわたり二つに別れていた部族の橋渡しが叶ったことは、いずれ一族に大きな繁栄をもたらすことだろう。これも全て、大らかな気質のネツァワルピリだからこそ成しえた偉業だった。ネツァワルピリは、この結束がいずれ来るとされる終末を回避する助けになると信じている。
 ロゼッタは思う。翼の一族にとって何よりの幸運は、この男を王に戴けたことであると。
 騒動のほとぼりが冷めるまでネツァワルピリはしばらく屋敷に滞在することになり、グランたちは近場でシェロカルテからの依頼をこなしながら過ごしていた。そのさなかに友好の証として持ち上がったのが、夜目の一族の長、その孫娘とネツァワルピリとの婚姻話だった。
 だがネツァワルピリはこの話に乗り気ではなかった。何故ならその夜目の娘というのが、まだ齢十四という若さだと伝え聞いたからである。ネツァワルピリの歳は三十四。二人の年齢には、実に二十もの開きがあった。
 しかしネツァワルピリや側近たちの困惑をよそに、夜目の一族は強引にこの縁談を推し薦めてくる。何かおかしいと探りを入れたところ、驚くべき事実が発覚する。なんと話に上がっている娘は、夜目の一族でありながら、その特性である夜目が利かないというではないか。それ故に、長に連なる血を持ちながら、周囲から冷遇されてきたらしい。
 つまり夜目の一族は、同盟を確たるものにするための婚姻だと嘯きながら、実際には厄介払いをしようとしているのだ。

「なんたることじゃ……!」
「許せん! 夜目の奴らめ、我らが王を愚弄しおって……!」
「こんなふざけた話があってなるものか! 即刻使者を走らせよ! 婚姻は破談だとな!」
「待て!!」

 激昂し息巻く長老たちを諫めたのは、他でもないネツァワルピリだった。

「便宜上は、長の孫娘ぞ。この話を蹴れば、それこそどんな難癖をつけられるかわからぬ。例えばだが、やはり翼の一族は夜目の一族を軽んじ、我らを迫害するのか、とな。そうなれば我の苦労が水の泡になってしまうではないか」
「王……」
「ですが……!」
「それにその娘も、さぞ肩身の狭い思いをしてきたことであろう。形だけでも妃として迎え入れ、保護してやろうではないか」

 ネツァワルピリのその言葉に、長老たちは顔を見合わせ、苦笑する。

「我らが王は人が良すぎる」
「まったくだ」

 空気がいくらか和らぎ、ネツァワルピリは一先ずこの場を治めることが出来た。真の和解にはまだ道のりが遠いことを実感しつつ、しかし今一番の心配事はやはり夜目の娘のこと。
 夜目の一族は翼の一族に追いやられた歴史のためか、これまでネツァワルピリが相対してきた全員が己の夜目に誇りを持ち、固執している節すらあった。娘が辛い目に遭ってきたことは想像に難くない。
 一族の者に安寧をもたらすのは、王の責務である。
 最も気がかりなのは、娘が二十も年の離れた自分の許に嫁ぐことを苦痛に感じていないかということだったが、それについては考えがある。娘を信の置ける者に預け、自分はまだグラン一行と共に旅を続ける心算なのである。庇護こそあれど自分が不在であった方が、娘も気兼ねなく過ごせるだろう。

「というわけで、だ。明日はその娘との顔合わせがあるのだ。宴もあるゆえ、お主達も来るがよい!」
「えっ、いいんですか?」
「うむ。此度の騒動ではお主達にずいぶんと世話になったからな。遠慮などするでないぞ! はっはっは!」
「わーい! ご馳走楽しみです!」
「だな! なっグラン!」
「そうだね」

 そうしてあくる日、ついに夜目の娘が翼の一族にやってきた。
 だが現れた一行に、出迎えたネツァワルピリは眉を顰めることになる。二つの部族の繋がりを強くするための婚姻だというのに、付添人は長の息子――娘の父親一人きりであり、また、嫁入り道具もあまりに少なかったからである。名目上は妃の輿入れであるというのに、あまりにもみずぼらしいではないか。夜目の中での娘の扱いが窺い知れるというものであった。娘がどう感じているかは、夜目の一族特有のミミズクを模した被り物のせいで顔が見えない今、計り知ることは出来なかった。
 無論、長老たちや使用人も同じことを思ったらしく、ひそひそと騒めき立つ。その中で、沈黙を守ったままのグランと目が合ったネツァワルピリはハッとして、夜目の娘の前に歩み出た。

「よくぞ参った! 我らはお主らを歓迎しよう!」

 張りのある声で告げれば、クゥアトリが同調するように高らかな鳴き声を響かせる。騒めきはぴたりと止み、引き換えに奇妙な静寂が下りた。
 改めて娘を見る。ずいぶんと小柄な体躯だった。恐らくルリアと同じくらいの上背ではないだろうか。異様に白い肌が、日の光に馴染みのないことを示している。あちらの出方を窺っていると、娘が被り物に手をかけた。
 柔らかな髪がはらりと落ちる。伏せていた目をそっと持ち上げてネツァワルピリを見上げると、円らな瞳を眩しそうに細め、娘は恥じらうようにはにかみながらも顔を綻ばせた。野の花が健気に花開くような笑みだった。
 その一連の挙動に、胸を鷲掴みにされるようだった。息が詰まる。

「かっ……」
「王?」
「可憐だ……」

 熱に浮かされたような声音でネツァワルピリが呆然とそう呟けば、娘の顔がさっと赤らんだ。周囲の者は、娘の父親を含め、唖然とするばかりである。
 美しい女人なら、何人も目にしてきた。特にグランサイファーに乗り込んでからは、仲間となる女性は誰も彼も美女や美少女ばかりである。
 けれどこんな風に、己の中の男が目の前の女を欲しがるような、強烈な衝動が込み上げることなど初めてだった。それも、本来であれば恋愛対象に到底なりえない、少女相手にである。
 それは飢餓感にも似ていた。飢えを満たせる獲物は世界でただ一つ。目の前の相手だけだと、本能が告げていた。
 たまらず目の前に跪き、娘の小さな手を包む。

「お主、名は」
「あ、あの、名前と申します」
「そうか。では名前よ、我の妃になってくれ!!」

 夜目の娘が目を見開く。その驚きの表情は、瞬く間に喜色を滲ませた笑顔に変わる。

「はい、喜んで……!」

 見つめ合う二人の表情は喜びに満ちていた。かくして形式上だけの婚姻を結ぶはずだった翼の王と夜目の娘は、周囲を置いてけぼりにする形で本当のものになったのだった。
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