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 やっと真っ暗闇の中から逃げ出すことが出来た少女。しかし少女は無情にも、気が狂いそうな孤独と静寂が満ちる真っ暗闇に、すぐに連れ戻されてしまいました。その仕打ちは、一度外の明るく鮮やかな世界を知ってしまった少女にはあまりに酷なものでした。すさまじい絶望をもたらすほどに。そんな少女の心の支えとなったのは、あの日見た雄々しく逞しい極彩色でした。
 少女はもう、やってくる誰かにここから出してと縋ることも、泣くこともありませんでした。そんなことをしても無駄だと悟ったからです。
 あの日抜け出した隙間は、すでに塞がれてしまいました。けれど少女の心の中に、いつか絶対にここから抜け出すという強い決意が生まれていました。そして、あの極彩色の許に行くのだと。
 目を閉じれば、いつだってあの極彩色を目蓋の裏に浮かべることが出来ます。時折どうしようもない悲しみや憤りが込み上げるたび、縋るように少女は目を閉じました。
 そんなことを繰り返していたある日のことです。
 目を開けた少女の視界に、変化が訪れていました。真っ暗一色だった中に、薄らと物の輪郭が浮かび上がっていたのです。
*


 その昔、翼の一族から追放されたという夜目の一族。その夜目の一族と一応の和解を果たした今代の翼の王、ネツァワルピリ。御許へ夜目の一族から友好の証として嫁いできたのは、弱冠十四歳の娘だった。
 名目上の妃となるはずだった夜目の娘は、しかし鷲王の思いがけず見初めたことより名実ともに妃になることに相成った。

「まさかお前さんにそんな趣味があったとはなあ……」
「まったくだ。そんな危ない奴だとは思わなかったぜ」
「待て待て待たぬか」

 オイゲンとラカムの言葉にネツァワルピリが待ったをかける。
 夜目の娘、名前との顔合わせが終わった後、ネツァワルピリは屋敷の一室でグランサイファーの面々に囲まれていた。ちなみに名前のことは使用人に部屋まで案内させており、年の近い同性のルリアとイオは友達になりたい、とそちらに行っている。

「言っておくが我は少女性愛など持ち合わせておらぬぞ!」
「いやでもよ、現にさっき求婚してたじゃねえか」
「あれには驚いたわね。あなたの本気、伝わってきたもの」

 ロゼッタが意味ありげにそう言えば、ラカムがあからさまに渋面になる。

「前にルリアよりカタリナのほうがいいって言ってたけど、あれははったりだったってわけかぁ?」
「まあ出会った時は我々もネツァワルピリ殿のことを警戒していたし、そんな性癖があるとわかればなおのこと警戒しただろうな……」
「何故そうなるのだ! だから違うと言っているであろう!」

 寄ってたかっての非難に耐え兼ね、ネツァワルピリが立ち上がって抗議する。そこにグランが、不思議そうに小首を傾げる。

「えっと、つまり、あの子のことは別にそういう意味で好きじゃないってこと?」
「ぬぅ……っ!」

 真顔でそう投げかけられれば、狼狽えたネツァワルピリは固まった後、やがて静かに腰を下ろした。一同が動向を注視する中、ネツァワルピリが力強く口火を切る。

「そなたらの言うことはもっともだ……我はあの娘を正真正銘の妃としたいと思っている。だが我の言い分も聞いてほしい! 我に少女性愛は決してない! ただ惚れた女が少女だったのだ!!」
「声がデカい」
「必死か?」

 座ったそばから立ち上がっての主張に突っ込みが飛ぶ。

「かつての我は世の女人はすべからく愛でるべき対象であると思っていた……無論妃に迎えるのであれば、相応に成熟した女人がよいと……。だが名前を見た時、そんなことは頭から吹き飛んで、ただただこの者だと思ったのだ。是が非にでも我が伴侶に迎えたいと」
「つまり?」
「我は少女性愛ではない!」

 堂々と胸を張るネツァワルピリを、カタリナとラカムがじと目で見据える。名前と同世代であるルリアとイオにそれぞれ庇護欲を感じている二人には、白黒つけておきたい問題だったのだろう。顔を見合わせ、やがて溜息と共に二人の肩から力が抜けた。

「なるほど……まあ、それならしょうがない、か……」
「はあ……ま、あの子も訳ありみたいだしなぁ……大事にしてやれよ、鷲王さんよ」
「はっはっは! 勿論だとも!」

 仲間の理解を得たことが嬉しかったのだろう。ネツァワルピリが任せろと言わんばかりに己の胸を叩く姿は、なんとも頼もしかった。

「というわけだ、団長殿。婚姻の儀の後、我が妃もグランサイファーに迎えてはくれぬだろうか」
「勿論大歓迎だよ」
「お主ならそう言ってくれると思っておったぞ! 感謝する!」
「でも一応、本人の意思も確認したらどうかしら? 旅は楽しいものだけど、それだけじゃないもの」

 ロゼッタの言う通りであった。空を行く旅は、これまでにも幾度の困難に見舞われている。それこそ世界を揺るがす事件すらあった程である。これも全ては団長であるグランが特異点であるゆえであり、本人に旅に加わる目的や意思がなければ辛いものになるかもしれない。

「それもそうであるな……この後、話をするとしよう」
「そうしろそうしろ。しっかし、まさかこんなことになるたぁなあ……。昨日まではお前さん、嫁さんを連れてく気なんざこれっぽっちもなかっただろ?」

 オイゲンのからかうような口ぶりに、ネツァワルピリが苦笑する。

「言ってくれるな。我自身、かようにも離れがたくなるとは思っていなかったのだ」

 自分自身、心の動きに驚かないでもなかった。しかし、不安に思う気持ちや早まったという後悔はひと欠片もない。

「それで、ネツァワルピリ殿。その婚姻の儀というのはいつなんだ?」
「うむ。三日後だ。お主たちも招待する故、是非とも来てくれると嬉しいぞ!」
「ありがとう」
「へへっ、楽しみにしてるぜ!」

 グランとビィの返事に満足そうに頷くと、ネツァワルピリは席を立った。

「さて、では我は名前の元に行ってくる。宴まではまだ時間があるゆえ、お主たちはゆっくりしていてくれ」

 いそいそと部屋を出て行く姿を、グランたちは笑って見送った。
 部屋を訪ねると、名前はいくらかぎこちない表情をしていたが、それでも屈託のないルリアとイオとはそれなりに打ち解けたらしい。和やかな空気で話をしていた。

「ネツァワルピリさん!」
「ネツァワルピリ様……!」

 ぱあっと表情を輝かせる名前に、胸の内から喜びが滲んでくる。今日会ったばかりの相手にこれほどまでに愛情を抱くのは不思議な感覚だったが、夫婦になるのだから何の問題もない。

「え〜っと……あたしたち、みんなのところに戻るわね!」
「えっ? 突然どうしたんですか?」
「バカっ! どう考えてもあたしたち邪魔じゃない! 行くわよ!」
「は、はいっ!」
「む?」

 見つめ合うネツァワルピリと名前に、いたたまれなくなったのだろう。ルリアを連れてイオがそそくさと退室していく。ネツァワルピリと名前は揃ってきょとんと目を丸くしながら、イオたちが出て行った扉をしばらく眺めた。

「お二人は……どうしたんでしょう」
「わからぬ……。まあ、何か理由があるのであろう。詮索するのは野暮というものよ」
「はい」

 神妙な顔で頷くネツァワルピリに、名前も追随する。清々しいほどに何もわかっていない二人であった。ちなみにネツァワルピリは実のところ、イオがお手洗いに急いでいたのではないかと思っている。本人が知れば激怒するに違いない話であった。

「それで、その、どうだ? くつろげているか?」
「はい……! あの、とても過ごしやすい部屋を下さってありがとうございます」
「うむ、それはなによりだ。何か欲しいものがあれば言うがよい。可能な限り用意させよう」
「はい」

 歩み寄って話をすれば、名前は頬を上気させ、にこにこと嬉しそうに受け答えする。しかし真正面に立つと、二人の体格差が際立った。その小さな体躯では自分を見上げるのも一苦労だろうと気遣い、適当な椅子にかける。

「お主もかけて楽にしてくれ。話があるのだ」
 そのネツァワルピリの言葉を受けて、名前の顔がさっと青褪めた。身体も強張っているのが見て取れる。これにはネツァワルピリもぎょっとする。

「!? どうしたのだ!?」
「い、いえ……なんでもないです……。あの、続けてください」
「い、いや、後にしよう。それよりも何か心配事があるのであろう? 我に申してみよ」

 大いにうろたえる心を隠し、努めて優しく促してみる。こんな様子の名前をそのままにしておいて、心穏やかでいられるわけがない。
 おずおずとネツァワルピリを見上げた名前は、ためらいがちに口を開いた。

「あの、あの……妃じゃなくても、お傍にいられますか……?」
「何の話だ!?」
「え……だってやっぱり私ではネツァワルピリ様の妃にふさわしくないから、婚姻は無しだってお話しじゃ……」
「待て待て何の話をしておるのだ!? 我はお主を絶対に娶るぞ!」

 突拍子もない名前の発言に面食らって、思わず慌てふためく。そんなネツァワルピリの反応にぱちぱちと瞬いた名前は、次にぽっと頬を赤らめた。

「よかった……私、ネツァワルピリ様からしたら子供だろうし、やっぱり気が変わられたのかと不安になって……早とちりしてすみません」
「それを言うなら我とて、お主からすれば……その、おっさんというやつではないのか?」
「そんなことありません! ネツァワルピリ様は素敵です! 大好きです……っ!」
「お、おお……」

 拙いながらに熱弁され、微笑ましく思う場面なのだろうが普通に照れてしまう。熱くなる顔をごまかすように咳払いして、ネツァワルピリは本題に入ることにした。

「それでお主への話というのがだな、我は今、グランという者たちと共に旅をしていてな。これからも見聞を広げるため、旅を続けようと思っているのだ。その旅に是非お主も連れて行きたいのだが、来てくれるか?」
「――私も、連れて行ってくれるんですか?」
「当然である! だが、楽しいばかりの旅ではないぞ。団長であるグランや、先程ここにいたルリアは稀なる存在ゆえ、星晶獣がらみの事件に巻き込まれることもある。それでもよいか?」

 真剣にそう問いただしたが、それでも名前に迷うそぶりはなかった。それどころか――

「よかった……嬉しい、私嬉しいです……っ」

 頬を紅潮させ、ぽろぽろ泣きながら、そう言って笑う。あまりのいじらしさに、ネツァワルピリは卒倒しそうになった。大きすぎる感情に胸が押し潰されて息が苦しい。気付けばネツァワルピリは立ち上がり、名前を掬うように抱き上げていた。

「あ……っ」

 そのまま抱き締める。あまりにも軽く、小さい身体だった。当然である。わかり切っていたことではあるが、まだ名前は十四歳なのだ。
 ただ、それでも――ネツァワルピリにとって名前はただの子供ではなく、求むるべき一人の女だった。

「我も、お主と共に旅立てること、嬉しく思うぞ!」

 抱き締める手を緩め、満面の笑みで見上げる。そんなネツァワルピリに名前はまるで眩しいものでも見るかのような眼差しを向け、ほどけるような、柔らかな笑顔で応えた。

「ネツァワルピリ様となら、空の底にだってお供します」

 その答えに一瞬呆気にとられたネツァワルピリは、しかしすぐに豪気に笑う。

「はっはっは! そうか、それは心強いな!」

 高揚と共に名前をぎゅっと抱き締める。細い腕が首元に回され、抱き締め返された時、脳がじんと甘く痺れた。それはあまりに、幸福な目眩だった。
 愛しい女の口を吸い、身体に触れたいと思うのは、男として当然の欲求である。しかし、いたいけとすら言える少女相手には流石に憚られた。そもそも出会ったその日である。ごくりと生唾を飲み下し、そっと身体を離す。
 そんなことなどつゆ知らず、下に降ろされた名前ははにかんでネツァワルピリを見上げた。

「不慣れな不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「うむ! こちらこそ、よろしく頼むぞ!」

 不埒な動揺を隠すため、必要以上に声を張り上げるネツァワルピリだった。
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