招福町南の通りにある、ガンダーラと言う店を知っているだろうか。そこは個室でビデオ鑑賞が出来る、男性向けの店だ。だからこそ、その店付近の物陰に隠れて、とある人物を見つめているなまえには無縁であるべき店だった。
 しかし、なまえにとって、この店は重要な場所だった。その背景には、とある人物が深く関わっている。その人物とは、なまえもよく知る相手で、黒く長い髪を一つに結い、胸元を着崩したスーツ姿の眼帯をした男だ。なまえの想像通り、彼は今日もここを訪れる。


「……真島さん、」

 明らかに身を乗り出し、電柱の影から覗いているなまえには全く気が付かないといった様子で、その男、真島はガンダーラと看板を掲げている雑居ビルに入っていった。

 なまえは深く溜め息を吐いた。その理由は何だろうか。なまえは理由がはっきりとしない、ぼやけた溜め息を逃がし続けている。そう言ったことに関して理解が無い、そう言う訳ではなかった。
 ただ知らないだけで、真島が足繁くあの店に通う理由も、時間いっぱいまで楽しんだ後、妙な格好をした男と楽しそうに話をしているのも、なまえの知るところではなかった。衝撃は少なからずあった、しかし、そこは話題にするのも難しい、とても慎重なところだと思えた。

 一時、少しだけ後ろ向きな考えをしたことがあったが、真島は変わらずスキンシップをとってくれる。寧ろ、とても大切にしてくれているとさえ感じる。その優しさが嬉しいけれど、今、胸に抱えているもやもやとした気持ちは、それとは真逆のものだった。
 素直になれない意地っ張りな自分、そして、最近になって自分の中に芽生えてきた興味、そのせいでなまえは真島の尾行を止められない。

 日々拗れていく感情の糸玉を大きくさせながら、今日もなまえは真島が消えた雑居ビルの入口を黙って見続けていた。



 真島が再び姿を現したのは、一時間後のことだった。なまえは一時間前と同じように、物陰からそれを見ていた。真島は一時間たっぷりとビデオ鑑賞を、なまえは一時間たっぷりと近くのカフェで茶を濁していた。そこまで待てる性格ではなく、それにこんな所で一時間も待ちぼうけをくらっていては、面倒事に巻き込まれる可能性もあったからだ。

 真島はどこか気の抜けた顔をしている、気がする。下世話な想像が頭を過ぎる、なんてふしだらでいかがわしいんだと、そのピンク色の思考を振り払う。きっとこれから、例の妙な男と談笑でもするだろう。なまえがその場から離れようとしたその時だった。


「…お前、こないな所で何しとんのや。」

 体が大きく跳ねる。なまえが密かに見ていた筈の真島が、なまえの目を見ながら、こちらへとやって来ては、いつもと変わらない様子で声を掛けてきたのだ。驚きのあまりに頭の中は一瞬で無になり、なんて言葉を返せばいいのか、分からなくなった。

「あ、えっと、わたし…、」
「こないなとこで何しとったんや、…まさかお前、」

 苦笑いを浮かべたなまえに、今度は真島が口を開けて驚くと同時に狼狽え始めた。次を言い出せない重い空気の中、町の喧騒が場を繋いでくれる。お互いの視線はすれ違ってばかりで、なまえも真島も恥ずかしげな顔でその場に立ち尽くす。先に溜め息を吐き捨てたのは真島だった。真島のそれにつられて、なまえは顔を上げ、ここでようやく二人の目線はぴったりと重なった。


「場所変えよか、」

 それを制止する声が真島の耳に届く。ハッとした表情を置き去りに、真島はなまえに声もかけず、黙り込んだまま、その視線から目を逸らせずにいた。待って下さい、となまえは自分の両手を揉むように握り締め、あの、と続ける。

「真島さんは、…あそこで、何を…?」
「あ、いや、それは…、」
「別に怒ってる訳じゃなくて…、その、」

 出来たら…と呟いたなまえの、この後の言葉に真島は大層驚いていた。その返事には何度も、ホンマか?と問い掛けたり、無理せんとやめとき、と気遣う言葉ばかりが選ばれた。お願いします、とまで口にしたなまえを見て、真島は後頭部を雑に掻くと、分かった、そう答えた。
 気まずさと面倒さ、更には自分がしていたことを暴露するのだ、真島に迷惑をかけてしまうと申し訳なさが先立つ。

「ごめんなさい。でも、ありがとうございます、」
「ったく、もうええわ、そこまで言うんなら連れてったる。…言うとくけど、幻滅しても知らんからな、」

 羞恥心に焦がれている表情をした真島に連れられ、なまえは一時間前の真島と同じく、雑居ビルの中へと踏み込んで行った。幻滅する、それは一体どちらに向かっての言葉なのだろう、なまえは自分の中にも引っ掛かるものを感じていた。


 店内に入ってすぐ、店員と思われる男はとても驚いているようだった。それは無理もない、本来ならここは男性が訪れるような場所で、安易に異性を連れて来るような所ではない。
 あまり広くない店内には、その気にさせる思わせぶりな言葉が並び、更に期待を膨らませるだろう女性の写真も数多くあり、何より手馴れた様子で、店員と話をしている真島の背中にちょっとだけ妬いてしまう自分がいた。

 男性だけにしか分かり合えない何かだろうか、それをなまえは知らない。きっとそれもある、真島がここでなまえの知らない女の子を見ていることにも胸の靄は大きくなるばかりで、でもそれを責めたい訳じゃない。ただ、同じものを見てみたい、それだけだった。彼の好みを知りたい、誰より近くに、隣にいるのに、なまえに向けられない感情を抱いている真島のことを知りたかった。


 なまえを置き去りにしていた二人の話はどうやら終わったらしく、すまんな、とか、おおきにな、と言った言葉を最後に大きく頷き、カウンターから離れていく店員の姿に疑問が残る。ピンク色で揃えられた店内のポップに密かに目をやっている内に、ようやく真島から声をかけられた。店員の姿はもう無い、店内のどの個室からもそう言った物音や声も聞こえてこない。

「…二時間ほど都合してもろたわ、」
「都合ですか、」
「おう、今、丁度人も居らんから、貸切にさせてもろたんや、」
「そんで、なまえは何が見たいんや、」

 ええ男モンのヤツなんかあらへんで、と気まずそうな表情が慣れてきた真島は、未だ困惑しているといった足取りで近くの個室になまえを連れていく。室内はビデオ鑑賞をする為だけの広さしか無く、テーブルの上に置かれているのは、ブラウン管のテレビや灰皿、意味ありげなティッシュ箱だけだった。真島の方へと視線を逃がせば、珍しく黙り込んでその黒目を泳がせている。

「…真島さんは、」
「あ?」
「真島さんは今日何を見たんですか…?」
「なんでそないな事…、」
「わたしは、…真島さんが今日見たものを見たいです、」

 恥じらいが無かった訳では無い、それを口にする前には躊躇いもあったし、自分がとんでもないことを言っている自覚はあった。しかし、真島の背中に覚えた微かな嫉妬の芽を摘むには、これしかないのだ。そして、出来ることなら、真島が好きな女の子になってみたいと思う。

 真島は酷く動揺していた。もう何度目だろう、彼の驚く様を目にするのは。それから多少の間を置いて、真島は待っとれ、とだけ言い残して、個室から出て行った。なまえはそこでやっと胸を撫で下ろす。実は、彼の前で見せられない不安や緊張があった。電源の落ちているブラウン管の液晶を見つめ、真島が今日見たそれを持ってくるまで、胸の高鳴りと共に待った。


「…これや。」

 目を合わせないまま、真島はぶっきらぼうに、手にしていたビデオをなまえに渡した。ビデオのパッケージには可愛らしい女性が写っており、彼女の周りに添えられた文章を一文ずつ読んでいく。

 瞳に感情があったなら、まず先に羞恥を覚えているだろう。あまりにも思わせぶりで、頭の中がそれでいっぱいになってしまうような言葉選び、更に女性の際どい姿がパッケージの両面に載っていた。表情を変えることは出来なかった、それでも、ありがとう、と真島に伝えれば、小さな声でおう、と返ってきた。

「い、一緒に見ますか…?」
「…遠慮しとくわ、それに女と一緒に見るもんちゃうやろ、」

 この空気に耐えかねたのか、真島はそそくさと個室から再び出て行ってしまった。真島の狼狽えている姿や気まずそうにしている顔を見て、なまえはどうしようもなく胸に迫るものを感じていた。彼もあのような顔をするのだと、そう思うと不意に体の芯が熱くなったような気がした。



***



 個室から出て来た真島の顔は、少しだけ緊張が解れているように見えた。なまえが言い出した言葉を未だ飲み込めずにいる。ああ、あかん…と内心項垂れているものの、なまえが口にした言葉は全て真島の良からぬものに触れていく。今日のなまえはまるで、…言葉には決して出来ないが、何か近いものを感じていた。自分が今日この日まで見続けてきた映像の彼女に。よく出来た夢なのかもしれないと頬を抓っても痛いままで、嬉しいような、沈むような気持ちで壁にもたれかかった。

 ゾクリと何かが走り抜けていく、このまま妙なものを連れて来ないことを祈りながら。そう思い、狼狽える視線を逃した矢先に、カウンター横の陳列されている、とあるものを見つけた。余計なお節介じゃ!と苛立ちを無言で吐き捨てたが、それから目が離せず、真島はカウンター前までやってくるとそれを手にした。

 あからさまなデザイン、あからさまな一文、しかし、それに過剰反応をしてしまう自分が少し情けない。情けないながらも、真島はそのアイテムを手に、そのパッケージを黙ったまま見つめていた。



***



 可愛らしい彼女が大きく喘ぐ。同性なのだから、そういった行為を目の当たりにしても、無事でいられると思っていた。しかし、それはただの過信だったのだと気付かされた。今の今まで、どのシーンにもなまえは、自分と真島のことをそっくりそのまま映像に当てはめて見ていた。ビデオの内容はそこまで過激なものでは無い。恋人関係の男女がただ抱き合っている、そんな内容のものだ。

 自分の勝手な投影になまえは頬が熱くなるのを感じながらも、テレビの液晶から目が離せなかった。真島はこれを見て、どう思ったのだろう。今の自分と同じように、そうしたのだろうか。もし、そうであったなら…、と胸の奥で生まれた感情に手を伸ばした瞬間、個室の扉が開いた。


「なまえ、…ちょっとええか、」

 声を発する余裕は無く、なまえは一度頷いた。真島はまだどこか躊躇している素振りをしていたが、それを何とか抑えながら、なまえにもう一つビデオを手渡した。

「これは…?」

 真島は重たい口を開いては、後頭部をがりがりと掻きながら答えた。

「…そいつは、俺がよう見とるヤツや。今日見とったヤツは、…たまたま、目に入ったから見とった。」

 受け取ったビデオは、さっきのものとは違った内容のものだった。隠し事が好きじゃない真島のことだ。だからこそ、こうして知られたくないそれを持ってきてくれたのだ。パッケージから目を離し、真島を見つめれば、そない見るなや、と目を逸らした。後ろめたさを漂わせている真島の正面に立ち、うるさい鼓動がなまえの気持ちを急かすのを宥めながら、真島さんも一緒に見ましょう。と告げる。


「…ホンマにどないしたんや、今日は様子がおかしいで、」
「わたし、真島さんにお話したいことがあるんです。」

 だから、と真島を見つめ返したその瞳に、真島はたった一度頷き、なら俺は後ろで見とる、と言い放った。話っちゅうのもそれで問題ないやろ、と問う真島に今度はなまえが同じことをしてみせる。なまえは受け取ったビデオをデッキに挿入し、映像が再生されるのを待った。なまえの脳裏にこのビデオのパッケージが過ぎる。忘れられない、あれが真島の好きな女の子の形なのだと思うと、どんな心境でこの映像を見ることになるのか、全く想像が出来なかった。



 荒い息遣いが個室に響いた。激しく肉を打つ音や水気を含んだ音が耳を犯し、その直接的な性行為が目を犯した。心が揺れ動いている。真島が初めに渡したものとは全然別物で、無理強いでは無いが、その行為の中で垣間見える加虐心に殴られたような気分だ。

 見えない波が何度も肌の上を寄せては返し、なまえがそれに気が付く頃には、既に体の火照る感覚に襲われていた。鼓動も一つ一つが重く深く響いている、熱に体が馴染んでいくのを感じ、不意に自分の後ろにいる真島を見た。なまえの何か訴える様な潤んだ瞳に、真島は胸に迫るものを感じ取り、息を呑んだ。言葉を詰まらせた真島はなまえの傍に歩み寄ると、身を屈めるでもなく、その場に立ち尽くし、なまえを見下ろす。二つの潤んだ瞳が見上げている、一つしかない瞳が見下ろしている。

 女の声が唇から逃げて行く寸前、そのほんの一瞬の間に男は、女の逃げ行くだろう声も、その時間も、視界さえも奪っていく。
 見上げた横顔と見下ろした横顔が音も無く重なり、男の結った長い髪が二つの横顔を遮った。時が止まったように瞬きを忘れ、口先で共有した熱に浮かされ、鼓動も強く共鳴する。唇が切なさを覚え、触れ合った事実が胸を焦がしている。なまえは、遂に真島へ質問を投げかけた。


「真島さんは、…こういう子が良いですか?」

 真島も切なさを覚えただろう唇を、閉ざしながら聞いている。

「わたしもこんな風だったら、真島さんは…、」

 なまえの声が少しずつ小さくなっていく。嬉しいですか?と問い掛けた言葉を、真島は黙って聞いていた。よからぬ目をしていると思った、自分も相手も。幻滅するなら今だと言っているようなものだった。

「…ああ、嬉しいやろな。そしたら、もうこないなとこで我慢せんでもええっちゅうことや。」

 『我慢』と言う言葉の意味を飲み込めずにいる、真島の大きな手のひらがなまえの顔を真横に向ける。なまえの正面に再び、あの性行為が映像となって視界に流れ込む。例の彼女はただただ男の愛撫を、男の貪る姿を受け入れて、嬌声を止められない。

「ま、真島さん、わたし…、」
「なまえはああなりたいんか、」
「それは、その…、」
「どうなんや、」

 真島さんが好きって言うなら、と控えめな口調で潤んだ瞳のまま、それだけしか言わなかった。その一言を聞き終えた真島は、これ以上会話を続けることをしなかった。代わりに酷く焦燥した顔で、今度こそ、場所替えや、となまえの手を引いて、店を出た。



***



 ガンダーラの店員が戻ってきたのは、それから数十分後のことで、店内に真島となまえの姿が無いことを確認すると、再び営業を再開させた。

 カウンターに立ち、これからやって来るであろう来客を待っていると、不意にカウンター横に陳列させてある、とあるものの近くに無造作に置かれている千円札を見つける。それは本来ならば、お釣りが返ってくるものなのだが、店員は疑問に思った。しかし、店員には薄々心当たりがあった。
 先程まで貸切にしていた店で、こんな買い物が出来るのは一人しかいない。あの無茶な頼みといい、異性を連れてくる辺りといい、教えてもらえなかった事情を察すれば、惜しいお客さんをなくしたと、その表情を緩めていた。





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