扉は、苗字の情感に反し何の抵抗も無く横へ滑った。
まるで中に人がいるとは思っていなかった様に、ポカンと口を開いたまま苗字はその場で動きを止めた。
幾つもベッドが連なった内の一つに腰掛けていた女性が、苗字の入ってくる事を見透かしていたかのように立ち上がった。部屋に差し込む陽ざしに、彼女の鮮やかな髪色が更に艶っぽく輝く。
言葉も無く、その光景から目を反らせなくなる。
苗字の気配に、彼女が振り返った。光を背にし、彼女は儚くほほ笑む。
「………久しぶりね。驚いた?」
そう囁いた彼女___松本は、淡い光の中、今にも消えて無くなってしまうのではないかと思うほど、苗字の目に儚げに映った。
◇
「久しぶりね」
中には苗字の思った通りの人物が、苗字を待っていた。
「卯ノ花隊長にお願いして、呼びつけてもらうように無理を言ったの。じゃないとあんた、私と話そうともしないでしょ」
松本の声が、視線が、容赦なく苗字の中に侵蝕していく。呼吸が止まったのも数秒のことで、筋書き通りの動きをする。
無表情のまま、苗字は他の死神に対してするのと同様の動作で、他所他所しく頭を彼女に向かって下げた。
「これは、十番隊副隊長さんでしたか。私に何か御用ですか」
動じる様子を見せない苗字の冷ヶたる言動に、再び松本は寂しげな笑みを浮かべた。その笑みに、苗字の影がぞわりと粟立つ。
「………昔のように、接してはくれないのね」
やめて。
そんな顔を、私に向けるなんて卑怯だ。
「………私は自分の立場をわきまえて接しているだけです。副隊長に対し馴れ馴れしく話す無礼など働けません」
早く終わらせたくて、自然と話すスピードが速くなっていく。
「私も隊長から仕事を任されているので、その要件とやらは手短に────………」
「一」
みなまで言わせず呟かれたその懐かしい名に、苗字は衝撃を受け押し黙ってしまう。何とか平常心を繋ぎとめようと、奥歯が軋むほど強く口を引き結んだ。
そんな苗字に、松本は真剣な眼差しを向ける。目に宿った決心が、小さな灯火であるかのように微かに揺らめく。
「あんたがいくら否定しようが、あんたは私にとっては一よ。あの時からずっと」
松本の決心が、ありありと伝わってくる。
もう、私は逃げない、と。
「ねぇ一………、私たちって、もう昔のようにはなれないの?」
「………私、このままなんて嫌よ」
か細い声が、苗字の心をかき乱していく。
僅かに俯いていた苗字も、不意にゆるりと頭を擡げた。
私たちは、話さなければならない。出された結論が、片方の心を抉るまで。
「___忘れましょう、十番隊副隊長」
暫く黙っていた苗字の口から出たのは、冷酷で、凄然たる言葉だった。
「………あんた、何、言ってるの?」
「だから、全部ですよ。十番隊副隊長を苦しめるもの、全てを」
苗字の言ったことに頭がついていかず、混乱した頭でそれでも何とか絞り出した言葉さえも、苗字はさも当然のことであるかのように一蹴した。
「忘却してください。私もそうして、今まで生きてきました」
愕然とした顔で押し黙る彼女の身体が、微かに震えていることに気づいた。気づいているにもかかわらず尚冷酷に話す苗字を、松本はどんな思いで見つめているのだろうか。
「貴女が一にこだわる理由はさておき、私がそう呼ばれていたと言うのであれば、きっとそれは偽名でしょう」
冷ややかな声は、穏やかに照らされた部屋の空気さえも冷やし切り、張りつめた空気はお互いの心を抉っていく。
全てが段々と、曉薄となっていく。
「名前という名も、偽名です。今まで使ってきた偽名は、三十を下らないでしょう。………私が何故偽名を名乗り生きているのか、その理由がわかりますか」
畳みかけるように、苗字はわざと間を空けた。前髪で影のできた表情の読めぬ松本の顔を、苗字は瞬きもせずに凝視する。
「どれが本当の自分か、自分で分からなくさせるためです」
「己を攪乱させてしまったら、懺悔も後悔も生まれない。………そうしなければ、私はその名の罪に押し潰されてしまうから」
____だから貴女も、忘れて下さい。
それが身を守る術になることだってある。苗字はそうすることが、松本の為にもなると信じて疑っていなかった。
「………全てを、忘れろですって………?」
唐突に、今にも消えそうな掠れ声が苗字の思考を中断させた。
「あんたの事も、あんたとの生活も………?」
小刻みに震える彼女。そんな彼女の泣きだしそうな姿を、苗字はみたくなかった。何時もはあんなに気丈な彼女が、こんなにも脆く、小さい。身勝手だと思うが、其の儘松本に背を向け出て行こうとする。
「………ほんと、あんたってバカ……」
ぽつりと呟かれた声に、苗字の動きが停止する。
平気だと思っていたその言葉も、いざ直に聞くと苗字の平常心が音を立て崩れそうになる。
「ほんと、………大馬鹿者だわっ!」
先程とは打って変わり、叫びにも似た罵声が容赦なく苗字の背に浴びせられた。苗字が振り返ると、そこには両目に大粒の涙を溜め睨み付けている松本の姿が。
____嗚呼、矢張り、泣かせてしまった。
私は何をしても、結局彼女を泣かせる事しか出来ない。
その一言で、今まで保ってきていた平常心の糸が、プツリッ………と、音をたたて途切れる。負の感情がその隙をつき一気に溢れだし、そちら側へ苗字を引き摺りこもうと嘲笑う。
影の密度が息苦しいほどに濃密になる。
サァ………と血の気が身体から引いていき、背から感じる一つの視線に動けなくなる。ドアと苗字の間を阻む、面識のないはずの“カレ”の視線に。
そのカレが、ニィ………と、あの時と同じように、嗤う。
………ぁ 今 凄く 危 な い
後ろから首一点に向かって伸びてくる小さな手に、苗字はどこか他人事のようにそう思った。
ひんやりと体温の無い指先が首に絡まった、その瞬間………
ゴンっ!という鈍い音と共に強い衝撃が頭にはしった。一瞬にして視界に光が差し込む。
「…………ぇ」
思わず呆けた、間抜けな声が中途半端に開いた口から洩れる。
すると茫然としたままでいる苗字の身体を何かが包み込んだ。
やっと今松本に殴られたんだと認識した矢継ぎ早に、今度は抱きしめられていた。目まぐるしく起こる変化に、苗字は只々ポカンとするばかり。
「………さっきからああすべきだの、こうが良いだの、今まで私が苦しんだ事をそんなあっさりと、あんたが片づける資格なんてない!何をしたいかは私自身で決めることよ、勝手に話終わらせんじゃないわよっっ!」
強く強く抱きしめられたまま、吹っ切れたように罵声を浴びせてくる松本。その矛盾した行動に、苗字は疑問を禁じ得ない。
だが、此れだけは分かる。何時もの気丈な彼女に、戻っていた。
「確かにあんたが生きてたって分かって、正直かなり混乱したわ。私の中で、勝手に死んだことにして、それで終わりにしてたんだから。だから、会いたくなかった気持ちだってあった、でも」
ぐいっと肩を掴まれ、視界いっぱいに松本の顔が映り、否応なしに視線が絡まる。此方の目は見えないはずなのに、まっすぐに射抜かれる。
怒りと悲しみ、その両方が入り混じっているにも関わらず、その目に迷いは無かった。
「それだけだったと思う?あんたが生きてると分かって、そんな事しか考えなかったと思う?!」
今まで思い詰めていたことが堰を切って、罵声となりぶちまけられた。怒鳴りながらも、また新たにでてきた涙が溢れそうになっている。
「嬉しかったのよ!………あんたが生きていてくれて、嬉しかったに、決まっているじゃないっ………」
憎々しげに絞り出すと、コツンと、松本の頭が苗字の肩に置かれた。
静かに視線を下へ下すと、小刻みに震える松本の肩が見える。
その肩を、苗字は何も言わずに抱き寄せた。びくりと、松本の身体に緊張が走るのが分かる。
「___ら、ん」
ぎこちなく名を呼ばれ、再び松本の肩が跳ねた。
そんな松本を見て、苗字は自身の犯したあやまちに気づいた。己が考えた忘れるという行為が、更に松本の心を抉るということに、今やっと思い当たったのだ。
「………御免なさい」
だが松本は、それだけでは許してはくれなかった。不服な声が、肩越しにくぐもって聞こえる。
「そんな言葉、聞きたくない」
どうしたら、償いができるのだろう。どうしたら、どうしたらあの頃のように笑いかけてくれるのだろうか。
思案の末、ふと昔の光景が蘇る。………そう、他愛のない貧しくも穏やかだったあの暮らしの頃のように。そんな幸せを、また、望むことが赦されるのなら………。
再び名を呼ぶ苗字の声に松本はゆっくりと顔を上げ、至近距離で互いに顔を見やる。
「お帰り、なさい」
たどたどしく何とか言葉にする。すると松本の顔に、あの笑みが戻っていく。それにつられるように、苗字も笑う。
あの頃と同じとはいえないまでも、あの頃のように笑い合う幼い二人が、確かに其処にいた。
絡まってしまっていた糸が、次第に解きほどかれていく。
「………それは、私の台詞よ。馬鹿」
涙に濡れた声でもその顔は晴れ晴れしく、二人は再びきつく抱き合った。
違ってしまったとしても、それはもう戻りはしない。戻りはしないことを後悔するのではなく、また歩き出すために、再び。
あの頃の貴女へ
そして、今の貴女へ
_____お帰りなさい
◇
「日番谷隊長。以前お探ししていた文書、此処に置いておきますね」
にこりと笑う部下に、日番谷は「あぁ」、と相槌を打つのみで筆を走らせていく。仕事に集中しているようだから、邪魔しないようにしようと気を利かせ部下は用が済むと、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
だが実際は、仕事にでも集中していないと別の事に意識が逸れ、それによって頭を悩まされるからであった。
不意に筆は止まり、今日何度目かの溜息と共に、何時も愚痴を吐きつつ仕事をする彼女の席に視線を向けた。しかし今は其処に、この席の主は居ない。そのことが日番谷の思考を鈍らせ、 憤懣にも似た暗鬱気味にさせていた。
再び筆を握るものの、書類の内容は全く頭に入ってこない。仕方なくそれらを一旦脇へどけ、椅子の背もたれに身を預ける。暫くぼぅ………と天井を見上げていたが、ふと頭を傾け外を見やる。
「………そうだ。今日は、あの日か」
まるで再確認するように、明白な事実を日番谷は反芻する。
隊長たる者、部下の事は理解をするうえで存知するべきだ。
そう考える日番谷だからこそ、自身の副隊長のことはよく解っているつもりだった。
酒豪で、よくサボり、よく笑い、大雑把で、気分屋。その飾らない性格から、好意を寄せる男性は少なくない。
そんな彼女にも、人には言えぬ事情があることを知ったのは、日番谷がまだ第三席だった頃だった。
副隊長であるにもかかわらず、部下の自分に仕事を押し付けふらりと何処かへ行ってしまう彼女に、遂に頭に来た日番谷は当時隊長であった彼に怒りをぶつけた事があった。だがこの時彼は、苦笑にも似た笑みで、「今日はいいんだよ、今日はな」といい日番谷の頭をガシガシと撫でた。
その時は、只はぐらかされたのかと思った。だが彼女は、きちんと理由のある上で一日だけの休暇をとっているようだった。何時もは特に理由も無く遊びに行ってしまうというのに。だからこそ、只の休日のようには到底思えなかった。
その不可解な彼女の休日は、年に一度、霜月の決まった日のみだった。
そして日番谷が隊長になった今でも、その日彼女は暇を貰いにくる。
遊びに行くにしては、おかしかった。
その日彼女は、何時ものように明るいが、どこか違和感のある明るさをする。空元気というか、悟られまいと意識しすぎるが故に墓穴を掘ったように見えるのだ。彼女は隠しているつもりなのだろうが、日番谷には筒抜けで、そんな見え透いた演技で隠そうとする彼女に苛立ちを覚えた。
隊長たる者、部下の事は理解をするうえで存知するべきだ。
誰よりも共に同じ隊で仕事をしてきた。彼女の事を、よく知っているはず、だった。
彼女の隠す事実は、そんな日番谷の中に無意識に宿っていた自尊心を傷つけた。
行き場のない憤りに再度、重苦しい溜息を吐く。瞼を閉じ思い返すのは、松本がやってきた時のことだった。
今日休暇を取る事を知っている日番谷は、彼女の仕事分までしなければならないため早朝から業務机にかじりつき仕事に勤しんでいた。また彼女の、見栄を張ったような空元気を見なければならない、そしてそれを知りつつ素知らぬ振りをしてしまう己に辟易しつつ仕事をしていると、突然扉が開かれた。
ノックもなく突然騒音と共に開かれたので、日番谷はギョッとなる。だがそれ以前に、扉を開け放った例の彼女の顔を見ての驚きの方が強かった。思わず叱る事すら忘れてしまう。
「たいちょ〜!今日休みもらうんで、私の分の業務まで頑張って下さいね。今度埋め合わせするんで!」
………沈んでない。
………空元気じゃない。
想像していたものとはかけ離れた彼女の態度に、開いた口が塞がらない。
「?隊長?どうしたんですか?」
そんな日番谷を他所に、きょとんと見つめる松本。
「………隊長〜?………ひっつん」
「誰がひっつんだ」
やっと口が思うように開いた。なんだ、ちゃんと聞いているなら反応してくださいよぉ、と明るく普段通りに松本は笑う。今までこの副隊長の事を気に掛けていたというのに、片やなんのそのである松本に酷い温度差を感じイラッとする。心配を返せと一言言ってやりたかった。だがそんな悪態も、彼女のこの笑顔に呑みこまざるを得ない。
「じゃ、行ってきますね」
「………あぁ」
矢張り日番谷は、不愛想な声色で松本を見送る。
対照的に晴れやかな笑みを向け日番谷に背を向ける松本に、日番谷は困惑を隠すようふいと顔を背けた。
だが、その時一瞬過った違和感に、再度松本の方に素早く視線を戻した。
当に彼女が扉に手を掛け、閉めようとしているところであった。
松本の左手に握られた小さな白い手に、日番谷は自分の顔が強張るのを感じた。
今まで松本の背に隠れていたため気づかなかった、フードを被った子供。
日番谷が気づくと、子供も此方を流し見るように顔を横へずらした。
前屈みになった身体が、机を軋ませる。
そして松本が扉を閉めると同時に、子供は日番谷の狼狽に気づいたかのように一瞬薄らと笑った。
その笑みを最後に、扉は閉められ、場に静寂が訪れた。
◇
あの時の事を思い返すだけで、日番谷の眉間に深く皺が寄っていく。
松本はその日出かけるにあたって、誰かを連れていくなど今までなかった。それが今日、苗字を連れて何処かへ出て行った。何故苗字を?という疑問が、先程から頭を往復している。苗字と松本は、どういった間柄だったというのだろう。
只の友人だったというだけのようにも見えなかった。
仲直りをした時もそうだ。蟠りがあった時は苗字を避けるふしがあったというのに、どういう訳か何時しか一緒に居るようになっていた。それには周りも突然の変化についていけず、二人が知り合い同士であったことに驚いた。
それからは、松本は苗字に優しげな視線を向ける。
以前も窓から、十数人から追われているにもかかわらず飄々と逃げている苗字へ優しい眼差しを向けていた。日番谷が近づいていくと、松本は苗字を見つめたまま、「絶対にあの子を捕まえられっこないのに、よく追いかけますよねぇ」と、呑気に話しかけてきた。松本の顔を穴が開くほど見つめる日番谷には、松本の話は右から左へと流れていく。苗字は虚にも見つけられずに、襲った村で苗字の居た家だけ其の儘素通りされたと、昔話を何処か自慢げに話していたようだが、それすら頭に入ってこなかった。
日番谷も知らない笑みを、松本は浮かべていた。彼女は気づいているのだろうか。今自分の浮かべている笑みを。
苗字が松本にとって大切な人であることは、言わずとも明白であった。
だが日番谷には一つ、引っかかる事があった。まだ苗字が真央霊術院の学生であった頃、現世での実践中に起こった襲撃の救援として十番隊が駆け付けた時の事だ。
あの時苗字を見つめた松本の目には、陽性の感情など微塵も無かった。
あったのは、蒼ざめるほどの恐怖。
あの時の恐れと、今の松本の目線は矛盾している。それが一時であったから、見間違いかとも思ったがあの目は確実に苗字を見ていた。
松本の目に過った恐怖と、松本が決して話そうとしない霜月の空白の一日。
日番谷の知らぬ松本の影に、悠然と佇むのは、苗字。
中心には、苗字がいる。
それが偶然とは、日番谷は到底思えなかった。
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