兄は、優しい人だった。
優秀で、誠実な人で。
思い出が少ない分僅かな接点はさながら蜜のようで、禁断の果実のように甘美。渇望すればするほど苦しかった。
私は何度もその記憶を愛でてはしてあげたいことを思い浮かべていた。
懐かしさ 愛おしさ
笑顔で伝えたかった人が、やっと目の前に現れたのに。
何も写してくれない。
話しかけてくれない。
己のことすら、その瞳にはなく、ただ空虚な穴が広がっていた。
全身を己の血で染め、いかに残酷な最期だったかが窺えた。銃痕が、いくつもあるのが見てとれた。息をひきとるその瞬間まで、恐怖と苦痛を味わわされたんだとありありと分かった。
見開かれた目が、深海へと引きずり込まれていく。耳鳴りと、胸部の圧迫感。喪失感と悪寒。呼吸がうまくできなくて、目を逸らすこともできずによろけながら立ち上がった。
「にい…」
目を開けて。私を見て。
「……さん」
笑いかけて。
その人は、もう私の存在を肯定してはくれない。
優しい人だった。
優秀で、誠実な人だった。
誰かに命を奪われていい人間なんかじゃない。恨まれることなんか、何一つしたことなんてないのに。
やっと、会えたのに。
なのに。
唇が戦慄く。
恐る恐るあの男へ顔を向け、背筋が凍るほど冷え切った目と目線があった時。
一瞬で、血の気が引いた。
考えれば考えるほどに頭はクリアになり、吐き気がする程胸糞悪いのに、抱える感情は一つだけだった。
◆
時計は夜8時を指す、暗がりの中。
椅子にはひっそりと少女が座っている。規則正しい寝息が、彼女が寝ていることを示している。そばに置かれたコーヒーを、規律に従って飲んだのだろう。
出入り口から椅子にかけて、黒い液が溢れた痕跡と血の匂いがそのまま残っている。その状態のまま、彼女は仕事をしたのだろう。正確に、さながら機械のように。
ジンは、静かに寝息をたてている彼女の方へ近づいていく。
淡々と、寝息をたてている。
日中あったことなど何も無かったかのように、彼女は眠りについたようだ。
『 仕事場が、血で汚れちゃう。機械が濡れては大変だから、早く持って帰ってね 』
日中、彼女がポツリと漏らした一言。
この言葉には何の感情もなく、ただこの寝息のように淡々としていた。顔色は良くなかったが、叫びも、泣くこともしなかった。
この世界において、彼女は似つかわしく無かった。ここへきた時からずっと変わらず。
誰もが黒に染まり、それが雰囲気となって滲み出てくるものだ。
だが彼女は違う。
どんなに痛ぶろうが、地獄を味わおうが、組織側に溺れることがなかった。純心なまま、背徳に染まらない。まるで、何かに繋ぎ止められているかのように。
だからこそ、ジンはその救いを壊したくて仕方なかった。その脆い光とやらを己の手で排除し、何も無いのだと、思い知らしめたい。
心が折れる様を、見てみたい。
甘美な香りが、ジンを誘惑し離さなかった。それは渇望となり、一種の歪んだ執着となっていった。
思い通りにならないことは、腹だたしくて仕方がない。
日中の言動もそうだ。彼女から奪ったはずなのに。全て奪えたはずなのに。
だが、その後に見たかった顔がジン自身も思い描けなかった。だからこそ、ジンは今日もここへ来てしまう。
己が何を望んだのか、知るために。
刹那だった。
人の気配と共に殺気を感じた。咄嗟の事にも身体は反応し、己の首にボールペンを突き立てんとするか細い腕を掴んだ。
暗がりでも、目の前に迫る顔ははっきりと分かる。
ああ、この顔だ。
ジンは久々に感じた高揚感に、笑いが込み上げた。
俺は、この顔が見たかったんだ。
苗字。
◇
彼を殺そうとして失敗した夜から、3日が経った。重い罰が下るかと思いきや、拍子抜けするほど何もなかった。
ジンが密告しなかったからかな。
あの瞬間も余裕ぶっこいて笑ってたし。こっちは本気で殺そうと頑張ってたのに。
決死の殺人も虚しく、淡々とふりかえることしか出来ない。自堕落な日々。
兄も死んだ。
復讐も叶わなかった。
元の世界にも戻れない。
これじゃあ生きていく理由を見つける事も困難で。変な話、シェリーが開発してるという毒薬を仕事のコネで手に入れちゃう方が簡単だった。
いつだって、生きるよりも死ぬ方が簡単なんだ。
掌に収まる、小さな錠剤。
これを飲んでしまえば、もう猫の思い通りにはならないと思うと少し嬉しかった。
トリップなんて、もう二度とするもんか。
苗字は錠剤を口に運び、躊躇いなく飲み込んだ。
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