組織の本部へ到着後、足首に付けられるワイヤー錠の足枷。私はハッカーとしてではなく、この設備のセキュリティにも携わっているため、三度脱走を決行したようだ。目的は知らないが、逃げることが最終目的ではなかったのか、その度に連れ戻されている。
前科があるため、この処置に文句はない。
長いワイヤーをジンに引かれながら、長い廊下を歩かされる。既に夜7時を回っており、自分でも瞼が重くなってきていることがわかる。
ジンの背に寄りかかるように歩いていると、廊下の向こう側から男が一人近づいてきた。
ジンとは正反対の、長い黒髪が印象的だった。彼の後ろに隠れている苗字に、その男は覗き込むようにして視線を絡ませる。突然ジン以外の男性の顔が近づき、思わず後ろへ後退りした。恐怖ではなく、困惑が先に立つ。
「あの時はすまなかった。…大きな傷になっていなければいいが」
見る限り、組織の人間とは思えないほど誠実そうな男だった。だが面識があったとしても、今の苗字には分からない。
「…私、貴方のこと知らない」
ぼんやりと見つめる苗字に対し、少なからず男は驚いたようだ。一瞬目を見張り、険しい顔をジンに向けた。
「拘束だけでは飽き足らず、また随分と手の込んだことをしたようだ」
「それがここのルールだ。疑わしきは罰せよというだろうが」
「面白い言い分だ。エゴをルールとすり替えるとは」
手の込んだこととは、薬を飲まされていることだろうか。考えようにも、すぐに無理だと気づく。今日のタイムリミットが来た。それを自身の身体は否応無しに刻み込まれている。彼の袖を掴もうと、片手が空を泳ぐ。
「ジン……眠、い」
言い終わるや否や、崩れる身体。ジンはそれを慣れた動作で抱きかかえた。
「こいつに構うな。てめえのテリトリー外だと自覚しろ」
「…壊れていくのが、そんなに楽しいか」
緊迫した空気の中、規則正しい苗字の寝息が不釣り合いに聞こえていた。男はジンと睨み合い、ジンは残忍な笑みを一つ浮かべると、苗字を抱えたまま歩き去って行った。
◇
綺麗な笑顔をする人だ。
始めてその人物を見て、そう思った。それと同時に、これは夢だと妙に冷静でいた。
「私が、組織に入って兄の分まで働きます。だから…、だから兄は自由に生活できるようにして下さい」
兄の前に立ち、ジンに銃口を向けられたままそう訴えるのは、苗字自身。
…兄を守りたくて、兄よりも高い技術を身につけてそれを組織に売りつけた。如何にも自分がやりそうなことだと、合点がいった。
たった一人の私の家族。記憶が進むにつれ、愛おしさがこみ上げてくる。
「逃げて兄さんっ!!」
ここは…、飛行機の後部内?
エンジンと空気圧で轟音が反響する中、苗字はありったけの声を絞り出した。兄と思われる男が、脱出装置の中から顔を出し、振り返る。
「ダメだ!お前をおいて行けるわけないだろっ…!」
後を追おうとする苗字の背から銃声がした。振り返る苗字の肩と左脚を容赦なく撃ち抜かれる。足の自由を奪われ、走る勢いのまま地面に倒れこんだ。
血が流れ、力も消耗していく。苦悶の表情を浮かべ、力を振り絞り荷を降ろす非常扉を開けると脱出装置を本体と切り離した。
ケースの戸が閉まる直後、苗字の名を叫ぶ兄の顔が最後に見えた気がした。
再び、右腕が撃ち抜かれた。装置から手が離れ、地面に転がる身体。
荒い息を吐き、天井が視界に入った。そんな苗字を、男が見下ろす。黒髪の、長髪の男だ。鋭い眼差しに、冷淡な無表情。
「あなたに私は殺せない。だって私は、貴方の射程圏外の獲物だもの」
苗字は男に静かに告げる。一瞬男の目に映った哀れみ。胸の中に、じわじわと暗くて重い感情が犇めく。
間髪入れずに、ジンに銃口を向けられていた。額に冷たい死を当てられているにもかかわらず、私は迎え入れるように彼に腕を伸ばす。淡い笑みが、口元に浮かんでいた。
「…ねぇジン、怪我したの。起き上がるの、手伝って」
……。
私はきっと、兄さえ幸せであればそれでよかったんだ。
消えていく記憶の映像が、指先からすり抜けていく。
家族の人生とか、兄の生活とか、無垢な笑顔を守りたかった。だからこそ、ここに居続けている。
◇
「…ぃ…さん………」
譫言を呟いて、目を覚ました。
一番に目につくのは、暗いパソコン画面。誰が運んだのかも分からないまま、人形のように革椅子に座らされている。デスクにはまだ湯気が立つコーヒーと、トーストが一枚置かれていた。世話係の人間が毎回置いてくれているらしい。
鈍痛と、軽い倦怠感を感じ額を押さえ俯く。
頭によぎるのは、先程見た夢のこと。目覚めた今内容はあやふやだが、兄の存在は胸に焼き付いていた。
トーストを頬張り、苗字は巨大なモニターに向き直る。日に日に自分が別の人格に塗り替えられていく、そんな恐怖がじわじわ侵食してした。逃れられないと分かっているからなのか、愚直なまでに従順に仕事をこなし、ウィルスソフトを手掛ける。
非日常的な出来事を前にしても、動じなくなっていく自分が恐ろしくもあり、虚無感も覚えた。
また、仕事の内容が綴られたメールが数通入っている。バターの付いていない薬指でカーソルを動かしクリックする。
内容は潜入捜査をする者の偽装パスポートの作製指示だ。苗字はモグモグと口を動かしつつ何の気なしにスクロールしていた指をはたと止めた。ぴくんと、指が小さく震える。
「……ぇ…?」
思わず、画面に目が釘付けになる。広がった瞳孔には、よく知っていた人物の顔写真が映っていた。
ガタンっと、唐突に開いたドアに、視点がずらされる。其処には、ジンと、今正に画面に映っていた女が立っていた。
「どうした、やけに顔色が悪いな」
女の方ばかり見ていたら、彼に不信感を抱かれる。苗字は、ゆったりと肩を竦めた。
「…お客なんて、珍しいな、…て」
「指示の通りだ。やれ」
ジンはそれだけ言い残すと、入ってきた時と同じように音を立てて出て行った。後には、苗字と女が残される。
苗字は、俯いたまま、目線だけゆっくりと擡げていく。顔は、やけに強張っていた。苗字とは反面、女は親しげな満面の笑みを浮かべる。
「久しぶりだね! 苗字。また会えて嬉しい!」
高校の時からの親友が、あの頃と同じに苗字に笑いかけていた。
◇
「苗字!あぁ、ホント会いたかったぁ〜!!!」
ふわっと甘い香りが、強張る全身を包む。いまだに信じ難くて、苗字はただ呆然となったまま彼女の頬から伝わる体温を肩に感じた。
いつぶりだろう。こんな、生身の人間に触れた感覚は。快活な声と共に抱きつかれるがままになって、よそよそしくそんなことを思う。
「なん、で…」
口から出るのは、純粋な問いだ。体を離し向かい合う彼女は、あの頃と変わらぬ笑顔を向けていた。変わらないからこそ、それは苗字の目には異質に映った。
「私もね、トリップして来たのよ。あなたもって聞いた時は驚いたけど、喜びを分かち合える仲間がいて嬉しくなっちゃった!ねぇ、素敵じゃない?この世界!!原作キャラに会えるし、何より仲間になって一緒に仕事までできちゃうなんて!毎日もうわくわくよ!」
高揚と、興奮気味に喋り出す彼女は、同じ高校に通っていた親友の牧野。黒い服を着ている出で立ちからして、組織の人間のようだ。同じ状況下にいるのに、危機感を持たない様は些か異常に映った。
なんで、こんな高尚と語るの…。苗字とはあまりにかけ離れた意見に耳を疑った。ひどい温度差に、目眩がする。彼女の話はまるで、ここにずっといたいかのようじゃないか。
「……ちょっと、まって」
彼女に再会できて嬉しいはずなのに、全く笑うことが出来ない。とりあえず周囲に電波を遮断妨害するジャミングを行う。
「何でこんなことになったのか、理解出来ないけど…。原因を突き止めて、ここから出よう、まきちゃん」
「何それ、ここから出る?」
牧野は、信じられないとでも言いたげに、苗字の言葉を皮肉交じりに繰り返した。牧野が鼻で笑って言い返そうとするよりも先に、別の誰かが会話に割り込んだ。
「そんな簡単には出られないさ」
空間の狭間、所謂歪みから、ゆらりと笑う口。例えるなら、チェシャネコのような笑い方。薄っすらと、その姿が徐々に露わになっていく。
「君たちは、謂わば手違いでここに来たゲストなんだ」
真っ暗な猫が、ちょこんと座って、喋っている。薄気味悪い笑みを浮かべて。大きな瞳を輝かせて、苗字に。
「やっと君と接触できた、苗字」
猫がしゃべっている。
「……なに、これ」
頭が、現実についていけなかった。
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