「つまりね、こういうことみたいよ」
つらつらと事の顛末を語り出す牧野。
掻い摘むと、つまり、非科学的な何らかの手違いでこの世界に飛ばされたため、お詫びとしてスペックを授けた上で楽しんでほしい…とのことだった。
分かった?…と、満面の笑みを向ける牧野に対し、苗字は胡散臭い猫の動きを目で追いつつコーヒーをすすっていた。
「この猫が、そう言ったの?」
「そ!単純でしょ。トリップってハプニングみたいなものだもん。ラッキーでしたって、受け入れちゃった方が楽しめて得じゃない」
高揚した顔の牧野に対し、苗字は警戒を解かないまま強張ったままだった。重たい身体を動かして、牧野の肩を掴んで問い詰めたい。おかしいと、そう伝えたいのに今の彼女には届かない。名探偵コナンの原作が好きな彼女に何を言ったところで、ここを出ることを賛同してはくれないだろう。イかれているのは私って、言われるんだろうな。
椅子の上で目を伏せている苗字に、牧野は怪訝な顔を向ける。
「貴女だって、コアだなんて呼ばれて凄いスペックもらってるじゃん。悲劇のヒロインみたいな顔しちゃって、変なの」
彼女には理解出来ないのだ。苗字がこの世界に来たことを喜ばないことが。だが苗字はジンの近くで、残虐な行いを間近でみてきた。自身も不道徳な行いをしていて、それに対抗する気力すらない。そんな世界で楽しみなんてあるわけない。自分が嫌いになるばかりなのだから。
現実では、あんなに仲が良かった友達なのに、今はやけに遠くに感じた。この世界がそうさせたのか、自分自身が変わったのか、それすらあやふやで怖くなる。
楽しむ彼女が怖い。
反論しない無気力な自分自身が、おぞましい。
暫くの間、二人は無言のまま対峙し合った。反論し合う気は既に失せ、互いの意見を尊重することを選んだ。
「さぁ、これで感動の再会ははたせたかい?」
猫の問いかけに、牧野は笑って頷いた。あまり此処には長居できない、それをお互いよく知っていた。
「…貴女の新しい個人情報は中に。一緒にパスポートも入っているから」
引き出しから出したフォルダを机の上に滑らせ、牧野の手に収まった。
「ありがと。また機会をみて会いにいくね。私も色々と、ここでやることがあるから、忙しくなるかも!」
苗字は差し出された手を握り返しもう一度ハグすると、親友は部屋から出て行った。何か言いたげにこちらを仰ぎ見る、黒猫はまだ在居していた。
「あなたは、出ていかないの」
視線は黒猫ではなく、硬く閉じたドアに向けられていた。
「君が、ボクに話したいことがあるだろうと思って」
にいぃ…とゆっくり、丁寧に笑う猫は更に不気味さを増す。足元に近づく猫を見下ろした。
「物事には対価がつきまとう。…この世界に、甘いだけの砂糖なんてないことくらい、私だって知っている」
「それは、ボクの話を信じていないということかい?」
「そう。…話が早くて、助かるよ」
「君は本当に、友達思いだなぁ」
奇妙な音を立てる猫。それが笑い声だと気づくのに、時間はかからなかった。
「彼女に話したことは、半分本当で、半分嘘かな」
意味深な回答に、勿論納得なんてできなかった。重い瞼を震わせ、精一杯猫を睨みつける。
「……それで?」
「つまり、彼女は不本意にトリップされてきたわけだけど、君の場合は、ボクが意図的に連れてきた。こっちが事実ってわけさ」
それがことの真相だよ、と猫が笑う。
「何で…、私なの」
「実を言うと、止めてくれるなら誰でも良かったんだ。でも今では、君で本当に良かったと思っているよ」
「………止める…?何、を」
「コンピューターで例えると、彼女は原作に侵入したウィルスなんだ。あの子は悪質だなんて自覚ないだろうし、むしろ救済するヒロイン気取りさ。でもそれをされちゃうと、均衡が崩れて厄介なんだよね」
口を噤む苗字に対し、顔をずいと近づける猫は一向に顔色を変えていなかった。
「彼女はね、死ぬはずのキャラを救済して、原作を捻じ曲げようとしているんだ」
「それは…タブーなの?」
「当たり前さ」
ぴょんと苗字の膝に飛び乗った。それを追い払う余力は、苗字には持ち合わせていなかった。ここへ連れてこられた、その怒りがふつふつと内側で煮えたぎっていた。
「回線の順序を変えて仕舞えば、システムは正常に機能しなくなるだろう?だからそれに対抗するプログラミングを導入した。…それが、君ってわけさ」
「…私が、彼女を、阻止しろってこと……?」
「そう。何としても、止めて欲しいんだ」
あ、と名案とばかりに猫は笑った。「殺してでもいいよ」
ガタンと、苗字は立ち上がっていた。よろけそうになる身体を、机にかけた腕でなんとか支える。抑え込む怒りは、身体を震えさせていた。
「……消えて」
「君はボクのお願いを断れないよ」
親友を殺せと、平然とした顔で言われて、従えるわけがない。身体が思うように動かないことを、この時ほど怨んだことはない。それほどに、この得体の知れない猫が憎らしかった。
「…出る方法は、自分で見つける。あなたの手は、ぜったい、借りない」
「…そうじゃなくてね」
また笑う。何かの遊びみたいに、楽しんでいるみたいに。…いや、そうじゃない。痛ぶっているんだ。
「…この世界で原作を捻じ曲げるごとに、君らの世界で、誰かが死ぬことになる。一人につき、一人だよ。最初に失うのは……」
話の終着点が見えて、苗字は身体を硬直させる。怒りなのか、恐怖からなのか、小刻みに腕が震えていた。
「君の、大切な人にしてあるからね」
「……っ!!」
猫を捕まえようと、身体が動く。だがしなやかな動きに到底ついていけるわけもなく、物を投げても一つも当たらない。
笑う猫。ぴょんぴょん尻尾を動かし苗字を嘲る。
「…あの人に手を出したら、許さない」
「あはは、怖い顔をしないで。ボクは君の味方だよ。ほら、早く行って、友達に伝えてこないと」
突然、足首に巻きついた足枷が圧力でひしゃげた。音を立てて外れたそれを、わけが分からず見つめる。得意げに猫がすり寄った。
「…言ったろう?ボクは味方だよ」
猫の自慢を、最後まで聞く気は無かった。フラフラと部屋から出る。なるべく早く、素早く動く。懸命に、足を動かした。苗字は壁に手を這わせ、身体を前へと動かす。
「…まきちゃん、…牧ちゃんっ…!!」
懸命に叫んだ。先を行っていた牧野がその声に振り返り、目を見張る。
「何してんの?名前、あそこからでたら危ないじゃ……っ」
牧野に追いつけた。苗字は牧野の困惑に構っていられず倒れこむように勢いよく胸に飛び込んだ。視線がぶれそうで、彼女の顔を両手で覆って支える。
伝えなきゃ。
苗字の顔が歪む。
「牧ちゃん…。誰か、助けようとしてるの…?」
「…ぇ?」
「答えて!」
口調が強まる苗字に、眉を潜める牧野だったが、挑むような挑戦的な眼差しで苗字を見つめ返す。
「そうだよ。…スコッチ。彼を助けるの。だって私の、大好きなキャラクターだもん」
揺るぎない決心が、目に映り込む。苗字はフルフルと頭を横に振り、後ずさりする。
猫が、言っていた通りになってしまう。彼女の、敵にならないといけなくなってしまう。
「…だめ…。だめ、だよ、牧ちゃん……」
小さな声は、喉の奥で震えていた。苗字の腕と首に、他人の腕が巻きつく。男二人が拘束することさえ、苗字には眼中になかった。
牧野は、薄っすら笑って、歩き去ってしまう。押さえつけられた苗字は、その背を追うことすら出来ない。
「……待って…」
まだ、伝えてない。貴女がしようとしていることを。対価が支払われること、伝えないと。
「待って!」
声の限り叫ぶ。離れていく距離、埋まらない距離が焦燥感を強めていく。首を捉えた腕を思い切り噛み付いた。一瞬生まれた隙を見逃さず苗字は身体をよじりすり抜ける。
走り出そうと、右足を踏み出そうとした時だった。首の後ろに、激痛が走った。ちかちかとする視界。ぐらりと歪んで、身体から力が抜けた。
冷たい感覚に、自分が床に倒れ込んだのを遅ればせ気がついた。ぼんやりと霞む視界に、近づいてくる黒い靴が見えた。
黒なんて、大嫌い。
必死に繋ぎ止めていた緊張の糸が、あっさりと切れ、意識は黒と同化した。
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