冬の午後は、思っているより静かに冷える。
部活帰りの身体に残る熱を、外気が少しずつ奪っていくのがわかって、名前は無意識にコートの袖へ指を潜り込ませた。

「…この辺りだったと思うんだけど」
「看板、あれだな」

豪炎寺の視線の先、雑居ビルの壁に控えめな看板が下がっている。丸まった猫のイラストと、落ち着いた色合いの文字。思っていたより主張が弱くて、少し拍子抜けした。
階段を上がり、扉を開ける。
中は思いのほか静かで、まず目に入ったのは受付カウンターと、壁に貼られた注意書きだった。

「先に受付だぞ」
「分かってる」

浮足立ってるのはバレバレなようで、少し呆れるようなそれに名前は唇を軽く尖らせたが、すぐに切り替えて素直に頷く。
料金説明、利用時間、注意事項。慣れた口調で説明されるそれをコクコクと頷いてしっかり聞いていますよとアピールしながらも、名前の意識は奥の扉に吸い寄せられていた。
…あの向こうに、いる。
受付を済ませ、手を洗い、消毒をする。そうしてようやく、奥の扉の前に立つ。
豪炎寺が先にドアノブに手をかけた。

「開けるぞ」
「…うん」

扉が開いた瞬間、空気が変わった。
暖かく、柔らかく、微かに甘い匂い。
視界のあちこちに、動く影。

「……っ」

名前の声が詰まる。
棚の上、窓辺、キャットウォークにクッションの上。
数匹の猫が、それぞれの時間を気ままに過ごしている。じゃれ合ってる猫同士もいるようだ。

「にゃ、にゃんこ…」

豪炎寺が横を見ると、名前は完全に別の生き物になっていた。
目は輝き、言葉は溶け、口角がゆるみ、知的で落ち着いたように見える普段の面影は文字通り影も形もない。

「さっきから様子がおかしくないか?」
「だって…もふもふ……」

そのときだった。
床をゆったりと歩く、茶トラの長毛猫。
派手さはないが、毛並みは整っていて、落ち着いた雰囲気をまとっている。見るからにふわふわのダブルコートが実に魅惑的だ。
猫は迷いなく近づき、豪炎寺の足元で立ち止まった。
そして、当然のように頬を擦り寄せる。

「……ん?」

豪炎寺が動きを止めると、猫はその場に座り込み、じっと見上げた。
喉を鳴らしながら、ピンと立てたふわっふわのしっぽをゆっくり揺らす。

「え、ちょ……」
「驚いたな」

名前の声が震える。
豪炎寺は一瞬戸惑ったように瞬きをしてから、ゆっくりしゃがんだ。
猫と同じ目線まで身を落とし、妹を見ている時のような優しい眼差しで視線を合わせる。

「……お前、人懐っこいな」

低い声でそう言って、そっと手を伸ばす。
指先が頭に触れた瞬間、猫は目を細め、喉を鳴らす音を強めた。
撫でる動きは静かで、確かだった。
毛の流れに逆らわず、一定のリズムで。

「……あ……」

 名前が両手で口元を覆う。

「修也……それ……ずるい……」
「何がだ」
「その撫で方」

猫は完全に身を預けている。
後ろ足を折り畳み、前足をちょこんと揃えて気持ちよさそうに彼の手のひらにすり寄っている。

「触るか?」
「是非」
「食い気味だな」

クスリと笑みをこぼす豪炎寺の声をスルーして、名前はそっと手を伸ばし、彼の手の動きを真似るように、優しく猫の背に触れた。

「……っ、もふ……」

声にならない声が漏れ、口角が上がるのを抑えられない。
手のひらに伝わるのは温かく、柔らかく、生きている感触。

「にゃんこ……カワイ……もふもふ…」
「冬仕様だな」
「最高……」

しばらくして、猫は満足したのか、ゆっくりと立ち上がり、別の場所へ歩いて行った。
名残惜しそうに、名前の視線がその背を追う。

「……行っちゃった」
「満足したんだろ」

少し残念そうな名前を見て、豪炎寺は立ち上がる。
そして何の前触れもなく、名前の頭に手を置いた。

「……?」

驚いて見上げると、彼はいつも通りの顔をしている。
妹に向けるそれとはまた違う、優しさの滲む目元だ。

「……猫撫でてた感覚と、全然違うな」
「そりゃそうでしょ」

指先が、軽く髪を撫でる。猫のときよりずっと慎重で、どこかぎこちない。
温かな手のひらが心地よくて無意識に頭を擦り寄せれば、撫でていた手のひらがピクリと小さく跳ねた。

「猫みたいなやつだな」

名前は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。

「そういうこと言うなら、満足するまで撫でてもらわないとね」

ふふん、と小さく鼻を鳴らしてみせる。
少しからかってやろう、そんな軽い気持ちだった。
豪炎寺は何も言わなかった。
驚いた様子も、照れた様子も見せず、ただ一瞬だけ目を瞬かせてから、そのまま手を離さない。
ゆっくりと、先ほどよりも少し丁寧に、指先が髪を梳く。

「あ…」

思わず漏れた声に、自分で驚いて、名前は慌てて口を閉じた。
調子に乗ったのは確かに自分なのに、いざ本当に撫で続けられると、妙に落ち着かない。

「……冗談だったんだけど」
「そうか?」

淡々とした声とは裏腹に、手つきは変わらない。
猫に触れるときよりも、ずっと慎重で、確かめるような指の動き。
視線を合わせられなくなって、名前は少しだけ身を竦める。
からかったつもりがいつの間にか立場が逆転していることに、遅れて気付いた。


猫カフェの時間が終わり、外に出ると空気は相変わらず冷たく、少し火照った頬の熱を冷ましていく。
けれど、胸の奥には、確かな温度が残っていた。
猫のぬくもりとは違う、少し不器用で、でも確かな冬の日の記憶。