恋愛満腹中枢崩壊中!

 秋の空に、少しずつ冬の装いが混ざり始めた。
 コートを着るにはまだ暑いが、半そででは心もとない。廊下の窓からふわりと秋風が吹き込み、ベンチに座っているスカートの裾を揺らした。遠くから、金木犀の香りが風に乗って鼻を擽る。
 教室にいる時よりも木々に近い場所にいるからか、秋の匂いが普段よりも鮮明に自分達の回りを色濃く漂っていた。
「黒乃さん、どうぞ」
 屋上には、丁度人が三人並んで座れる横長のベンチが、等間隔に数十個並んでいた。美しい艶が出る様に加工されている木目調のベンチは座り心地が良く、自分達のお気に入りだ。
 しんとした青空の下、すっかり自分達の定位置になった一番端のベンチに座ると、丁度太陽が真上にあった。程よいあたたかさの陽の光に当たりながら、水川叶希はベンチの真ん中────丁度二人の間に、手に持っていた弁当のバックを二つ置いた。
「いつもありがとう、叶希ちゃん。────開けても?」
「はい」
 デフォルメされたひよこと赤い豹が歌っている絵柄のランチョンマットを敷いて、購買で買ったパックのオレンジジュースを二つ置く。続いて、叶希が弁当バックから中身を取り出し、隣に座っている時任黒乃に手渡した。受け取った彼は優しく目を細めて微笑み、大事そうに手元の弁当箱を見た。
 毎日彼は叶希から弁当を受け取る度に、大切な宝物を手に取ったような眼差しで弁当を見つめてくれる。愛情に溢れたその姿は、少しだけ照れるがとても嬉しい。眺めていると心がぽうと温かくなる。
 叶希が目の前の光景に見惚れていると、黒乃がランチョンマットの上に弁当を置いて問いかけてきた。その言葉に頷くと、彼はとても嬉しそうに弁当の蓋を外した。
 シンプルな黒い二段重ねの弁当箱の中身は、二段目におかず、一段目には梅干しが真ん中に乗った白米が入っていた。
 おかずは、カラフルなゴム製の小分けトレーに綺麗にバランスよく収まっていた。卵焼きにタコ型ウインナー、枝豆にからあげ、きんぴらレンコン。端の方には二つ縦に並んだプチトマト達が、ちょこんと彩る様に添えられていた。
「凄いな。こんなに作ってくれたのか?」
「えへへ。黒乃さん前にからあげ食べたいって言ってたので……初めて作ってみました。口に合うと良いんですけど」
「覚えてくれたのか? ありがとう。食べるのが楽しみだ」
 驚く恋人の声に得意げに笑い、叶希も自分の弁当を開けた。楕円形の良くある一段弁当だ。中身は、配分は違えど黒乃と同じ食材が収まっている。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 上半身だけ向き合う様に座り、一緒に手を合わせた。その後顔を見つめ合って、ふふと同時に笑う。
 穏やかな空気の中で二人の笑い声は互いの耳にしっかりと届き、鼓膜を甘く揺らした。

「ん、美味い」
 唐揚げを食べた黒乃が、歓喜の声を零した。凛々しい瞳がキラキラと輝きながら叶希を見る。
「良かったです。お弁当用なので少し味付けを濃くしてみたんですけど、どうですか?」
「へぇ……言われてみると生姜の風味も強いな。凄く美味しい。毎日食べたいくらい好きな味だ」
 弁当と同じデザインの箸で、二つ目の唐揚げを口に運んだ黒乃が、ぱぁぁと表情を綻ばせた。カリッと衣の小気味の良い租借音が聞こえてくる。二段目にある白米も幸せそうな表情で食べ進めた。
「じゃあ明日からは毎日唐揚げ入れますね。沢山作るので楽しみにしててください」
「良いのか? でも、毎日弁当作って貰ってるだけで嬉しいから無理だけはしないでくれ。作ってくれる食事は全部美味しいから」
「黒乃さん……」
「毎日本当にありがとう。その……言い方が正しいのか分からないが、学校で過ごす時間の中で、叶希ちゃんと過ごすこの時間が一番楽しみなんだ。……だから、いつも、本当にありがとう」
「っ……そんな……っ、私こそ、いつも美味しそうに食べてくれて、すっごく嬉しいです。黒乃さんの喜んでくれる姿が見れるのも、凄く幸せだし、作り甲斐があります」
 黒乃の大切に紡いで伝えてくれる感謝の言葉に、叶希はぶんぶんと胸の前で両手を振った。
 高校三年生の黒乃と高校二年生の叶希の二人が付き合って丁度一年になった。そして、今年の四月から叶希は自分と黒乃の二人分の弁当を作っている。
 弁当を作り始めたきっかけは色々だ。
 高校生ながら一人暮らしをしている黒乃に、栄養のある食事を取って欲しいからとか、少しでも彼の生活の負担を少なくしたいとか、自分の料理の腕を上達させたいからとか。
 黒乃自身料理は得意な方なので余計なお世話になるかと思ったが、こうして毎日美味しそうに食べてくれて喜んでくれる。それは純粋にとても嬉しいし、それに好きな人の為にこうして食事を作るのを楽しんでいる自分もいる。だから、感謝しているのはこっちの方だ。
 彼から注がれる優しい言葉の数々に喜びを噛み締めながらそう返す。叶希の言葉を聞いて至極嬉し気に微笑んだ黒乃が、また弁当を食べ進めた。
 そのまま二人で他愛もない会話をしながら食べて良き、黒乃の少し後に続いて叶希も完食した。再び手を合わせてご馳走様と呟くと、丁度昼休みが終わるニ十分前だった。
「黒乃さんこの後何ですか?」
「俺は体育だ。確か、バスケだったかな」
「バスケかぁ、良いなぁ。私四限が体育だったんですけど、持久走だったので凄くたいへ…・…ッ、くしゅんっ」
 弁当を仕舞っていると、思い切り秋風が吹いた。スカートの裾が舞い叶希の髪を揺らす。半そでのワイシャツから見えている二の腕がひやりとし、思わずくしゃみが漏れた。
「あ、すいません、」
 慌てて黒乃の方へ向き直ると、彼は真剣な眼差しで叶希を見つめていた。ん? と疑問を浮かべながら手だけは片づけをそのまま続けていると、突然黒乃が着ていたカーディガンに手をかけた。
 淡いベージュ色したカーディガンのボタンを上から丁寧に外し、脱いだと思ったらカーディガンを持った手が叶希の後ろに回された。ふわりと肩にあたたかい温もりを感じ、そちらを見れば黒乃のカーディガンが自分の身体を覆う様に被さっていた。
「えっ、あの、」
「風邪をひいたら困るから。返すのは帰りで良いから、着ていてくれ」
「っ……でも、」
「一応クリーニングに出しているからそんなにだとは思うんだが……不快にさせたらごめん」
 そう言って少し申し訳なそうに黒乃が眉をさげた。その言葉に叶希はブンブンと勢いよく首を振る。不快どころか、自分を纏っているそこからは物凄く良い匂いがした。
「その、黒乃さんが風邪ひきますよ」
「俺は大丈夫だ。それにこの後体育で暑くなるし丁度良い」
「……っ、……じゃ……お借りします……」
「うん、どうぞ」
 ワイシャツに姿になった黒乃が叶希の腕をやんわりと持ち、カーディガンの袖に通していく。近くなった距離が恥ずかしくてくすぐったくて、どこに視線を向けて良いか分からなかった。されるがまま身を任せていると、両腕を通し終えた黒乃が今度はボタンを留め始める。



 二回り以上大きい黒乃のカーディガンからは、指先すら出せなかった。大きくてあたたかい服の中で指先を静かに動かすと、ボタンを留め終わった黒乃が「着心地悪くないか?」と至近距離で問いかけてきた。
「っ、っ……な、……い、です、」
「良かった。サイズが大きいのは……まぁ仕方ないな。動きづらいかもしれないが、少しだけ我慢してくれ」
「っ……はい、……」
 近い距離で見つめられて微笑まれて、心臓がドキドキと五月蠅く鳴っている。この音が聴こえてしまったらどうしようと思いながらも、恋人から目が離せなくて────離して欲しくなくて、そのまま視線を合わせ続けた。
 お互い、どちらともなく喋らなくなった。でも、聞こえる呼吸はとても甘くて、絡まる視線は明確な熱を宿していて、彼の息遣いが耳を擽る度に身体が熱くなっていった。

 暫くそうしていると、少しだけ黒乃の顔が傾いた。より顔が近くなり、目の前に影が出来る。スローモーションのように顔が近づいてきて、気が付いたら目を閉じていた。
 時間にしたらほんの数秒だった。互いの唇が一瞬触れ合って、直ぐに離れた。濡れた唇の感触だけが確かにあって、余韻だけが静かに二人の間を漂う。
「っ……ぁ……」
 じわじわとキスをしてしまった事を実感し、叶希の顔が赤く染まっていく。カーディガンの袖で唇を押さえて俯くと、じっと見つめていた黒乃が小さく笑った。
「ごめん。ちゃんと言うべきだったな」
「っ……うぅ……」
「叶希ちゃん、こっち向いて」
「っ……無理、です……っ」
「無理か……そうか……」
 次第にくすくすと大胆に笑い始める黒乃が、叶希の頭を優しく撫でながら問いかけてくる。その言葉に首を振ると、目の前の恋人はより楽しそうに顔を緩めた。
「っ……」
 学校でしてしまったとか、誰かに見られたらとか、色々な事が頭の中に浮かんではグルグルと回っている。唇に残る熱と身体中からする黒乃の香りも相まって、全く顔を上げられそうになかった。
「……今これを言うのはずるいと思うんだが、」
「……?」
「……今日、うちに泊まりに来て欲しい。明日は土曜だから、学校も休みだし」
「っ!?」
 先ほどよりも優しく、けど低い声で黒乃が囁いた。叶希にしか聞こえない声の大きさで耳元に注がれた誘いに、思わず顔を上げる。
「お、やっとこっち向いたな?」
「っ……黒乃さん、ずるい……」
「うん。ずるくてごめん」
 真っ赤な顔で見上げる叶希を、黒乃は嬉しそうに見た。やわらかい頬に指を伸ばして優しく撫でてくる。
「……っ、……私、この後授業なのに……」
「ん?」
 頬を撫でてくる手つきは優しいのに、先ほど注がれた言葉のせいで変に意識してしまって頭の中がどんどんピンク色になっていく。わなわなと唇を震わせながら呟くと、黒乃が首を傾げた。
「っ……どんな顔して受けたらいいのか、わかんないじゃないですか……っ」
 その顔を見上げながら涙目で告げると、叶希の言葉を聞いた黒乃がまたふはっと吹き出して笑った。大人っぽい顔をしているのに、こうして笑うと年相応に見える黒乃の姿にまた頭の中がふわふわと甘く染まっていく。
「そうだな。そうか、ごめん」
「っ、笑いすぎです」
「うん、ごめん……じゃ、もう笑わないから返事を聞かせてくれるか?」
「っ……、」
 未だに肩を揺らしている黒乃に膨れた顔を見せていると、期待に満ちた眼差しで恋人が優しく答えを引き出してくる。その言葉にううと眉を寄せた叶希が、数秒間唸ったあと、小さな声で答えた。
「……っ、……夜ご飯は……魚が良いです……」
「………、……あぁ。そうしたら、帰りに買いに行こうか」
「……っはい……」
 遠回りした答えでも黒乃は理解してくれたらしい。まるで春の陽気の様なあたたかい笑みを浮かべた黒乃が、再び叶希の頭を撫でる。優しい手の感触に胸を高鳴らせながら────

 今日の下着は何色だったか────と、叶希は記憶を思い返していた。