一話






 私は幼い頃に口減らしのために吉原にある京極屋きょうごくやに売られた。
 別に自分を売った両親を恨んでなんかない。そうなることが分かっていた。

 私が駄々をこねた所で未来は変わらない。
 あのままじゃ弟も妹も死んでいてもおかしくはなかったから、仕方のないことだった。

 どこに売られたのか。それが分からぬほど、無知でもないし、馬鹿じゃない。
 でも、家族と云う輪の中に私という存在は要らないと言われたみたいで悲しかった。
 苦しくて涙が零れ落ちた。

 それは貧しくても家族がいる幸せを噛みしめて耐えていた私の心にヒビを入れられたみたいだった。
 私を売ったから弟も妹も生きていける。その代わりに私は沢山の借金を抱えることになった。

 一番上だからという理由だけで売られるこの身はなんなんだろうとも思った。
 でも、弟妹は可愛い。守りたい存在だから、こんなことへでもない。そう思った。

 私がこの店にした借金を年季までに返せれば、遊郭と云う地獄ろうやから解放されるのだから。
 たとえそれがどんなに難しいことだと知っていても、希望きぼうに縋るしかないんだ。

 誰も悪くない。
 ただ世の中が理不尽だというだけの話。私が人より、運が悪かっただけの話。
 何があっても、生き延びよう。何があっても、笑って生きよう。
 京極屋ここに来た時にそう決めたんだ。

 唯一、私がここに来て救われたのは三味線や琴を奏でることだった。
 最初は全くできなかったけれど、一生懸命いっぱい練習した。それは血のにじむ努力と言っても過言ではなかったと思う。
 出来なかったことが出来るようになる感覚は高揚を覚えたし、何より姐さんたちからお墨付きをもらった時は本当に嬉しかった。だから、奏でる時だけこの苦しい環境を忘れられるから、一番幸せな時間だった。


 買われてから数年経った私は蕨姫わらびひめ花魁の禿かむろとして身のお世話をするようになった。

 あの人はとても気性が荒く、非常に怖い。
 少しでもあの人の気に障ることをすれば、殺されるんじゃないかって思う。笑って生きようなんて考えはいつの間にか消えてただ怯えて生きてた。

 あの日、本当に殺されててもおかしくはなかった。
 蕨姫わらびひめ花魁は機嫌が一等悪かったらしく、部屋がめちゃくちゃになっていて、私の髪を掴んで投げて捨てて殴り、蹴って暴言を吐かれた。
 泣いている姿を見せると蕨姫わらびひめ花魁は更に怒るから何とか泣くのを我慢していると部屋を片付けろと言って部屋を出て行った。
 彼女がいなくなってやっと我慢していた涙を流した。

 苦しくて、悲しくて。でも、頼れる人は今、もう誰もいない。
 可愛がってくれた姐さんたちは不思議と次々といなくなっていって、独りぼっち。
 地獄ろうやで繰り広げられる花魁からの地獄じごくの所業があまりにも理不尽で。

 何のために生きているのか。それが分からなくなっていた時にあの人は私の前に現れた。
 決して上手とは云えないお化粧をして、短い髪を二つに結んだ黄色の髪を持った男の人。あの人は私が泣いていることに慌てて慰めようとしてくれた。

 信頼していない人間に弱みを見せたら、握られる。
 そんな女の園である吉原で初対面にもかかわらず、優しさを見せてくれた人。

 本当はあの人の優しさに甘えたかった。
 涙を流し続けながら、不器用にも甘えようとした時、恐怖でしかない花魁が戻って来た。
 その威圧的な空気に死を覚悟した。

 私はここで死ぬんだ。
 だって、命じられてた部屋の片付けもせずに泣いているだけなんだから。
 覚悟していたとしても、恐怖で身体は震える。

 案の定、蕨姫わらびひめ花魁は苛立った様子で私の耳を引っ張った。

 痛い。すごく痛い。
 耳がちぎれそうな痛み。
 それにまた涙が溢れ零れた。

 耳を引きちぎっても構わなそうに容赦ない彼女の恐ろしさに叫んで泣くしか出来なかった。

 耳がなくなる。
 聞こえなくなる。
 もう二度と三味線や琴を上手に奏でられなくなる。

 そう思ったら、次に顔を出した感情は絶望だった。

 私がやっと手に入れた縋るもの。
 生きる希望。

 それがなくなると思っていたら、黄色の髪をした人が止めてくれた。

 あの人が止めてくれなかったら、私は片耳無しの格下げ遊女になっていていたかもしれない。
 生きがいも無く、この鳥かごから出るという夢が叶うこともなく、年季を過ぎても囚われ続けるだけの哀れな女になっていたかもしれない。
 だから、とても感謝した。


 それから数日後。
 蕨姫わらびひめ花魁はいなくなって、見世みせは平穏を取り戻した。
 それと同時に黄色い紙の人も見なくなった。男の子だってバレて追い出されたのかもしれない。

 それでも、私の命の恩人。
 あの人があの時、助けてくれたから耳を失わずにすんだ。
 死への恐怖から助けてくれたあの人を思い出すと胸がぎゅっと締め付けられた。

 どうしてこんなに苦しい思いをしているのか。分からなくて不思議に思いながら、鏡を覗いてみた。
 そこにはいつぞや恋をした姐さんがしていた表情に似た自分がいると気が付いてしまった。

 ああ、遊女としてこれからの人生を歩む私はなんて不幸なんでしょうか。

 一等愛おしい存在を作ってはいけない。
 何故なら、男に愛を紡がなければならないのが、遊女だから。
 それが偽りでも、本物でも。

 本気の恋をしたら辛くなるのはおのれ自身。
 姐さんたちの姿を見てきて、それを嫌だというほど知っていたのに突然現れたまるで雷のような存在に惹かれてしまった。
 初恋を知った私は振られることも叶わず、時が過ぎて行く。

 色褪せることのない恋を密かに育ててしまった十七歳の時、水揚げが決まって私は私を売った。
 手管てくだを使い、花を売った。全ては自分のために。
 表面的なものは全てくれてやった。
 心をあげてもいいと思えるようなあの人を越えられる存在は現れることはなかった。
 それでも、あの人は二度と私の前に現れることはなかった。

 私はいつの間にか吉原一の花魁と評されるようになり、無理だと言われていた借金も年季が明ける前に終わらせることが出来た。
 地獄じごくから解放された私は吉原という名の鳥かごからやっと出られたのだ。

 ずっと夢見ていた外の世界。
 それでも鳥かごから出された私は何も持たない穢れた身体の無力な女。

 どれだけ身請けの話をされても断り続けたのはあの人への恋心。
 今更、あの人を探してもこんな汚れた身体では彼の前に現れることも出来ない。
 そう思ったら、ポロッと涙が溢れた。

 笑って生きようと幼き頃に決め、絶望を知ってなお、新たに決意したのになぜこんなにも涙が出るのだろう。
 強く成ったつもりでもまだまだ弱いということに気付かされて思わず笑った。


◇◇◇


 女性は涙を誰にも見られないようにしゃがみ込んでうずくまる。
 早く、涙を止めなければと瞼をぎゅっと固く閉じるけれども、なかなか止まることはなかった。


「あ、あのぉ……大丈夫ですか?」
「……え…」


 蹲る彼女の上を覆う影は戸惑いながら声をかける。

 大丈夫です。

 そう声を出そうにも喉が張り付いていて出ないのか。それでも彼女は気丈に振る舞って笑うつもりだったのだろう。涙を指の腹で拭いて顔を上げるとそこには骨格がしっかりしていて綺麗な黄色の長髪を高い位置で結んでいる男性の姿があった。

 今、目の前にいる彼は上手とは云えないお化粧もしていなければ、二つ結びもしていないし、男性物の着物を着ている。

 でも、成長していたとしても昔の面影が感じられた。女性は目の前にいる男性は幼き頃、自分を助けてくれた恩人だということに驚き、また目に溜まっていた涙をポロッと落とす。


「え!?お、俺!!何かしました!?ご、ごめん!ごめんなさいぃぃぃ!!」
「……いいえ、申し訳ありません。大丈夫です」


 彼女は青年の顔を見るなり、涙を零すものだから彼はドキッとしたのだろう。

 混乱したように両手を顔の前で振り、謝罪を口にした。女性は顔の前で振られている両手。左手の薬指に気が付くと目を見張る。

 彼女はそれにドクンと鼓動を強くさせるが言葉にすることなく、ただ眉を下げて悲しげに微笑みながら、首を横に振る。


「え、ほ、本当に……大丈夫ですか?」
「ふふ、はい。大丈夫です」


 彼女のその言葉に違和感を感じたのか。悲しげに微笑む彼女に心配そうに顔を覗き込む青年は再度、問いかけた。

 お人よしの彼に思わず、口角を上げていることに気が付いたのだろう。自分の口元を隠そうと手を添えて笑みを浮かべれば、はっきりと告げる。


「そ、そっか……それなら良かった」
「……あの、助けて下さり、ありがとうございました」
「……え?」


 女性の和らいだ笑みを見てほっとしたらしい。青年は安堵の息を零した。彼女は揺れる瞳で彼をじっと見つめ、感謝の言葉を紡いでお辞儀をすれば、頭を上げて颯爽とその場を後にする。

 青年は女性のお礼が何だったのか。その疑問が浮かんだけれど、問いかける暇も与えずに去って行くものだから、ただその後姿を見つめることしか出来ずにいた。


(……まさか、結婚してるとは思わなかったな)


 彼女は空を見上げてスタスタと歩きながら、先ほど声をかけてくれた人を思って心の中で吐露する。


(でも、あの時のお礼は言えたから良かった)


 ずっと恋い焦がれていた人に会えた。そして、言えなかったお礼を言えた。

 初恋を引き摺りながら、何処にいるかもわからない彼を思い続けながら生きるより、初恋を終わらせ、第二の人生を歩む方が彼女にとってずっと幸せなのかもしれない。

 だからだろうか。彼女の表情は何処か吹っ切れているようにさえ見える。


「音を奏でて生きるのも悪くはないかもしれないわね」


 彼女は何処を目指して歩いているのか。それは誰にも分からない。でも、女性はふと思いついた言葉をそのまま口にした。

 一度きりの人生なのだから、好きなことをしてみよう。そう思ったのかもしれない。


「さて、今度こそ笑って生きよう」


 それでもこれからの人生は幸せが待っているはずだと期待せずにはいられないのだろう。

 心を軽くさせる彼女は恋の花を散らせども、朗らかな笑顔を見せて鼻歌を歌いながら、自分の人生を歩もうと一歩を踏み出したのだった。



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