一話





 スーツに身を包む女性はボロボロの姿でヨタヨタと歩いている。


「はああああああ……」


 マンションの一室の前に立ち止まると深いため息を吐き出し、ノロノロと鞄から鍵を取り出すと鍵穴に差込み、ガチャという音が響いた。
 取っ手に手をかけ、玄関内に中へと入るとパチッと音を立て、電気を付ける。


「もーむり、死ぬ。死ぬよ…何連勤よ…ブラック企業すぎるでしょ…死んだら呪ってやる…」


 どうやら、彼女はブラック企業で働いているようだ。
 彼女の顔を見る限り、目の下にはファンデーションでは隠しきれていない隈がくっきりとあり、ブツブツと自身を雇う会社に対して文句を零している。
 パンプスを脱義終わると玄関の元気を消し、ヨロヨロ歩き出した。そして、スーツのジャケットを脱ぎながら、リビングに辿り着くと暗い部屋に明かりをともす為にリビングの電気を付ける。


「………は?」


 彼女は肩に掛けていた鞄をボトンと落とし、目の前の光景に思わず固まった。
 リビングの床には2メートル近くあるんじゃないか。そう思える人間がうつ伏せになり、倒れているのだから、無理もない。


「滅って、何。物騒すぎません!?」


 うつ伏せになっている男性は太い二の腕に合わせた袖なしの衣服を着ており、背には”滅”と書かれた文字があった。
 現代日本でなかなかそんな文字を背負って生きている人間なんていない。だからこそ、彼女は困惑した顔をしてツッコミを入れるが、気を失っている彼にはそんな言葉すら、届くはずがなかった。


「え、不法侵入?」


 混乱する頭で自分に問いかけるように言葉を零すとその言葉が一気に現実味を帯びたのだろう。
 慌てて、カバンからスマートフォンを取りだし、110番を押そうとする。


「え、でも、なんで、倒れてるの?え、私のせいになるの?」


 1、1、と押し、あと0を押せば警察に繋がるという所で指をピタリと止めた。
 警察に電話をして、警察に来てもらった所で倒れてるのが自分にのせいになるのではという不安が過ぎったらしい。


「う……」
「ひっ…!!」


 男性は眉根をよせ、苦しそうな声を出す。
 静かな部屋で低い声を聞いた瞬間、ドキッと心臓が跳ねたのだろう。
 青い顔をして、彼女は小さな悲鳴をあげると倒れたままの彼に視線を向けた。


「………っ、」
「………あの、大丈夫…ですか?」
「っ!!」


 歯ぎしりをし、何かに耐えているような表情を浮かべる男性に彼女は恐る恐る腕に手を添え、ゆさゆさと揺らしながら、声をかける。
 彼はバチッと目を開け、ガバッと起き上がるとスマートフォンを持っていない彼女の手をパシッと掴んでは押し倒した。
 

(し、視界が…変わった……ていうか何で押したされたの!?いつの間に!?)


 先ほどまで確かに目線は下だったはずなのに、今は天井と男性を見上げている状況に戸惑いを隠せないらしい。
 怯えよりも混乱が勝っているのだろう。彼女は目を回していた。


「……誰だ、アンタ」
「そ、そっくりそのまま返したいんですけど……」
「ああ!?」
「……だいたい、なんで、勝手に家にいるんです!?私のストーカーです!?不法侵入ですかね!!」


 射貫くような鋭い瞳。低い声。逆らうことを許されない雰囲気を醸し出す男性は怪訝そうに彼女へ問いかける。
 混乱からか。それともほぼ寝ていない状況で働いていたせいか。回っていない頭で考えながら、おずおずと言い返すが、男性は荒々しい声で威圧的だ。
 彼女の中で何かが弾けた。プチーンっという音が鳴る。それをきっかけに涙目になりながらも、彼女は眉を吊り上げ、言い負けないように声を荒げてキレるように言葉を返した。


「ああ?すとーかー??……なんだそりゃ」
「現代人でその言葉を知らないってどういうことですか!ふざけてます!?何誤魔化してるんですか!?警察呼びますよ!!ああ!もう!!起こす前に呼べばよかった…!!」


 彼は先程の恐ろしい顔から一転し、眉根を寄せはしているが、ぽかんとした表情を浮べる。
 彼女が早口で言った言葉が聞き慣れないのか。男性の頭には疑問符がたくさん浮いていると彼女は寝不足も相まって、恐怖はどこかに行ってしまったらしい。キレたままの彼女は彼が分からない言葉を投げつけ、怒気を飛ばした。


「……おい、お前の持ってるそれはなんだ?」
「ああ!?スマホを知らないフリするのはやめなさいよ!!現代人で知らない人はいないでしょ!!年寄りでも知ってるわ!!」


 怒りで会話にならない彼女に男性は戸惑った顔をしていると彼は彼女の手に握られているモノに目が入る。
 それは彼にとって一度も見たことがないものなのか。興味津々に見つめ、問いかけると彼女はまだバカのことを言って、言い逃れをしようとしていると思ったのだろう。罵声を浴びさせながら、足をバタバタとさせて抵抗し続けた。


「すまほ?」
「……あの、その演技はもういいから早く通報させなさいよ。私の上から退きなさい!!」


 また聞き慣れない言葉に眉根を寄せるが、彼女にはそれが芝居に見えるらしい。
 暴れるのをやめると冷静に、蔑む目を向けて低く唸るように男性に言葉を投げつけた。


(訳が分からねぇ……つーか、見たこともねぇもんだらけじゃねぇか)


 男性は深いため息を付くと今いる場所が何処なのか。彼女を押さえつけたまま、チラッと辺りを見渡す。
 浅草辺りに行った時に見たようなハイカラな洋風の机と椅子。見たことも無い薄い四角い物体。
 一度も見たことがないものまであるこの場所に冷や汗をかき、彼は心の中でポツリと零した。


「ちょ、聞いてる!?」
「……おい」


 黙ったまま、辺りを見渡す彼に彼女はまた眉を吊り上げ、声を荒げると男性は真剣な表情を彼女に向け、声を掛ける。


「何…」
「頼むから教えてくれ。ここはどこでアンタは何者だ」


 この野郎。
 彼女は心の中でそう呟き、文句を言おうとしていたが、彼の真剣な表情に息を飲むと彼はじっと彼女を見つめ、先程とは全く違う優しい声音で言葉を紡いだ。


「……普通、自分から名乗るものでしょ」
「俺は宇髄天元だ」


 その言葉に疑心になっているのだろう。彼女は信じられない表情を浮べ、精一杯の抵抗の言葉を紡ぐと彼はふっと笑い、自分の名前を名乗る。


「本当にストーカーじゃないの?」
「だから、それはなんだってんだ」
「付き纏いする人間のこと」
「ああ!?俺様がそんな地味なことをするわけねぇだろ!!」


 あっさりと自分の名前を名乗る辺り、不審な人じゃない。そう思えたのか、彼女はキョトンとした顔をして彼に問いかけた。
 訳が分からない。宇髄の顔にはそう書いてある。
 そんな言葉を彼が知るはずもないのだから、当然の反応だ。
 彼は困ったように眉を下げ、問いかけると彼女はさらりと要約して説明する。しかし、心外だったのだろう。彼は全否定するように声を荒げた。


「じゃ、何で家にいたのよ」
「それが分かったら、聞いてねぇ」


 女性もまた訳が分からなくなってきたのだろう。少し冷静になった頭で考えても出て来ない答えに彼に更に問いかけるが、彼もまたそこについては分からないらしい。宇随は文句言いたげに言葉を返した。


「……私の名前は辻本真実。ここは私の家」
「おう」


 嘘を付いているようには見えない。
 そう判断したのか。彼女はふぅと息を吐くと自分の名前を彼に告げ、先ほどの問いの答えを口にした。
 女性の名前を聞き、先ほどの問いにもこたえて貰えたことに彼はとりあえず納得したように短く返事を返す。


「……訳分からないけど、一旦退いて。顔面偏差値高い人を間近で目にするのも目に毒なんで」
「…………おう」


 真実は疲れた表情をしては気だるそうに自分を押し倒している事実に着目し、さっさと退くように指示をするが、その声はどこか刺々しい。
 女性にモテる事が多い宇髄からするとそんなことを言われたことが無いのかもしれない。
 ピタッと身体を硬直させ、頬をひきつらせると少し上擦った声で返事をしては彼女の上から退いた。


「どうして、ここにいたの」
「……崖から派手に落ちた」
「……で?」


 彼女はちょこんと正座をすると目の前の男性は胡坐をかき、楽な姿勢を取る。
 何故、ここにいるのか。真実はキッと真剣な表情をするともう一度、問いかけると宇髄は彼女から床へと視線を落とすと思い出すように眉根を寄せ、ぽつりと言葉を紡いだ。
 落ち着け、落ち着くのよ。私…!
 意味の分からない供述に彼女は自分を落ち着かせるために心の中でそう言葉を零すとふぅ…と息を吐き、彼の続きの言葉を待つ。


「死を覚悟はしてたんだが、気が付いたらここにいた」
「……やっぱり意味が分からない…そんなドラマとか小説とかいや、同人誌、夢小説でありそうな話……」
「どらま?どう…?夢?」
「嘘でしょ。流石にそこら辺は…夢小説は知らなくても知ってるでしょ」


 宇髄は彼女へ視線を戻すと嘘偽りの無い言葉を口にしたが、彼女は困惑した表情を浮べ、首を横に振った。
 画面の中の出来事や、本で書かれる物語では聞いたことがあるが、現実であるなんて想像も出来ないのだろう。しかし、宇髄は彼女が紡ぐ言葉で理解できるのは小説くらいだ。
 それ以外の言葉は全く理解できていない彼は困惑した顔をしてたどたどしいイントネーションでオウム返しする。
 その反応に彼女は常識として知っていておかしくない事を知ら ない彼にげんなりした表情を向けた。


「……分からねぇ」
「はあああああああああああ…いつの時代の人間よ…」
「ああ?大正だが……」


 彼は眉を下げ、冷や汗をながら素直に答える。彼女は深いため息を付きながら、顔を手で覆い、ぽつりと言葉を零した。
 何言ってるんだ、こいつ。
 宇髄はそう言いたげな顔をして彼女の零した言葉に勝手に答える。


「ああ、大正ね……って、なる訳ないじゃない!?」
「何でだよ」
「それ百年前だよ!?今は令和!!2020年!!」
「は?」


 彼女はそっと顔から手を離し、納得したように言葉を紡ぐが、すぐさま顔をガバッと上げてツッコミを入れた。
 なんで、そんな反応になるのか分からない彼は軽く首を傾げ問いかけると彼女はワナワナとさせ、声を荒げてその理由を口にする。
 真実の言っている言葉は分かるが、意味が分からないのだろう。
 宇髄は頬を引き攣らせ、固まった。


「待って、待って…そうなると…アンタ…どっかから次元越えてきちゃったの!?」
「……」


 彼女は顔を真っ青にさせ、声を荒げると宇髄は茫然としたまま、彼女を見つめる。


(……鬼は倒したし、血鬼術にかかってない、はずだぞ)


 崖から落ちる前に彼がやっていたのは鬼殺隊として鬼の頸を斬ることだ。
 全ての鬼の頸を斬り落とし終わらせたところ、足を踏み外して崖から落ちたのだろう。彼は血鬼術にかかったわけでもないのに訳分からないことに巻き込まれたことに疑問を隠せないらしい。
 眉根を寄せ、顎に手を当てて考え込んだ。


「……ああ、もう駄目。頭回んない……考えるのは明日にさせてぇ…」
「え、あ、おい…」
「宇髄さん?だっけ…背が高すぎ…仕方ないからベッド譲ってあげるからアンタも寝ていーよ…」


 考え込むだけで答えが出ない彼に真実は待てないようだ。何せ、寝不足な上に超過勤務だったのだから、無理もない。考えることをいち早く辞めた彼女はフラフラと歩きながらソファに倒れ込んだ。
 まさか、この状況でほったらかしにされるとは思っていなかったらしい。彼は困った表情を浮べ、言葉を投げかけようとするが、もう彼女は寝る体制に入っている。
 彼女はウトウトしながら、自分の寝室を指差し、言葉を紡いだ。彼女は意外と心が広いのか、見知らぬ男にベッドを譲る気のようだ。
 まあ、宇髄の体格からしてソファで仮眠をとるのは難しいと回らない頭で判断したのかもしれない。


「お前はどこで寝るんだよ」
「ここー…どこでも寝られる、し……」


 よく分からない用語が出てくるが、何となく理解をしているのだろう。
 戸惑いの色を隠せない瞳で彼女を見つめ、問いかけると彼女はもう限界のようだ。
 消えそうな声で返答をすると瞼を閉じ、そのまま眠ってしまった。
 彼女から聞こえるのは寝息のみ。


「……見知らぬ男がいるっつーのに、寝るか。この状況で」


 宇髄はガシガシと頭をかき、無防備な彼女に呆れたようにため息を付く。
 仕方ねぇ。
 そう零すと彼はソファで眠っている彼女を横抱きし、寝室へと運んだのだった。



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