(……嘘でしょ)
プチンッ。
何かが弾けた音。弾けたと言っても周りには聞こえないほどの小音量だ。
それは背中から聞こえる。
とーかは顔をサッと青くして絶望していた。
「どうした?」
「……」
あまりの動揺で足を止めていたらしい。
数歩先にいる五条は首を傾げるが、それに応答することはなかった。
彼女はこの状況をどうするか。それだけが頭を支配されているのだから無理もない。
「……聞いてる?」
「っ、ご、ごめん……な、何?」
彼はとーかの元まで戻れば、顔を覗き込んで首を傾げた。
それにやっと聞かれていることに気が付いたのだろう。息を飲んでぎこちない笑顔を見せる。
「何かあった?」
「え、……っと、用事思い出したから先帰ってて」
いつもの彼女らしくない様子に違和感を覚えたのか。目隠し越しにじーっと見つめて聞いた。
とーかは頬を引き攣らせながら、両手を横に振って答える。
それが彼女が答えられる精一杯だ。何せ、決して五条に悟られてはいけないのだから。
「用事?」
「たいしたことないから、ね?」
あとはもう帰るだけなのに用事が突然発生していることに彼は怪訝そうにする。
だが、なんとかここを言いくるめて帰ってもらわないととーかにあとはない。
さっさと帰れと言わんばかりに手を振って強制的に見送り体制を取った。
「藤、なんか隠してない?」
「隠してなんかない」
「ふーん……」
それが疑心を増幅させたらしい。更に顔を寄せる五条ととーかの間はもう3センチあるかどうかくらいだ。
流石の距離に後ろに下がって、彼の問いに対して即答で否定する。
けれども、疑いは晴れていないのか。五条は納得した素振りを見せることはなかった。
「じゃ、そういうこ――」
「ヤダ」
「っ!?」
このまま受け答えしてたら、バレる。逃げるが勝ちだ。
本能がそう訴えてくるのかもしれない。彼女は大きく一歩後ろに下がって彼に背を向けて去ろうとしたが、逃げるより先に五条の長い腕が彼女を捉える。そして、そのままグイッと引っ張れば、抗う暇のなくとーかは彼の腕の中にすっぽり納まってしまった。
誰がこんなことを想像していただろうか。間違いなく彼女はこんなことになると思っていなかったはずだ。
ぶわっと顔を赤くさせて言葉を詰まらせる。
「……あ?」
五条はいつも抱き締める感覚と違うことに気が付いたのか。眉根を寄せた。
明らかにいつもより無防備に感じる感触に。
「は、離して……」
「用事なら付き合うよ、うん」
逃げたくても逃げられないとーかは耳まで真っ赤にさせて小さな声で訴えるが、それを叶えて貰えない。
何故なら、彼が口角を上げたからだ。
「いや、ほんと、一瞬で終わるか――」
「ブラホック直すだけでしょ」
用事に付き合う。
その言葉だけで今度は貧血で倒れそうなほど顔を青くした彼女は力なく笑みを浮かべて丁寧に断ろうとするが、それは良い終わることはない。
喰い気味にとーかが決して言葉にしなかったことをさらりとなんでもないことのように五条が言ってしまったからだ。
「…………」
ああ、やっぱりバレてた。
そう思ったのか。彼女はこの世の終わりを見ているかのように微笑み続けながら絶望する。
「むしろ、僕が手伝った方が早くない?」
「絶対、早くっ、ない!」
楽しそうにニヤリと笑って問いかけてくるが、それは大変喜ばしくない申し出だ。
とーかは慌てて逃げ出そうとするが、如何せん。男の力だ。逃げ出すことは不可能。
それでも、諦めきれないのか。力ませながら断った。
「えー……だって、ここで直せるよ?」
「ここ外!!」
抵抗されていると言っても痛くもかゆくもないのか。五条は余裕の表情で首を傾げる。
とんでもない提案をぶっこむ彼に声を荒らげて言い返した。
そう、二人がいる場所は人通りが少ないと言っても外。とーかからすれば、どうあがいても拒否したい提案だ。
「だいじょーぶだって。夜中だし誰も見てないって」
「いや、TPOを考えて!?」
五条は安心させるようにつらつらと言葉を並べるが、それに納得する彼女ではない。
後ろから抱き締められているから顔を見ることが難しいからこそ、苦肉の策でガバッと顔を上げて訴えた。
呪術師はイカれてる。それを許容したとしても、イチ教師。いくら何でもアウトだ。
「大丈夫だって。ほら、任せ――」
「トイレに行って直すから本当に退いて……!」
正論なんて聞く耳を持たない男に正論を言うだけ無駄らしい。
どこに安心用途があるのかすら見い出せないのに根拠のない自信を顕わにするのはある意味凄いと言わざるを得ないだろう。
だが、とーかはそれどころではない。違う意味で身の危険を感じているからこそこの慌てようだ。
「はー?トイレなんて僕より危ないじゃん」
「……あんたの方が危険極まりない」
彼女の発言が気に喰わなかったのだろう。五条はピクッと眉を動かせば、不機嫌なオーラを纏って反論する。
しかし、とーかからしてみれば、五条悟に捕まったままなされるがままになる方が危険を肌で感じるらしい。冷めた目で見つめてハッキリと答えた。
「盗撮されてたら世にバラまかれるじゃん」
「そんな都合よくカメラなんて……」
低いトーンで真剣に答えるそれは意外にも正論。
正論嫌いの口からそれが出ると思わなかったのか。彼女は鼻で笑ってありえないと言いたかった。
それを言い切れる自信がないのか、続きの言葉が出て来ない。
「ないなんて言いきれると思ってんの?」
「………」
そんなとーかの心理を見抜いているのかもしれない。
彼は詰め寄るように聞き返した。そう、言い切れることは難しい。
近年、どんどんそういった話はニュースになっている。
残念なことだが、自分は被害に合わないなんて過信してはならない世の中になっているのだ。
だからこそ、彼女は口を閉ざした。
「ほら、僕に今ここで直された方がいいって」
「いや、だから、ばし……ってどこ触ってんの!?」
大人しくなった彼女が観念したと思ったのだろう。彼は明るい声で持論を語れば、ガサゴソと服の中を
上着の中を這う手にとーかは眉を吊り上げて声を張り上げた。
「え、直すんでしょ」
「頼んでない!」
ごく当たり前のように答える五条が憎たらしいのか。彼女は額に青筋を浮き立出せながら、Yシャツへと侵入する手を止めようとするが、適うことはない。
「今日はブラホック前と後ろどっち?」
彼はこの状況すら楽しんでいるのだろう。鼻歌さえ歌っている。
ふと気になったことを聞くが、非情にデリカシーはない。まあ、この男にそんなものを求めること自体が間違っているのだが。
「いや、ほんと……っっっ、触らないで!?」
するりと肌を這いながら、胸へと手を伸ばすその感覚にとーかは何とか耐えて歯向かった。
「あー……後ろか。じゃあ、こっち向いて」
「だから、ひとの話を聞……ひゃっ!」
彼女の胸を覆う布に触れれば、感覚的に金属部分がないのだろう。
手を突っ込んだまま、くるっととーかを回転させて正面から抱き締めるようにして背中に手を伸ばす。
全く聞く耳を持たない彼に苛立ったのか。刺々しい声音で訴えかけようとしたが、その途中で上擦った声が出た。
「「…………」」
触れられた手がかすって思わず出てしまった予期せぬ出来事なのかもしれない。
彼女はピシッと固まって自分の口を塞げば、五条もまた腕の中にいるとーかをじっと見下ろす。
「うん、やっぱこのままでいいよ」
「ヤダヤダ……直しにトイレに行きたい」
彼の出した結論はただひたすらにぶっ飛んでいた。自分が直すと言っていたのにも関わらず、直すことを止めたのだから。
だが、その発言は彼女を更に恐怖に落とすのだろう。ふるふると首を横に振った。
「どうせ後で外すんだから今外れててもいいよね」
「どういう思考よ!?歩けないじゃない!!」
名案とばかりに人差し指を天に向けて語る。
この男から逃げなければ。
脳から指令を受けるとーかはツッコミを入れて、身を守るように両腕で胸を覆って後退った。
「飛べばいいでしょ」
「ちょっ……!!」
けれど、その悪あがきも意味はなかったらしい。
ひょいと担がれてしまえば、もう逃げることは適わなかった。
反論もむなしく、彼に俵を担ぐようにされたまま、その場を去る羽目になる。
――そのまま五条の家へと連れ去られた彼女がどうなったかは彼等のみぞ知る話だ。