あなたの傍に






 クリスマス・イブ。この日のために恋人を、と頑張る男女は少なくはない。
 諦めて友人と慰め会を開くものもいれば、家族と過ごすものも多いかもしれない。どちらにしろ、世間は浮足立つ日の一つだ。しかし、呪術師にそんな日は関係ない。

 何故なら、夏油傑が百鬼夜行を宣戦布告しに、呪術高専にやってきたから。そして、今日がその日。そして、呪詛師・夏油傑の命日となった。


「…………」


 天から降り注がれる白い粒が手にそっと触れると体温に奪われ、消える。その儚さに女性は眉を八の字にし、視線を前へと戻した。平然と、いつもと変わらない様子で生徒たちに接する五条を見て瞳を揺らす。どうして、そんな顔をするのか。それは知っているからだ。
 五条は親友である夏油を殺して戻ってきたことを。


(大丈夫、なわけないけど……きっと見せないよね)


 今、声をかけたところで生徒がいる前だ。無様な姿をさらすような人間じゃないからこそ、開いた口を閉ざし、胸に手を添え、きゅっと握る。彼の心に寄り添いたいが出来ないもどかしさからかもしれない。


「あれ、来てたんだ?」
「……そりゃ、追いかけて来たよ」


 ふと、五条が振り返れば数メートル後ろで立ち止まっている女性の姿が見え、首を傾げる。彼なら、気付いていない、なんてことはないのに。
それが分かるからだろう。女性は駆け寄り、惚ける彼に呆れたように息を吐き出すと、困ったように微笑んだ。


「先、戻ってて」
「あ、はい」
「遅かったね」


 生徒たちに指示を出せば、一番近くにいた憂太はこくりと頷き、自分より先を歩いている同級生たちの元へと駆け寄る。その足音を聞きながら、あっけらかんと、嫌味のような一言返した。
 その対応はどこか、学生時代を思い出させる。


「役立たずでごめんなさいね」
「そんなこと言ってないじゃん」
「……」


 先ほどまで飄々としていた彼がどこか、そっけない。それに彼女はムッと頬を膨らませて、プイット顔を背けた。
 急に拗ねた。そういう風に感じたらしい。五条は乱暴に頭を撫でる。その手はどこか元気がない。それに気が付いた女性は悲しそうな顔をしてただ、されるがままになっていた。


「……ボサボサになってるけど」
「ボサボサにしてくれてるのは悟くんでしょ」
「まあ、そうだけどね」


 どんどんと髪が乱れていくのに止めない彼女にキョトンとするが、手が止まることはない。女性は止めはせずとも目で訴えるようにジト目を向けながら、小言を言った。けれど、反論はないらしい。彼は撫でていた手を止め、するっと頬に触れながら、小さく笑った。


「悟くん……」
「ん、どーした」


 触れる手は冷たい。雪が降ってるから当たり前だ。でも、それだけの冷たさに感じられなかったのだろう。彼女は探るような目を向けて呼ぶけれど、五条は相変わらずだ。なんせ、目は包帯で隠してる。その上、感情を隠すのも上手になってしまった。表情を読むにはなかなか難しい。


「んーん、何でもない」
「何それ」


 きっと、何かを聞こうとしてやめたようだ。もしかしたら、こう聞こうとしたのかもしれない。夏油君の最期はどうだったか、と。けれど、それは言葉にしてはいけないと思ったのか。胸に収めて、首を横に振った。
 呼びかけておいて、何でもない。なんておかしな話だ。子供のようなやり取りになったことに、包帯の上からでも分かるように眉根を寄せる。


「なんだろね〜」
「ねえ」
「うん?」


 頬に触れていても、まだ暖かくならない彼の手に寂しくなったのか。彼女は手を重ねて目を細めた。その表情に彼はぽつりと、零すと女性はこてんと首を捻る。


「今日、そっち行ってもいい?」
「いいよ」
「遅くなるかも」


 そのまま、問いかける。彼からそんなことを言われる時はだいたい、目的は一つだ。でも、きっと彼女も今日、五条を一人にさせたくなかったのだろう。恥じらっているのか、ほんのり頬を赤く染めながら、返事すると彼は口角を上げる。


「起きて待っててあげる」
「随分優しいね」
「失礼ね、いつも優しいでしょ」


 親友を殺した日だったとしても特級呪術師にはそんなのは関係ない。いや、これから待っているのは上層部への報告もあるのだろう。そうなると深夜になることも分かるようだ。

 彼女は心配そうに見上げて労わるように言うが、五条はびっくりした顔をする。けれど、それは頂けなかったらしい。彼女は目を細めて睨み付けた。


「そーだっけ?」
「ひっどい! やっぱ締め出してやる」
「うそうそ。マジでやりそうじゃん」
「マジでやるから言うんでしょ」


 惚けられて終わってしまう。それが思いのほかショックだったらしい。女性は声を荒げて文句を言うと、先ほどと打って変わった言葉を投げかけた。

 流石に締め出されると言われて、焦ったのかもしれない。彼は笑って冗談だ、とばかりに言うが、彼女は真剣な顔をしている。


「お前が言うと冗談に聞こえないって」
「冗談じゃないもん」


 女性の本気度を肌で感じたのか。五条は頬をヒクッと引きつらせると彼女は変わらない表情で言い返す。それもそのはずだ。彼女は嘘がつけない体質。嘘を付いたとしても、声を震わせて変な顔をして朝手の方向を向くのだ。それをせずに真顔を保っていると言うことは、締め出す気満ということになる。


「僕、彼氏よ?」
「私だって彼女よ」


 彼女の家に行くのに出禁にされる彼氏なんて、極稀にしかいない。まさか、自分がそちラ側の人間になるとは梅雨にも思っていなかったのだろう。確認するように自身の顔を指差して問いかけると彼女は眉を吊り上げて言い返した。


「「…………」」


 会話になっているようでなっていない。そんな言い合いに、互いにふっと零す。


「まあ、いいや。待ってて」
「……うん」
「じゃあね」


 どうやら、全て冗談の冗談返し、と言うことで収まったらしい。女性の額にツンッと人差し指で優しくつつき、頼むと彼女は目を細めて笑うと彼は手を振って高専の校舎へと歩き出した。


「…………」


 しんしんと降る雪はどんどんと数を増やしていく。それはどうしても嬉しいものではなく、悲しいものに感じたのかもしれない。五条の姿がなくなるまで、女性はその背を見つめ続けた。


◇◇◇


「…………」


 カチカチ、と秒針が進む。リズムよく刻まれるそれに耳を傾けながら、ソファに座って本を読んでいたが、首が辛くなったのか。顔を上げる。


「ふわぁ……」


 その瞬間、出るのは大きな欠伸だ。それも無理もない。時計の針が差す時刻はもう深夜二時を超えている。眠くなったって仕方ないのだ。


「遅いって何時までなんだろ……ん?」


 今日、来ると約束していた人物はいまだに来ていないらしい。本をぱたんと閉じて膝を抱えながら、ポツリと呟くとテーブルに置いていたスマートフォンが震えた。画面に表示されたのはもちろん、五条悟の名前だ。


「……もしもし?」
『あ、まだ起きてた?』


 やっと連絡がきた。そう思って電話に出てば、悪気のない声が聞こえてくる。


「約束したからね」
『流石だね〜……でも、ごめん。帰れそうにないから寝てていいよ』


 少しも有難そうにしていない彼に不服なのかもしれない。棘のある言い方をすれば、飄々と交わされてしまう。けれど、それも一瞬だ。ひどく疲れたような、低い声で謝られた。

 深夜の二時過ぎまで起きたまま待っていた人間になんて電話だろうか。それだったら、もっと早く連絡すればよかったはずなのに。


「……本当に?」
『ははっ、何が?』
「……帰ってこないなら、」
「……」


 彼女は怒りでも呆れでもなく、その言葉に疑いを持ったらしい。ぽつりと、聞くと惚ける様な問い返しが返ってきた。それは肯定しているようなものなのかもしれない。

 女性はゆっくり口を開いて、言い掛けた。けれど、その続きは部屋に響くことはない。何が言いたいのか、五条も全く分からないのだろう。ただ、黙って耳を傾けている。


「ずっと起きててやるんだから」
『ふはっ、何それ、おどし?』
「そうよ、おどしよ」


 やっと、思いついたのかもしれない。むんっと言わんばかりに胸を張って言う。しかし、溜めに溜めていう言葉がそれだという事実が面白いのだろう。彼は吹き出して笑って楽し気に聞いた。

 何とも幼稚な事を言ったんだろう。内心、そう思って羞恥するけれど、言葉にしてしまったものはもう、戻すことは出来ない。だからこそ、彼女は突っ走り、脅しと認める。


『珍しく甘えん坊じゃん』
「甘えん坊って……まあ、いいやぁ」


 おどしてまで家に呼ぼうとするのが珍しいらしい。それに驚く五条だが、彼の言い方に何か引っかかるのだろう。女性は眉根を寄せるけれど、言葉を探すのが面倒くさくなったのかもしれない。適当に話を合わせた。


『来てほしい?』
「…………」


 まるで、彼女を試すような聞き方だ。うん、と頷けば甘えたいと思われるだろう。だからこそ、素直に頷けない。

 甘えたいから来てほしい、ではなく、五条が心配だから側にいたい。それが女性の本心だから。いや、その前に行くと言って夜中まで起こしておいて、やっぱいかないは人としてどうか。そんな問題は残されているが、それはもう彼だから仕方ない。その一言で片づけられてしまうから、些事だ。


「聞こえてる?」
「……悟くんをひとりにしたくない」


 秒針が五回ほど動いても、返事はない。それは五条に聞こえてはいないけれど、返答が全くないことが気になったらしい。返事も待たずに問いかけると、鈴のような声が響いた。


『…………これから帰るから待ってて』
「うん、待ってるね」


 茶化してはいけない。いや、茶化せない。そう思ったのかもしれない。五条は息を飲むと重い、口を開ける。
 やっと、その言葉を聞けてほっとしたようだ。彼女は嬉しそうに微笑めば、電話を切った。


(……敵わないなぁ)


 ツーツーツー、と通信が切れた音。それを聞きながら、五条はふっと、笑う。それはどこか、困ったような、苦しそうな表情だった。


(優しくできる自信ないんだよね)


 行くと約束したからには向かわないわけにはいかない。しかし、理性を保ってられる自信がないのだろう。ガシガシッと乱暴に頭をかきながら、彼女の家へと向かった。



「…………」


 電話を聞いてから二十分ほど、経っただろうか。どうやら、雪が雨に変わったらしい。ポツポツ、という音が聞こえたと思ったら、その音は激しさを増していった。
 それに心配そうに窓を見ていたが、それもつかの間だ。


「!」


 ピンポーン、という音が響く。やっと、来た。そう思ってソファから腰を上げ、パタパタと急ぎ足で玄関に向かった。


「おかえ……り……」


 鍵を外し、ドアノブを回して開けて出迎える。けれど、彼女の目に入った五条の姿にびっくりしたらしい。目を真ん丸にした。


「ただいま」
「ちょ、なんで濡れて……タオル持って……!」
「……」


 目元は包帯で隠されているからよくは分からない。けれど、五条はいつもと変わらず、片手をヒラッとあげる。髪から、服から、ポタポタと落ちるそれに女性は慌て、来た道をUターンしようとしたけれど、それは叶わなかった。グイッと腕を引っ張られ、冷たい彼の腕の中へと閉じ込められてしまったから。


「……タオル持ってくるから」
「…………」
「すぐ戻ってくるから」
「……」


 いつもだったらあたたかいその場所は冷え切っている。彼女はそれが悲しいのか、少しだけ胸を押した。でも、五条は何も言うこともなければ、腕の力を弱めることもない。

 無言の抵抗に困ったように笑って、不安を取り除くように伝えた。けれど、やはり返ってくる言葉はない。


「……風邪引いちゃうよ」
「ん」
「…………お風呂入れるから」
「……ん」


 じわり、冷たさがじわじわとうつってくる感覚を覚えながらも、そっと背に手を回した。与えられたあたたかさに、彼はやっと返事をする。けれど、そこに覇気はまるでない。トントン、とあやすように叩きながら、伝えても同じことの繰り返しだ。それどころか、女性の肩に顔を埋めて離そうとしない。


「……」
「…………」


 強く押しのけることも出来るだろうに、それをしないのは静かに抱き締める手がどこか縋っているように感じたのかもしれない。彼女は黙って背中をリズムよく叩くと五条は与えられるものを噛みしめた。


「ねえ、風邪引いちゃうよ」
「……あっためてよ」


 どんどん体温が奪われてく。その感覚にこのままはマズいと思ったのだろう。女性は彼を動かすために、優しく投げかける。反応がない、そう思って息を深く吐き出した瞬間、まともな返事が返ってきた。喉に言葉が突っかかっていたのかと思うほどに、酷く掠れた声で乞うのは彼女自身。


「…………お風呂入ろうよ」
「お前がいい」


 それに驚くことはない。それはもうすでに分かっていたからだろう。それでも、女性は眉根を下げて諭すように語りかけるが、彼は抱きしめる腕を強めて、もう一度願った。


「仕方ないなぁ……」
「ここまで来させておいて拒否るとかないでしょ」


 頑なな五条に折れるしか手立てはないらしい。諦めたように受け止めれば、彼らしいレスだ。でも、とりつくろえなくなっているのか、やはり声に元気はない。


「そうだね、わがまま聞いてくれてありがとう」
「……本当に鋭いよね」
「悟くんのこと見てきたからね」


 嫌味にも聞こえるはずのそれに彼女はただ微笑んだ。普段、軽く口喧嘩になることだってある。なのに、ただ受け止めて包み込むような対応をする女性に五条は力なく笑った。それに女性はふっと口角を上げ、目を閉じる。

 もう十数年来の付き合い。本人が分からない癖も理解し合えている関係を築けているからこそ、なのかもしれない。


「愛されてるなぁ……」
「当然じゃない」


 彼女のぬくもりが凍てついた心がほんの少しはほぐれてきているのか。五条はポツリと呟くと女性はぎゅっと抱き締め返して同意した。


「愛されついでに手加減できないけどいい?」
「いつも手加減なんてしてくれないくせに何言ってんの」
「あれでも手加減してるんだけど」
「……うそでしょ」


 いつものような砕けた問いかけ。それに疑問を持たずにはいられないのだろう。彼女はジト目をして顔を上げた。けれど、彼は肩を竦めていたずらっ子のように言う。

 その発言に女性はサアッと血の気を引かせた。驚きを隠せないのも無理はない。気絶するまで愛されることなんて日常茶飯事なのだから。


「嘘じゃないって分かってるくせに」
「それはそうだけど……」


 ひょいと横抱きすれば、器用に靴を脱いでスタスタと部屋の中へと入っていく。濡れた靴下で歩く廊下を思うとため息が出るのか。それとも彼の言葉にまだ動揺しているのか。それは分からないけれど、女性は眉を八の字にして大人しくしていた。


「まあ、思う存分甘えさせてよ」
「……ずるいなぁ……もう」


 五条がたどり着いたのはもちろん、寝室。迷いもせずにベッドに彼女を横たわらせるとジャケットを脱ぎ捨てて覆いかぶさる。じっと見つめる青い瞳の奥にある孤独と熱に女性は悲しそうに微笑んだ。

 甘えるなんて言葉を使わない彼が、言葉にした。その事実に胸が苦しくなったのかもしれない。五条から与えられる熱を受けとめるように、彼の首に手を回すと二人はシーツの海に溺れていったのだった。



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