ひだりの薬指






 腕を組んで見下ろす硝子に居たたまれない気持ちになるのか。少女はただ黙ってそっぽ向いた。


「……この間、腕なくしたと思ったら、今度は指か」
「えへへ」


 深い、深いため息をついては呆れたように放たれる言葉。それに笑って誤魔化すことにしたらしい。彼女はいたずらっ子のように首を傾げた。


「えへへじゃない」
「ゆ、油断しました」
「全く……しかもよりによって左の薬指か」


 毎度毎度、治療する身になれば、冗談じゃない。そんな感情が湧き出たって仕方ないのだ。目を細め、バッサリと切り捨てれば、少女はしゅんとする。もう一度、胸に溜まった要らない空気を吐き出し、怪我した箇所に目をやる。それを見て硝子は痛々しそうな顔をした。


「よりによって?」
「将来結婚したら、はめるだろう」
「あー……ないから大丈夫」


 当の本人はあっけらかんとしている。言いたい意味が分からないのだろう。いまだに理解していない彼女に頭が痛くなってきたのか。硝子はこめかみにそっと指を添え、教えれば、納得したようだ。
 なんだ、そんなことか。そう言わんばかりに無事な右手でぶんぶんと空を切る。


「何を根拠に……」
「だって、私が相手なんてかわいそうなだけでしょ?」
「…………そういう問題じゃないだろ」
「いてっ」


 はっきりと言い切る彼女が不思議だったのだろう。硝子は眉根を寄せると、当たり前のことのように笑って少女は告げた。彼女にとって自分自身の存在は、価値がないと思っているのかもしれない。そうじゃなければ、そんな言葉は出てこないはずだ。

 硝子はどことなく、悲しい感情を覚える。けれど、それを表に出すことはない。出せば、少女が仮面をつけてしまうことを知っているから。だからこそ、心にあるそれを知らんぷりして、ただ呆れた顔をしてデコピンを食らわせた。余程、痛かったのか。グラッと後ろへ頭を下げて額に手を当てて痛がる。


「怪我しないように気を付ける癖をつけろ」
「そう言われても」
「治さないぞ」
「すみません、気を付けます。はい」


 手を貸せ、と言わんばかりに薬指をなくした手を引っ張った。でも、少女に反省の色はない。いや、怪我をしたいわけじゃない。ただ、弱いからどうしても怪我をしてしまう。その事実に言い訳をしようとするが、キッと睨まれた。
 硝子が治さなければ、誰も治してくれない。少女はコロッと態度を変えて大人しく、言うことを聞いた。

 そんな学生時代。まだ五条と付き合う前――夏油がまだいた頃の話だ。
 時が経つのは早い。それは歳を重ねるたびに早くなるのか。それとも、呪術師という特殊な職種についてしまったからこそ、思うのか。それは分からない。けれど、そんな思い出からもう十年の月日が経っていた。


◇◇◇


 ベランダから見える外は青々としている。快晴らしい。少し開いている窓から入る風は、カラッとしていて心地よい。
 呪術師は多忙だ。でも、今日はオフなのか。二人はソファに並んで腰を掛けていた。俗に言うおうちデートと言うやつなのかもしれない。


「……ねえ」
「うん?」


 五条はふと、目に入ってしまったものに目を凝らす。それはとても気に入らないとばかりに。それは声にも表れているが、彼女は何が何だかさっぱり分からないのだろう。キョトンとした顔をしていた。


「その指輪、何」
「あー……昔、任務でスパッと切れちゃったでしょ?」
「言い方……まあ、そうだったね」


 彼はムスッとした顔をして指差す。それは左の薬指にあるモノについて文句を言いたいようだ。やっと言わんとしていることが分かったのか。納得した顔をすると、付けている理由を語り始める。

 呪術師が身体を残して死ねるとしたら、マシな地獄だ。それを知っているからこそ、ツギハギみたいな身体になったとしても、あまり気にしていないのかもしれない。しかし、なんと他人事なのだろうか。平然と言ってみせる彼女に呆れたように肩の力を抜いた。


「最近よく見られて憐れまれること増えたからカモフラージュ」
「で、なんでその指にはめてんの」
「傷跡隠すためだから、仕方ないじゃん」


 呪術師として生きていても、非呪術師の世界にはいる。その中で指を見て、指を差されることもザラではないのだろう。だからこそ、誤魔化す道具なのだろうが、彼は納得できていないようだ。
 ふてくされた顔をして指輪を抜こうとする。その仕草に驚き、彼女は自身の手を引いた。


「つか、誰に貰った? 硝子?」
「自分で適当に買ったけど」
「……」
「ええ、拗ねちゃう? これもダメ?」


 大事なもののように庇うその姿に更に機嫌が悪くなる。五条が高圧的な態度で問いかけると、困惑したように答えた。

 誰かに貰ったわけでもない。自分で購入したと告げても機嫌が良くなることはない。それに驚きを隠せないらしい。彼女は眉を八の字にして顔を覗き込みながら、首を傾げた。


「全部初めてくれるって言ったじゃん」
「……ねえ、悟くん」
「何?」


 上目遣いで見てくる彼女を横目で、ぼそっと零す。それは付き合う時に言った彼の言葉だ。
 いまだにこだわっていることにもびっくりだろうが、彼女が驚いているのはそんなものじゃない。普通の女性だったら、この場面で言われてしまえば、勘違いしてしまうようなことを言っている五条に、だ。
 パチパチ、と何度か瞬きをして呼びかければ、いまだに拗ねた顔をした彼は声だけ返す。


「今のだと、左の薬指にはめてくれる流れになっちゃってるけど……」
「僕以外にはめさせる気だったの?」


 自分が言ったことの重大さを分かっていない。それに戸惑いながら、指摘する。けれど、自ら言うのは、どことなく気恥ずかしいのかもしれない。ほんのりと頬を赤らめている。だが、五条は彼女の言い方に不満を持ったようだ。左手をぎゅっと掴んで鋭い目を向け、問いかけた。


「そうじゃなくて……えーっと、あの、まるで結婚する流れなんだけど……」
「は? そのつもりなかったの?」


 どうして、そういう解釈になってしまったのかしら。
 ぽかんと口を開けて、そんなことを思う。けれど、ちゃんと訂正しないとややこしいことになるのは明白だ。だからこそ、勘違いしそうな言い方をしていることを指摘する。だが、それは勘違いでも何でもないらしい。

 何言ってんだ、コイツ。そう言わんばかりに険しい顔をする五条は無意識に掴んでいた手を強く握りしめる。


「……私で、いいの?」
「最初に言ったじゃん。全部ちょーだいって」


 長く付き合っていたとしても結婚まで考えていなかったのだろう。なんて言ったって、彼は呪術界の御三家の一つ五条家のご子息だ。きっと政略結婚とかしがらみとかあって、別れが来ると思っていたのかもしれない。思ってもみない展開にこれでもかというほど、目を大きく開いて瞳を揺らす。

 最初に言った言葉を信じていなかった彼女にショックだったのか。わざとらしションボリして見せれば、こつんと額を合わせた。
「わー……貰い手が現れると思わなかったから、びっくり」
 額に当たる重みとじんわりと伝わる熱が現実だと教え
てくれる。でも、やっぱりいまだに信じられないらしい。それは自分なんかをもらう人がいないと思い込んできた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・からだろう。ある意味、無意識にかけていた自分自身への呪いと言っても過言ではないのかもしれない。
 そんなことは本人が気付くことはない。とても近くにある整った顔をポカンと見つめていた。


「え、むしろ、僕に貰われないって思ってたのに驚きなんだけど」


 ほころんだ顔を見せるかと思えば、違う反応をする。しかも、そこの意思疎通ができていなかったことに衝撃を隠せないようだ。半目になっている。


「だって、……ふふ、そっか」
「……まだ結婚は出来ないけど、するよ」


 結婚なんて諦めてた。そんな言葉を言おうとしたけれど、飲み込む。それは相手にいくらなんでも失礼だ。余計な誤解も生むかもしれない。ただ、もらった気持を喜ぶことにしたらしい。嬉しそうに微笑んだ。
 やっと見たい顔が見えれたのかもしれない。五条もつられるように優しい表情を浮かべて掴んでいた手を緩め、指を絡ませながら、告げる。いつかの約束、を。


「悟くんは魔法使いだね」
「僕、呪術師だけど」


 絡められる指にぎゅっと握り返しながら、合わせていた額を離して彼の胸へと寄りかかった。
 色んな呪いを周りからかけられ、自分でもかけてしまっていた。それをいつも解くのは五条なのだ。それに胸があたたかくなるのか、ぽつりと零すと五条はキョトンとした顔をする。


「知ってるよー……じゃあ、プロポーズされるの待ってるね」
「その前に明日、買いに行こう」
「何を?」
「指輪」


 誰もが知っている事実をわざわざ言うあたり、彼らしい。そう思えば、笑みが自然と零す絡めていた左手をほどいて、小指を前に差し出した。子供のようなやり取りに表情を緩ませ、五条もまたその小指に小指を絡めると唐突に提案をする。しかし、約束とはまた別の話になっている気がしたようだ。彼女はこてん、と首を倒す。絡めた指を離して左手を掴むと、薬指にはめられているモノをゆっくりと外した。


「自分で買ったのもダメの?」
「当たり前でしょ、左の薬指は僕のだし」


 指輪が外れ、露わになる痛々しい傷の痕。しかし、それよりも指輪を外された。その事実に驚きを隠せないらしい。唖然とした顔をすると彼は真剣な顔をして言うって、傷跡にそっと口づけした。


「なんかそれって婚約指輪みたいじゃない?」
「それじゃダメ?」


 チュッ、というリップ音にぶわっと熱が上がる。けれど、映画のワンシーンみたいなのを見た感覚が強いのか。ポカンと口をあけたままだ。ハッと我に返って問いかければ、問いかけ返されてしまう。


「……じゃ、悟くんに選んでもらおーっと」
「任せてよ」


 そんな彼の気持ちが嬉しいのだろう。照れくさそうに、花を咲す彼女に五条は自信満々に微笑んだ。


「いつも、いっぱいありがとう」
「何が?」
「……あったかい気持ちをくれて」


 ぽかぽかとあたたかい気持ちに、自然と感謝の言葉が空気に響く。けれど、何に対してなのかが分からないようだ。彼は彼女を抱き寄せながら、聞くと肩に頭を寄せて答える。
 最初はそうじゃなかった。でも、本当の自分を見つけて、分かってくれた日から感謝しない日はないのだろう。彼女は目を閉じてくすっと零した。


「あげたっけ?」
「もらってるよー……幸せだなぁ」



 彼はあげたつもりがないらしい。思ったことを言っているだけだからかもしれない。疑問符を浮かべる五条に、甘えるように手を重ねて、ポツリと呟いた。


「……少し、分けてよ」


 にやりと、人の悪い笑みを浮かべて顔を近付けてくる彼はズルい人間だ。でも、彼女はそんな彼も好きなのだろう。どんどんと近づいてくる顔に、唇に、身を委ねるように受け入れたのだった。



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