それは、飛んだ日常に降ってきた非日常とも言える出来事である。
―何の驚きも無いような、極々普通の平凡な日々を送っていた律子。
日がな仕事に追われる忙しい日々を過ごしながらも、休みの日には趣味に没頭したりと、充実していたのは確かであった。
そんな彼女の今日は、もう仕事の帰りなのか、暗くなり始めた道を歩いていた。
彼女が居るのは、これまた何処にでもあるような田舎町の風景である。
家路のすぐ側には山があり、線路がある所だ。
そんな田舎町の道を疲れた身体をずるずると引き摺りながら歩いていた。
『―あ゙〜っ、今日は疲れたなぁ…。本当、世の中社畜辛い。マジ辛い。何で日本人って仕事ばっかしてんの?仕事中毒(ワーカーホリック)もいいとこだよ。少しは外国見習えっての…。欧米(ヨーロッパ)とかは休み多いし、シエスタとかあって効率良いし、のんびりしてんじゃん?何で日本はそれが無いんだ。マジ社畜だよ…。』
帰路に着きながら「はぁ…っ。」と溜め息を吐く。
盛大な溜め息と愚痴だったが、周りには誰も居ないので気にしない。
ふと見上げた空には、既に月も昇っており、おまけに出て来るのが早い星達は姿を見せ始めていた。
緩やかに吹く風に流されてゆく雲は、薄くその身を伸ばし、鱗状の帯を広げている。
気温も、ここ最近は暑さが身を引きつつあるのか、随分と涼しげになったものである。
季節の移ろいは早い。
あんなにも暑かった夏から、今や涼しげな空気を纏わせる秋になろうとしている。
(―嗚呼、もうそんな季節なのか。刻とは流れるのが早いものよなぁ…。)
少しばかり爺くさい喋り方で思い浮かんだ言葉を心の内で呟く。
「ふん…っ。」と鼻息を零し、上向けていた頭を正面へと戻す。
そこで、あるものを見かけた。
真っ白な毛玉である。
薄暗くなってきた道端に転げる毛玉は、恐らく、近くで飼われている猫か。
はたまた、辺りを棲み処としている野良猫か。
(ま…っ、どうせ逃げられちゃうか、見向きもされないだろうけど。)
ちろり、と視線を向けるに留めて、側を通り過ぎようとした。
が、相手はそうは思っていなかったらしく、丸めていた身体を起こし、此方を顧みた。
ぱちりと合った視線。
ガッツリと交わってしまった。
互いが見つめ合う事、数秒間という短い時間はあっという間に過ぎ去っていった。
『………や、やぁ、こんばんは…?』
ぎこちない笑みを浮かべて口を出た言葉は何とも可笑しな台詞だった。
(いやいや、動物相手に“こんばんは”は無いだろう…!何挨拶しちゃってんの自分!?馬鹿なの!?阿呆なの!?うん、そうだね!馬鹿だし、阿呆だね!!つか、獣相手に何見つめ合っちゃってんのさ…!?普通そこは目を逸らすとこだよね!?って言うか、猫はじっと見つめられるのが嫌いなの知ってんじゃん…っ!!)
内心、阿呆な対応をしてしまった自分に対し、猛烈なツッコミを入れる律子。
一人混乱をする律子だが、その間も目の前で大人しくする猫は、ただ此方をジッと見つめていた。
彼女がどう行動に移すのか、様子を窺っているのだろうか。
何だかその視線に居た堪れなくなり、一瞬の後に視線を逸らすと。
その猫は立ち上がり、此方へと近寄ってきた。
『えっ?何々…嘘でしょ?来ちゃうの?こっち来ちゃうの…!?駄目駄目駄目駄目!!幾ら猫好きだからといって、仕事帰りの今もふったりしたら手ぇ汚れちゃうから!帰り遅くなっちゃうからっ!だから…っ、普段は望んでも寄って来ない癖に来ないでぇーっっっ!!』
そう言っている側から、足元に擦り寄って来た真っ白い猫。
グリグリと愛らしく頭を摺り寄せられれば、身動きが取れなくなってしまう。
『あ゙あ゙あ゙!!やめてぇ!私を誘惑しないでぇーっ!!』
アワアワと焦りながら、足元に寄る猫を退かそうともがく。
しかし、猫はあざとくも此方を翻弄し、猫好きのツボを押しまくっていく。
つまり、一向に離れてくれる気配が無い。
何故ゆえ、今なんだ…。
仕事で疲れている為、出来る事ならさっさと帰宅したいところなのだが、こうも懐かれてしまってはどうしようもない。
ものの数分の葛藤で敗北し諦めた律子は、「ちょっとの間だけ…!」と言い訳がましい台詞を心の内で漏らした後、その場へ屈み込み、柔らかな猫の背を撫でた。
『ふあ〜…っ!癒されるっ!!もう、何でこんなにもふもふなの!?私を骨抜きにしたいの!?可愛い奴め…っ!』
仕事で疲れていた所為もあるせいか、些かタガの外れた言葉を発する。
辺りに誰も居らず、時刻が夜を指そうとしている事からか、若干の気の緩みである。
少しの間、ふわふわとした毛並みを堪能していると、煩わしく思ったのか。
猫は抱いていた腕の中からするりと抜けると、タタタッ、と何処かへ走り去って行った。
『あっ、待って猫ちゃん…!もうちょっとだけ…!』
小さな温かい温度が腕の中から無くなると、途端に寂しく感じた彼女は、先程まではあんなに躊躇っていたのに、今やすっかり帰宅途中である事も忘れ、去ろうとしていく猫の後を追った。
その時、一瞬だけ、白い毛並みの猫は、彼女の事を待つかのように動きを止めて振り返った。
それは、数秒とも数えられないくらいのほんの一瞬にしか過ぎなかったが、確かに白い猫は彼女を見た。
そして、ゆらりと尾を揺らし、すぐに前を向いて走り行く。
その後をまるで引き寄せられるように、誘われた彼女は猫の背を追う。
気付けば、木々の合間へ入り込んでおり、光源は僅かな月明りが届く程度で薄暗くなっていた。
不意に、猫の後ろ背がぼやけて、姿を見失う。
追っていた律子の身も忽然と姿を消すように、揺らいで見えなくなった。
近くにある線路の遮断機の音がやけに大きく鳴り響くのだった。
―とある草原にて、ある女性が横たわっていた。
それは、先程猫を追いかけていた筈の女性である。
彼女は眠っているのか、目を閉じている。
ふと彼女の近くに、黒い毛並みの猫が歩み寄った。
ふんふんと彼女の匂いを嗅ぎ、彼女の顔に擦り寄る。
毛が当たるこそばゆさに身動ぎした律子は、目蓋を震わせ、ゆっくりとその瞳を開いた。
耳に届くのは、自分の呼吸する音とそよぐ風の音だけ。
側に居る猫の身を潰さぬよう、寝ていた身体を起こすと、辺りを見回す。
木々と草花しかない、夜が近付く自然の景色の中だった。
(はて、一体いつ私はこんな所に来てしまったのかな…?)
そう思わずにはいられない光景が目の前に広がっている。
明らかに、自分が居た筈の田舎町の風景ではない事を脳内が理解する。
少し冷たく感じる夜風が、今、頬や髪を撫でて通り過ぎていった。
「にゃぁ…っ。」
側に居た猫が小さく鳴いた。
そちらを見やれば、追いかけていた猫とは正反対の毛並みの色をした、真っ黒い猫が鎮座していた。
ジ…ッ、と此方を見て、彼女が動くのを待っているかのようだ。
ふと、自身の手元に近い場所に、刀らしき物が転がっている事に気付いた。
否、それはまごうことなき本物の刀で、長さからして、恐らく短刀であろう。
何故、こんな所に刀が…?
そんな疑問もさる事ながら、顔を上げた先である物に視線が留まった。
ひっそりとその場に存在する小さな祠だった。
何かを祀っていたのか。
解りかねるが、確かに此処は、自身の見知らぬ土地である事だけは解るのであった。
執筆日:2016.10.23