神様の番

人里離れた処に、彼等の棲まう土地は在った。

其処は、決して人の子が立ち入る事は出来ないとされる土地である。

時折、祭りに混じって迷い込む、若しくは、拐かされる事はあるだろうが。

其の地は、人が暮らす地から隔離された、神等が集い暮らす領域であった。

つまり、其処は隠世…現世に限りなく近い場所に在りつつ、しかし、現世とは異なる、謂わば妖等といった人為らざる者達の棲み処なのであった。

其の地に、或る日、人の子が足を踏み入れるのである。

其の者と其の者に纏わる或る者の事を、各神等は語る。


―或る一つの月が満ちたりし日に、彼奴は、とある人の子を連れ帰ってきた。

隠世に人の子等連れてきてどうするつもりか、気紛れに神隠しでもする気で拐かしてきたのかと思い、何故か上機嫌な様子の奴に胡乱気な視線を向けて見た。

奴にまるで幼児のように抱かれた人の子を見てみたら、其の者は、此処最近奴がご執心な様子で憑いていた者だった。

一欠片の想いで気に入られ、拐かされるまでの運命に至った憐れな人の子。

其れも、まだ穢れも知らぬ無垢な純粋の生娘とは、ただ単純に少しの思いで件の話に肩入れしたとは到底思えない。

余程娘に気でも湧いたのか、心底ご執心といった様子らしかった。

…まぁ、己には関係の無い話な上に、興味も無いが。

ただ此の地に厄介事を持ち込む事と面倒事に巻き込む事だけは止めてくれよ、と願うだけだ。

奴は、既に奴の手で半分人の子でなくした者を大事に抱えながら、上機嫌な声音で帰還の口上を述べた。


「やぁ。ただいま、伽羅ちゃん。君がお出迎えしてくれるなんて、珍しいね…?ありがとう、気分も相俟って嬉しいよ。」
「…勘違いするなよ。俺は、偶々此の入口付近に居ただけであり、アンタの気配以外の別の気を感じたから、怪しんで様子を見に来ただけだ。…其れ以上の理由は無い。」
「ふふふ…っ、相変わらずつれないね、君ってば。…まぁ、良いさ。今日の僕は、頗(スコブ)る機嫌が良いからね…。ちょっとした小さな事なら、許してあげるよ。だから、何時もなら小言の一つや二つを零すところだけど、言わないでおいてあげる。」
「…別に、小言を言われたぐらいで、自分の性格を変えようだなんて考えたりはしない。俺は、俺だ。アンタに指図される覚えは無いね。」
「あらら…また出ちゃったよ、何時もの馴れ合わない発言。せっかくの君との初顔合わせだったのに、印象悪くなっちゃったかな…?」


目の前の面倒くさい神は、大して気にしていないような素振りで腕の中に居る者に顔を向けた。

腕の中で大人しく抱かれた片目の光を失った人の子は、ぼんやりと此方に見える方の片目を向ける。

其処で、ソイツとは初めて目を合わせた。

緩やかに瞬きをした、俺達と同じ色をした金の目が真っ直ぐに交わる。


『……此の神様も、光忠と同じ神様なの…?』
「そうだよ…。僕や僕の友達の貞ちゃんと同様、龍を司る龍神様なんだ。名前は大倶利伽羅と言ってね、ちょっと素っ気ない感じの態度だけども、僕達と同じく、此処等一帯を守ってる優しい神様なんだよ?」
『光忠と同じ龍神様なんだ……っ。』
「そうさ。だから、彼の頭の上を見てごらん…?僕と一緒で角が生えてるだろう?それに、彼は僕と違って、格好良い紋様があるんだ。何時か、今よりもう少し仲良くなった暁に見せてもらうと良いよ。人型を取っている時の左腕、凄く格好良いんだ。」
「…おい、光忠……っ。」


俺が咎めるような視線を向けた先で、奴はへらりとゆるゆるに緩んだ顔を向けた。


「嗚呼…勝手に紹介したのが気に障っちゃったかい?其れは、ごめんね、謝るよ。」
「いや、そうじゃなくて…。アンタ、ソイツに真名を教えたのか…っ?」
「嗚呼…、そっちか。うん、勿論教えたよ。だって、彼女は僕の愛しい子だもの。彼女は、僕の番にするって決めたんだ…!」
「……は?番、だと…?」
「そう、番だよ。神様、其れも、龍神の番。結構前から相応しい子は居ないかって探してたんだよね…。で、やっと見付けたから、合意も得た上で此方の領域に連れてきたのさ。元々、彼女は普通の子ではなくてね…周りの者に忌み嫌われてたみたいなんだ。だから、特に苦労する事無く、神隠しするまでも無く連れてこれたんだよ。…まぁ、ちょっと前に彼女の事を傷付ける不届き者な輩が居たから、ソイツ等を懲らしめるのに少し手を焼いたけれどね…。なかなかに図太い神経をお持ちだったようだから、つい苛々しちゃったよ。」


後に続けた話は、件の話についての事だろう。

笑顔で笑って言うが、言っている事は恐ろしい。

この男、怒らせると本気で面倒であり、本当に末恐ろしい奴だ。

妖しげに笑んだ瞳の奥は、何時の日か見た瞳と同じで、笑っていない。

しかし、拐かされた身でありながらも、恐がりもせず、有りの儘受け入れる娘も変わっていた。

言ってしまえば、狂っていた。

彼女は、人としての人生を奪われ、更には人でもなくなり、片目の光さえも奪われても尚、笑っていた。

まるで、奴に見初められた事が本当に嬉しいかのように…。


「彼女も、此れからは僕達の仲間であり、家族だよ…。名前はね、奈乃って言うんだ。彼女らしい、可憐で可愛い名前だろう…?」


光忠の奴が、腕の中に抱いたソイツを愛おしそうに撫で、笑む。


『…不束者ですが……どうぞ宜しくお願い致します。』


ペコリ、と律儀に頭を下げて礼をしてきた奴の目は、人の目ではなかった。

…其れが、俺と奴との直接的な出逢いであり、変な縁を結ぶ事になった時の話である。

俺は、特別奴に関わろうなんざ思わないんでね。

下手をすれば、彼奴の怒りを買い兼ねない。

厄介事だけは御免だ。

よって、此れ以上語る事は無い…。

もっと聞きたいとかなら、他を当たってくれ。


其れは、とある龍神と或る神に懐かれた人の子と相見える咄だった。


―或る晩の夜、やけに目が冴えて全く眠れる気がしないと、珍しく起きて驚きを探し歩いていた時の事だ。

人里離れたこんな地に、しかも、光もまともに無き夜中に隠世を彷徨う人の子を見付けたんだ。

ソイツは、まだ穢れも知らなそうな純粋な生娘で、片目の見えぬような娘だった。

暗き夜な上に片目でよく見えぬ視界の中、よたよたと不安定な足取りで歩く娘が気の毒に見えて、俺はつい近寄っていったのさ。

憐れみでも湧いたのか、興味本意で近付き、こんな処に迷い込むとは可哀想だと、せめて現世の入口にまで案内してやろうと親切心で声をかけた。

そしたら、ソイツは、ただの生娘ではなく、見知った仲の龍神である光坊の印を持った娘だった。

聞いてすぐに解ったが、どうやら、娘は、風の噂で聞いていた光坊の番らしい。

取り敢えず、ふらふらと覚束無い足取りで歩いているもんだから、俺は手を貸してやったのさ。

親切だろう…?


「こりゃ、驚きだ…っ。偶々目が冴えて眠れずに辺りを彷徨っていたら、光坊の番の娘に逢えるとはな…!いやはや、噂には聞いていたが、本当に嫁さんを娶っていたとはなぁ〜。光坊も、漸く納まる処に納まっちまったか…?ところで、君、奈乃と言ったか…こんな夜更けに何処に向かってるんだい?」
『私…棲み処へ帰ろうとしていたんです。トイレに行きたくなったので、少し離れた厠代わりの処まで歩いていってたんですが…まだ片目だけの視野に慣れていなくて、よく見えなくて。』
「という事は…元は両目とも視えていたのかい?」
『…はい。龍神様…、光忠と此方の世に来てから片目が視えなくなりました。ので、まだあまり慣れていないんです。おかげで、偶にこうして一人で出歩くと、道に迷ってしまう事があるんですよね…。困ったものです。』
「成る程…そういう事だったのか!そいつは不便だな…。…よしっ、久々に光坊の顔を拝みに行くついでに、君の家まで案内してやろう…!さぁ、俺の手に掴まりな?」
『ありがとうございます、助かります。……えっと?』
「嗚呼、ついうっかりしていて名乗るのを忘れていたな。俺の名は、鶴丸国永と言う。鶴の化身の神さ。まぁ、爺な奴だが、宜しくな!」


そうして俺は、気紛れな親切心で、此処で出逢ったのも縁だと彼女等の棲み処だろう家まで送ってやったのさ。

送ってやった先で久方振りに逢った光坊の狼狽え様は、そりゃあ凄まじかったぜ?

何せ、ただでさえ白い顔を真っ青に蒼白にさせていたからな。

ありゃあ、面白かった…!


「奈乃…ッ!何処に行ってただい!?凄く心配したんだよ…っ!?」
『…ごめん、光忠…。厠に行きたくなったから、目が覚めちゃって…。厠行くだけに起こすのも悪いと思って一人で行ってたら、暗くて片目だけじゃまだ慣れてないから…戻ってくるのに時間かかっちゃった。』
「もう…っ、起きたら隣に居ないから、心配したんだよ…っ!?次からは、厠に行くだけでも何でも起こしてね!別に、寝てるところ邪魔するから悪いだなんて考えなくて良いから…!君に何かある方が怖いんだから…っ!!夜は良くない者や怖い奴なんかがウヨウヨ彷徨いてて危ないんだからね!喰われたり拐かされたりされなくて、良かった……っ!」
『ごめんなさい…次からは、ちゃんと気を付けるようにするね?』
「…うん、解ってくれたなら良いんだよ。それよりも、本当に無事に帰ってきてくれて良かった…ッ。」
『心配かけてごめんね。それと…ただいま、光忠。』
「うん…おかえり、僕の大切な奈乃。もう、僕から離れちゃ駄目だよ…?」


血相を変えて出迎えた光坊は、そう言って彼女をきつく抱き締め、まるで二度と離さないとばかりに顔を擦り寄せた。

あの光坊が此処まで惚れ込んでるとは思いもしなかったから、驚くのも無理はないよな…。

一頻り満足したところで、光坊は漸く俺の方を見た。


「それで…鶴さんは何で此処に居るのかな?」
「逆に今まで気付いてなかった事に俺は驚きだじぇ…。」
『鶴丸さんは、よく視えなくて迷ってた私を此処まで連れてきてくれたんだよ。』
「何だ、そうだったの?それはありがとう、鶴さん…!おかげで、奈乃が誰にも襲われずに帰ってこれたよ!」
「まぁ、よく視えずにふらふらと彷徨い歩いているところを偶々見付けたってだけだったんだがな。その相手が、光坊の嫁さんだとは思いもしなかったが…!まさか、こんな月夜に光坊の嫁さんと逢えるとはな…。いやぁ、なかなかの運の良さだぜ!!」
「ふふふ…っ。そういえば、こうして顔を合わせて逢うのは久し振りだったね。ちょっぴり心配事のあった月夜にこんばんは、鶴さん…?相変わらず元気そうで何よりだよ。」


久方振りに逢ったが、相変わらずの息災で何よりだと思ったよ。

彼女への溺愛振りには、度肝を抜かれたがね。

その後、俺が其の場に居るにも関わらず仲睦まじく在ろうとするから、その時ばかりは空気を読んで帰らせてもらったよ。

次に逢った時は、とっておきの驚きを持って出直させてもらったがな…っ!

それから暫く、彼女が片目の生活に慣れるまでの間、度々世話を焼いたのさ。


其れが、彼の者と彼女の出逢いであり、彼の者が初めて彼女の世話を焼いた日の咄である。


―或る者を慈しみ大事にする神の周りに居る神も、また、変わり者ではある。

だが、彼等を中心に廻る世界は賑やかだ。

良い意味でも、悪い意味でも…。


「…ふむ、こんな咄も面白いかと思って聴かせてみたが…どうだったかな?ちょっとした暇潰しには、良い咄だっただろう…?まぁ、少し前に話した咄の余談みたいなものさ。君は、あまりお気に召さなかったか…?それは、すまなかったな。…では、また今度逢えた時は、別の咄をしてやろう。」


深き緑の瞳が静かに閉じられる。

ふいに、何処かでぱたりと書の閉じる音がした。

窓辺で風が吹いて、カーテンが揺らめく。

誰も居なくなった部屋の外の庭木で、鶯が鳴いた。


執筆日:2018.11.12
加筆修正日:2019.08.19