体温




 とある昔の記憶だ。
 或る冬の日に触れた彼の手が、とても冷たかった。外でずっと鍛練をしていたから当然と言えば当然であった。でも、生きた血の通った人間にしては低過ぎる体温に、眉を潜めた事は確かだ。
 その事を指摘したが、彼は憮然とした態度を崩さずにこう告げた。
「私の手が幾ら冷たかろうと、貴様には関係の無い事。鍛練の邪魔だ。離せ。邪魔立てするならば、即刻斬り刻むぞ」
 鋭利な瞳でそう宣った御方だったが、その瞳は何処までも真っ直ぐで純粋な色を宿していた。私は、その色を眺めるのが好きだった。


 ――時は流れて、現代。
 奇しくも同じ時を生きる者として再び巡り合わせた私達は、何の因果か、不思議と惹かれ合って。気付けば想いを交わす仲にあった。
 そうして更に時は流れ行き、一つ屋根の下で共に暮らすようになった、或る夏の日の事である。
 エアコンのよく効かせた部屋で電子書籍を読み耽っていると、不意に隣へやって来た彼の足と私の足とが触れ合った。途端、私の体表温度の低さに驚いたらしい彼がギョッと目を剥いて私の腕へ掴み掛かる。
「なっ……!? おい!! 何だ、この冷たさは!? 随分と冷え切っているではないか!!」
「えっ、そんなビビる程だったん? 御免、気付かなかった……」
「そうではない! こうも肌が冷える程、何故曝したままにしていたのかを訊いている……っ!!」
「何故も何も、暑かったからそんまま露出してただけですけど……?」
「風邪を引いたらどうするつもりだ!?」
「そんな是式これしきの事で風邪引く程柔じゃないわよ〜」
「そうやって油断して己を過信するからお前はすぐに体調を崩すのだ!! 女が体を冷やすのは大敵と聞くぞ! 分かったなら早く何か羽織れ!! さもなくば私を頼れ!!」
 声を荒げてまで心配し促す彼に、取り敢えず引っ付いて体温を移してもらう事で許しを乞う。すると、あっさりと受け入れるのだから、時の流れというものは末恐ろしい。其れだけ彼も変わったという事なのだろうか。
 嘗ての彼を思い出しながら懐に擦り寄っていると、何かを察した彼が此方を覗き込みながら問うてくる。
「何を考えている……?」
「ん〜? 前世の記憶って言ったら良いのかな……。今と昔とじゃ、立場が逆になっちゃってるなぁ〜と」
「其れはお前のせいだろう。夏場だと言うのにこんなに冷たく冷えた体をしているのだから……っ、少しは心配する私の身にもなれ」
「私のは単なる冷え性によるものですんで問題無いで〜す。そもそも、今の台詞完全ブーメランなの分かってる? いつも限界まで働き詰めになるのは、何処の何方ですかね〜?」
「むっ……今はお前の話をしているのだろうが。話をすり替えるんじゃない」
 常なら彼の方が体温が低いのだというのに、今はエアコンの冷風によるものか、私の方が冷たくなってしまっているらしく。少し暑苦しいくらい強く抱き締められて、ちょっと困った。けれど、現状の此れは彼の愛情の裏返しである事を分かっているので、大人しく受け身で居る。
「ちゃんと生きているな……」
 彼は時折、こうして不安になる事が多々ある。その時は大抵、嘗ての記憶が脳裏を過るのだそう。戦乱の世に生きていた頃の記憶だ。
 あの頃は、血が通っている筈なのに其れを感じさせない事は、生きた心地がしないものと思われていた。嘗ての私から見た彼がそうだった。何時いつ触れても低く冷たい体温しか示さぬ肌に、本当に生きているのか不安になったものだ。故に、定期的に確かめるように触れていたのだが……。今は、すっかり立場が逆転してしまっている。
 人の子らしく育った彼は、嘗ての鋭く尖った険を少しばかり和らげたように柔らかくなった。端的に称して、丸くなった、とでも言えば良いだろうか。
 兎に角そんな感じで、嘗ての彼とは真逆に過保護な性格となってしまったのだ。まぁ、過保護なところは昔から変わらぬと言えば変わらぬようなものだが……。
 エアコンの風で冷え切った腕を掴んで、掌へと頬を寄せる彼を見て思う。
(随分と甘くなったものだなぁ……)
 その視線を受けてか、チロリ、此方を上目で見遣った彼が口を開く。
「何だ、何やら物言いたげな顔だな? 今この時ばかりは許可してやるから、早く言え」
「何かこうしてるのが擽ったいなぁ〜って、思っただけだよ」
「回りくどい言い方は好かん。直球に述べよ」
「嘗ての頃を思うと、こんなに優しくしてもらえるのが嬉しくて仕方ないなぁーって事だよ」
「う゛っ……其れは、その……すまん…………っ」
「別に責めてるとかっていう訳でも無いから謝らないで。三成が人の温かみを知って、其れを他人の私にまで与えてくれようとしてくれてる事が嬉しいんだから」
「……其れを教えてくれたのは、他でもないお前自身であろう。あと、此れだけは訂正させてもらうが、お前は“他人”等と言う枠組みには入っていないからな。お前は、秀吉様や半兵衛様お二人とは別の特別な感情で慕っている……其れを間違えるな」
「えっ?」
 甘えるように私の肩へと顔を埋めてきた彼の呟いた言葉が聞き取れず、聞き返す。すると、先程とは異なり、きちんと加減した力で抱き締め直された。そして、よく聞こえるようにと改めて耳元で囁かれる。
「他の誰でもない、其れを私に教えてくれたのはお前だという事だ、律」
「そう、なんだ……?」
「何故其処で疑問系となる?」
「いや、だって……他にも、秀吉公や半兵衛様とか、刑部だって居たから……? 自分なんかの影響とは塵の一つも思ってませんでした……っ」
「ほぉ……貴様、私の愛を疑うと申すか? これ迄も散々伝えてきたつもりだが、まだ足りんとするか。良いだろう。貴様がもう良いと言うくらいになるまで言い募ってやるから、その耳かっぽじってよくよく拝聴するが良い。拒絶する事は許さん。貴様が私に愛されている事を自覚するまで何度だって言葉を重ねてやる!」
「え゛っ、いや、今は謹んで丁重にお断りしたいかな〜……なぁんて、嘘々……っ、冗談だからおちけつ……ッどわ!?」
 そうこうしていれば、そのままソファーの上で組み敷かれて、端末を取り上げられた。まぁ、とっくの昔に読書は止めにしていたのだけれども。諸々が気に食わなかったらしい彼が、元より鋭利な目をギラつかせて吠える。
「私の言っている言葉が聞こえなかったか? 今一度言うぞ。私を拒む事は、何があろうと絶対に許さん。其れと、私は嘘と裏切りがこの世で最も嫌いだ。よって、罰として、お軽いジョークとやらでこの場を濁した責任を取って、私に抱かれろ」
「ちょまっ……!?」
「待たない。私の前で無防備を曝した罪だ。観念して、大人しく抱かれていろ」
 最早滅茶苦茶な理由だ。こじつけも良いところじゃないか。しかし、そんな文句を言う隙は、口吻で塞がれた事で無くなってしまった。何処でスイッチが入ってしまったのやら。
 冷たく冷え切った肌に、熱い掌が押し当てられる。触れられた箇所から伝染するように、私の肌も次第に熱を灯していく。
 嗚呼、何時いつの世も人肌というものは温い方が安心するらしい。季節が何であれ、互いの温度が混じり合った先で得られる幸福は何物にも代え難いものなのだから。


執筆日:2023.08.05
公開日:2023.08.06

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