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お狐様の引き手



日々の時間という時間を多忙な仕事に全て費やし、心休まる時間も無く時間の流れに急き立てられるように躰を動かし続けていた、或る日、私は酷く体調を崩した。

仕事をして働いていれば時に躰を壊す事はあるだろうと、嘗て就職する時に覚悟はしていたが…それは、思っていた以上に長引き、シフトに穴を開けてしまうというプレッシャーに常に悩まされ、心休まるものもちっとも休まらずに神経を磨り減らしていた。

そうなれば、治るものもなかなか治らない上に、時間だけが無為に過ぎていくようで、尚更、気は逸り焦るばかりだった。

故に、完治にはまだ早い状態で仕事へと出た。

しかし、休んでしまった期間が長かった分、ブランクは大きい。

きちんと毎日出勤出来ていた時と違って、些細な事でミスを起こした。

まだ本調子でないと分かっていても、上司に何を言われるか分からない、仕事場の人に悪く思われたくないと気にし過ぎて、本音はそっと心の内へ押し隠した。

そうしていた或る日、あまりにも顔色が悪いのと、ミスが多過ぎて使い物にならないと判断されたのだろう。

何の脈略も無しに突然休暇を言い渡された。

それは、事実上の宣告であり、干されてしまったという事である。


「せっかく有給取れたんなら、何処か遊びに行ってくれば良いんじゃない…?ちょっとした旅行とか、気晴らしになると思うよ?」


心配した姉が、電話越しにそう告げてきた。

私も姉も元々躰はあまり丈夫な方ではない。

それでも、お互い仕事をする身であるのだが…。

その分、理解してくれているのか、今までの仕事の多忙さで疲れ切った心身への労いと、磨り減って荒んでしまった心の安らぎの為を思って提案してくれた。

私は、それをただ受け入れるように頷き、電話を切った。

それから私は、自身を縛り付けるような家から離れ、地元より遠く離れた土地へ、少しの荷物を持って出掛けて行った。

きっかけは、姉の一言。

然れど、運命というのは偶然。

丁度、小学生の頃から親しい友人がミニ旅行に行くとの事で、「良かったら一緒に行かないか?」と誘われ、付いていく事にしたのである。

行き先は、京都…伏見の辺りだった。

狐の神様が奉られる、伏見稲荷神社があったりと、観光地としては有名な場所だった。

私自身、いつかは行ってみたい所だと、何時もTVを見ては憧れていた。

それが叶うのだと思えば、はしゃいでしまうのも無理はなかった。

普段押し隠していた感情も、その時ばかりは枷が外れたように出ていた。

抑え付けていた分、気持ちは溢れ、留める事を知らない。

解放された感覚に胸が躍り、普段の鬱々とした日々を忘れ、愉悦感に浸った。

旅館に泊まれば、せっかくだと浴衣を纏い、美味しい料理を口にする。

温泉があるならば、湯に浸かり、心の穢れをも洗い流すように心身の疲れを流した。

お腹も心も幸せに満たされて、久方振りに気兼ねなく笑った。


「ねぇ、明日は神社の辺りを散策してみない?お茶屋さんとかちょっとした喫茶店とか、美味しいお店いっぱいあるみたいだしさ…!きっと、お土産屋さんも其処ら中にあると思うから、家族へのお土産や自分へのお土産、いっぱい買っちゃおう?」


薄ぼんやりと灯りを点けた枕元にて、友人である椋野京華むくのきょうかはそう言った。

そうだね、それは楽しみだ、と。

抑揚の少ない声音で返した私は、僅かに口角を上げて笑った。

付き合いが長い仲だから分かる彼女は、明るい声で「じゃあ、また明日!おやすみぃ〜っ。」とスマホを閉じて、布団に潜った。

私も「おやすみ。」とだけ短く返し、布団を被る。


(明日も楽しい一日になりますように…っ。)


そう願って目を閉じた。


―翌日、早めの時間に出掛け、昨晩言っていた通り、神社の辺りを散策してみる事にした。

綺麗で美味しそうな和菓子屋があれば、迷わず立ち寄ってみたり。

可愛いお土産が売ってある土産屋の前を通りかかれば、足を止めて見てみたり。

お腹が空けば、近場の店へと立ち寄り、その土地の物を使った美味しい料理を食べてみたり。

歩き疲れたならば、茶屋に入って一服してみたり等々…。

今までの忙しい日々からは掛け離れた、無駄に余計な気を張る事も無い緩やかな時間を過ごした。

友と来た事もあり、一人では寂しくて出来ない事も友と居れば共有出来る。

そうして、二人で彼方此方あちこちとたくさんの場所を巡り、たくさんの写真を撮って回った。

このミニ旅行のお目当てである伏見稲荷神社へと参拝すれば、記念にと社務所の土産売り場に立ち寄り、可愛らしくもきらびやかな狐を模した御守りを買った。

小さくも、掌に収まるサイズ感が可愛くて、一目で気に入ったのである。

謂わば一目惚れのように購入した物だ。

珍しくも、黒狐と言われる、黒いお狐様をした狐だったのに惹かれたというのもある。

暫く、境内や近くを散策し、二人で見て回っていたのだが…。

観光名所な事もあり、平日にも関わらず観光客で溢れ、人がごった返していた。

なるべく、はぐれないようにと側に付いて注意していたにも関わらず、私は友人の元からはぐれ、離れてしまった。

見慣れぬ周りの景色や近くの店に気を取られて、歩みが遅くなっていたのが原因だろう。

気が付けば、辺りは人気が少なく、何本もの鳥居が並ぶ場所まで来ていたのだった。


『京華?京華ぁー…っ!』


友の名を呼んで辺りを見渡すも、友人の姿は何処にも見当たらない。

完全にはぐれてしまったようだ。

道行きは、完全に彼女へと任せ切ってしまっていたのも原因の一つだろう。

スマホを持たぬ私は、携帯で現在地を探ろうにも当てにならない。

仕方なく、手持ちのハンドブックから地図を出して、現在地を確認しようとした時だった。

チリン…ッ、とした凛とする鈴の音が響き、バッグの中から神社で購入した御守りが転げ落ちる。


『あ、いけない…っ。』


咄嗟に、腰を屈めて、袋から出てころころと地面を転がってしまった御守りを手に取り、拾う。

土が付いて汚れたりしていないか、よく確認し、ぱたぱたと土埃を落とすようにビニールで包装された御守りをはたく。


『ごめんね、私がよく見ないで物を取り出したから…っ。…うん、これでよし。そんなに汚れてなかったとは思うけど、綺麗になったよね…?』


掌に収まる小さな御守りを掲げ、そう零した。


『…せっかくなら、此処で開封しちゃってストラップみたいに付けちゃおっかなぁ…?』


掲げていた手を下ろすと、ガサゴソと袋を開き、中の御守りを取り出す。


『真っ黒な毛色をしたお狐さんの御守り…今は君だけが頼りだよ。こんな所ではぐれてちゃ、ただでさえ心配かけてるのに余計な心配までかけちゃう…。早く京華と合流しないと…っ。』


きゅ…っ、と胸に力強く抱いて、握り締める。

そうして前を向き、暫し鳥居の辺りを歩いていると小さな神社に出くわした。


『こんな所にも神社があったんだ…何を奉ってある神社なんだろう?』


赤い鳥居の色鮮やかさに、境内のシン…ッとした独特の雰囲気に見惚れ、道に迷っているのも忘れ、境内の奥に見える狐の像を見つめた。


「―こんな人気の無い所へお一人でどうしたのかな、お嬢さん…?もしかして…、迷子かな?」


誰も居ないと思っていたところに、突然誰かに声をかけられ、驚き、肩をビクリと大きく揺らしてしまった。


「あぁ…っ、驚かせてしまったかな…?ごめん。どうにも不安そうな顔をして心細そうにしていたから、つい声をかけちゃったんだ。もし、良かったなら話を聞くよ?」


とても優しく耳に心地の好い声音で語りかけてきた、全体的に黒い装いの不思議な人。

よく見れば、頭の上と後ろの方にフサフサとした何かが付いている。

先っぽだけがほんのり白い、真っ黒な耳と尻尾だった。

まるで、あの神社で見かけた、黒いお狐様の絵のようだ。


『お狐、様……?』
「ん…?嗚呼…君には、人の姿でなく、本当の姿である妖の姿の方が見えているのか…。そうだよ、僕は、この神社に奉られる黒狐さ。…もしや、伏見稲荷に参拝してきた子かな?悪戯好きな眷属の白狐が、君を此方の世に招いたらしい。」
『え……っ?』


ひょいっと指差された方角を見遣ると、すぅーっと白い何かが宙を通り過ぎていった。


「極稀に、君みたいな霊力持ちの子が、狐に化かされて此方の世に迷い込んできたりする事があるんだ。伏見の白狐は、時に悪戯好きだからねぇ…っ。今の君のように、知らない内に拐かされて来るから、迷ってしまうんだよ。ウチの神社も、彼方と此方を繋ぐような場所に在るから、その御守りを通して導かれたんだね。」


古風な服装に身を包んだお狐様は、静かに近付き、手の中の御守りを覗き込んだ。


「…うん、彼処で売っている御守りだね。黒狐を模した物だから、珍しくて、あまり買ってくれないんじゃないかと思っていたのだけど…そうか、君の目には留まってくれたんだね。有難う。御礼にって訳じゃないけど、君が行く先まで道案内をしてあげるよ。付いておいで?僕の手を取ると良い。」


そう言って、彼は、私に手を差し伸べた。

それをまじまじと見つめ、彼の顔と手を交互に見つめる。


「大丈夫。何も怖くないよ。さっ、またはぐれないように僕の手を取って。この辺りは、此方の世との境界線で曖昧になってるから、知らないで来るとよく迷いやすいんだ。それ故に、人の子が迷い込みやすいってのもあるんだけどね…っ。」


穏やかに笑って手を取り引いてくれる彼は、どこまでも優しい。


「後ろを振り向いてはいけないよ…?戻れなくなっちゃうからね。お友達が心配しているんだろう?だったら、早く逢ってあげなきゃね。」


ふと、後ろを振り返りかけたのを察したのだろう。

彼は、緩やかにそう言って、振り返るのを制止した。

此処は、人の世と妖の世との境目…。

長居していては、人でなくなってしまうし、元居た場所に帰れなくなってしまう。


「ほら…、あの先を行けば、君の目指す場所に着くよ。」


スッと指差された先を見れば、辺りより明るく光の射す景色が見えた。


「此処から先は、僕は付いて行ってあげれないけれど…また迷い込んだりしないように、悪戯好きな白狐達に悪戯されないように、おまじないをかけてあげよう。」


額の髪を避けられると、何か文字のような物を額の宙に描かれ、仕上げにと、そ…っと口付けられる。

驚き固まり、思わず彼の事を凝視した。

すると、彼は、柔らかに微笑んで言った。


「印…。此れさえあれば、変に悪さをされる事も無いと思うよ。…御守り、大事にね?それじゃあ、また何時か…。何処かゆるりとした場所で逢えると良いね。」


そんなこんなで、私は、無事友人の元へと合流する事が出来たのだった。

何とも不思議なミニ旅行だったが、なかなかに有意義な時間を過ごす事が出来たと思う。

身も心も癒されたのは、黒いお狐様のおかげでもあったとは、恐らく私は気付かないのである。


執筆日:2018.01.15
加筆修正日:2020.04.09