鏡の中に映る自分が、時折変な服を着て映っている事に気付き、其れをとある行きつけの古い喫茶店の店主に問うてみる事にした。
すると、店主は私にこう答えた。
「其れは、君の本来在るべき姿を指しているんじゃないかな?」
…と。
私は不思議そうに首を傾げて彼を見た。
そんな私の様子には何も言わず、彼は再び口を開いて続ける。
「どうやら、彼方側へ戻る時が来た様だね。」
“彼方側”とは、一体何の事を指しているのだろうか。
分からずにただぱちくりと瞬きを繰り返し見つめていたら、徐に彼がお店の出入口を指差して言った。
「このお店を出る時に、頭の中でこう念じてみてごらん?――“私は在るべき処へ帰ります、どうか私の声を聞こし召せませ。”…とね。」
その時になってふと気が付けば、喫茶店の入口には何故か注連縄の様な飾りが付けられていて、一風変わった処であった。
更に見渡せば、カウンターの側には小さな鳥居さえあって、その中には小さな社が奉られていた。
どうして今の今まで気が付かなかったのだろう。
不思議な程に全く意識が向かなかった事に今更首を傾げながらも、彼に言われた通りの言葉を思い浮かべながら注連縄飾りの付いた出口を
そして、其処からの記憶は何も無い。
―一人ぽつん、と取り残された店主の男は、其処で漸く安堵したかの様に息を吐き、表情を和らげて腰掛けていたカウンター内の椅子から腰を上げた。
「…さて、用事も済んだ事だ。私も元の世界へと帰るとするかな。」
そう呟いた店主は、カウンターの中から出てくると、一度周囲を見渡して誰も居ない事を確認する。
そうしてカウンター横に在った鳥居の前に立つと、瞬時に洋装から一変して神主の様な和装へと身を包んだ。
その姿はまるで元々そうであったかの如く不思議な程に彼の身に馴染んでいた。
彼は鳥居を潜る寸での手前で一言、誰に言うでもなく小さく呟いた。
「――金輪際、ウチの主には手を出さない様、頼むよ…。次に手を出してきた時には、祓わなきゃいけなくなるからね。」
そうして鳥居を潜った先で、彼の姿は消えた。
古き喫茶店の装いをした空間は何も言わずそのまま残り、寂しげな空気を漂わせながら無人の店内を保った。
ステンドガラス作りの窓から差し込んでくる西日が、淡く美しく店内を彩る。
誰も居ない店はその後も静謐を保つ様に静かに佇んだ。
其処へ、時折誰かお客が訪れたかの如く入口が開いて扉のベルを鳴らす。
だがしかし、その場には相変わらず誰の姿も無かったのだった。
執筆日:2021.01.22