▼▲
嗚呼、なんて憎たらしくも、心地好く抗えぬ温度か



 眠気でどうしようもない程思考が泥々に溶けて、何も考える事が出来ない、全く頭も回らないとなって。まだ遣らなくてはならない事が沢山あって、仕事も中途半端なままの途中なのに、でもやっぱりどうしても酷く眠くて眠くて仕方がない。
 其れも此れも、全部が全部春のせいだ。あまりに居心地好い日溜まりが眠気を誘って、しょうがない。
 きっと、たぶん、花粉症だからと飲んでる薬の副作用も相俟って、余計に眠気を誘ってしまっているんだ。だから、自分は今、眠たくて眠たくてぐらついているのだ。
 嗚呼、なんて憎たらしい事か。だけども、抗う事も出来ないのが真実で……。
 結局、仕事もそっちのけに、机の空いたスペースに寝そべって睡魔に身を委ねる事を選んだ。
 もう、後の事は後になった時で、どうにでもなってしまえ……っ。そう心に決めて、微睡むままに目蓋を閉じて暫しの休息に意識を投じた。

 其れから少しして、錬度が上限になって久しく非番で暇な夢告げ鳥――こと、姫鶴一文字が部屋を訪れた。
「ねぇねぇ、主〜。あのさぁ、今度の週末の事でちょっと頼み事があるんだけど……――っと。あちゃあ〜……っ、主仕事途中な筈なのに寝ちゃってるや。うーん……此れ、どうしよっかぁ……。本来なら、気付いた時点で起こしてあげるのが、部下としての務めなんだろうけど…………」
 しかし、彼が思わず頭を悩ます位には、すっかりぐっすり寝入ってしまっている様子に、一頻り悩んだ末にこう結論付けた。
「ん〜……っ、よし、このままにしとこ……っ。最近寝付き悪かったり一貫して眠れなかったりで寝不足気味っぽかったし、ただでさえいつも陰で本丸の為に頑張ってくれてるしね。今日みたいに、偶のおサボり位は、皆黙って見て見ぬ振りしてくれるっしょ。ダイジョブダイジョブ、いざとなったら俺等上杉の者か一文字の奴等が上手い事口利きしてやっから……主は気にせず、ゆっくりお寝んねしてなぁ〜」
 そうして、審神者が寝落ちてしまっている事には目を瞑って、のんびりとした口調で宣った。
 ふと、仕事机の上で寝そべる彼女の寝顔を間近で覗き込んで、呟く。
「……ふふっ、可愛い寝顔。無防備にも緩み切っちゃって、まぁ……っ。いつも俺達の為に尽くしてくれて、あんがとねぇ。主の頑張りは、ちゃんと俺等に伝わってっから……主は安心して、堂々としてなね。面倒臭い、泥臭い面倒事なんかは、全部俺達が請け負ってやっからさぁ。主は気にせずのんびり寛いでなよ」
 春の暖かさに微睡み休息に身を投じる審神者を労るように、優しく掌を頭の上へ乗せ、起こさないようにと最低限の注意を払いつつ、髪を梳くように撫ぜた。どうか、微睡みの底に居る時で位は良い夢を見れますようにと、まじないを掛けるみたく祈って。そっと優しく柔らかな熱を分かち合うが如く撫ぜた。
 寸分の内そうしていると、ふと思い至った事に、ハッと気付いたように顔を上げた彼は呟く。
「あっ……そういえば、このまんまは流石に体冷やしちゃって風邪引く原因になっちゃうかも……っ。春先とは言え、まだ何も掛けないままのお昼寝は寒いもんね。えぇっと、何か掛ける物掛ける物…………あ゛ーっ、もうめんどいから此れで良いや。俺の羽織ってた内番着の上着だから、だいぶおっきぃけど……何も羽織ってないよりマシだし。俺は、日光君かちょもの上着かっぱらってくれば済むし。此れにて万事解決なり〜っ……なんちて」
 何も羽織らずのままであった審神者の肩へ、自身の羽織っていた上着を掛けると、気は済んだのか、満足そうに鼻歌を口ずさみながらその場を去った。


 ――その後。午睡に微睡む形で一、二刻程を消費した頃。
 つと、目を覚ました審神者は、未だ夢の淵にでも居るかの如く寝惚け眼を擦りながら半身を起こした。
 机の上なんて場所で寝そべってしまったせいか、変に体が凝り固まってギジギシと関節が軋むように痛み、内心でしまったな……っ、と後悔を抱く。しかし、あっさりとも睡魔に負けたのは自分自身だ。後から悔やんだとて、全ては後の祭りである。
 そう思い直して、伸びをしようと体を思い切り伸ばしたところで。不意に、ばさりと何かが背後へ落ちる音を耳にすると共に、肩に掛かっていた重みが無くなるのを感じた。内心首を傾げつつも、自身の真後ろ……真下の位置へ首を巡らせて音の正体を確認する。すれば、其処には、何やら見覚えのある白地の大きな上着らしき物がくしゃりとした形で落ち、大きく余る布地の部分を背後の床へ広げていた。
 試しに、拾い上げてよくよく確認して見れば、其れは、某・一文字の姫たる刀の物であるのを認識する。同時に、自身がうっかり眠気に負け、仕事中にも関わらず微睡んでいた事を咎めるでも無く、敢えてそのまま放置してくれた事を知った。
 偶々、何かしらの用があって部屋を訪ねたのだろう。気付いたついでに、何か適当に羽織る物をと、手短にあってすぐに用意出来た自身の上着を代わりに掛けてくれたに違いない。
 ここ数日、すっかり暖かくなってきたが、春先とは言え、何も羽織らずのままでは風邪を引いてしまうと気遣ってくれての事だろう。
 何気無い彼の優しさと気遣いにふんわり温かな気持ちになって、つい笑みが浮かんだ。
 春の日差しのようにぽかぽかとした心地になったところで、審神者は腰を上げて、この上着を寄越してくれたくだん刃物じんぶつを探しに出る。
 程無くして、目的の刀に会う事が叶い、審神者は単刀直入に用件を告げて、手短に礼を述べた。
「あっ……姫鶴さん!」
「おっ? 主じゃん、どぉしたの?」
「此れ、返しに来たの。姫鶴さんが気付いたついでに此れ掛けてくれてたお陰で、寒い思いもせずに済んだよ。有難うね。あと、起こさないでいてくれた事にも、こっそり御礼言っとくね……っ。本当に、色々と気遣ってくれて有難う! お陰様で、だいぶ頭がスッキリしました……!」
「そう? 其れなら良かったわ。あっ、別に俺は大した事してないから、今回の事で何か御礼しなくちゃ〜とかって変に気負う必要無いかんね? 俺が一番最初に目撃して気付いたからであり、俺が好きでしたくてした事だからさ。主は何も気負う必要なんか無いよ。……まぁ、どうしてもって言うなら、今度の週末、ちょ〜っち付き合ってくれれば其れだけで十分だから。どっちみち、その件を相談したくて部屋訪ねたのが切っ掛けだったし」
「でも、俺に上着貸しちゃったせいで姫鶴さん寒い思いしたんじゃない……? 内番着の下、ノースリのチャイナ服だし……」
「別に? あの後、すぐに日光君の上着剥ぎ取って着たから、全然寒くも何とも無かったよ。そもが、日光君に至っては、下にもしっかり着込んでたから寒さの心配とか必要無かったし。此処んとこ、日中の間はあったかいかんね。だから、こっちの心配は無用って事。主が体冷やして風邪引いちゃう方が一大事なんだから、俺等の事は心配しなくて良いの……っ! 分かったのお返事は?」
「あいっ……どうもすんませんっした……! そんで、同時にご面倒お掛けして面目無かったッス……!」
「其処は、素直に“有難うございました”の一言だけで十分だっつの〜……っ。もう……ウチの主は気にしいなんだからさぁ! ……ところで、良い夢は見れた? 仮にも、夢告げ鳥である俺の加護を受けた上で寝てたんだから……少しは良い夢、見れたっしょ?」
 不意に話題を転換した彼が、穏やかな表情で笑みを浮かべて此方を見る。
 その言葉の意味を正しく受け取った審神者は、相好を崩して受け答えた。
「ふふっ……! お陰様で、短時間の休息にも関わらず、素敵な良い夢を見れました! 流石は姫鶴さん、夢告げ鳥と言われるだけはあるね……っ!」
「ふふんっ、だしょ……? 俺、実は凄い刀なんだから……っ。姫の事、大事にしてくれたら、その分きちんと恩は返すよ? 何せ、俺も伊達に一文字の端くれ名乗ってる訳じゃないかんね〜。……本当の事言うと、一文字で括られんのは生け好かないんだけどね。でも、そう扱われてるのも事実だから……俺は俺としての価値を、真価を示して行くよ。此れから先もね」
 そう言って強き意思を宿した眼差しを向けて笑んだ彼は、凛として冴え渡る鋼の刃の如し雰囲気であったと言う。


執筆日:2023.03.16
公開日:2023.03.18