▼▲
酒に任せた我が儘を一つ



 秋の夜長から冬の入口へと差し掛かろうとしている季節故か。この頃は、すっかり宵の帳が落ちるのが早くなった。その分、朝晩の冷え込みは増すばかり。冬支度を整えろと急かされるような心地の気候の変化だった。
 今日一日の業務は全て滞り無く終えていた審神者は、冷えた廊下の板張りを足で摺り歩きながら息を一つ零した。
「全く、今年は例年以上に異常な気候だったから、中間の季節というものが無くなってそう経たないとは言え、少し体に堪えるね……っ。年柄か、腰から下が冷えてしょうがない。俺も若くないね。昔程無理が利かなくなってきてるし。……なぁんて言ってたら、彼奴に笑われるか。“自分より若い癖して何を抜かしてんだ、このお馬鹿は”ってな具合に」
 自分で口に出しておきながら脳裏に浮かんだ人物像に苦笑を漏らして、緩くなっていた歩みを戻して自室へと目指す。
 今しがた浮かべた人物とは、審神者の実の姉であった。彼女が審神者になって半年経つか経たない頃に同業者となる道を選び、今や彼女と肩を並べてそれぞれに自分達の本丸を運営している。歳は、彼女より三つ、四つ上なくらいで、然程離れてはいない。その割りに、妹である彼女が随分と年寄りくさい発言を口にするから、つい年齢を気にする歳となったが故に“アンタ幾つよ……っ”と突っ込んでしまう。そんな気安い程の距離感で居るくらいには姉妹仲は良好な方だ。偶に喧嘩はすれど、血を分けた身内という事で、少し時間を置けば元の距離感に戻る。そんな間柄の者だ。
 冷えた空気に曝された髪の毛が顔に当たって寒い。早いところ、暖かい室内に籠もってぬくぬくとしたい。審神者は何とは無しに足を動かすスピードを速めて部屋へと急いだ。
 すると、自室兼執務室となる審神者部屋の前に誰か居る事に気付く。縁側に腰掛けてゆるりと寛ぐ様を見せる真っ黒い人影へ、よくよく目を凝らして見れば、其れが近侍に据えていた新刃刀の彼である事が分かった。月明かりを受けて佇む様は大変絵になるが、外の気候と何処かそぐわぬ薄着さに審神者は「む、」と口の中で音をくぐもらせて更にその足を速めた。程無くして、彼との距離を埋めた審神者は側まで寄りながら口を開く。
「そんな処で何してるんだい、孫六さんや」
「おや、部屋の主がご帰還したか。ちょいと場所借りてるよ」
 此方が気付くよりも先に足音と近付く気配で気付いていたのだろう。審神者が口を開く前に敢えて此方へ視線を投げてきた男に向かって、彼女は小首を傾げた。
「何をしているのかと思えば、月見酒かい。場所を借りるくらい別にどうって事も無いから構わんが……何でまたこんな処でやろうと思ったのやら」
「此処は、庭先の景色がよく見えるんでな。おまけに、俺の私室の向かいともあって、酒の肴に景色を眺めるには丁度良いと思ったんだ。部屋の主が戻れば、自然と話も出来ると思ったのもあって此処を選んだのさ」
「嗚呼……そういやぁ、今日はよく晴れた心地の良い天気だったからなぁ。澄んだ夜空に月がよく見えら」
 男の言葉に相槌を返すと同時に、彼の視線を辿って空へと目線を向ければ、煌々と輝く円みを帯びたお月様が覗いていた。満月とまではいかないのだろう少し欠けた其れは、円みを帯びてはいるが、完全となるには少し物足りない。其れでも、月というものは、古来より人を含めた生きとし生ける物達を惹き付けてやまない魔力がある。引力とも言えようか。まさしく、惑星と惑星が引かれ合う力が作用したかのように、我々生命を持ちし衆生は惹き寄せられてしまうものだ。其れこそ、魅了でもされたかの如くに。この男もまた、そのひとりなのだろう。人と共に在った物だからこそ故に感じ入るものが、彼をそうさせたに違いない。
 審神者は一先ず理解をして、其れから言葉を付け足すかのように口を開いた。
「月見酒とはまぁ風流な事と思うし、其れを咎める意は全く無いが、その薄着のままでやるのは些か問題があるとして頂けないな」
「確かに、今の気候に対してそぐわぬ恰好ではあったのは認めよう」
「昼間と違って、今は朝晩の気温差が激しいんだ。こんな時間に夜風に当たりながら上着の一つも着ないだなんて、自ら風邪を引こうとでもしているようなもんだよ。見てるこっちが寒々しくなるから、何か着ろ。羽織でも何でも良いから」
「ははっ、わざわざ気遣う言葉をかけてくれるとは嬉しいねぇ。そんなに心配なら、主人が俺の事を温めてくれるか?」
「もしかして、もう酔っ払ってんの? 寝言は寝て言えよ」
「こりゃ手厳しい。酒の力を借りれば、少しは釣れると思ったんだが……当てが外れたか。俺とアンタの仲だと言うのに、つれないねぇ」
「酔っ払いの戯言に付き合うと、返ってこっちが痛い目見る羽目になるからね。酔っ払いの発言にいちいちお優しい言葉なんかかけないぞー。……ったく、しょうがないなぁ。ちょっと待ってろ。お前でも羽織れそうな何かを適当に持って来てやるから……っ」
「おっ……?」
 自分が来るまでに何杯引っ掛けたのやら。面倒臭そうな空気を察して彼の横を通り過ぎ、部屋へと入って執務室と奥の私室の隅を少し探る。そうして見付かった目当ての物を手に再び彼の元へと戻り、その寒そうな薄着の肩にご丁寧にも掛けてやった。
「おらよ。俺が仕事中に膝掛けとかに使ってるブランケットだ。生地は薄く感じるが、結構温いぞ。まだ暫く此処に居座るなら其れでも羽織っときな」
「此れは此れは……心遣い、有難く受け取っておこう。……おぉ、こりゃ確かに温いな。手触りも良くて、触れていて気持ちが良い」
 言葉は乱雑だが、その実、示す行動は心優しいのだから何処か擽ったい。審神者自ら手を掛けて肩へと羽織らされた毛足のある布地を振り返り見て、ゆるりと微笑む。
 今や仮初の器を得て人の姿を取っているが、彼とて本を正せばただの物である。其処へ人の想いを宿したが故、付喪となり、神の力が付随して、付喪神と成った。刀剣男士達は皆、総じて人の心より励起された者達だ。その為、人に目を掛けられたり手を掛けられたりする事を好む。真っ黒の小袖に股引を身に纏う彼――孫六兼元も、そのひとりであった。
 見るからに上機嫌な様子で杯を傾けた孫六の隣に自然と腰を下ろしながら審神者は見た。何気無く向けた視線だが、其れを機嫌良く受け止めた彼は、口端を吊り上げて流し目を寄越す。
「主人も飲むか? 今飲んでるのは、正三位様たる日本号から貰った酒でな。上等品らしく、なかなかに美味いぞ」
「いや、俺は飲むのは止めとこう。別に嫌いってんで言ってる訳じゃないから誤解せんでくれよ。俺のは単に下戸だから飲まないというよりか、飲めないんだ。昔、洋酒の強いチョコ菓子食べ過ぎた所為で酔っ払ってひっくり返った事あるし。何なら、好物の奈良漬け食い過ぎて軽く胃がふわふわした事もあるくらいだからな。そういうの、酩酊って言うんだっけか……? あれからだいぶ時が経って俺も大人になったとは言え、胃腸やらかした後を考えると更々耐性無いだろうしなぁ。元より、親もそんな強くない方だし、どっちかってぇーと弱い方でチューハイ缶一本丸々空けるなんて事も無かったぐらいだし。酒弱いんは、体質的に親に似たんやろうね」
「ほうほう、成程。其れで宴の席でアンタは一杯も酒を口にしていなかった訳か。そりゃそんなに弱いんなら、周りが飲ませないようにするのも頷ける」
「まぁ、そもそもが自分から飲もうともしてないけどね。偶に、面倒臭い酔っ払い方した次郎ちゃん辺りが変な絡み方してきて飲まそうとしてきたりするから、太郎さんが止めるんだよね……物理的に」
「えっ、な、うん? 今何て? 物理的に、とかって言われた気がしたんだが……っ」
「うん。その通り。ほんまに物理かまして沈めるよ、あのひと。兄弟なのに容赦無ェなって、初めて見た時は驚いたな。太郎さん、兄弟相手にすると若干扱いが雑なとこあんだよね。面白いからそのままにしてるけど」
「初耳な話だ……。そうか……あの太郎太刀がね。意外だな」
「太郎さんは取っ付きにくそうに見えて、絡んでみると案外素直で面白い刀だよ。図体デカイから、最初は怖がられ気味だけどね。斯く言う、俺も最初の内は自分との体格差にビビッて腰が引けたクチだがな」
「へぇ。アンタにもそんな時期があったのかい?」
「今でも偶にあるよ。大太刀とか槍とか薙刀の子等は上背滅茶苦茶あるから、不意に気配無く近寄られたりすると、背後に胡瓜置かれて其れを蛇と勘違いして飛び上がってビビり散らかす猫と同じ現象が起こる」
「其れ、逆に見てみたいな……面白そうだ」
「驚かされるこっちの身としては、マジで心臓に悪いから愉快でも何でもねぇんだけどな。何でか俺の其れを見たさに定期で仕掛けてくる奴等が居るから勘弁して欲しい……っ。揶揄からかってくる奴等曰く、毎度新鮮なリアクションくれるから見ていて飽きないんだとか。俺を何だと思ってるんだか……。我、審神者ぞ。お前達の主人ぞ。もうちょい丁重に扱え。刺激欲しさからの玩具にすな」
「話を聞くからに、アンタの反応が本当に面白いんだろうな。……どれ、今度俺も仕掛けてみるか」
「普通にヤメレ。人を好奇心を満たす玩具にするでないわ」
 審神者の言葉に、クツクツと喉を鳴らして笑う孫六。酒も入った上に、自然と彼女が構ってくれるのが嬉しくて、心の底から上機嫌なのだろう様子が見て取れる。
「良いね良いねぇ。そういう話、もっと聞かせちゃあくれないか? 美味い酒に美味い肴にとびっきり良い女まで揃ってるんだ。主人さえ良けりゃ、もう少し付き合ってくれねぇかい……?」
「まだすぐ寝る気でも無かったから別に良いけど……今言った“良い女”って誰の事指して言ったの?」
「そりゃあ、今俺の隣に居るアンタしか居ないだろうよ」
「確かに、紛う事無く俺は女だが……“良い女”と称す程のモンじゃあないよ。酒の飲み過ぎで視界不明瞭になったか幻覚見てんのなら、程々にしときな。でないと明日後悔する事になるから。二日酔いは辛いぞ〜……偶に呑兵衛共が飲み過ぎて翌日屍累々と転がってるから、世話焼く介抱組が困ったもんだって愚痴りながら蜆汁飲ませてんの見てきたし」
「ははっ……つれないのは相変わらず、か。手強いねぇ……。まっ、その方が燃えて面白いか」
 程々に酔いが回って来ているのだろう。酩酊した風な蕩けた目を向けてくる彼に、審神者は半呆れのような目を向けた。
「頼むから、そんまま酔っ払って寝転けたりすんなよ〜? マジで風邪引くから」
「ふふっ。その時は、主人に手厚く看病してもらうとしようか……」
「いや、丁重にお断りさせて頂くわ。俺は審神者であって医者じゃねぇ。怪我とかの治療は手入れで出来なくもないが、病は別だぞ。当たる専門が別だ。医者をお探しなら薬研を頼れ。ウチの自慢の専門医だ。俺の初泥刀でもある分、信頼は厚いぞ。腕の良さは折紙付きだ。薬師なら、今は実休さんも居るから薬が入り用ならそっちも頼れるぞ。あぁ、あと病には病斬りの光世ちゃんも付けようか。いざ体調を崩したとしても、此処には各種専門の刀が揃ってる。故に、何時いつでも万全な体制で控えておりますよ」
「幾ら何でも返しが斜め上過ぎるだろう……っ。対応が手厚過ぎて逆に驚いたわ」
「ふふんっ……! 此処は俺の自慢の刀達が集う本丸だからな! その中に君も含まれるんだ、存分に安心するが良い!」
「何目線なんだ、その物言いは……? まぁ、俺もアンタの自慢の刀の中に含まれてるんだとしたら、悪かないね」
 口の中で転がしていた酒を飲み干すべく、グイッと杯を傾けた孫六。途端、酒の熱が喉を通って行って腑へと沁み渡っていく。
 ふと、その目が、月ではなく隣の審神者を見た。良い感じに酔いが回って気分も高揚してきているのを実感していた彼は、徐ろにその手を審神者の方へと伸ばす。その手が審神者に届く手前で、彼女の手に捕まった。何の意図があって此方に伸ばされたかは分からないが、手遊びのつもりだろうか――という風にでも取られたか、彼女は手にした彼の手をにぎにぎと弄んだ。そんな彼女の体温が、酒で火照った肌に心地良かった。
 孫六は、浅葱の目をゆるり細めて言った。
「なあ、もっと俺に触ってくれないか……? 今のアンタの少し冷えた熱が、俺の火照った体には心地良いんだ」
「既にこうして触っておりますが……?」
「俺が言いたいのは……もっとこう、近くで触って欲しいという意味だよ。……酒の肴に月を拝むのも良いが、そっちはもうアンタが戻って来るまでに十分拝ませてもらったからな。今度はアンタの事を眺めていたい……なあ、主人?」
 顔を近寄せてきた事で彼の吐き出す吐息に酒気が帯びているのを間近で感じる。彼が動いた事で揺れて肩から流れ落ちた黒髪が手指に触れた。男のものにしては、随分と手触りの良い髪質の其れに、両手で弄んでいた手を片方だけ離して、その手を彼の前髪へと差し出した。そして、目元を隠すように垂れていた前髪の一部を横へと払って、顔の横へと垂れていた横髪と一緒に耳へと掛けてやった。言葉無くされた行為に、孫六は淡く目を瞠った。
「そういうのは、素面の時に言った方が効果強いぞ。……まぁ、健気にも俺を口説こうとしたって事だけは認めてやろう。酒も碌に飲めない俺なぞを口説いても面白みの欠片なんてもんも無かろうに」
「……じゃあ、次に誘いを掛ける時は、酒を飲んでいない時にしよう」
「どうしても飲みに付き合って欲しいって事なら、舐めるくらいでも許してくれるんなら付き合わなくもないが……。ひとりしっぽり独り酒ってのも乙なもんで悪かないが、誰か相手に居た方が寂しくなくて良いだろう?」
「主人自ら付き合ってくれるってのかい?」
「お前が良しとするならだけど」
「ははっ! こりゃあ良い! まさか主人とサシで飲める日が来るとは、夢みたいだ……っ」
「付き合うって言っても、基本話聞くか喋るかのどっちかしか出来んからな。主に飲むのはお前で、俺は飽く迄も舐めるだけさね」
 審神者が零した言に嬉々として伏せていたままの空きの杯を手渡し、酒を注いだ。飲むのではなく、飽く迄も付き合うのは舐めるだけと宣言した彼女の為に、注ぐ量はお猪口の半分にも満たない量だ。彼的には気持ちもう少し注いでやろうと思ったのだが、審神者に制止をかけられ断られてしまった。しかし、飲めない代わりにこうして付き合おうとの姿勢を見せてくれるのだから、此れが嬉しくない訳などなかった。
 孫六は、目の高さに杯を掲げて口にする。
「其れでは、改めまして……乾杯っ」
「カンパ〜イ」
 ゆるっとした空気でカチリッ、器をぶつけ合わせて一気に呷る孫六。一方、本当に舐めるだけとした審神者は、チロリと舌先だけを出して上澄みを舐めた。途端、キュッと渋い顔をして甲高い鳴き声を上げた。
「み゙ーッ! 何コレかりゃい! よく湯水でも飲むかの如く飲めるね、君達……っ!」
「くふふッ……初めて舐めた本物の酒のお味はどうだい?」
「何か変な味する……匂いは酒饅頭とかと似たようなものって感じするんだけど……何だろう、慣れない味だな」
「お気に召さなかったか」
「うーん……酒饅頭は好きだし、日本酒入りのチョコ菓子も好きな方だから、慣れればイケそうな気はしなくもないんだけど……その前に酔ってゲロる未来しか見えんな。所詮、俺は何処まで行ってもお子ちゃま舌なのよ。下手に大人びない方が良いだろ。……歳だけで言ったらもう立派な大人な筈なんだけども」
「付き合ってもらっているだけで俺は嬉しいんだ。無理に飲もうとまでしなくて良いぞ……?」
「うん。其れは分かってる。けども、個人的な事からすれば、俺も良い年した大人なので、自分の限界値というものを知っておいた方が良いとも思ってね……っ。そしたら、今後知り合いやらに飲み会とかに誘われてもまだマシな付き合い出来そうだし」
「そういうもんかね?」
「そういうもんよ、俺達人間てのは。人間面倒臭いって思うだろ……? だから、適度な距離感で狭い人間関係しか構築する気無いんだよなぁ、俺。人付き合いとか苦手だし。そういう意味では、馴れ合うの好きじゃない伽羅ちゃんの気持ちがよく分かんだよね〜。俺も大概馴れ合わなさキングだし。……あ、女だからキングってよりはクイーンか? いや、俺クイーンて柄じゃないな……面倒だからキングのままで良いか」
「ふふっ……そんな主人が自ら関わろうとするという事は、少しは期待しても良いとの裏返しで自惚れても許されるって事か。……っふふふふふ」
「え……何。何か急に笑い出して怖いんだけど。君、笑い上戸か何かか?」
 徐ろに笑い出した孫六に、怪訝な顔をして心無しか引き気味な態度を見せた彼女。流石に嫌われたくはないので程々で抑えようとするが、酒の所為か、なかなか尾を引いて口元がヒクつく。そんなに笑う程面白い事でもあったかと今しがたまでの流れを思い返した審神者は首を捻った。一通り思い返してみるが、至ってそんな笑えるような事は何も無かったように思える。ので、この状況は酒の所為で出来上がったものとして処理する事にした。
「あーっ、笑った笑った。やっぱり、アンタと一緒に居ると飽きないな」
「そりゃどうも」
「……っふふ、失敬」
 どうにも笑いが引かないらしい様子に、審神者は諦めてチロチロと酒を舐める方へ意識をシフトチェンジした。すると、またもや嬉しそうな顔をした彼が酒気に頬を火照らせて微笑む。
「次に主人とサシで飲む時は、アンタが飲みやすいような物を用意しておこう。そうすれば、アンタも少しは楽しめるだろう?」
「別に、俺は酒は無くとも美味いツマミさえあれば其れで十分だがね」
「そうかい。なら……今後アンタと飲む時は何か適当にツマミでも作って用意しておくとするか。献立は、何にするかな……。その日の厨に余ってる材料で何かしらは作れるだろうが、簡単な物なら…………ふむ。主人、アンタの好きな物があれば、この際に聞いておきたい。あと、食えない物も」
「定番のおツマミ系なら大抵は食えると思うけど……枝豆とか、冷奴とか、あと塩キャベツだっけか? 俺、酒飲めない質なのもあって居酒屋とかも殆ど行った事無いからあんま思い付かないんだけど……居酒屋メニューで定番な焼き鳥は好きだよ。食えない物で挙げるとするなら、海老はアレルギーで駄目かな。数年前までは好物でよく食べてたんだけど、ある時突然アレルギー反応起こして軽く死にかけた。しかも、店で食べてた時だったから地味に焦ったの覚えてるなぁ……。其れまで普通に食えてた筈の物食べた直後から徐々に口ん中腫れたみたく痺れて息苦しくなってく感覚とか、生まれて初めてだったからマジで焦ったんよな、あの時。後から医者に訊いたら、アナフィラキシーショック起こしてたんだって判ってゾッとしたわ。ので、生の海老はそれ以来食ってない。この間アレルギー検査もしてマジでやべぇ事が判明した事もあって、海老を扱った食べ物は一切食えなくなりました、完」
「今、事前に聞いておいて良かったと心底思ったぞ……っ。アンタ、過去に何度死にかけてるんだ?」
「ははっ、さぁねぇ。まぁ、片手で数えられるだけの事はあったかな」
「おいおい、全然笑い事じゃないぞ……っ。頼むから、命は大事にしてくれ?」
「ふふっ……君が言うのなら、少しは気に留めておくとしようかね」
 酒の場で語るからこそ軽く聞こえてしまうが、その内容は冗談で一笑するには相応しくないものだった。ちょっとだけ酔いの引けた風な彼が、眉間に皺を寄せてお猪口を口に付ける。其れを見た審神者は、酒を舐めるのを止めて杯を置き、苦笑を滲ませて言った。
「そんな顔しなさんな。下手な口利いた俺が悪かったのは自覚有るが、折角せっかくの美人の面を台無しにする気は無かったんだ。飲みに付き合う此れで手合いにしてくれとは言わんが、許せ。俺の質を完全に理解しろとも言わんが、つい皮肉った言い方になっちまうのは最早癖でな。許してくれや」
「俺を“美人”と称すか……物好きだね」
「綺麗だろ、十分な程に。不意に視線が合ったら見惚れちまうくらいにゃお前さんは美人だよ」
「其れは口説き文句のつもりか……?」
「だったらどうする……?」
 挑発的な視線を受けた孫六は、先程の時と同様にまた淡く目を瞠る。次いで、クツリと喉奥を鳴らして不敵に笑った。
「其れなら……酒に酔った勢いと称して、このまま閨まで雪崩込んで夜明けまでしけ込むとしますかい?」
「ご冗談を。孫六さん、其れ程酔っ払っちゃいないだろう?」
「そうとも限らんだろう? 中には顔に出ない奴だって居るんだ……見た目だけで判断するんじゃあ思慮に欠けてるな」
「酒は飲んでも呑まれるな。此れ、鉄則だぞ」
「フフッ……お堅いねぇ。偶に呑まれる程度なら構わんだろうよ。特に、今みたく大層気分の良い時程、なあ……?」
 審神者を誘惑したいのか、火照った体を見せ付けるべくにじり寄り、娼婦の如くわざとらしく胸元をはだけさせて気を引こうとした。しかし、審神者はチラリと一瞥をくれるだけで乗ってはくれないようだ。おまけに、床へずり落ちたブランケットを肩に掛け直してやるという気遣いっぷりだ。此れは脈無しである。孫六は内心引っ掛かってはくれないものかと期待したが、思った以上に堅い彼女のガードの高さにほんのちょっぴり拗ねた風に口を尖らせた。
「こんなにも大胆に誘ってるってぇーのに乗ってこないとは……つれないな、俺の主人は」
「酒の勢いでヤるのが一番後悔する元だぞ。悪い事は言わん。今日のところは大人しく其れ飲んだら寝ろ。飲み上げるまでは好きに此処に居てくれて構わんから……」
「もう行くのか?」
「流石にちょっと体が冷えてきたんでね。下手に長居して湯冷めして風邪引かない内に、とっとと部屋に戻って寝る用意でもしてくるよ」
 徐ろに腰を上げた彼女に尾を引かれるみたく衣の端を掴んで引き留めた彼は、何処か子供っぽかった。寂しげとも言えるその引き留めに、審神者はくるりと身を反転して彼の頭へ手を置く。そのまま、良い子良い子するみたいな手付きで頭を撫ぜた。
「そんな顔すんなって」
「俺がどんな顔してるって……?」
「母親とはぐれて迷子になった子供みたいな寂しそうな顔……?」
「そんな顔してたのか、俺……」
「ふふっ、実年齢は俺よりもクソ程も上だろうに……そんな可愛く引き留められちゃあ敵わないね……っ」
 衣を掴む手を優しく解いた彼女は、柔和に微笑んで“一寸だけ待て”と告げて一度部屋の中へと戻ってしまった。孫六は、言われた通りに大人しくその場で彼女が戻るまでを待つ。
 程無くして、小振りなサイズの毛布を手に戻ってきた審神者。其れを自身を包むようにして羽織ると、両端を拡げるようにして持ち、そのまま彼の背後に抱き着いた。首に纏わり付くように腕を回してしなだれ掛かってきた審神者が、膝立ちになって言う。
「ふふふっ……驚いただろう?」
「ははっ、こいつぁ嬉しい驚きだな。漸くその気になってくれたって事か?」
「いんにゃ。単にこうして引っ付いたら、さっきよか寒くはないだろうと思ってやっただけだよ」
「ほう。其れは其れで嬉しいから良しとするが…………何となくなんだが、何か柔いものが当たっているような……っ」
「あれ、当たってる? 別にそういうつもりは無かったんだけど……。そもそも、当てられる程のものが無いと思ってたし。故に、俺はこのネタ使えないんだよね〜。“当たってますが?”に対して“当ててんのよ!”って返す遣り取り」
「……主人や、其れは今この時に俺に話しても良い事なのかい??」
「えっ、逆に訊くけど何か問題あったか?」
 イマイチ其れっぽい空気になり切れない場に、孫六はあからさまな溜め息をいて項垂れた。そんな男の後頭部に主張控えめな柔い胸元を押し付けて平然とした顔をする審神者は、その状態のまま抱擁の力を強めた。柔く温いが、何処となくひんやりと冷えた温度が頬を掠め、そういえば彼女が側に来てから其れなりの時間が経過していた事に気付く。先程彼女自身が零していた通り、あまり長居させては体に障る気候だった事を忘れていた。
 ふと思い至った事実に、孫六はぐるりと背後を振り向くなり審神者の体をヒョイと持ち上げた。突然の事に呆気に取られて固まる彼女をそのまま上へ抱え上げると、正面へと向き直り、自身の膝の上に降ろした。そして、されるがままにキョトンと無防備を曝す彼女を懐に閉じ込めてしまった。確かに、人肌の温もりに触れていれば、冷え込んできた外気の冷たさなど気にならなくなるくらいに心地良い。酔いの火照りが冷めぬが故とも思うが、夜風に当たってひんやりと冷えた彼女の熱が気持ち良くて、思わず彼女の肩へと頭を擦り寄せた。
 一方、審神者側はというと、突然彼の懐へ抱き込まれて擦り寄られまでしてしまった現状にプチパニックを起こしていた。端的に言って、思考停止状態に陥っていた。恐らく、その脳内は宇宙猫と化し、軽くお星様でも瞬いている事だろう。何の咎めも無い事を彼女が気を許してくれていると見た彼は、殊更抱き込む力を強めて擦り寄り、彼女の髪へ鼻先を埋め、息を吸った。流石の其れにはハッと我に返った審神者は慌てて身動ぎ始めた。
「ちょっ……あの、孫六さん?? 如何なされたんです?」
「ん……さっきの状態じゃあ、主人の顔がよく見えないと思ってな」
「成程、其れでコレと………………え? 今何と……??」
「この距離なら、アンタも俺を見放題の触り放題だ。減るものでもなし、存分に満喫してくれ」
「前言撤回。孫六さん、アンタ酔ってるな……っ!? だからこんな甘えたみたいな事仕出かしてくるんだろう!! 絶対にそうだ!! そうに違いにゃい……っ!!」
「コラコラ、暴れるんじゃないよ。何も獲って喰おうなんざ考えちゃいないさ。……まぁ、つい先程まではちょいと良からぬ事を企みはしたがな。ふふ……っ」
「待って?? 今何かサラッと不穏な事言ったよね?? 物凄くナチュラルに不穏な事仰いましたよね?? ねえ。審神者泣いちゃうぞ、コラ」
「その時はきちんと責任を持って慰めつつ布団まで運んで、アンタが寝付くまで側に付いていてやるさ。何なら、肌を合わせたって構わんぞ? 俺も男なんでなぁ……女を抱く事もやぶさかじゃあない」
「おいコラ、助平は他所で発揮してきなさい。俺相手にすんのはお門違いぞ」
「主人だって女の端くれだろう……? 哀れな俺を慰めると思って付き合っちゃあくれないかい?」
「幾ら口説かれたって、主従としての一線を超えるような事は断固認めないからな……っ! 人間辞めたい欲はあれども、一応まだその時ではないと思っているのでね!!」
「へぇ……主人は人でなくなる事に拒否感は無いのか。寧ろ、満更でもなさげと見える。……良くないなぁ、そういう事を容易く口にするのは。特に、俺みたいな手合いを相手に言うのは、まるで“どうぞ神隠ししてくれ”と言わんばかりの口じゃないか。アンタの意思に関係無く掻っ攫われる可能性だって有り得るんだぞ……? その手の話題を迂闊に口にするもんじゃない。俺相手だったから良かったものを……」
「別に……俺は、自分が心許した自分・・の刀になら隠される事も吝かじゃないけどな」
「はっ……?」
 思わず彼女の顔を覗き込むようにして凝視した。すれば、審神者は真面目な顔付きで其れを見つめ返す。此れに、一瞬だが浅葱の目が戸惑いの色に揺れたのを彼女は見逃さなかった。審神者は言葉を重ねて言う。
「お前が本当に其れを望むなら、俺は受け入れる覚悟くらいは持ってるぞ。――さて、どうする? 孫六兼元」
「ッ――!」
 突如、呼び捨てのフルネームで名前を呼ばれた孫六は、無い筈の心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。何と返すが正解か、やけに渇く喉がひりついて堪らず生唾を飲み込む。
 審神者が告げた言葉には力が宿っていた。敢えて乗せられたのであろう言霊の力に、彼は一瞬だが気圧されてしまった。息を呑んで、頭の中でぐるぐると巡る血の音だけを耳奥で聴く。
 呆然と彼女を見つめている内に、審神者は彼の懐で落ち着いたのか、その身を丸めながら口を開いた。
「まぁ……別に急かしはせんから、ゆっくり考えると良い。今の問への答えなら、気が向いた時にでも返してくれりゃあ良いから……。んじゃ、俺はこのまま寝るから、気が済んだら奥の部屋の布団にでも転がしといてくれ」
「――はっ? え、ちょっ……タンマだタンマ……っ。えっ、其処俺の懐なんだが? 其処で休むと?? 今か????」
「うん。酒舐めた事と匂いで眠気が来ちまってな……。もう眠くてしゃーないから、このまま寝る事にする。おやすみんしゃい」
「いやいやいや可笑しいだろう……っ! えっ、俺が可笑しいのか!? ちょっ、今の直後にこの仕打ちは本気で困るんだが……ッ!!」
「困れば良いじゃないか。君が俺を欲したんだろう? 手放す気があるなら、この後気が済んだら俺の事は布団にでも転がして自分は部屋に帰って寝れば良い。簡単な話さ。何方を選ぶかは君次第。……という事で、俺は寝る」
「嘘だろ、マジか……ッ。マジなのか……!?」
 盛大に狼狽えた様子でわたわたと彼女をどうにかしようと考えるも、既に酒が回り切っていて思考は纏まらない。そうこうしている内に本格的に寝る体勢へと入った審神者は、彼の事など一切構わずにその目を閉じた。どんだけ肝が据わっているんだか。存外図太い神経をお持ちのようだったらしく、審神者はそのままナチュラルに寝付いてしまった。
 忘れてしまいそうになっているから敢えて述べておこう。彼女が丸くなって落ち着いた場所は、孫六兼元の懐である。ご丁寧にも持ってきた毛布に包まって寒くないように彼へと引っ付いている。
 酒も抜け切らない内に差し出された据え膳に孫六は顔を覆って天を仰いだ。
「クッソ、言い逃げは狡いだろう言い逃げはァ…………ッ!!」
 堪え切れず零れた狂犬の遠吠えは、虚しくも夜の帳の静けさに打ち消えて散るのだった。


■□■□■□■□■□■


 ――翌朝。審神者はゆるりとその目蓋を開いた。カーテンの閉めた小窓から僅かに朝日が射し込んできていたからだ。その眩しさに目を覚ました彼女は、緩慢な動きで瞬き、現在の自分がどうあるかを意識のみで確認した。すると、自分以外の温もりがすぐ側の位置に在る事に気が付いた。寝起きで未だ不明瞭な視界をぱちくりと瞬かせ、伏せていた視線を上げた。
 まず正面に飛び込んで来たのは、昨夜見た覚えのある黒い衣の布地だった。審神者の頭があったのが丁度男の胸元だったのだろう、目の前の胸板が呼吸と共に静かに上下するのを視界に入れる。次いで、感覚を研ぎ澄ませると、男の片腕だろうものが自身の背へと回っているのを認めた。まぁ、此れくらいならまだ許容範囲だ。審神者はホッと気を緩めて、寝起きさながらに目の前の人肌に擦り寄りに行った。猫が好いた人へ戯れ付くみたいに額をスリリ、と擦り付ける。昨夜とは逆の立場であった。寝起きとは総じて誰も彼も皆無防備且つ素が出やすいものだ。彼女の其れも同じく、甘えに入る仕草となるのだろう。
 不意に、男の彼女を抱く力が強まった。この反応に審神者は「起きたのか……?」と思った。けれど、反応は其れだけで、また朝の穏やかな静けさが戻ってきた。審神者は身動ぎを止めて、意を決した風にチロリと視点を上向ける。すると、彼女を抱く腕とは反対の腕で自身の頭を腕枕して寝入っている様子の男の顔が目に入った。規則正しい寝息を立てる彼は、まだ寝ているのか、起きる様子はない。此れ見よがしにと審神者は彼の顔を拝ませてもらった。
 男の寝顔は、端正整った顔付きで美しかった。元々整った顔付きをしているのだから、其れが眠っている時の顔など想像に難くない。控えめに言ってセンシティブ。もう少し分かりやすく述べれば、艶のある色気を放った空気に何だかてられそうなものだと言えばお分かりだろうか。兎に角、目の遣り場に困る色っぽさだった。思わず、審神者は一瞬目を伏せてスンッ……と悟りでも開いたかの如く顔をした。此れは軽率に見るようなものではない。
 昔見たアニメみたく“見せられないよ!”のフリップか何かが欲しい気持ちで、取り敢えず代替案として己の両手でナイナイする事にした。その拍子に、うっかり指先が触れてしまったらしい。即座に「しまった……!」と思うも、誰かに触れられるという刺激に反応した彼が緩慢な動きで目蓋を開いた。そして、己の腕の中で「あっ……」という顔を浮かべて固まる彼女の存在を目にする。数秒間、その様を見つめ、ぱちり、一つの瞬きを挟んで覚醒したのだろう視線を浅葱の目に乗せて口を開いた。
「俺の懐の寝心地は良かったかい、主人……?」
「……その節は、どうもすいませんでした……っ」
「ん……いや、別に咎めてるとかそういう訳じゃないさ。ただ……アンタが安眠出来るくらいには落ち着ける場所だったんだな、とだけ」
 此方も寝起き故に少しばかりパヤパヤとした意識らしい。眠たげに瞬く浅葱の目が、静かに腕の中で横たわる審神者を見ていた。
「なぁ、一つ言いたい事があるんだが……良いか?」
「えっと……何で御座いましょう……?」
「こういう事を許すのは、俺だけにしてくれないか?」
「えーっと、君の言う“こういう事”とは……っ」
「具体的に述べると、今まさにしているような事だな……。共寝、とも同衾とも言えるか……。そういうのは、この先もどうか俺だけにして欲しい。……まぁ、居心地が良かったのなら、また何時いつでも貸してやるさ。主人は大層俺に気を許してくれているようだしな。その代わりと言っちゃあ何だが、俺にも我が儘言うくらいの権限は許してもらえるだろうか……?」
 浅葱の二ツ目が、とろり、甘い熱を宿して溶ける。其れに今度は彼女の方が淡く目を瞠る番だった。
 背に回していた腕を解いて、寝起きの彼女の額を浚う。すれば、寝癖で乱れて目に掛かっていた前髪が払われて視界が明瞭化する。忽ち、真正面から直に彼の視線を浴びて審神者は別の意味で硬直した。明らかにこれまてと異なる動揺を見せる彼女に、孫六は気を良くした様子で手の節で審神者の頬を擽った。
「――今のが、昨夜の問への答えだ。此れで満足したかい……?」
「うぇっ……そういうの、俺相手にするの、絶対に間違ってると思うんだけど……っ」
「残念ながら間違ってはいないんだよなぁ、此れが……。ふふっ、恥ずかしがるアンタもなかなかに悪くない」
「み°ッ……! 今の空気、絶対俺の柄じゃない……!」
「くくッ……偶には素直になってみたらどうだい? 例えば、さっきみたいに」
「ぇ゙……ッ、もしかしてもしかしなくとももしかしちゃうパターンですか……??」
「“もしか”の付く単語がゲシュタルト崩壊を起こしてるが……そんなに動揺したのか?」
「み゙ィ゙ッ! センシティブの過剰な摂取は免疫の無さで俺のHPはゼロよ……ッ!! 死体への鞭打ちは軽く死ねるのでやめたげてくださいお願いします……!!」
「うん……取り敢えず、アンタが謎の恥ずかしがり方をしている事だけは分かった。それにしても、独特な恥ずかしがり方だな……」
 実は起きていないと思ったその実は既に意識のみは覚醒していたらしい事が発覚して、審神者は震えた。何故ならば、寝起き故の無防備を曝け出してしまったから。審神者は羞恥で呻き悶え苦しんだ。其れを彼は、何処となく嬉しそうに浅葱の目を細めて笑う。
「昨日あんだけやらかしたのはそっちで、今更だろう? 逆に、何で今更恥ずかしがっているのかが不思議だな」
「複雑な乙女心ってやつですよぅ〜〜〜……ッ!!」
「そうか。アンタも案外照れたりする事もあるんだな……。其れを俺がさせているのか……そうかそうか」
「勝手に理解しないでくださいません??」
「いや、何。主人が可愛らしくて堪らないなぁ、という話さね」
「み°ッッッ」
「ふふっ……憐れなくらいに真っ赤で涙目だな。そんなに照れられると、逆に興奮してきてしまうんだが?」
「お元気で何よりだこと……っ!」
「お陰様で、アッチも元気になってきた気がするんだが……その責任は取ってもらえるのかい?」
「ぇ゙ッ……………………あっちって、どの“あっち”ですか……っ」
「直接口で言わなきゃ分からん程初心ウブくもないだろう、アンタ。……つまり、ナニ・・の方だよ」
「あ゛ーッ!! あ゛ーッ!! 俺は何も聞かなかった事にします!! そんな訳でこの場は退散させて頂きます!! さらばじゃっ!! 逃げるが勝ち――、」
「おっと、そうはさせるか」
「――ぶふッッッ!!」
 ニヤリと悪い笑みで言われた発言に、発狂するが如く寝起きとは思えない声量で声を張りながら逃走を謀ろうとした審神者。しかし、其れを逃す程相手は甘くはない。即座に先手を読んだ彼の手が慌てて布団から飛び起き逃げ出そうとした審神者の足首を掴む。直後、盛大にすっ転んでべしゃりと地面へ突っ伏した。どっちみち、彼が彼女の足首を掴まずとも、慌てふためき過ぎて足を布団に取られてもんどり打っていた事だろう。こういう時程、彼女は足元がお留守で鈍臭い。
 思い切り顔面から落ちた審神者が痛みに悶え転がるところに、上から覆い被さるよう己の体で囲いを作りながら孫六は言う。
「昨晩、この孫六兼元を口説き返してきたのは主人だからなァ。今更逃げようだなんて、そんな野暮な真似する訳があるまいよなぁ?」
「みぎゃあーーッッッ!! 欲の捌け口、窓口違いですってぇ゙!!」
「おいおい、酷い言い掛かりだな……っ。こちとら本気でアンタの事を娶るつもりで言ってるのに。ほら、怖かないぞ? 痛い事は何もしないから、落ち着け」
「無理ィ゙ーッッッ!!」
「いや、そんな全力で拒まれると流石に凹むぞ……?」
「みぎゃあーッッッ!!」
「おいッ、危な……!? ぐふッッッ!!」
 朝っぱらから激しく揉み合い、何とかして男の囲いから逃れようとして審神者は兎に角無我夢中で足を振り上げた。すると、当たりどころ悪くガッツリ急所へと入った渾身の一撃に、孫六は堪らず悶え転がった。その隙に審神者は囲いから逃れ、モタモタとした足取りで隣の執務室の方へ向かう。つんのめりながらも何とか部屋を仕切る襖を開けたところで、騒ぎの声を聞き付けてやって来たのだろう第三者がスパンッと勢い良く審神者部屋の障子戸を開けた。 
「こんな朝っぱらから何事だい?」
「御前んんん〜ッ!!」
「おいおい、本当にどうした? 何があった? ほら、話を聞いてやるから、落ち着いて話しなさい」
「原因は昨日の俺にあって俺が悪いんだけど、今のはあっちが悪くってぇ゙……っ!」
「待て待て、全く要領を得んぞ。もっと分かりやすく話してくれ……っ」
「分かりやすく言葉短めに言うと、孫六さんに襲われそうになりました。現場からは以上です」
「成程、よぉ〜く分かったぞ。よしよし、怖かったなぁ。不埒を働いた奴には僕から徹底的な制裁を加えておくから、主は服を着替えて顔を洗って来なさい。その後は、短刀の者を側仕えに控えさせると良いだろう。極で錬度の高い謙信景光辺りが最適だな。後で僕から伝えておくから、主は何も気にする事無く朝餉を食べに行きなさい」
「ゔん゛……あいがと御前」
「なぁに、礼には及ばんさ。僕等の可愛い主を泣かしたんだ。奴には其れ相応の罰が下るだろうよ。まぁ、手始めがこの僕というだけだな。うははっ!」
 騒ぎを聞き付けてやって来たのは、彼とは何かと縁の深い一文字則宗であった。イコール、孫六兼元終了の合図である。
 則宗の言葉に素直に従った審神者は、無情にも未だ復活出来ないでいる彼の横を通り過ぎて着替えを手にすると、部屋を出て洗面所へと向かった。着替えも其処で纏めて行うつもりらしい。男二人きりの空間となった場は、何とも寒々しく冷え切っていた。
 則宗は絶対零度に冷め切った目で床に転がる男を見下ろす。
「よお。何時いつぞや振りの光景だな。……して、何でお前さんはそんな処で悶え苦しんどるんだ?」
「ぐッ……あの主人……ッ、俺から逃げる拍子に、俺の急所を思い切り蹴りやがってな……!」
「うははははッ!! 此れは傑作なくらいの自業自得だな!! の無敵の剣士様の愛刀が金的食らって床にのた打ち回っているとは、ザマァな事この上ない」
「返す言葉も御座いませんよ……! クソッ……!! よりによって、何でアンタが来るかね……!」
「偶々、僕の部屋が比較的主の部屋に近く、また、僕が早くから目を覚まして起きていたからだが? まぁ、恨むなら自分の運の悪さを恨むんだな。其れでは、僕は有言実行の為にお前さんへの制裁を下すとしよう。僕が直々に手を下すんだ。有難く思えよ……?」
「おい、待て……嫌な予感しかしないぞ……ッ!?」
「そぉーれ!」
「ア゛ッッッ――!!」
 審神者の一撃よりも重たい一撃を再び急所に食らった孫六は、とうとう再起不能に陥る。その後、出陣した訳でもないのに重傷状態となった彼は、速やかに手入れ部屋へと運ばれるのだった。


執筆日:2023.11.22