▼▲
審神者誘拐監禁事件



 事の始まりは、審神者のみと指定を受けての政府施設への出向からであった。この案内の知らせを受け取った審神者は、始めこそ疑いの眼で以て書面を封じてあった封筒を見るも、お役所勤めとそう変わらない役職である故にそういう事もあろうと改め、己単身のみで呼び出しに応じた。この後すぐに知る事となるが、実はこの時点で相手の罠に嵌ってしまっていたのだという事は知る由もない。
 指示通りに指定場所へ着くも、幾ら待てども時間になっても現れぬ職員の姿に流石の彼女も不信感を抱き始めた。そんなところで、遅れて登場した黒服姿の男に視線を向ける。
 やって来た男は、面布で顔を隠していた。その理由として挙げられるのは、政府に勤める職員として個を無くす為か、或いは、顔が割れたくはない為の面隠し代わりか。兎に角、顔の見えない見知らぬ男が突然現れた事で、審神者の警戒心は一気に高まった。
 そうして、何をされるのか身構えた瞬間言われた事に、審神者は大層驚く羽目になる。
「お前は今から俺の奴隷だ。俺の言う事のみに従って動け。それ以外は認めん」
 一体何のこっちゃかさっぱり分からない。何の謂れがあってか、突然呼び出された挙げ句の開口一番に言われた言葉の意味が分からなさ過ぎて、つい素で「あ゛?」と訊き返しかけたのを寸でで飲み込み、訝しげな視線を投げるに留めて様子を窺う。加えて、努めて“自分は下の立場にある者です”と言わんばかりの敬語で以て口を利く。
「……あの、失礼ですが……この度のお呼び出しとは、一体どういった御用件なのでしょうか。書面には何も記されていなかったので、何一つとして分からずに参ったのですが……。加えて、貴方の奴隷になれとは、どういう……?」
「言葉通りの意味だ。お前は現時点を以て審神者の職を解雇、これからは俺の言う事のみを聞いて生きろ。お前に求めるのは其れだけだ」
「誠に申し訳御座いませんが、仰る意味が全く分からないのですが……っ」
五月蝿うるさい! 兎に角、お前は俺の言う事だけを聞いていれば良いんだ!! それ以外の無駄口を叩く必要は無い!!」
「突然そのように仰られましても、私も何も言わず本丸を空けてきてしまったが故に、残してきた者へも含め説明の一つくらいは欲しいと思うのですが……」
「無駄口は叩くなとたった今言ったばかりだろう、この愚図が……ッ!! 余計な事は考えなくて良いんだよ!! お前は命令通り俺の下僕で奴隷になっていれば其れで済むんだ!! これ以上無駄に喋るなよ……っ!」
 突然罵倒を飛ばしてきた男の態度に、明らかな不信感を露わにした審神者は胡乱気なを目を向けて再度口を利いた。
「此れは此れは、貴方様の不快を買ってしまったのなら申し訳ない。しかし、事と次第によってはきちんとした手順を踏まねば彼等を怒らせてしまい兼ねませんので……。我等が相手しているのは、そういう輩です故……どうか、一報程度だけでも入れさせてはくださいませんか? 私自身からが無理なのであらば、そちらから入れて頂いてもよろしいでしょうか……?」
「……フンッ。そういう事ならば、俺から一つ連絡しておこう。此れでも俺はお優しいのでな。其れくらいは許してやろう」
「温情を掛けて頂けた事、誠に感謝致します。……感謝ついでに、御上の方へもご一報入れて頂いても構いませんでしょうか? なにゆえ、私が此処に囚われる事になったかの由をお聞かせ願いたく」
 審神者は、審神者になるべくしてなった者だったのが功を奏したのか、言霊を使う事に長けていた。よって、審神者は密かに音に言霊を乗せて男を支配しようと考えた。
 しかし、術返しの呪具の類でも身に付けていたのか、男には全く効かず。其れどころか、審神者が何かしらの術を使った事に気付いた男は途端に怒りを露わに手を振り上げ、審神者を打った。容赦の無い其れは、力加減もされていなかったらしく、反動で体勢を崩した審神者は後方へと吹き飛ばされた。その際、打たれた弾みで掛けていた眼鏡が何処かへと同じく吹き飛ばされた模様だ。途端に不明瞭になった視界と、今しがた受けた衝撃を鑑みるに、妥当な見当である。
 取り敢えず、男の宣う事が決して軽弾みの冗談などでは無い事が此れで分かった。
 今しがたの衝撃で口端を切ったらしい審神者は、痛みに顔を歪めて体を起こす。
「全く、飛んだじゃじゃ馬娘じゃないか……!! 大人しく言う事を聞いていると見せかけていきなり牙を剥き出してくるとは、躾がなっていない証拠だな!! 其れも此れも含め、これからじっくりたっぷり時間を掛けてその腐った性根を調教してやるから、覚悟しておけ……っ!」
 男は審神者の頭を鷲掴むと、そのまま壁際へと引き摺っていった。審神者も抵抗するが、男の方の力が強いのか、はたまた呪具か何かで此方の力を制限でもしたのか、何方かは不明だが思うように体を動かせずにされるがままで引き摺られるしか出来ず、文字通り手も足も出なかった。その内壁際まで辿り着くと、一度は解放されるも、前以て其処に取り付けていたのか、すぐに審神者の片腕を鋼鉄製の鉄枷で繋ぎ止める。せめてもの抵抗として鎖で繋がれた腕を動かしてみても、簡単には解けぬ頑丈さが分かるだけに終わる。何をしても無駄な抵抗と知れた審神者は、取り敢えず目の前に居る己に不名誉な拘束を課した男を見上げた。
 男は、何処か恐れた風な口振りで宣った。
「全部お前が悪いんだからな……っ!! 俺の言う事を素直に聞かなかったお前の……っ、お前の所為なんだからな!! 分かったら、暫く此処で反省していろ!! この醜女ブスが……ッ!!」
 審神者の何が気に食わなかったのかは知らないが、審神者の向けた視線を受けるや否や、男は審神者をはりつけにした壁を蹴り付けると、足元へ唾を吐き捨てて踵を返した。そのまま、男は部屋を去り、唯一の出入口となる扉を施錠して行った。
 どうやら、審神者は囚われの身となってしまったらしい。ていの良い監禁の身となった訳だが、術も上手く使えなくては此処から出る術は何も無い。早くも八方塞がりだ。せめて、事態の異常さに気付いた誰かしらが動いてくれたならば良いが、其れも運次第となるだろう。術返しの呪具を身に付けていたぐらいだ、この一室に閉じ込められている内は術を封じるくらいの事はしていよう。何かしらの術が使えたならば、使役する式神でも喚んで助けを乞えたのだが……如何せん、其れすらも封じられてはどうしようもない。完全に打つ手無しだ。
 仕方無く、審神者は助けの手が来る事を願って目を閉じた。此処で下手に暴れたりなどして無駄に体力を消耗するよりかは温存しつつ静かに大人しく助けを待つ方が賢明と踏んだからだ。はてさて、助けは何れ程で来てくれるのやら……。審神者の切れた口端から赤い血の滴がポタリ、白き衣へと落ちて染みを作った。


■□■□■□■□■□■


 一方、忽然と審神者の姿が消えたと騒ぐ本丸へは、とある一本の知らせが届いていた。その知らせとは、一方的で且つ突然の審神者の解雇を通達したものであった。此れには、当該本丸を担当していた管狐も知らぬところで、驚きの一言を上げていた。何かの勘違いであるとして、すぐさま上に掛け合ってくれた管狐だが、上の反応は一貫して解雇との辞令を覆さず、取り付く島も無いとはこの事かという程に冷たくあしらわれた。
 当然、本丸に所属していた刀剣男士達は一振りとして例外無く皆怒りを露わにし、管狐に寄って集って詰め寄った。我等が主を解雇するとは、一体全体何事かと。“其れ相応の理由があっての事なのだろうな!?”――と迫られ壁際へ追い詰められるも、何一つ知らされていなかった下っ端も下っ端も同然である末端の管狐風情にはどうしようも出来ない。せめてもの慰みに、自身の持ち得る限りの力を尽くして審神者の突然解雇の沙汰を解く他無いだろう。
 情けなくもヒンヒンと泣きながら徹底的に虱潰しに当たりどころを探ってくれている管狐のこんのすけを他所に、とある企みを思い付いた一部の刀等は結託し、必死になって審神者の行方と解雇辞令の解除に奔走する管狐へ歩み寄った。
「――なぁ、其処な管狐さんや。ちょいとお話聞いちゃおくんねぇかい……? 何、話さえ聞いてくれりゃあ悪いようにはしないさ。どうだい、俺からの話を聞いてくれる気になったかい……?」
「ヒェッッッ……!! な、なな何卒、命だけはははは……っ!!」
「なぁに、テメェの命を取ったりはしねぇよ。代わりに、主人を攫ったっつー不埒者の首の在り処を教えてくれさえすりゃあ、後は全部こっちが取り仕切る。アンタの命も助かっての万々歳だろう? ……なぁ、此処は一つ取り引きと行こうじゃないか。なぁ、管狐さんよ――?」
 闇討ち暗殺お手の物な最上大業物である刀が口は穏やかに聞こえるものの、その実は恐ろしい形相で凄んでみせた。此れには、の管狐もガタブルと震えるしかない。この返事には“Yes”との肯定以外は認められない空気しかなかった。飛んでもない事になってしまったと、一介の管狐に過ぎぬこんのすけは心底嘆くのだった。


■□■□■□■□■□■


 ――経てして、某主犯格と思しき男の足取りを掴んだ黒衣の刀は、一人、人気の無い通路を歩いていた男の背後を取って警告した。
「動くな。さもなくば貴様の首を此の場で掻っ切るぞ。大人しく俺の言う事を聞けば、命だけは取らん。どうする……?」
「ヒッ!? き、貴様何処から……ッ!? ぐッ……わ、分かった、分かったから……っ! 頼む、殺さないでくれ……!!」
「……うん、よしよしイイ子だ。それじゃあ、このまま俺の質問する事に素直に答えてくれ。……あぁ、前以て忠告しておくが、嘘なんかいた暁には、どうなるか分かってるよな……? ――テメェの首をまだ胴体とおさらばさせたくなかったら、黙って俺の言う事だけについて答えろ。其れ以外の回答は無しとする。良いな?」
「はひッ……!! い、いい言う通りにするから、早く質問しろ……ッ!!」
「ふふっ……そう焦るんじゃないよ。せっかちは何の得にもならんぞ? まぁ、此方も時間が惜しいところなんでね。手短に行くとしようか」
 男は、背後より刀の男に本体を突き付けられて怯える。大人しく降参して両手を上げて応じるも、口調だけは何処か強気でふてぶてしい印象であった。口元を襟巻きで隠した黒衣の刀は、其れには寛大な心で目を瞑り、目的のみを果たすべく再度口を開く。
「俺が訊きたい事はたったの一つでねぇ……。なぁに、簡単な事さ。――俺の主人を何処へ遣った?? 答えろ。さもなくば、その口一生聞けぬように切り刻んでやろう」
「ヒィッ!? ッ……し、知らない!! 俺は何も知らない!! 俺は悪くない!! 悪いのは、全部彼奴だッッッ!! そうだっ……悪いのは彼奴だ!! 彼奴が全ての元凶なんだ!! 俺は何も悪くないッッッ!!」
 男の絶叫じみた喚き声は、他に誰も居ない通路でわんわんと反響する程よく響いた。この答えに、黒衣の刀は心底失望を見せた。
「そうかい。――なら、貴様にもう用は無い。大人しくさっさとくたばるが良いさ。どうぞご愁傷様。精々あの世でじっくりと拝むが良い、己が地獄に落ちぬようにとな。まぁ、その拝む神が居れば、の話だがね」
「え゛ッ――?」
 黒衣の刀が身を引いた刹那、スパンッと音も無く男の首が宙を舞う。胴体から切り離された其れは、暫く放物線を描いて吹き飛んだ先で無惨にも壁にぶち当たり、最後はびしゃりと汚らしくも壁に血糊化粧を伸ばして床を汚す如く転がり落ちて止まった。事は瞬きをする間も無い一瞬の出来事で、男が何が起きたと理解をする前に片付いてしまった。
 男から背を向けた一瞬の合間に抜き身の本体を振り抜いた黒衣の刀は、翻った際に舞った纏いし衣が重力に従って落ち着く頃には血払いをして納刀していた。改めて背後を振り返れば、たった今事切れた胴体が無様にも残した神経だけでピクピクと動き痙攣して動いていた。正直に述べて気色が悪かった。気分は最低値以下のマイナスな気分である。しかし、刀にはまだ遣る事が残っていた。そもが、これから遣らねばならぬ事こそ今回行動を起こした本懐でもあった。
 浅葱の眼光を薄暗闇に躍らせた刀は、影で控えていた者に向かって口を開く。
「くろのすけよ、今の奴の証言・・から主人の居場所は割り出せただろう? 事は一刻も争う。早いところ連れてってくれ」
 言葉に呼応するように影よりぬるりと姿を現した黒い毛並みのこんのすけ――もとい、くろのすけが首肯し、男が向かっていた方向とは真逆の先を指し示して動く。
「仰せの通り、貴殿がお探しである審神者の居場所が割れました。場所は此方です。私が先導してご案内致しますので、このまま私に付いて来てください。……嗚呼、くれぐれも先程の事につきましては他言無用に願います。また、我々も何も見なかった・・・・・・・。良いですね……?」
「あぁ……了承した。俺はただ頼まれていた仕事・・をこなしただけであり……その先で偶然にも・・・・匿名で通報のあった“突如消息不明となっていた審神者”と遭遇、直ちに救出及び保護活動を行った――そういう筋書きの取り引きだ。勿論、アンタ方のメリットも含んだ上での構成だろう。此れで主人の身の安全が保証されていなかったら、俺達は一生アンタ方政府の小間使いの狗共を呪ってやるからな。其れだけの覚悟は持っておくこった」
「……今のは我々への叛意として数えない事と致しましょう。しかし、大目に見るのは今回限りです。次は無いですよ? 孫六兼元」
 仄暗い通路の先を行く管狐が闇に紛れながら警告を口にした。だが、そんなものを物ともしない刀の付喪は不敵にも嗤って言い返す。
「さて、そんな安い売り言葉に買い言葉を返せる余裕があるのは何処までだろうなぁ……? あの男から微かにではあるが、血の匂いがした事から察するに、主人は無傷では済んでないって事だ。まさか其れに気付かぬとは言うまいよ? 政府の犬っころが」
「まさかっ……! そんな……っ、あの男に限って直接手を下す筈など……!?」
「人間てのは、崖っぷちの窮地に立たされた時こそ何をやらかすか分からん生き物だからな……。アンタ等が思ってるより、最悪な事態が待ち受けていると思っておけよ。まず現時点で主人の“無傷での回収”という筋書きは潰されたんだ。怪我の程度は計り知れんが、主人に傷一つでも残してみろ……っ。アンタ等をいつか報復として呪い殺すでもしない限り赦しなんぞ乞えないと思え」
「ッッッ――!!」
 凄まじい威圧感で以て睨まれた黒き管狐は、畏れから全身の毛を総立ちさせながらぶわりと冷や汗を垂れ流した。末席と言えども、彼等刀剣男士は神の位を持ちし人為らざる者共である。そんな彼等より本気の怒りを買った場合、命は無いも等しいのだ。
 事実、くろのすけは今絶望の淵に立たされていた。交渉で取り引きした際に取り決めた予定の筋書きとは事に大きく齟齬が生じた為である。消息不明となった審神者を攫った男の身に血痕が付着していたという事は、つまり、これから救出する予定であった審神者が負傷するような何かしらがあったという事になる。イコール、計画が大きく狂った事となるのだ。本来、審神者は無傷で保護及び回収の手筈であった。けれど、男が思っていた以上に早く下手に動いていた為に、予定が狂ってしまったのだ。此れで自分達の命は無くなったも同然の結末を辿る事となった。これから向かうは地獄への一本道のみ。
 くろのすけは、せめてもと悔し涙を堪えて、待機部隊へと伝える為の遠吠えを一つ上げた。これしきで命が助かるとは思えないけれども、遠吠え一つでも鳴かずには居られなかったのである。哀れくろのすけ及び其れに連なる同胞共よ。恨むなら、貴様等の運の悪さと野放しにしていた諸悪の根源たる不届き者を恨むが良い。


■□■□■□■□■□■


 ――暫く色違い管狐の指示に従い道なりに進んでいれば、突き当たりの場所に辿り着き、ただ一つの扉が存在する場所に行き着く。ご丁寧にも、その扉には中に居る者が術式の類を一切使えなくする呪詛の掛けられた御札が、其れはもう執拗にベタベタと分かりやすく貼り付けてくれていた。此れでは、どうぞ此方へおいでくださいと言わんばかりの待遇である。
 ただでさえ頑丈な造りの鋼鉄製の扉だ。其れを更に封じるように鎖で雁字搦めに括り、執念深いのか用心深く施錠済みの錠前で更なるロックまでも重ねていた。その上で御札まで用意するとは、中に居るのがまるで怪異か何かの類のようではないか。実際のところは、ただの人間の娘が一人閉じ込められているだけである。――が、何も知らなければ、そりゃあ此れ程にまで頑固な守りを決め込んでいれば誰も立ち入ろうとなど思わないだろう。用意周到な事だ。しかし、詰めが甘いと黒衣の刀――孫六兼元は思った。
 呪詛の御札の存在に気付いた管狐が警戒の声を上げ、一度彼に下がるよう告げる。
「孫六兼元! 巻き添えを食らいたくなくば下がっていなさい……! 此れより、クダ屋権限により浄化措置を取ります!! 最大出力の狐火をお見舞いしますので、私を中心とした半径二メートル以内から退避してください!! でないと、焦げる程度では済みませんよ……っ!!」
「ひょぉッ!? 最大出力の狐火とな!? 鋼は火に弱いんだ! 燃やされるのは御免こうむる……ッ!!」
 急ぎ慌ててその場から退避した孫六は、少し離れた角から様子を見守った。直後、管狐の二ツ目が煌めき、口端から仄青い燐が漏れ出たと思った瞬間、膨大な出力の狐火がボワアッ!!と物凄い勢いで口から噴出された。爆発と見紛う程の威力である。その熱量たるや、悪意を持って封じられた鋼鉄の鎖など燃え朽ちてしまう程の浄化作用を持っていた。
 青き炎が落ち着くなり角より出て来た孫六は、先程と打って変わって様相を変えた頑丈な扉の有り様を一瞥し、感嘆の溜め息を漏らした。
「ほぉーっ! 政府もなかなかの隠し玉を持っているじゃないか……! 此処までの芸当が成せるなら、何故先んじて使わなかった?」
「今行った浄化措置は、緊急時にしか解禁出来ぬ封じ手です。コストも高い以上、早々常用的に流用出来る訳無いでしょう……っ。何より、私の依代となった器への消耗も負担も大きく、多用出来ません……。現時点におきまして、私は最大出力の開放を行いました。故に、現器は長くは保たないでしょう……」
「そうか……。だが、其れもアンタ等の勤めならば、最後まで勤めを果たしな。――さて、こっからは俺の仕事だ。今度はお前さんが下がってろよ。じゃないと、うっかり巻き込んでその毛皮斬り刻んじまうかもしれねぇからなァ゙……っ!」
 忠告を告げるや否や、脆くなっていた扉の錠前を鎖ごと叩き斬った。次いで、くろのすけの狐火の影響でガタの来ていた扉のノブを根本からぶった斬る。此れで扉の鍵は使い物にならなくなった。後は強引に抉じ開けるのみだ。其れを分かっている孫六は、乱暴にも足癖悪く目の前の扉を思い切り蹴破った。刹那、扉は呆気ない程の脆さで轟音を鳴らしながら内側へと押し倒された。此れにて(物理での)解錠完了である。
 孫六は、扉を攻略し終えるなり、いの一番という速さで室内へと飛び込んだ。
「主人――ッ!! 無事か!?」
 部屋の中へ入り込めば、其処は何も無いだだっ広い空間が広がるのみの場所で、あるのは室内を照らす為に設置された照明器具の類と――審神者を拘束して監禁する為に用意された拘束器具だけであった。
 普段は誰も立ち入らぬ場所であったのだろう。室内は何処か埃っぽく、換気も行われていないのか空気が淀んでいた。おまけに、床にも薄っすら埃が積もっており、審神者が男から抵抗した際に手を加えられたとされる地点に僅かに血痕が散っており、また、審神者を壁際まで引き摺っていったと思しき跡までくっきりと残していた。その跡を辿るように視線を向けた先に、審神者は囚われていた。突如消息不明となった事が発覚してから然程時間は経過していないにせよ、このような不衛生且つ拘束を受けて不自由な状態に陥っていたならば正気度など簡単に失える。ましてや、彼女は男の手により負傷を負わされている。側には、揉み合ったか何かの拍子で飛ばされたと思しき眼鏡が傷付いた状態で転がっていた。レンズは罅割れている上に、上から負荷が掛けられたのか不自然にフレームの一部がひしゃげてしまっていた。
 孫六兼元は、ゆっくりと焦点を合わせた先で、息を呑んだ。そして、一瞬の刹那にぶわりと全身から殺気を迸らせた。審神者の霊力を含んだ血痕が落ちていた時点で怒り心頭にならざるのを抑え切れなかったのである。まさに、怒髪天。彼の放つ殺気の空気に触れた先から身が斬られてしまいそうな程の鋭利な殺気であった。堪らず、くろのすけは出入口から一歩も中へ立ち入る事も叶わずに立ち竦んだ。呼吸する事さえ躊躇われるような威圧感である。所詮政府より遣わされた式神に過ぎぬ管狐は、身を震わす事しか出来なかった。
 不意に、壁際で拘束されていた審神者の手指がピクリと反応を示した。その事に咄嗟にハッとした孫六は殺気を内に仕舞い込み、急ぎ審神者の元へ駆け寄る。次いで、再度意識確認の為の呼びかけを行う。
「主人……ッ!! 遅くなってすまなかった……!! 意識はあるか? それと、何処か怪我をして出血しているだろう? 今、怪我の状態を確認するから、話す気力が残っていたら協力してくれるか?」
「…………ん゙ん゙……来てくれたか……ッ、ゲホッ!」
「主人! 無理するな……ッ!!」
「ッ……、ちょっ……タンマ……っ、」
 長らく体力温存の為に目蓋を伏せていた審神者は、呼びかけに応じて意識を浮上させた。そして、状態確認の為に口を利こうとして、口の中に血が溜まってしまっていた所為で噎せかけた事に気付き、一度くぐもった声で断りを入れると顔を背けてプッと溜まり切っていた血を吐き出した。そうして少しばかり楽になると、軽く安堵の息をいて顎先へと垂れていた血を拘束されてはいない逆の右肩で強引に拭い去る。着ていた衣が汚れる事になるが、既に自身が垂れ流した血液やら何やらで薄汚れてしまった後だ。今更一つ汚れが増えたところで何も変わらないだろう。
 漸く少しはまともに口が利けるようになったと思った審神者は、単騎で救出部隊として駆け付けてくれたのだろう孫六へ俯きがちに向き直って小さく口を開いた。
「すまん、ちっとばかし不覚を取ったせいで手間を掛けた……っ。一応、無事だ。まぁ……無傷とは言い難いのがアレだが……」
「アンタが無事生きてたってだけでも御の字だ……! 本当に無事に済んで良かった…………ッ」
「すまんなァ、大層心配をかけて……」
「御託は良いさ。主人が無事なら其れで構わん。……ただ、――貴様等政府の狗共を赦した訳ではないからな? この罪、精々墓場まで持って行くこったなァ゙」
 再び殺気を放った孫六は、背後に控えたままでいた管狐へ向かって言い放つ。其れに、名指しを受けたと理解したくろのすけはビクリと体を揺らし、その身を膨らませた。お叱りはご尤も。元より、責は政府側にあるのだ。その内、制裁を下さねばならないと野放しに飼って放置した挙げ句、今回の審神者誘拐及び監禁事件を起こす発端となる元凶を作った。孫六は首のみで背後を振り返り、剣呑に凄ませた視線を投げた。最早、その視線だけで射殺せるのではというくらいであった。
 彼の放つ殺気は、長時間の拘束と負傷を負って衰弱している審神者の身にも響いたのか、ビリビリと肌を貫くような威圧感に彼女が呻きを零した。其れに再びハッとして、慌てて殺気を仕舞い込むなり、現状把握へと意識を戻す。
 見たところ、審神者は左腕のみ拘束されている以外は他は何もされていないらしい。孫六の観察する視線に気付いたのだろう。意図して俯けていた顔を上げ、左上の鎖に繋がれた鉄枷の方を見た。其れを察した孫六が、一つ言葉短めに審神者へ断りとして警告を告げると、同時に素早く鯉口を切って審神者を拘束していた鎖を断ち斬った。途端、壊された鎖の先がガシャンッと硬質な音を立てて床に落ちる。ずっと繋がれっ放しで辛かった片腕がようやっと開放されて少しはマシになった審神者は、怠くて重い腕を自身に引き寄せて感覚を確かめる。少し血の巡りが悪く動きが鈍いが、動かない訳ではないらしい。少しばかり握ったり開いたりを繰り返して動作を確認する。
「そのままじゃあ重くて邪魔だろう? この際、その鉄枷も纏めて斬っちまうから、動かずじっとしていてくれ」
「ん……了解。慎重に頼むよ」
「安心しな、アンタの柔肌を傷付ける程不器用じゃあないさ。こちとら、骨すら穿つ強靭さを兼ね持つ孫六兼元だぞ? 鉄枷のみを斬るなんざ芸当、出来て当たり前だ」
 言うが速いか、忽ちスッパリと斬れてしまった鉄枷がガシャリッと外れ落ち、念願の完全自由の身である。器用な腕前である。流石は、何でもござれな孫六兼元だ。
 感心する他所で、念の為、鉄枷が食い込んでいた手首の辺りを入念に動作確認してみるが、軽度の痛みはあるものの動かせない程ではない。拘束された時点で自力での脱出不可能と見るや否や無駄な抵抗をせず、また無茶な抵抗をする事も無く大人しくしていたからだろう。元より、監禁されたと気付いた時点で多少の痛みを負う事になろうとは覚悟していた。故に、手首と頬と口の中が傷付いた程度で済んだ事は幸いと言えよう。何せ、見ての通りの五体満足だ。これ以上に幸いな事は無いであろう。
 一通り動作確認を終えて満足したのか、顔を上げた審神者に孫六は手を伸ばして触れる。その手は、今しがた自身が拘束具より解放した左腕の手首の辺りを彷徨っていた。
「痕が付いちまったか……痛むだろう?」
「……多少は」
「そうか……。本丸へ帰還する前に、何よりも先に怪我の手当てが必要だな。こんのすけとは別の政府の遣いである管狐が特殊医務室を用意していると言っていた。まずは其処で怪我の治療を行おう。立てるか……?」
「あぁ……ゆっくりとなら、たぶん……、ッ……!」
「急がなくて良い。傷に障るだろう? 傷に障らん程度のゆっくりとした動作で良い。長時間拘束の為身動きが出来なかったんだ。無理に動かさない方が良い……っ」
 急に体を動かしたからだろう。血流が滞っていた上に長時間同じ姿勢であった事で固まった筋肉と関節が軋んで体の節々から悲鳴が上がった。堪らず、一瞬息を詰めた審神者は、ゆっくりと息を吐き出しながらよろりと腰を伸ばす。漸くまともに立ち上がれたと思うも、よろけて膝を付きかけた。どうやら、思ったよりも消耗が激しいらしい。予想以上によろけた体付きに審神者は無言で眉根を寄せた。諸々を察した孫六は、審神者を支えるべく、審神者の負担が軽いであろう右側へとわざわざ回って負傷していない右腕を己の肩へ回し、背中を支えようとした。審神者自身も、今ばかりは彼の力を頼らざるを得ないと判断したのか、素直に感謝を述べて彼の助けを借りようと彼の方を見た。そうして、改めて彼に礼を述べようと痛む口端を極力開かないよう努めて言う。
「すまん、恩に着る……ッ」
「何、此れくらい幾らでも手を貸してや、る――……、」
「……ん? どうした、急に押し黙って……? 何か、気になる事でも……」
 審神者の顔と視線が合った途端、彼の動きが停止した。浅葱の目は此れでもかというくらいに見開かれており、審神者の顔の一部を凝視していたのだ。その視線の行き先に気付いた彼女が、「あぁ……、」と何でも無いように零した上で左頬側へそっと触れた。そして、現状に至るまでの経緯を掻い摘んで話した。
「俺を此処に誘い出した監禁犯こと面布を付けた男がな……俺が抵抗したってんで、その仕置きに容赦無く打ってきた所為でこの有り様よ。思い切り殴られたから、受け身取る余裕も無くて無様に床に転がる事しか出来なかったんでなぁ。……その後、髪の毛引っ掴まれて壁際まで無理矢理引き摺られて、さっきまで俺を繋いでた鎖付きの鉄枷へと拘束されたんだよな。あの糞野郎、最後去り際に壁に足ドンまでかまして行きやがってマジでクッソ腹立ったわ……っ。まぁ、流石の其れは頭逸らして避けたけど? ……ったく、せめての有名な某お坊ちゃまみたく名台詞言うくらいの余裕欲しかったぜ〜……っ。あんなん、今回ぐらいしか言う機会無かったってのに……もうちょい力加減してくれよなぁ? クソが……ッ。お陰様で口ん中まで切れてクッソ痛ェんだが……。ぶっちゃけ、喋るのも辛ェし……」
「…………主人、」
「おぉ、何だ?」
「その傷は、面布の男がやったって言ったな……?」
「え゛っ…………お、お゛ぅ゙……え? 別にこの件でお前が気にする必要なんかひとっつも無いんだぜ?? 今回の事は、俺の油断が招いた事なんだから……っ。本当、こういう事になるなら、前々から護身術の一つでも習って自己防衛出来る術くらいは覚えとけば良かったな……っ」
「チィッ……あんの糞野郎、殺るならもっと手酷く苦しむように殺るべきだったか……ッ。此れじゃ、釣り合わねぇな…………クソッ、やっぱり先に始末したのは不味かったか。此れじゃ俺の腹もスッキリせんし、何より報復が足らなさ過ぎる。……代わりに、残りの残党共の始末を手酷くするよう頼み込んどくとするか……」
「……Ohッ…………今のは、審神者、聞かなかった事にするね……ッ」
 瞳孔かっぴらいて零される言葉の節々が物騒極まりない絶対零度の温度を漂わせていて、迂闊に口を利ける状態ではなかった。よって、審神者は大人しく口を噤み、後は無言を貫き通そうと静かに心の中で誓った。
 斯くして、孫六単騎とくろのすけという特殊編成部隊により、何とか命からがら救出された審神者。孫六の手を借りつつ監禁部屋から脱出した彼女は、改めて背後を振り返り見た。
「うわ……俺ってばこんな辺鄙な処に閉じ込められてたんだ。来た最初ん時には無かった、呪詛付与済みの曰く付きらしき御札が貼られてたっぽい跡がこんなにも……ヒェッ、おっかね……っ。そりゃこんだけ貼り付けられときゃ術式使えねぇ訳だべ」
「一応、術式を使用しての脱出を試みた、という事ですね……?」
「うん。まぁ、術返しの呪具でも着けてたんか、言霊使った事バレて即殴り飛ばされたんだがな。この頬の傷はそん時のよ。ついでに、同時に眼鏡もご臨終なさいまして……っ。お陰様で、絶賛ノー眼鏡の裸眼状態で視界不明瞭だわさ」
「――成程。把握致しました。一先ず、これ以上の滞在は不要でしょう。……何より、これ以上の無駄話は、の御仁の癪に障るようですから」
「へっ……?」
 審神者が思わず零してしまった発言を拾った管狐が問えば、素直に応じてみせた審神者は改めて事を掻い摘んで話して聞かせる。すると、忽ち審神者の傍らに居る彼からの殺気が飛んできた。必要確認事項だったとは言え、早急に会話を打ち切る事にした管狐は、審神者を安全な場所へ移動させる方を優先させた。
「では、此れより審神者様を特殊医務室までご案内致します。迷わないよう、私の後を付いて来てください」
「了解した……。これ以上主人に負担を強いるのも可哀想だし、俺が抱えて運ぶとしよう。その方が速く移動出来て手っ取り早いし……。という訳だから、主人はちっとばかし我慢して俺に抱えられてくれ」
「ウッス……」
「あまり力が入らんと思うから無理はしなくて良いが、一応俺にしっかり掴まってくれると助かる」
「緊急時になってまで恥ずかしいとか言ってらんないよなぁ……。仕方ない、腹ァ括るとしますか。此処は効率優先。故に羞恥は一旦捨て置く。……よし、お願いします……!」
「フッ……そう緊張せずとも、主人の事は俺が責任を持って最後まで運んでみせるさ。主人を守れず怪我を負わせちまった、せめてもの償いだ。今回ばかりは俺達の油断が招いた不徳の致すところ……故に、アンタだけの責ではない。まぁ、こんな程度の事で手を打てなんぞ甘っちょろい考えは持っていないさ。この詫びは、きっちり返す。其れがアンタの刀として顕現した俺なりのケジメだ」
 緊急時とは言え、横抱きにして運ばれる事に躊躇を示した審神者は、一寸ばかり気持ちを固める為に気持ちを入れ替えた。そうして、何とか気持ちを整えた審神者は改めて彼へと運ばれる事への意思を見せた。其れに、孫六は柔らかな微笑を零して応じた。
 右腕を彼の首へと回すように固定して、いざ。なるべく彼女に負担を掛けぬよう慎重に優しく抱え上げれば、其れを認めたくろのすけが先をゆっくりと駆け出す。その後を、審神者を抱えた孫六が黒衣を翻して付いていった。


■□■□■□■□■□■


 審神者の怪我を手当てするべく案内された特殊医務室とやらは、全体的に白を基調とした部屋であった。見渡す限り調度品は質素だが清潔感のある物で、備品と思しき道具等もきちんと整理整頓が行き届いている――例えるなら、学校などにある保健室という印象が真っ先に思い浮かんだ――そんな場所だった。
 審神者は部屋へと辿り着くなり医療用ベッドへと腰掛けて待機しているよう言い付けられた。ので、部屋へ来るなり孫六にベッドの縁へ腰掛けるように降ろされた。監禁部屋から此処までの道のりは其れ程長くはなく、幾つかの角を曲がって人気の無いエレベーターに乗り、何処かの階層へ上がった先に行き着いたのが此処だ。
 医療専門の担当者を呼んでくるからと、二人してその場での待機を命じられた。部屋を出て行く手前に、“勝手に道具に触れる事も絶対に駄目ですからね!”と口酸っぱく念を押して忠告された以上、待つ以外に何もする事は無く、途端に手持ち無沙汰となった。
 初めから担当医師を寄越して待機させておいてくれれば無駄に待つ時間など不要だっただろうに――と孫六は不満を漏らしたが、情報統制の観念からも事前に人員を動かす事が出来なかったのだろう。敢えての人払いしたかの如き静けさに、審神者はちょっとだけ不安を抱き、何とはなしに彼へと声をかけた。
「ねぇ、孫六さん……何の音もしないまんまの静寂は、さっきまでの事でちょっと怖いから、何か喋ってもらっても良い?」
「俺自身は構わんが……主人が辛いんじゃないか? 思い切り殴られた所為で頬は盛大に腫れ上がっているし、口の端だけに留まらず中まで切れてしまっていると言っていたろう。俺が駆け付けた直後、口から血を吐き出す程出血したのなら、無理に喋る事も無いと思うが……っ」
「いや……今お互いにだんまり決め込んだら、其れこそ正気保ってらんなくなりそうで……っ。ぶっちゃけ、痛みよりも恐怖心のが勝ってきて今更震えてきてるし……っ」
 気丈に振る舞いつつも、その実は張り詰めていた糸が切れていたのだろう。膝上に置いた手を震わせて其れを抑え込むように強く手を握り込む。審神者の護衛も兼ねて傍らに椅子を引いて座っていた孫六は、その訴えに眉尻を下げて詫びた。
「すまん……っ。こんな事にすら察してやれないとは、不甲斐無さも良いところだな。……怖かっただろう? 俺が付いているからには、もう安全だ。よく頑張ったな。あの場を冷静を保ったまま乗り切り耐え切るとは、並みの奴では到底こなせん事だろう。よくぞ耐え抜いた。流石は俺達の主人、見上げた根性だ。強いな……っ」
「へへっ……君達百八振りもの刀の主やってるんですもの、忍耐力無くてやってられますかってね……! でも……今回ばかりは流石に堪えたなぁ……っ。まさか、罠に嵌められた初っ端に殴られるとは……いやはや、此ればっかりは参ったねぇ〜」
 本音を零した途端、ぽろり、目の縁から頬へと伝い落ちた涙に、泣いた本人が一番驚いた風に戯けて笑う。
「あ、れ……っ。はは、……何や今更ながらに涙なんぞが…………ははっ、うわ……酷いタイムラグにウケる。ふはっ、は……感覚バグってんじゃん。はは、は……っ、…………ッふ、」
 気持ちとは裏腹に体は正直で、涙を溢れさせて心底安堵したのだという事を如実に示していた。憐憫の情を抱いた孫六は、混乱する審神者の身を優しく懐へ引き寄せて抱き締めた。そうでもしないと、哀れな彼女が壊れてしまい兼ねないと思ったからである。
 無言で審神者を抱き締めた孫六は、彼女の涙が暫く落ち着くまでそのまま懐に閉じ込め、己の体温で包むように回した腕で優しく背を擦る。その優しさが沁みた審神者は、嗚咽しか零せなくなって、しゃくりを上げながら彼の肩へと縋り付いた。
 頭では理解が及ばずとも体は素直だ。恐ろしかっただろう。一人孤独にあんな薄汚く空気の淀んだ一室に閉じ込められた上に、拘束され満足に身動きも取れなかったのは。もう我慢する必要など無いのだ。気持ちが落ち着くまで存分に吐き出せば良い。沢山泣いてスッキリした頃には、少しは気持ちの方も落ち着きを取り戻している事だろう。
 痛ましい傷をこさえて、其れでも尚気丈に振る舞っていた審神者も、今はただの一人の人間だ。其処には何の肩書きも要らない。今はただ、全ての肩の荷を下ろして楽になって欲しい。其れだけが願いだった。

 ――暫くして、落ち着きを取り戻した審神者は、未だ鼻を啜らせながらも一応は涙も落ち着いてきたようで、縋り付くように額を擦り付けていた頭を上げた。其れを察した孫六は、もう大丈夫だなと判断したのか、静かに囲いを解き、ずるりと彼女から身を離す。幾ら取り乱していたとは言え、些かどころかだいぶお恥ずかしいところをお見せしてしまった。審神者は反省した様子で顔を赤らめつつも、御礼だけは伝えておこうともごもごとぎこちなく口を開く。
「いやはや……少しの間とは言え、またもやお世話かけてすまなんだや……っ。でも、お陰様でだいぶ気分が落ち着きやした! 有難うね、孫六さん……!」
「ッ……あ、あ゛ぁ゙……っ、気にするな。此れも、用心棒としての務め、さね……っ。…………ッぐぅ、」
「え……孫六さん? どうしたん、何や顔色変みたいやけど……っ」
「構うな……っ! ……此れは、ちっとばかし、発作的なものを発症しちまっただけさ……っ。心配せずとも、暫くすれば落ち着く……筈……ッ、」
「…………ちょっと待って。もしかして孫六さん……今の状況、俺の血の匂いに誘発されて興奮してない? そうでしょ?」
 明らかに内から堰き上ってくる激情をどうにか抑え付けようと奮闘する様子の孫六は、欲に浮かされた表情をしていた。主人たる審神者を前にしているからと理性で何とか抑え込もうと格闘しているようだが、隠し切れずに漏れ出るその吐息は熱く「フーッフーッ!」と荒く肩で呼吸している。掌で顔を覆い隠すも、指の隙間から覗く浅葱の眼が獲物を狙う獣の如く爛々と煌めいて彼女を見ていた。彼の視線が釘付けになっているのは、どう考えても審神者の口端から溢れて顎まで伝い汚した赤き血の跡だろう。彼女が口を開く度に覗く血に濡れた赤く熟れた口内など、興奮を煽って堪らないものな筈である。
 審神者を救出するまでは堪え切れていたが、緊張の糸が切れたのは此方も同様だったようだ。見るからに血の赤と匂いに惹き寄せられて興奮を露わにした彼は、血に飢えた獣同然であった。
 しかし、審神者も冷徹ではないので、彼をそのまま捨て置き放置する事はなかった。そもが、彼は自身の命の恩人たる相手である。その彼が刀としての本能に抗えず苦しんでいるのならば、助けの手を伸ばしてやるくらいの甲斐性くらいは持っているつもりだったのだ。
「孫六さん、気は確かか……?」
「フーッ、フーッ! 嗚呼ッ……俺も焼きが回ったかね……? どうも、抑えが効かんらしい…………! 参ったな……っ。確かに、時間遡行軍なんかを斬るだけでは足りないなどとほざいた自覚は有るが、こうも禁断症状みたいな感覚に陥った事は…………ッ、」
「俺以外に要因があるって事か……? そういやぁ、此処に来る前、孫六さん確か言ってたよな? 俺を監禁部屋にぶち込んだ面布の男を殺ったって……もしかして、誘発した一番の原因は其れでは? だって、刀剣男士として顕現して初めて斬った人肉だろう。俺に対する報復なのだと分かり切った上での事とは理解しとるが、其れ抜きにしてもいざ人を斬れると知った時の愉悦はどうだったよ……? 性根の腐ったロクデナシ糞野郎とは言え、人の血肉の味はどんな感じがした? お前の中にある渇きは、少しは満たされたかよ?」
 自身の傷などお構い無く彼の異常事態の回復の方を優先したのだろう。審神者は恐れず孫六の元へ近寄り、その顔色を覗き込み、淡々と問う。反対に、血の匂いが鼻に付いて正気を保とうにもグラリと揺らぐらしい彼が盛大に顔を顰めて、審神者から少しでも距離を置こうとした。しかし、其れを許さんとばかりに至近距離へと詰め寄った審神者に、堪らず彼が言葉を発した。
「俺に構うなと言っただろう……ッ!! 主人を傷付けるつもりなど毛頭無いんだ……っ、頼むから今少しの間俺から離れていてくれ……!」
「やだ。すまんが、その期待には応えられんな。俺は、自分の刀が苦しんでいるのを見ていながら放る程鬼じゃない。ましてや、お前は命の恩人でもある。そんな奴を放っておける訳がなかろう。お前がそうなったのには、俺にも原因がある。さっき俺を宥めるのに抱き寄せたのもあるだろう? その体勢のまま暫く密着していた訳だしな。血の匂いに敏感なお前が其れで反応しない訳がない。よって、今の現状に至る要因の一端は俺にもあるって事だ。諦めて大人しく俺の言う事を聞いとけ。そしたら多少はマシになんだろ」
「ぐッ……! アンタ、何を……!」
「ちっとばかし荒療治だが、一番手っ取り早く短時間で済むのは此れぐらいしか思い付かん……。嫌かもしれんが、数秒間耐えてくれりゃ良い。すぐに済む。……あぁ、先に言っとくが舌だけは噛むなよ。これ以上出血沙汰になったら、最悪貧血どころか失血死コースになるかもしれんからな。まだ死ぬ気はねぇから、手加減だけはしてくれ。俺も初めてだし……。取り敢えず、お前は大人しく体の力抜いて口だけ開けといてくれ。そしたら俺がその口塞ぐから」
「なっ……ま、待て……ッ、アンタ正気か……!?」
五月蝿うるせェ。ごちゃごちゃ並べてる暇あんだったら、俺に従え。お前は俺の刀。なら、テメェは主人である俺に黙って従ってりゃ良いんだよ。……あっ、前以て言っとくけど、歯ァぶつけて唇切っちゃったら御免ね? そんときゃ本丸帰ったらちゃんと手入れすっから」
 言うが早いか、未だ抵抗を示す彼の顔を覆い隠そうとする手を退け、反対の手で顎先を掬い上げて強引にも口付けた。彼女の言った荒療治とは、己の血を直接口にでも含ませて一時的にでも禁断症状を抑制しようと考えたのだ。不慣れ故に下手な口吻は、しかし、刀である彼からしてみれば甘美なものに過ぎなかった。
 未だ出血の止まっていなかった口端から垂れる血潮が、孫六の唇を湿らせ濡らす。慣れぬ割りに無理矢理事に及んだ審神者は苦戦しながらも唇を押し合わせてみる。次第に、血に興奮した彼の方から審神者の唇に付着していた血を舐めた。其れを機に一気に行くかと腹を括った審神者が己の舌を挿し込もうと彼の口の中へと押し入る。互いの舌が触れ合った瞬間、ビリリとした痺れが脳髄に走った。だが、此れは飽く迄も治療との意図で行っている事と念じて、審神者は尚も賢明に口吻を深める。その内、互いの舌は縺れつつも絡み合い始める。慣れぬ故に息苦しさを訴え始めていたが、彼の状態が落ち着いていないのを見るや否や行為続行を選んだらしい。
 心無しかゾクリとした快感すら走って変な気分になりかけていたが、己の血液を分け与えんと痛む傷に顔を歪めつつも舌を絡めた。すると、其れをもっともっとと求めるようにジュルリと啜る孫六。気付けば、最初に仕掛けたのは審神者だったが、いつの間にか攻守逆転でもしていたかの如く立場が入れ替わっていた。
 これ以上は腰砕けになりそうだと危機感を覚えた審神者は、徐ろに唇を離した。すると、引き抜いた舌先から何方のものとも知れぬ薄赤色の唾液が糸を引いて垂れた。物凄く卑猥で淫猥に映った其れに内心メチャクソ動揺してしまったのを誤魔化すように乱暴に利き手の甲で拭い去る。その時の孫六の表情は、効果あっての事か、すっかり恍惚としたものに変わっていた。其れは其れは、視界に入れるには目の毒なくらいの艷やかさを持って。堪らず審神者は咳払いをして、勢い良く顔を明後日の方向へと逸らした。
「ッ……! と、取り敢えず? 一先ずは此れで落ち着いたんじゃないかな!? 後は、本丸に戻ってから手入れするなり何なりと対処するから、応急処置は此処までで……!」
「は、ははっ……こいつぁ飛んでもねぇ事をやらかしてくれたもんだ……。人斬りの刀である事を逆手に取ってくるとは……っ。恐れ入ったねぇ。――まさかとは思うが……今のを戯れで済まそうだなんて思ってはいないよなぁ? おまけに……今のくらいで足りると思ったのなら、其れは図り間違いだぞ、主人。なあ」
「ぇ゙……っ、」
 突如としてまともな口調で返ってきた返答がもたらした言葉は、審神者を一瞬で青褪めさせるには十分な力を宿していた。彼女が煽ってくれたお陰で正気を取り戻したついでに別な意味で元気になってしまったらしい。おまけに、未だ片手は彼女の後頭部を支えるべく宛てがわれたままだった。今度は孫六が本気を見せる番なようだ。
 意図を理解して身を引こうとした審神者の頭を強引に引き寄せ、逃げる隙を与える間も無く半ば噛み付くように彼女の唇を迎えに行く。血に濡れてぬめつく唇を割って入れば、血の味が濃く充満する口内へ再び触れる。息継ぐ暇も無く審神者の口内に溢れる血の味を貪り尽くさんとした彼の舌が、狭い口内を暴れ回り敏感な性感帯を含めて蹂躙する。途端、ふにゃりと腰から下の力が入らなくなってきた審神者が体勢を崩して前のめりに崩折れる。其れをしかと受け止めた孫六は、尚も彼女の血を欲する余りに加減無しの口吻を行った。
 だが、タダでやられる彼女ではない。息の苦しさに堪え切れなくなった審神者が徐ろに渾身の力で以て彼の肩を引き剥がし、逃れたのだ。次いで、お仕置きとばかりに目の前にあった彼の顎を上向きにグキッと押し遣った。流石の此れには行為をやめざるを得ず、審神者へと軽い無体を働いた報いだとばかりに今しがたの反動で思い切り首を痛めた孫六は呻きを上げた。決して今のは審神者は悪くない筈だ。
「ちょっと……!! 俺が怪我人だって事途中から忘れてない!? 調子に乗んのもいい加減にしろ!! この物騒助平……ッ!!」
「おいおい、人聞きの悪い……最初に誘ってきたのはそっちだろう?」
「俺のは飽く迄も応急処置での緊急対応として行った荒療治であって、それ以上の感情は一切として含みませんので悪しからず……ッ!! 全く油断も隙も無い奴だな!?」
「しかし、まぁ……突然の事とは言え、アンタから口付けてくれるなんて思わなかったよ。そういう事には疎そうなのに、どうしてこうも突飛な発想でやってくれるかねぇ。緊急時の応急処置であったとは言いつつも、すっかりその気になっちまったじゃないか。アンタの所為だからな……? この落とし前は、後できっちり付けてくれよ主人?」
「だぁーから調子に乗んなって言ってんだろうが、ド阿呆……ッ!! こんな対応すんのは今回限りだ!! 次に血に飢えたって二度と同じ事してやらないからな!?」
「ははっ……照れてるのか? 今更な反応だなぁ……っ。だがしかし、そんな反応も初心らしくて良いと思う。率直に言って、いぞ」
「うるっせぇ!! もうお前黙れボケカスッ……!!」
「――あのぅ……お取り込み中、大変申し訳御座いませんが……専門の担当医を連れて参りましたので、治療に移ってもよろしいでしょうか……? というか、そんな勢い良く息巻いておりますと、折角塞がっていた傷口が開いてまた出血を起こしますよ……」
「どうぞお待たせして申し訳ありませんねぇ!! 文句ならこの場の空気も読まずただの助平刀と化した此奴へ仰ってください……ッ!! 俺は此奴にしてやられた被害者です!! 断罪すべきはこの真っ黒黒助野郎です……ッ!!」
「お気持ちは察しましたから、一先ず落ち着きましょうか審神者様。傷に障りますんで……っ」
「ヒィンッ! 理不尽の極み……!!」
 他人が居ぬ間に乳繰り合うんじゃねぇよとばかりに冷めたチベスナ顔を向けてくれたくろのすけへ、せめてもの温情を賜りたく審神者は声を荒げて抗議した。しかし、絶賛貧血も良いところの怪我人なのだ。刀剣男士的に表すなら、恐らく中傷は堅いレベルの負傷レベルである。普通に安静にしろと窘められるに留められ、審神者は引っ込んだ筈の涙をぶり返して泣いた。其れにまたチベスナ顔を向けたくろのすけに、今度は孫六の方が頬を引き攣らせる番であった。
「おいおい、そんな目で見るんじゃないよ。心外だな……っ」
「いえ、こんな場で盛る程元気が有り余っておいでなら、別働隊の方へ途中参加なさった方が良かったかもしれないなと思っただけです……。まぁ、審神者様を一人にする訳には行かなかった為、最低限の刃員じんいんを割いたまでですが。些か不謹慎が過ぎるかと……。本能に引き摺られるのは構いませんが、審神者様へ危害を加えるのは感心しませんよ? ましてや、手負いの者を甚振いたぶるなど……悪趣味が過ぎます。まさしく、何処ぞの不埒な輩と変わりありませんね。すわ、貴方が葬り去った例の男と同格に成り下がる事になってしまいますが……よろしいので?」
「ハッ……責任転嫁と来るか。政府の犬っころ共の考えそうなこって……。俺は場の空気を和まそうとしただけであって、何もアンタ等を赦した訳じゃないからな? 努々ゆめゆめ忘れるんじゃないぞ、手下すら飼い慣らせん木偶でく共が。二度同じ真似したらタダじゃ済まないどころの話ではなくしてやろう」
「ッッッ……!!」
 忘れた頃に顔を覗かせた彼の神としての一面に、再び戦慄した管狐はぶわりと毛並みを膨らまし身を縮こまらせる事しか出来ぬのであった。
 その後、審神者は対人間としての治療を受け、本丸への帰還を許された。漸く完全なる身の解放に心底疲れ果てた溜め息を吐き出す。
 一時的とは言え、監禁で多少なりとも消耗及び衰弱していた為、回復薬として点滴で栄養剤を二本程打たれた。其れにより、怠さは残るものの何とか体の動きを取り戻した審神者はおのが足で帰路を歩く。
「はぁ……眼鏡どうしよ……。予備のヤツなくはないけど、普段使い用じゃあないからなぁ〜……はぁ、困った」
「其れなら、そう心配せずとも、あちらさんがどうにかしてくれるだろう」
「責任取って弁償してくれるって……?」
「まぁ、補償という意味合いでなら、その通りだな。今日一日は不便するかもしれんが、明日までの辛抱と思って大人しく待っていれば良いさ」
「はぁ。よく分かんないけども、取り敢えずはそういう事って事で待っとけば良いんだね? 分かりやした……っ」
 平然とした風なかんばせを見せる彼女だが、その左頬には大きな白い湿布が貼られているし、切れた口端は浅黒く変色し、左手首には包帯が巻かれていて見るからに痛々しい有り様だった。そんな審神者の傍らを付かず離れずの距離で歩く孫六は、終始仄暗げな色を浮かべて浅葱の二ツ目を爛々と輝かせる。いつか此度の報復をと腸を煮え滾らせる用心棒斯くや、その目は鬼神の如く恐ろしい目付きをしていたと管狐等は語る――。


■□■□■□■□■□■


 ――翌日、いつもより少し遅めの時刻に起きて大広間へと行くと、一文字のご隠居たる刀が扇片手に笑みを浮かべて待っていた。
「よぉ、主。起きたか。おはようさん。お前さんのお望みの物が届いたんでな、忘れん内に早いところ渡しておこう。ほれ、新品同様に新調した眼鏡だ。此れが無くて昨日一日不便してただろうからなぁ」
「えっ、あ、えっ? 何で御前が俺の眼鏡壊れた事知ってんの??」
「そりゃあ、後始末としてお前さんを陥れようとした上層部を片付けたのは僕等一文字だからなぁ。後処理で主が監禁されていた部屋に入った際に、壊れたコイツを見付けてな。すぐにピンと来て修繕に出したついでに、今日中に仕上げてくれと無理を承知で頼み込んだという訳さ。腕利きの良い店だから、仕上がりは補償するぞ。勿論、費用は全て政府持ちだから気にするな! うははは!」
「隠居爺とか言いながら平気でこういう事をやってのけるから一文字は怖ェのよ……っ」
「まぁ、良かったじゃないか。此れで視界に困らなくなるな」
「そうだね。眼鏡無いと、皆の顔がよく見えないから地味に困る」
「……本当、ウチの主人は無自覚に刀をたらし込むのが得意だねぇ」
「えっ、御免、孫六さん今何か言った?」
「いや……何も」
 裏でこっそり回収してくれていただけに終わらず、修繕にまで出してくれていたというのが驚きだ。審神者は手に馴染んだ眼鏡を掛け、改めていつの間にか隣に佇んでいた孫六の顔を見上げて微笑むのだった。


執筆日:2023.11.16
公開日:2023.11.21