▼▲
拗らせ愛



 フッと、呼吸をするのと同じように目蓋を開いて、ハタ、と気付いた。「あれ? コレ……自分、何時いつ移動したんだろう?」――と。
 気付いたのを切っ掛けに、俯けていた視点を上向けて辺りをキョロキョロと見渡した。すると、いつの間に手を繋いでいたのだろう。黒い手袋をした手が己の手を引いていて――手を繋いだ部分から此方が余所事へと関心が逸れたのを感じ取ったらしい――己の手を引くようにして前方を歩いていた人物が、くるりと頭を動かして此方を振り返り見た。
「あ、雇い主っ。気が付いた?」
「あぇ……え? 何……俺、歩きながら無意識に寝でもしてた?」
「違うよ。そもそも、此処、現実世界じゃないしっ」
「へ……どゆ事?」
「雇い主がお疲れみたいだったから、ちょっと体休ませてあげる為に、少〜し神様としての力を使って連れて来た……みたいな感じでーっす! あっ、飽く迄も悪用はしてないから、怒らないでいてくれると嬉しいかな」
「ほぁ……何やよう分からんけど、自分の知らん内に何か凄い事起こってたんやなぁ〜って事だけは分かったわ」
「ははっ、語彙力無さ過ぎてウケる!」
 いつも通りな雰囲気の彼がにこやかな笑みを浮かべて笑う。そんな彼に手を引かれて、現在進行形で何処其処に向かって歩いているようだった。把握出来たのは其れだけで、現状に至るまでの前後の記憶が無いのも相俟って不思議な感覚を覚えた。けれど、決して不快感を抱く事は無く、ただ導かれるままに彼の後を付けて歩く。
 少しして視界が開け、薄暗い回廊のような場所から出た。今歩く場所は水上に浮かぶ造りでもしているのか、通路の両側を挟む形で湖が視界に入る。水面には、美しく大きな蓮の花が一面を彩っていた。その清廉で静かな佇まいに、「ホゥ……ッ」と溜め息が漏れた。その様子を前方からチラリ横目に見ていたようで、クスリとはにかむようにして笑いながら彼が口を開く。
「ふふっ、気に入った?」
「うん……凄く綺麗」
「有難う。雇い主に気に入ってもらえるように調整して創った場所だったから、そう言ってもらえると嬉しいっ」
「へぇ……。ところで、コレ、何処に向かってるの?」
「うん? 其れは着いてからのお楽しみって事で、なぁーいしょっ! 大丈夫。心配しなくても、もうすぐ着くよ」
 彼の言う通り、程無くして、通っていた場所よりも更に開けた場所に来た。辺り一帯がよく見渡せる、景色を眺めるには丁度良い場所だ。
「ハイ、とうちゃーっく! 此処が、雇い主を連れて来たかった場所だよ」
「おぉ……っ、何だかめっちゃ綺麗な処だね。空気も澄んでて心地の良い場所だなぁ」
「そんな褒められると何か照れちゃうなぁ〜っ」
 連れて来られた場所は、何処かの屋敷にでもあるような釣殿だった。いつの日か何かで見たような、そんな素敵な場所。夢に出て来るには相応しい場所だった。思わず感嘆の溜め息が漏れ、いつの間にか離されていた手には気付かずに、端にまで近寄って湖面に浮かぶ大きな睡蓮の葉と花を拝んだ。途端、覗き込んだ水面に喜色の滲む己の顔が映り込む。その隣の空間に、遅れて横へ並んで同じように覗き込む彼の顔が映った。
「雇い主は、蓮の花好き……?」
「うん、好きだよ。綺麗で、美しくて、何だか清楚な感じがして、見ていて心が洗われるような気がする」
「そっか。其れなら、良かった」
 そうして、二人して釣殿の端っこで静かに佇み、湖面に浮かぶ睡蓮を眺めていた。
 無言で景色を眺めて楽しむ事数分が経過したのち、思い浮かんだ疑問をそろり、口に出して問う。
「……ねぇ、何で俺がこんな場所に君と居るのかとか、此処がどういった場所なのかって事とか、訊いても良い?」
 すると、己から質問される事を待っていたのだろう彼が、満を持したように口を開いた。
「そうだね。順を追って説明すると……まず第一に、此処は、俺が創り出した空間で、所謂霊域とか神域って呼ばれるような処ねっ。第二に、何でわざわざ特別に空間創ってまで雇い主を連れて来たかって言うと、大層お疲れな様子の雇い主を休ませる為に、かな。決して他の刀達に嫉妬したりして独占したくてやったとかではないから、其の辺は安心してくれて良いよ。今言った以外に他意は無いから! 飽く迄も、今回の事への行動目的は、本当に雇い主の事を休ませたかっただけなので……っ! まぁ、傍から見たら、半ば強制的に思えなくもないので、信じてもらえないかもだけど……」
「いや、別にそんなんは全く無いから逆に安心して欲しいんだけど……。そっか、此処は八丁君の創り出した神域だったのか。この場の空間に漂ってる空気とかで何となくそんな気はしてたけどさ」
「引いたりとか、嫌悪感抱いたりとかはしないんだ……?」
「君を否定したり拒絶したいとかって気持ちは断じて無いので。単に在るが儘を受け入れる感じかな」
「はぁ〜、流石は雇い主……伊達に五年と半年以上も審神者勤めてないねっ! 懐のデカさが違う!」
 真面目な空気で場の空気が重くなるのを避けてか、説明口調だったのから自然とおちゃらけた口調へと喋り方を変えて場を和ませる。其れに対して、終始淡々とした口調で言葉を返した。
「今や百八をも超える数の刀剣男士を束ねる本丸やってるからねぇ。百八だよ? 最早煩悩の数を超えとるんよ。そんな数の刀等相手にしてたら、そら多少の事にゃ動じなくなっちまうわな」
「其れでも、普通いきなり神域なる場所に拉致られたら、驚いたりとか悲鳴上げたりとかって反応しない?」
「うーん。相手が他所の子の刀だったりとか、見知らぬ怪異だとかが相手だった場合はそれなりにビビっただろうけども……飽く迄もウチの子な訳だし。何かしら理由があって、其れがマジで俺の為とかだったりしたなら、怒るとかそんなん前にわざわざそんな手まで使わせてしまって御免なぁ〜って謝るかな……?」
「えぇ……本当、雇い主ってばマジで自分の本丸の刀達に甘過ぎない……?? いつかパクッて獲って食べられないか心配になるレベルなんですけどっ! 分かってると思うけど、俺達此れでも一応神の端くれよ? だから、こんな事出来ちゃう訳で……っ」
「うんうん。でも、今の話、審神者ならあるあるな話でしょ? 誰が何を言おうとウチの子は可愛いし、ウチの子が一番。異議は認めん」
「思ったよりも強火じゃん、草ァ」
 一瞬でも漂いかけた真面目な空気は何処へやら。プッ、と吹き出されたのを切っ掛けに、緩い空気へと移ろう。
 まさか吹き出される程とは思いもしなかったが、其れで彼の気が楽になったのか、肩の力が抜けた様子でその場に腰を下ろした彼は此方も腰を下ろすようにと促す。
「立ったまんまはしんどいっしょ? 何処でも良いから、好きに座りなよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。空いてるお隣に失礼しまーっす」
「どうぞどうぞ〜っ」
 促されるまま彼の隣のスペースへ腰を下ろして座れば、後ろに手を付いて足を伸ばして座る彼が前方の景色へ目を移す。何となく其れに従って、己も同じ景色へと視線を移した。
 再び沈黙が降りたが、嫌な気はしなかった。寧ろ、静寂こそが空間に合っている気がして、喋る事が無い内はお互いに黙っていた。
 その内、ふと考えが思い浮かんで、視線は前へ向けたままに問う。
「ところでさぁ……純粋に気になったんだけども、どうして神域へ連れて来た理由が“俺を休ませる為”だったの?」
「え……もしかして無自覚?」
「はぇ?」
「うわー……其れは流石に無いよ雇い主……っ。まさかの無自覚とか、重症以外の何物でもないじゃん。嘘でしょ?」
「ぇ゙……八丁君が何に対しての事を言ってるのか全く分かってないんだけど、何か御免……っ」
「本当にね。何でそういうところばっか鈍いかなぁ〜っ。もう少し自分の体労ったりとかしなよ。雇い主が倒れたら元も子もなくなるんだから、体は大事にしてくれなきゃ困るよ?」
「えぇ……そんなに疲れた顔でも引っ付けてた? 俺……っ」
「うわ、マジか。其処も自覚無いんだ……ッ。雇い主ったら変に社畜過ぎ。そんなんじゃ、ガチで体壊すからやめな?」
「あははっ……もう既に過去で一度壊した後だから何とも言えんなァ〜」
「そういうところ、雇い主の悪い癖だよ。変に自己犠牲で体痛め付けるのやめてくださいっ」
 どんな回答が返ってくるかと思えば、まさかのお説教で別の意味で驚いた。一先ず、耳に痛い話であったので、素直に頷く事にしておく。ついつい乾いた笑みが漏れ出てしまった事に関しては大目に見て欲しい。
 そうこうしていると、彼が真面目な空気を崩さずに、観察していたのだろう己の事についてを語り出した。
「雇い主は気付いてなかったっぽいんで、改めて俺の口から言うけども……ここ最近の本丸に帰ってきた時の雇い主は、いつも何処となく眠そうにしてたよ。気付いた時には、うっかり寝落ちちゃってる事とかザラにあったし。まぁ、偶々イベントの時期と被ってて、単なる周回疲れ起こしての事だったのかもしんないけどもさ? 最近の雇い主はずっと疲れた顔貼り付けてたよ。ちゃんと眠れてるのか心配になるレベルで」
「お゙わ゙ぁ゙ッ……マジかぁー……っ」
「マジです」
「そら、俺が悪かったわな……。すまなんだや、色々と多方面に心配かけさせてしもうて。ホンマにすまんやで」
「良いよ、今更の事だし。もう慣れましたっ」
「おぅッふ……そういう事は慣れなくても良いのよ、八丁君。駄目な事にはちゃんと“NO”って言って」
「ソレ、漏れ無く雇い主にもブーメランですんで」
「ははッ……痛いところ突いてくるな君……」
 出来る部下をたしなめていたら、思わぬところを突かれて無性に泣きたくなってきた。自分どんだけ部下に心配かけさせてるんだろう。
 其れは兎も角として、もう一つ気になる事があったのを思い出して、再度口を開いた。
「そういえばなんだけどさ……現実の俺って今どうなってんのかな。ぶっちゃけ今更な事訊くけども、今の俺って本体ごと連れて来られてる感じなの? それとも、精神のみ連れて来られてる感じ?」
「いや本当に今更な話だし、物凄くぶっちゃけて訊いてくるじゃん。ド直球ドストレート〜」
「だって、回りくどい言い方すんのもめんどいし」
「雇い主らしい答え〜っ。んじゃまぁ、質問に答えるとしますかぁ。まぁ、ほぼほぼ雇い主が気付いてる通りだと思うけど、現状の雇い主は精神だけコッチに来てる感じだよ。体の方は、寝室の布団の上に寝かせてる状態だから、意識が戻れば布団で目を覚ます流れになる感じかな」
「なるほ〜。把握致しやした」
「いや、さっきから思ってたけど、雇い主かっっっるぅ!! もっと別のリアクション無いの!?」
「すまねぇな、君が期待したようなリアクション取れなくて……」
「いや、そもそもがそんなアトラクション的な扱いされると思ってないからッ!! もぉ〜っ、何でそんなところばっかり無駄に耐勢力あるかなぁ〜!? 雇い主はもうちょい遠慮とかしないで我が儘になっても良いと思います……っ!!」
「例えば、どんなよ……?」
「……もっと誰かを頼ったりとか、甘えたりだとか、して欲しい……デス」
 思い通りの展開にならなかった事で拗ねたのか、ムスリとした顔をして視線をそっぽへ向ける彼。何とも子供っぽいが、彼の其れは魅力の一つに過ぎないので、ただただウチの子への愛しさが増すだけだ。
「何だ何だ、そんな事でこんな大掛かりな事仕出かしたのかぁ〜っ? もぉ〜、八丁君たら可愛い奴だなぁ!」
「其れ絶対褒めてないっしょ!?」
「んふふ、褒めてるよ。間違いなく、今の八丁君は可愛いよ。断じてこれっぽっちも怖くなんかないね」
「はぁ〜……っ。雇い主ったら図太い……」
「ははははっ、何とでも言うが良いさ。此れくらいの事じゃ、俺は揺らがんよ」
 カラカラと笑いを零せば、不貞腐れたような顔付きだったのを顰めて眉根を寄せられた。解せぬ。
 そんな風に思った此方の感情を察したのだろう、彼が溜め息をいたと同時に動いて迫る。
「偶には、その余裕面崩してみせなよ」
「え……」
 隣で緩く後ろ手に手を付いて座っていた筈の彼が、ズズイッと前のめりに此方へと身を乗り出している。その所為で、整っている彼の顔が至近距離に迫り、驚いた反射で身を引き、反対に此方が後ろへと手を付いて仰け反った。すれば、その手を拘束するかの如く上から手袋をした手を重ねられて、逃げられなくなる。手加減はされているのか、痛くはないし、拘束力としては弱いが、決して逃さないという意思を感じる。故に、よく分からないまま、されるがまま相手へと委ねた。
「雇い主はさ、俺達に対して少し遠慮がちなの、気付いてる……? たぶん、俺達に嫌われないようにって予防線張って、そういう身の振り方で生きてきたんだと思うけどさぁ。俺からしてみたら、何だか悲しいよ、其れ。信頼はされてるって分かってる。でも、其れがイコール本当に仲良しになった事にはならないよね?」
 黙って彼のもたらす言葉を肯定していれば、無言である事がその先へと促したのか、彼は話す事を続けた。
「雇い主って、周りに嫌われたくはないから、多少の事には目を瞑って、嫌と思った事も受け流して遣り過ごすでしょ? でもさ、其れは飽く迄もでの話じゃん。本丸に居る時くらい遠慮しないでよ。本丸は、雇い主が俺達と築き上げてきた、雇い主にとっての大事な居場所でしょ。自分の作った居場所でくらい、肩の力抜いて甘えてきたって良いし、そんな事くらいで誰も怒らないよ……っ。だから、雇い主は時には甘える事を覚えても良いと、俺は思うんですよね……! 言い方悪いけど、はっきり言って、見ててコッチがしんどくなるからさぁ」
 コテン、とあざとらしく小首を傾げて上目遣いに伝えてくる今の言葉は、屹度きっと本心からのものだろう。その証拠に、引かれたくはないのか、僅かに目が揺らいでいた。
 其れもそうだろう。本丸に来てから一年余りしか経っていない。他の古参勢からしてみれば、まだ彼は新刀扱いだ。故に、不安なのだろう。他と比べて、自分への扱いや信頼への厚さが異なる事に。
 馬鹿な子だ。他と見劣りする事など有りはしないのに。例え、現状己の置かれた状況が半強制的に拉致されたような形であろうとも、“彼は彼である”という認識が変わる事はない。
 だから、彼の言葉を肯定する意図として、間近に迫られていた顔へ額を突き合わせて、其れを応えとした。
「御免ね、色々と気遣わせちゃってさ」
「……本当にね」
「ははッ……六年と半年以上続けてても、未だに壁を築くのは、俺の癖みたいなモン……なんだろうな。信頼してない訳じゃあないんだけどさ。頼り過ぎて反対に嫌われるのが嫌だから、ある程度出来る範囲は全部自分でこなさないと、周りから怒られちゃうかもって……無駄に強迫観念があるからだと思う。そうなってしまったのは、俺が生まれてから過ごしてきた環境によるものだから、諦めてくれ。別に、俺は成るようにして今までを生きてきたから、後悔はしてないんだ。だから、君が俺の過去を痛ましく思う必要は無いよ」
「うん……。でも、さ……此れだけは言わせて欲しい」
「何……?」
 額を突き合わせた時こそ一瞬驚いていたが、その後は大人しく此方に付き合って伏し目がちに向き合ってくれていた彼が意を決したように告ぐ。
「雇い主は、もっと甘えても許されると思うよ。少なくとも、そう思ってるのは俺だけじゃないって事だけは伝えておくね」
「……ふふっ、八丁君は優しいね」
「自分の為なら、半強制的に雇い主の事拉致するような刀だよ、俺は。それなのに、優しいって思ってくれるの……?」
「人の為、相手の事を思って起こした行動なら、十分に優しいでしょ。俺の刀である君は優しい刀だよ、八丁君」
 伏せていた目をゆるり持ち上げて、突き合わせていた額を離し、改めて視線を合わせて言った。
「有難う、俺をこんな素敵な場所に連れて来てくれて」
「どういたしましてっ……!」
 半強制的に拉致されておいて御礼を告げるのもどうかと思ったけれども、感謝の念を抱いたのは事実だから訂正はしないでおく。
 話に一区切り着いたのを察したのか、パッと身を引いた彼が体勢を変えたかと思えば、ひょいと軽い身のこなしで己の事を抱え上げて立ち上がる。突然の奇行に驚いて慌てる素振りを見せれば、クスクスと其れを愉快そうに見つめ返してきて、無性に恥ずかしくなった。
 落とされたくはなくて、大人しく彼にされるがまま身を委ねていたらば、先程近寄った端の方まで寄り、ゆっくり安全な柱側の手摺り部分へ己を腰掛けさせてくる。其れに従って、柱へ半分身を預ける形で手摺り部分へ腰を落ち着かせると、彼は満足そうに笑みを浮かべた。
 手摺り部分へ腰掛けた事で、普段は下から見上げる事しか出来ない彼の頭が自分の視点よりも少し下にあるからか、彼に見上げられるという感覚が新鮮で珍しく感じた。何を思って己を手摺り部分へ乗っけたのかは分からなかったが、彼がそうしたかったのなら好きなようにさせようと思う。何故ならば、此処はそういう場所だから。此処は、彼が己を思って創り上げた神域だ。ならば、主導権は彼の方にあるだろう。抵抗する気など端から無かった。
「ねぇ、雇い主、一つ訊いても良い……?」
「何で御座いやしょう」
「俺が創った神域に対して、どう思う?」
「どうって……?」
「何でも良いよ。雇い主が思った素直な感想を聞かせてっ」
 そう言って笑った彼の目は、何故か笑っていなかった。ビジネスライクのつもりだろうか。取り敢えず、そんな態度を取られたのが気に食わなかったので、キョトンとした顔を向けて、無言でムニリと彼の片頬を抓ってやった。まさかそんな返しが来るとは思っていなかったらしい彼が、戸惑ったような困った風に両眉を下げて「いひゃいでふ……っ」と漏らす。其れに敢えて何も返さないまま、目の前にある整った顔へ身を乗り出した。
「君が何に対して身構えているのかは知らんけどもな。俺は君が期待しても、否定する事は絶対にせんからな。この空間に対しての感想も、来て最初に言った言葉と一緒だよ。綺麗で、美しくて、心が洗われるような、そんな場所だって。逆に訊くけど、何でこの情景が俺に合わせて・・・・・・なの?」
 喋りやすいように抓っていた手を離そうとすれば、其れを遮るように彼の手を重ねられて、離そうにも離せなくなってしまった。
 彼はそのままで居たいのか、頬に触れる己の手に自分の手を重ねたまま、おずおずと口を開く。
「俺、雇い主も知っての通り、混ざりものの多い刀だからさ……。コレという定まった逸話が無い分、神域を創る上での確かな根拠が無い訳。でも、その分自由度は増すから、其れならいっそ雇い主好みに作り上げちゃおっかなって思い至って。其れで、俺の刀紋をベースにイメージした空間を想像して創ってみた感じかなっ。……だから、例え上辺だけのお世辞でも“綺麗”だって言われたの、嬉しかったんだよね」
 そう言って、はにかんだ風の笑みを浮かべる彼の口から零れた言葉は本心からのものだった。蓮の花は、彼という刀を証明する為に必要なものの一つだ。其れを褒められた事が余っ程嬉しかったらしい。
 彼が喜ぶ様を見ていたら、何だか自分の事のように思えてきて、此方も嬉しくなる。だからこそ、その気持ちを伝えるべく、片方だけ触れていた手を両頬に触れるように変えて、再度感謝の念を告げた。
「そっか。じゃあ、尚更感謝しなきゃだ。今日、俺を此処に連れて来てくれた事」
「ほぼほぼ無理矢理連れて来たようなもんなのに御礼言われるだなんて、何か変なのっ。寧ろ、審神者なら怒るべきところでしょ? “勝手な事して駄目な刀だぁー!”って」
「別に、こんな事ぐらいで怒んないよ。君は、他人の事を思える優しい子だし、思い遣りのある偉い子だもの。良い子だねって褒めはすれど、怒ったりはせんて」
「あはっ、やっぱり雇い主のが優しいじゃん」
 両頬をおのが手に包まれても嫌な顔一つせず、寧ろ嬉しそうな顔を浮かべて微笑む。
「ねぇ、雇い主?」
「何ね」
「優しい雇い主に甘えて、一つ我が儘言っても良い……?」
「良いよ。どんな我が儘か言ってみな」
 安易に頷いて先を促せば、彼はくふくふと笑みを湛えながら零した。
「偶にで構わないから……またこうして雇い主の事攫ってきても良いですか?」
「何だ、そんな事かいな」
「えっ……そんな事って、結構な我が儘言ってる自覚あるんだけど……雇い主的には許容範囲なの? 其れって逆に大丈夫? 無理とかしてない??」
「自分から言い出しといてコッチの心配してくるとか意味分かんないんだけど。言い出しっぺなら、そのまま我を通すくらいの一方さ保とうよ」
「いや……だって、飽く迄も此処へ雇い主連れて来た理由は、雇い主の事休ませる為だった訳だから……っ。そんな平然とお許し貰えちゃうと、図に乗るかもしんないよ……?」
「良いんじゃない、別に。俺は基本自分の子達には放任主義で居るし、好きなようにさせといて自分の子達が幸せで居てくれんなら俺も十分幸せだし」
「……本当、雇い主ってばガード緩過ぎんでしょ……っ」
「え……?」
 ボソリ、と呟かれた言葉のみ拾い切れなくて。聞き返そうと思った時には、目の前にあった顔が先程迫られた時よりも間近にあって。気付いた時には零距離状態だった。
 一瞬、何が起きたか分からず、思考も何もかも固まって、ただ呆然と目の前を見つめていた。そしたら、伏せられていた目の前に映る目蓋が開いて、深い青色をした両の目が此方を覗く。綺麗だと思った。この空間へと抱いた感想と同じように。
 思考の背景に宇宙が広がる間もなく、数秒か数分かも分からない時間くっついていた唇が離される。途端、お互いの唇が触れていた箇所に生温かな柔い残り香のような感覚だけが残った。
 唇は離されども、未だ吐息の掛かる近い距離に居る事に変わりはなく。しかし、その事に不思議と嫌な感じはしない事に内心驚いて見つめ返した。すれば、そのままの距離で、彼は瞳を揺るがさないまま真摯な色を乗せて告ぐ。
「俺、雇い主が思ってる程良い子でも偉い子でもないから、雇い主が許したら許した分だけ距離詰めて迫るからね。狙った的は外さないよ、って言ってあったでしょ……?」
 成程。其れから言うと、己は彼の的――もとい、獲物だったという事か。それならば、わざわざ神域という場所にまで連れて来られた理由が少し分かった気がした。
 彼の中で何時いつからそんな風に思われていたのかまでは分からないが、好意的に思われていた事は嬉しい限りだ。決して嫌な気はしない。寧ろ、こうして自然と受け入れてしまえるくらいには、己も好意的に捉えていたという事の表れなのだろう。
 だから、反対に彼から頬へと腕が伸びてきても拒まなかった。
「嫌なら、本気で抵抗してみせて。じゃないと、俺……もう止まれる気がしないから。御免ね、雇い主の事好きになっちゃって。ただの雇われ傭兵な刀で居れなくて御免なさい。でも、俺ももう我慢利かないくらい好きになっちゃったんで、雇用主俺の雇い主として、責任取ってくださいっ」
 そう言って、彼はもう一度口付けを強請る。口付けを許すのは、ウチの可愛い御刀様が言うからじゃない。屹度きっと、根底に異性として意識していた部分があるからだ。だから、拒まない。二度目の口付けも、一度目の時のようにそうするのが自然だろうという風に受け入れる。
 二人の居る背景では、何処からか舞い込んできた緩やかな風が湖面に浮かぶ睡蓮をゆらゆらと揺らめかせていた。そんな、神秘的な風景が広がっていた。


 ――ところ変わって、本丸の方では、こんな展開が起こっていた。
 離れの間に在る奥の間であり、審神者である己の私室兼寝室に二人の人物が居た。一人は、布団に寝かせられた己自身であり、もう一人は、己を眠らせ精神のみ神域へと連れ込み攫った彼である。
 彼は、眠る己の傍らに寄り添うようにして居た。意識が眠っている事により力の抜けた手を握り、もう片方の空いている手で慈しむ如く手付きで己の髪を梳くように撫ぜている。そんな現場へ、第三者の者が顔を覗かせた。
「やぁ、八丁。主は漸く休んでくれたか?」
「鶯の兄さん」
「全く、主には困ったものだ。多少の無理が利くからと睡眠を削ってまで稼働するとは。人間は、普通なら二十四時間以上起きていたりはしないものだろうに。主の場合は、偶に無理をして平気で二十四時間どころか三十六時間程仮眠も挟まぬまま稼働していたりするからなぁ。主の悪い癖だ」
「だから、ちょっと強引だけど、俺が神域に連れ込むって形で休ませたんでしょ? 兄さん達は傍観するに留まってて、直接手を下す事はしなかったし」
「そりゃあ、まぁ、俺達にも立場というものがあるからな。あまり下手には動けん時だってある。だがしかし、古参である俺達が動けずとも、代わりに比較的本丸に来て日の浅いお前なら出来るだろうと思っていた。現に、こうして主を寝かし付ける事に成功している訳だしな」
「兄さん達みたいに傍観決め込んでたら、雇い主が倒れるまで何もしない事になるじゃん……。流石に、手ぇこまねいたまんまは居れなかったから、無理矢理に近いけども眠らせる事にしたんですぅっ」
「其処まで出来れば上出来だ。よくやったな、八丁」
「別に……此れは飽く迄も雇い主の為を思っての事だから、褒めても何も出ないよ」
「はて。本当のところはどうだかな……?」
 第三者として部屋にやって来た鶯丸が意味深に微笑む。其れに対し、彼こと八丁が真顔を浮かべていたのから、歪に口元を吊り上げて笑い返す。
「あれっ……バレちゃってた?」
「わからいでか。アレだけ周りの者達へと牽制するように執着を見せ付けておきながら、今更隠そうとしても無駄だぞ。まぁ、お前の事だから上手く隠し通していたんだろうが、まだまだ甘いな。身内である俺達にはバレバレだったぞ。ふふっ、詰めが甘いところは其れだけ伸び代があるという事だ。これからも精進していけば良い」
 鶯丸は、そう言って座り込む八丁の隣へと歩み寄り、表面上は眠っているだけの此方を覗き込む。
「よく眠っているな。連れて行ったのは、飽く迄も精神のみと言ったところか」
「流石は鶯の兄さん。伊達に長く生きてないね」
「ふふっ。こちとら、天子様に捧げられた御物だからな。長く人の側に在れば、其れだけ人の生きた時間と寄り添ってきた事になる。長く在った物だからこそ、分かる事もあるというだけさ。仮に……そうだな、現状の主を見るに、表向きはただ眠っているだけのようにしか見えんが、よくよく観察してみれば其処に在るのは体という魂の器だけ。中身である精神は別の処にある事が窺える……。まぁ、俺に分かるのは其処までだな。後は、勘だ」
「ふぅん……。この事、包平の兄さんは気付いてんの?」
「さぁな。今のは、飽く迄も俺が述べた見解に過ぎん。だが、恐らく彼奴も気付いてはいるだろうな。どうするかは彼奴次第だから俺は知らないが」
「……そっか」
 其れだけを言い終わると、眠る己の事はそのままに部屋を出て行く素振りを見せた。そんな鶯丸に、彼は一度だけ振り返って問う。
「咎めないの?」
「何をだ」
「俺の事……皆には何も言わず、雇い主本人にも合意を取らずにやった事に対して」
「その事に対して、さっき言った事以外で俺から言える事は何も無いさ。お前が遣りたいように遣れば良い。但し、起こした行動への責任は負えよ。お前が今その手に握るは、俺達・・の大事な人の子の命だ。其れを脅かす事だけは誰も許しはしないだろう」
「其れは分かってるよ……」
「なら、他に言う事は無いな。まぁ、精々上手くやれよ」
「本当に怒らないんだ……?」
「何故。お前が遣らなければ、どの道誰かが動いていただろうし、恐らくは大包平辺りが同じ立場に立っていただろう。だが、結果的に先に動いたのはお前だ。ただ其れだけの話だよ」
 そう言い残すが最後、今度こそ鶯丸は部屋を出て行った。残された八丁は、視線を此方へと戻し、再び無言となって髪へ触れたまま指を絡ませていた手を動かし、撫で梳かすのを再開させる。
 そうして、彼は恍惚とした笑みを口元に浮かべながら呟いた。
「ふふっ……こうしてる間だけは、俺だけの雇い主だね――◆◆?」
 堪らないと言った風にクツクツと喉奥を鳴らして笑む彼の顔は、凡そ誰も知らない一面をしていた。その事を鶯丸とは違い、部屋には直接入らず部屋の外で静かに様子を見ていたもう片割れの兄貴分が居る事を、彼は知らないし気付かない。
 その場を見守るに徹していた彼の兄貴分である大包平は、敢えて何も言わず、咎めず、音も立てずにその場を去る。この事は、屹度きっと、彼等の間だけに秘匿されるべき事なのだろう。部外者が口を挟むべきではないのだ。少なくとも、意識は外に眠っている己の知った事ではないが。


執筆日:2024.04.09
公開日:2024.04.13