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用心棒兼厨番長である狂犬は待てが出来ない



※前作の孫六兼元掌編『嫁に侍らせ候』の続編となります。
※単体でも読めます。


 季節の候は、凡そ秋の入口。長引くに長引いた夏の残花たる暑気からようやっと解放されて、朝晩と日中の気温差が大きく開く程に涼風が吹くようになった頃。漸く秋へと移り変わろうとする季節の変わり目を如実に体感していた折の事だ。
 上がり来る息苦しさを抑える為、精神を安定させる薬を飲み始めて一月ひとつき半が過ぎた頃合いに、理解してきた事が一つあった。其れは、よく眠れるようにと飲んで眠ったものの、薬の効果が切れる頃になると自然と意識が覚醒してしまうという話だ。
 現在服用している薬は、初めての投薬処方を受けてから体に合わなかった事で、二種類目の物となる。頓服薬の方は変わらず御守りのように、しんどさが増したり通常の薬だけでは中途覚醒して眠れないのを改善する用に飲んでいる。其れでも、己が思っているよりも心の不安が大きかったり、無駄に神経が張り詰めてしまっているのか、薬の効果が弱まったり切れたりする頃になると胸の息苦しさを訴える症状がぶり返したように表へ出て来る。
 以前までの、とてもじゃないが健康体とまでは言えなくとも、今程弱り切ってはいなかった頃を思うと、何だか儘ならない日々が過ぎ行くばかりで焦燥感に駆られて仕方がない。

 ――そんな事を思いつつ、寝起きの頭をもたげて、夜が明けたばかりで薄暗い部屋の中、飾り障子の磨り硝子から見える小窓の外へ視線を投げて、むくりと布団から身を起こす。体はまだ寝足りぬと睡眠を貪ろうと誘うかの如く気怠いが、頭はすっかり覚醒してしまっている。ついでとばかりに、空腹感が眠れぬ意識を更に刺激するかのように飢餓を訴えてくる。体は眠いが、頭と腹の虫は起きろと矛盾しているのが、少しばかり煩わしい。が、そのまま布団に居戻って横になっても、どうせ邪魔な空腹感が眠れぬ意識を更に覚醒へと導くだけで、無駄に時間が過ぎ行くだけだ。
 のそり、布団から抜け出て、起床する為の身支度を整える。そうして、完全に起きる体勢を整えたら、布団も畳んで部屋の隅へ追い遣ってしまう。気怠さと寝不足感の拭えぬ感覚は、この際無視だ。あのまま布団の中でくるまっていたとしても、虚無な心地に陥るか、最悪仄暗い感情に引き摺られて浮かび上がった厭な過去を思い出して鬱々とした気分に陥るだけだろう。そうなる前に、起きるには少し早くとも“早起きは三文の徳”と無理矢理納得させる事で、鬱屈とした気分の滅入りそうな空気を霧散させるように閉め切った薄暗い寝室から這い出た。
 寝室と隣接する執務室をぐるりと囲うようにして在る縁側へ出て来れば、夜が明けたばかりでまだまだ薄暗い外の空気を浴びた。日が出ていない内は空気も暖まらない故か、肌を撫ぜる空気はひんやりとした冷気を帯びて、上着無しでは少し肌寒く感じる。けれど、そんな早朝帯特有の涼風が頭をより覚醒させるには丁度良く、また寝起きでぼやけた思考が覚めゆくようで心地良かった。
 時間的にもまだ朝餉には早かろうと、空腹感を訴える腹を擦りつつ、母屋へと繋がる渡り廊下へのろのろと歩みを進める。早朝帯故に、寝起きする者はまだ殆ど居ない。寝ている他の者達を起こさぬよう、ゆったりのんびりとした遅い歩みで、けれどなるべく足音を鳴らさぬよう努めて、気配を消して静かに移動した。向かう場所は、誰も居ないであろう、屋内の開けた場所――釣殿つりどのである。暫し、其処で朝の澄んだ空気でも浴びながら庭先の花々でも眺めて暇を潰そうと思ったのだ。早朝帯の彼処なら、誰ともすれ違わぬだろうし、誰の迷惑にもならぬであろうと思っての選択であった。
 目的地に着くなり、柵寄りの適当な場所へ腰を下ろして、足は柵の外へ投げ出す形で格子の間から放り出す。数分程、そうして足をぶらつかせて遊ばせていたが、洋装のズボン裾から覗く足首という隙間から冷たい冷気が入り込んできて、すぐに引っ込める形となった。半袖の上に上着として薄手のカーディガンを肩に羽織って出て来たが、日中とは異なり、日の出切らぬ内からではまだ其れだけの装いでは肌寒い。羽織るだけでは心許無さを感じて、肩に掛けていただけの上着に袖を通して、前もしっかり引き寄せて留め具も留め、隙間を埋めるように閉める。
 結局は、寒さに耐え切れず身を縮こまらせるように柵に凭れ掛かる形で膝を抱えて体育座りする流れとなった。これだけ空気が冷え出すと人肌恋しく感じるのは、人としてまだ正常な感性を持ち得ているという証なのか、はたまた単純に一人孤独である感覚を覚えての物寂しさからか。答えは、恐らく何方でもあって、どっち付かずでもあるのだ。曖昧な感情だけが胸の内を巣食って蟠りを生み出している。
 特に何をするでもなく、ただぼんやりと柵の格子に頭を凭れ掛からせ座り込んだまま時間が過ぎ去るのを待っていれば。何処からともなく現れた黒衣の刀の男が自身の本体を手に声をかけてきた。
「起きるには随分と早い時分だと思うが、何用でこんな場所で一人黄昏たそがれているんだ?」
 聞こえてきた声に言葉をかけてきたぬしを確認すべく振り返った。すると、己同様に起きるにはまだ早い筈なのにも関わらず、護衛の為と思しき本体まで携えた、頭の天辺から足先まで真っ黒な男が感情の読めない顔で立っていた。審神者本人より公認の用心棒たる刀――孫六兼元であった。
 彼は、護衛対象たる審神者の側まで歩み寄ると、そのまま腰を落として片膝を付き、まるで主人格の人間へこうべでも垂れるかの如くかしずき、口を開く。
「どうした? 深く眠れぬ程夢見でも悪かったのか?」
 此方を窺い見る視線こそ心の動きを読もうとでもしているかのような探る目付きをしていたが、問われた声音は努めて優しく柔らかな音をしていた。其れに促された訳ではないが、別段隠す気もなかった故に、素直に事のあらましを白状した。
「別に……特に夢見が悪かったとかではないから安心して欲しいのだけど」
「なら、どうしてこんな日も昇り切らん内から起きてポツンと一人で此処に居たんだ?」
「何となく、かな……。特に理由は無い。強いて言うなれば……変に目が覚めて頭も覚醒しちゃってたから、かな」
「……昨晩薬はちゃんと飲んで寝たのか?」
「昨日は動き回ってばかりでなかなか気も休まらんかったからか、安定剤飲んだ後も息苦しさが残ってたんで、医者の指示通り頓服薬半錠を飲んでから寝たんだけど……薬の効果が切れた頃合いになると途端にパッタリ眠気がどっかに行っちまってね。一応、寝直そうかとも思ったんだけど、空腹感が邪魔して完全に目が覚めちまったのよ」
「成程。其れで朝っぱらから一人こんな処で寂しく暇を持て余していたという訳か」
「そういう事になるかねぇ」
「全く……腹が空いてるのなら、何か腹に入れる事くらい思考の勘定に入れときなさいよ」
 そう言った孫六は、審神者の額を指先で軽く弾いてきた。所謂デコピンというやつだ。恐らく、軽いお仕置きとやらのつもりだろう。地味に痛い仕打ちを受けて、思わず口から「あでっ」という何とも情けない声が漏れた。こと、対刀剣男士からの攻撃は、どんなに小さく弱いものであっても、ひ弱な人間からしてみれば其れなりの衝撃を受ける事になる。実際、受けた攻撃そのものはお軽いデコピンであったが、ダメージは思ったよりもデカく、指先で弾かれた部分からジンジンとした痛みを感じた。此れでも手加減されているとは分かっているものの、解せない気持ちが不満を露わにした。
 相手から見て、不貞腐れたような、或いは拗ねたような顔付きとなっていたのだろう。痛む額を擦りながら半分据わった目で見つめ返せば、睨め付けている風に受け取られたようだ。苦笑いを浮かべて緩く眉を下げ、「すまんすまんっ。軽くやったつもりだったんだが、思ったよりも力を込め過ぎたか。痛かったよな? 頼むから、そう怒らないでくれ。主人の機嫌を損ねさせるつもりは毛頭無かったんだ。この通りだ」と焦った口調で言い募られた。痛かったのは事実故、何故にデコピンを食らわねばならなかったのかについては不服を申し立てたかったが、素直に言えば彼が哀れに思えて。言葉短めにボソリと「許す」とだけ返した。此れに安堵した様子の彼は、短く溜息を吐き出して笑みを浮かべ直して此方を見る。
「腹が空いたのなら、飯を食べるが一番だ。まだ今日の厨当番の者達は起きてきていないだろうが、簡単な食事ぐらいなら俺でも用意出来る。其れに、今は俺がこの本丸の“厨番長”のお役目を預かっているからなぁ。時間が早過ぎようとも、主人の為と言えば誰も文句は言うまいよ」
「“番長”役を任されたの、そんなに嬉しかったん?」
「そりゃあ、まだ本丸に来て一年とそこらな身分とは言え、主人たるあんたから用心棒以外のお役目を任せるに値すると信頼を寄せられたなら、喜ばしく思わん訳がないじゃないか」
「本当は、各役割は本丸の事や俺の事を把握し切ってる古参組に任せたいところなんだが……黎明期から居る子達は大体全員極めてて戦闘メインで動いてもらっとるからなぁ。出陣以外に遠征も回しとるのもあって、なるべく負担を分散させたく役割分担する方向で考えてて……。負担が重複せんように、且つ適材適所で手の空いてそうな子に任せるって事で、結果的に消去法で君にお鉢が回ってきたってだけなんだけどね。元々は、本丸で一番最初に厨組で顕現した歌仙さんに任せてたけど、今は遠征部隊に回ってもらってるし。次点のみっちゃんは、戦闘部隊として絶賛特命調査の出陣メンバーとして出しとるし。その他極部隊の子も同様に異去やら遠征やら演練で忙しゅうしとるからなぁ。ちょっと前までは菜切君に任せとったけど、来年の夏までに累積経験値もっと積んどきたいって理由で後方支援部隊として長時間遠征に組んどるしなぁ〜。そうなると、もうカンストして内番か非番で本丸お留守番組の誰かに任せるしかないなって事で、適任候補挙げて孫六さんに決めた訳だわさ」
「その流れで行くと、後家兼光辺りも適任候補に挙がってたんじゃないか?」
「確かに、ごっちんは米処出身の刀やから厨事には向いとるやろうな、とは思った。けど、何となく先に本丸に来た子に任せた方が無難かなって思っての采配ッスわ。ほら、孫六さんはごっちんより数ヶ月は先に顕現しとる訳ですし」
「ほんの少し先に顕現した、というだけの話だが……そうか。あんたの目から見て、俺は既に番長役を担うに相応しく適任だと思えるに至る程信用されていた訳か。主人から真に認められた証なようで素直に嬉しいよ。これ以上に僥倖な事もあるまい」
 そう話を締め括った孫六は、込み上がってくる笑みを堪え切れなかった風に「ふふっ、」と小さく含み笑みを零して視線を和らげた。長い黒髪のカーテンの隙間から覗く浅葱色をした双眸が、柔らかく細まって此方を見下ろす。慈しむかのような温かな視線と一緒に、何故か頭を撫ぜられるも、悪い気はしなかったし嫌な気もしなかった為、払い除ける事もせずそのままを受け入れた。
「さて……主人の腹を満たしてやる為にも、ちっとばかし一肌脱ごうかねぇ」
 徐ろに腰を上げて立ち上がった孫六は、そう口にして此方を見た。たぶんだが、「立って自分の後を付いてきな」とか、そんな促しの意図を以ての事だろう。其れに頷く形で彼に倣うように己も腰を上げ、目の前に差し出された手を取りつつ、冗談めかした言葉を返す。
「ただでさえ肌寒いってのに、わざわざ服を脱ごうとなんてしなくて宜しい。村正じゃあるまいし」
「今のは言葉の綾というか、分かってて揶揄からかっただろう?」
「ふふ。冗談だって。俺の為に孫六さんが腕を振るって料理を振る舞ってくれるって意味だったんでしょ? ちゃんと分かってるから安心おしよ」
「そんなに寒いのなら、何か温まる物を作ってやるとするか。……それとも、しとねで一糸纏わぬ姿で肌身を寄せ合って体温を分け合う、ってのも有りだと思うが……あんたはどうしたい?」
 冗談めかして返した己の言葉に対して、本気か冗談か分からぬ態度で艶めいた色を見せて返してきた。今しがたの仕返しのつもりか、はたまた単なる気紛れによるものか。果たして、答えは何方か。
 ものにして数秒或いは寸分程逡巡して、此処は穏便に無難な答えを回答するのが正解だろうと判断し、口を開く。
「腹の虫が空腹を訴えて仕方ないから、何か腹に入れる方が体に良さそうかな」
「其れはそうだな。じゃあ、手っ取り早く厨へ行って、簡単に握り飯と汁物でも用意してこよう。……だが、その前に一つ寄り道ついでに宜しいかな?」
「うん……? 何じゃらほいほい」
 てっきりそのまま厨まで直行コースかと思いきや、寄り道の許可を問われて首を傾げた。すると、刀剣部屋の一角――彼の持ち部屋たる一室の前で一度待ったをかけられた。大人しくその場で待機していれば、何用かあって室内へと入って行った彼が本体とは別に何かを手に持って戻ってくる。そして、其れが何なのかを確認する前に左手に携えたままだった本体を手渡された。
「すまないが、ちょっとの間だけ一旦預かっていてくれないか? 手が空かないと何も出来ないんでね」
「はぁ? 別に其れくらい構わんが……」
「それじゃあ、ちょっとばかし失礼して」
 そう言って、孫六は右手に持っていた物をふわりと広げて審神者の肩へ羽織らせる形で掛けた。次いで、自身の首に巻いていた襟巻きをスポンッと首から引っこ抜くなり、そのまま審神者の頭の上から被せてきた。何が何やら理解せぬ内に目を白黒させて固まっていれば、何食わぬ顔で一人納得した様子で頷きを落とすと、謎の行動を取った理由を説明し始める。
「見るからに薄着な中身にその上着だけじゃ心許無かったんだろう? 腹に何か入れるまでで良いから、着ておきな。俺ので悪いが、何も羽織らんよりはマシだろう」
「其れで襟巻き貸してくれたんはまだ分かるんやが……なして軽装の浴衣までも羽織らせてきたんかの意図が読めん。他にも羽織らせるもんあったやろがい。よりによって何で軽装?」
「内番着の方でも良かったんだが……折角せっかくなら、主人から賜った特別な衣の方がこの機会にぴったりだなと思っての事かな?」
「いや何でさ。尚更もっと意味分からんくなったわ。刀剣男士特有の冗句ジョークか何かか?」
「まぁ、先程の冗談めかして言った“肌身寄せ合って体温を分け合う”ってのに掛けて、今は此れで手を打つって事にしておいてくれ」
「飛んだ飛躍した解釈過ぎておったまげだっちゅーの」
「主人が嫌でなければ、このまま俺の部屋の中まで引き摺り込むが? その流れで事に及んでも良いのなら喜んでその服全て剥かせてもらうが」
「わぁーい、襟巻きあったかぁ〜いっ。丁度今の格好じゃちょびっとだけ寒かったんで助かりましたぁ〜」
 半分冗談の半分本気な態度を見せられて、咄嗟に明らかに棒読み臭い台詞を言葉として返した。すると、ちょっとだけ拗ねた風な彼から口先を尖らせて次のような事を言われた。
「……口吸いくらいは、愛嬌という事でおまけで付けても?」
「今の流れでキスしたら冗談にもならんやろうがい。絶対おまけで済ます気無いじゃろ、おまん」
「バレたか」
「逆に何で下心有りきのネタ持ち出してバレねぇと思ったのかが知りてぇわ」
「今の流れからなら、あんたでも流されて許してくれるかなぁ〜と期待したんだが……読みが甘かったか」
「こんの助平が。端っからバレバレなんだよ。隠すならもっと上手く隠して遣り通しな」
「ははっ。駄目出しが耳に痛いね。だがまぁ、満更でも無さげなところを見るに、遣り様によっては受け入れてくれるって事が知れただけでも収穫だな」
「向上心が高くて宜しいね。前向きはプラスに働くから別段構わんけども」
 敢えて皮肉った言葉を返事として返すも、意に介さなかったようで。寧ろ、何処か嬉しげにすら取れる様子でニンマリとした笑みを浮かべて笑う。
「さて……そろそろ本当に飯を作りに行くとしますか」
「孫六さんお手製の御飯だぜ、やったね」
「そう期待されたところで、出せるもんは愛くらいしか無いよ」
「おや、其れは嬉しいね。愛情込もった御飯とか、べらぼうに美味いに決まっとるやんけ。っちゅー事で、期待して待っときます」
「今のは、冗談なのか本音なのか判断付けづらい反応だな……。まぁ、期待されれば応えるが義理というものだが」
「孫六さんお得意の義理人情とやらかい? んふふっ、愛されるのにはまだ慣れないねぇ」
 なんてポロッと本音を零して襟巻きに鼻先まで埋めていたらば、不意に前を歩いていた筈の彼が足を止めてくるりと振り返った。次いで、やけに場違いな程に熱の込もった視線と共に言葉を貰う。
「主人や。頼むから、その気が無い内から煽るような事を言わんでくれ。あんたの目の前に居るのは、飢えた狼だっていう事を忘れてくれるなよ……?」
「…………あー、何かすんまっせんっした……?」
「分かれば良いんだ、分かれば……」
 そう言ったキリ、厨までの道中双方共無言であった。
 ただ、チラリと見上げた先に映る、長く艷やかな黒髪の隙間から覗く耳が薄っすら赤く染まっているように見えたのは、恐らく気の所為じゃないんだろうなとだけ心の内だけに留めて思った。


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 厨で孫六が握り飯と汁物を拵えてくれている間、審神者は大人しく隣接する居間との境界に腰を下ろして、股の間に手を付いた状態で調理の様子を眺めていた。
 その間、ふと鼻先を掠めた料理以外の匂いの正体を探るべく、「ふんふん」と犬みたいに鼻を鳴らして匂いを嗅いでいたら、此方の様子に気付いた孫六が握り飯を握っていた手を止めて視線を寄越す。
「どうした、主人?」
「うんにゃ……何か、御飯以外の匂いがしたから何かなぁ〜って思って匂い嗅いでただけなんだけど……」
「其れで? 匂いの正体は分かったのか?」
 改めて問われて、厨に到着するなり袖までしっかり通させられた彼の軽装の袖先を鼻先へ寄せて、再び「ふんふん」と嗅いでみる。瞬間、匂いの正体を理解して、ぱちりと瞬きを一つ零した。
「あ、コレ孫六さんの匂いだわ」
「え゙ッ……そんな匂う程俺汗臭かった??」
「あ、いや。そういう訳じゃなくって……」
「うん?」
 会話の流れを上手く汲み取れなかったのだろう。分かりやすく首を傾げた彼が怪訝そうな顔をして見つめ返してくる。其れに視線こそ寄越さないものの、先の言葉の答えを返してやった。
「孫六さんの匂い、よくよく嗅いでみたら良い匂いだなぁ〜と思って……。何だか落ち着く匂いだし、寝付きが悪い時とかに側にあったらよく眠れそう」
「………………」
 途端、無言が返ってきて、「あれ?」と思って視線を向けたら、何故か瞳孔をかっぴらいた状態で凝視されていた。ぶっちゃけ居心地が悪くなる、もしくは気まずさを覚える程にはガン見されていた。本当に何故。
 理由が分からず戸惑った視線で「何かしらの反応を返してくれ」と切実に訴えかけていたらば、数分程たっぷりの間を空けて返事が返ってきた。
「……主人や。先程俺は忠告したばかりだが、良いのか? そんな劣情を煽るような事を言った上で、そんな据え膳獲って食ってくださいと言わんばかりの事まで仕出かしてさあ。なあ、おい」
「ぇ…………何……何でスイッチ入っちゃってんの、このヒト??」
「そのスイッチ入れたのはあんただよ、この無自覚天然小悪魔たらしめ」
「待って、何その身に覚えのない例えの罵倒文句!?」
「こっちはあんたの為を想って大人ぶって我慢強く堪えてるってのに、あんたと来たら無自覚にもヒトを煽ってくれるんだからどうしようもないぞ。なあ。此れで襲うな手を出すなと言われる方が無理あるぞ。正直今すぐ押し倒してこの手で組み敷いてぶち犯して啼かせたいくらいには滾ってるんだが、その責任はちゃんと取ってくれるんだろうなあ? おい」
「ひッッッえ……!! 何だかよく分からんが今絶賛己の貞操が危機に迫られているという事だけは把握したァ!! 此方が口を挟む隙すら与えぬロングブレスでの早口問答による圧掛けは控えめに言っても怖ェから、一旦賢者モードからの検討タイム挟ませてもろても良いですか!?」
「今の今で“待った”が許されるとでも?」
「タンマ、ほんま一旦タイムやてッ……! 一旦休戦、頭冷やして冷静になろ!?」
「此処まで煽ったのはあんただ、主人。責任を取るって事で此処は一つ大人しく俺に身を委ねてもらうとしようか」
「ソレ、“身を委ねろ”言うてほぼほぼ半強制的なヤツやないですかい……ッ!! 誰か助けて!! 主の貞操がSAN値がピンチよ……!! マジでお願いだから誰か天の救いの手を差し伸べたもぉーうッッッ!!」
「厨当番の奴等でさえ起きてきていない時分だ。この時間帯じゃあ誰も間に入っては来れんよ。残念だったな。諦めて俺に抱かれておけ」
「俺は“NO”と言える審神者ですッッッ!!!! マジのガチでタスケテェ……ッ!!」
 握り途中だった握り飯は、いつの間にか何処かへとほっぽられ。完全に瞳孔を開き切ってしまっている野獣と化した孫六より問答する間に距離を詰められ、眼前に迫られている状態であった。油断していたとは言え、すっかり隙を許してしまった審神者に逃げる余地は最早残されておらず、突然の窮地に陥らされていた。何たる危機的状況か。ギリギリのラインまで身を仰け反らせた上で何とか躱そうとするも、逃げ腰となった時点で後ろ手に付いていた両手は既に彼の掌より上から覆い被さる形での拘束を受けている。つまり、詰みであった。
「さあ、此処まで許したんだ。諦めて俺に抱かれて快楽に溺れてしまいな。安心しろ。なるべく優しくしてやると努めるさ。だから、なあ?」
「何も安心出来ないんだよな、残念ながらさァ〜ッ!!」
 必死に助けを乞う願いも虚しく散るかと、半ば心折れて変に覚悟を決めかけていると、不意に彼の頭越しに影が落ちてきて新たな声が耳朶を突いた。
「こんな場所で盛るんじゃないよ、この不届き者が」
「ッだぁ゙ッッッ!?」
 次いで、彼の頭が真横へと吹っ飛ぶ勢いで一瞬にして目の前から消えた。何事かと目をぱちくりさせながら、視界の端へと倒れ込み、何やら痛みに悶絶した様子で転がる孫六の姿を見遣る。すると、先程まで彼が居た場所に救世主として現れた第三者の者が、此方を心配した顔で覗き込みながら手を差し伸べていた。
「大丈夫かい、主? 何もされていないかい?」
「かせぇ〜んっっっ!! 有難うマジで助かったよ!! 神様仏様歌仙様々やでっ!!」
「何やら騒がしい声が聞こえてくるから気になって急ぎ駆け付けてみれば、何処ぞの不埒な不届き者に襲われかけそうになっていたものだから、咄嗟に手が出てしまったけれども……。まぁ、彼の事だから、放っておいても何の支障も無かろう。君が合意無しで手を出されていなくて本当に良かったよ」
「流石は本丸のオカンや!! 頼りになりますっ!!」
「誰がオカンだ! 僕は、君の母君になった覚えも本丸の母親立ち位置ポジションになった覚えも無いからね!」
 颯爽と現れ窮地を救ってくれたのは、黎明期より共に戦ってきた本丸の仲間であり、同じく自称文系の脳筋ゴリラ仲間である歌仙兼定だった。幾ら、相手が義兄弟且つ錬度が頭打ちとなってから丸一年は経つカンスト刀と言えども、極めて数年は経過する歌仙の力量の方が圧倒的に勝っていたようだ。お陰様で窮地を脱した訳だが。
 未だたれた……否、恐らくは本気の拳で一発殴打されたのだろう頭を抱えて痛みに悶絶しながら呻き声を漏らす孫六の姿を、改めて視界に入れて内心で自業自得だと思いつつも、少しだけ哀れに思えたので。せめてもの情けだと胸の前で合掌して「南無南無……」と唱えてやった。途端、復活したように勢い良く半身起こして振り返った孫六に食ってかかられた。
「勝手にヒトを殺すんじゃないよッ!!」
「あっ、復活した」
「おや。案外早かったな……。利き手ではない左手で殴った所為で威力が半減してしまったのかもしれないな。やはり、反対の右手でるべきだったか……」
「なぁ、俺味方だよなぁ? 今聞き捨てならない事を言われた気がするんだが、俺の気の所為か? いや、違うよな。確実に何かやばい発言されたよな、今……っ。というか、俺は歴史修正主義者の連中や検非違使の連中みたいな、所謂主人や御上おかみ側の勢力に仇なす敵ではない筈なんだが?? 同じ本丸に所属するお仲間だよなぁ?? なあっ!?」
「主に仇なす不埒な不届き者には、一切の容赦など与えるべきではないと心得ているよ。そもが、此処は神聖なる食事を作る場所だ。そんな場所で盛った猿やケダモノの如く襲おうだなんて、笑止千万。万死に値する。例え、君が義兄弟たる身内も同然な者だとしても、僕は甘くはないよ。今回は、義兄弟のよしみに加え主の御前という手前にて、これ以上の仕置きも説教も無しとするが……次は絶対に無いと心得たまえ」
「ハイッ……お陰様で頭が冷めました!! 無体を働いてどうもすみませんでしたこの通りですぅッッッ!!」
 掌を返すが如く、ズシャリッと勢い良く見事なまでに綺麗な土下座をぶちかました孫六へ降るは、絶対零度と化した鬼の歌仙たる視線。見るだけでも恐ろしい形相であったのは、此処だけの話である。
 あからさまに呆れた様子で深々とした溜息を吐き出した歌仙は、審神者の居る手前故か、少しばかり鬼の形相を崩し、呟く。
「全く……僕は、君達が幾ら仲睦まじくしようが構わないし、その件について余計な口を挟む気も無いけれどね。時と場所くらいは弁えてくれないと困るよ。偶々居合わせたのが僕だったからこの程度の制裁で済んでいるが、であったならこんなものでは収まらなかっただろうし、確実に召されていただろうね」
「えっと……お叱りを受ける身ながら最中に口を開く事含め失礼承知で質問するが…………その、あんたの言う“彼”とは、一体どの刀の事を指しているのか訊いても……?」
 絶賛お説教中である最中に許可無く口を開く事を失礼つかまつると踏まえた上で、気になって仕方なかったらしい一点について怖ず怖ずとした口調で挙手しながら問うた孫六。此れに、一応の弁えを解してか、既に怒りの程度は半減した様子で腕を組み、答える。
「貴殿もご存知の筈だよ。此処、厨を任された一柱であり、且つ黎明期より本丸の厨を支えてきた……僕と同じく厨を握る実権者――長船の祖たる、燭台切光忠さ。彼は、本丸の初太刀として顕現した分、主には過保護なタチでねぇ。もし、この場に居合わせたのが僕でなく彼だったとしたら、悶絶どころの処置では済まなかっただろうね。何せ、嘗て元・打撃王と称された程の打撃力を誇りし太刀だ。刀種的にも、まともに殺り合ったら力量差で押し負けるのは必然であるし。何より、極修行より帰還して以来、錬度もそこそこなところに加え、乱舞レベルを上限まで頭打ち済みだからね。今じゃ、本丸一の打撃王に返り咲いた身だ。……そんな彼が本気を出した場合、手加減無しは定石、一発K.Oを食らって瀕死に追い込まれるが落ちだろうさ」
「ちょっ……待ってくれよ! 其れじゃ仕置きというより、ただの処刑コースでは!??」
「当然の報いだろう? 主に合意無く手を出すという事は、即ちそういう末路を辿る覚悟を持った上との判断での処断なのだから。例え、折れかける程の致命傷を負ったとしても、手入れで完治してしまえるのだから、然るべき断罪と言えるが? そんな無様で愚かな真似を、貴殿のような刀がするとは思ってもいないけれど……万に一つ、今述べたような愚かでしかない真似をした場合、燭台切からの制裁は免れないと思いたまえ。まさか、貴殿のような刀が、そんな愚行に走る程馬鹿ではないと思っているが? まぁ、普通に理性ある正気の頭で考えて理解している事と捉えるが、“たかが”と気を緩めて事を見誤り合意無く彼女へ手を出して折れる――なんて無様な死に方はしないだろう? だって、そんな無様な折れ方程、刀として刀剣男士として馬鹿らしい死に方は無いからねぇ。僕だったら、そんな折れ方、武士として恥ずべき行いだと思うし、そんな折れ方をするくらいなら潔く戦場で華々しく散るか、腹を切るなり首を切るなりして折れた方が余っ程マシだと考えるよ」
 至極真っ当な意見での返しに、“返す言葉も御座いません”という風に口を噤んだ孫六は、一応は怒りを収めてくれているけれどもその実腹に据えかねている様子なのを察してか、極々小さなほぼ吐息のようなか細い声でボソリと「弁解のしようも無く、面目ない限りです……」とだけちるのだった。
 取り敢えず、フォローではないが、歌仙の言い放った言葉に思い当たる事があった審神者は零す。
「まぁ……みっちゃんと言やぁ、戦闘中の台詞として“防御こそ斬っちゃうのが僕の売りでね!!”とか言っちゃうくらい、自分の打撃力に自信持ってる子やからねぇ……」
「此れぞ、“是非も無し”というやつか……。はは、ははははっ……はぁ…………」
「肝によくよく銘じておく事だね。あの手の刀は、普段が温厚なだけに、本気で怒らせると此方が太刀打ち出来ない程手が付けられなくなる。特に、己が任されている仕事場であれば尚更の事。努々忘れる事なかれ、だよ」
「嗚呼……今回の一件で特と身に沁みたからね。よぉ〜っく肝に銘じておくとするよ」
「其れが賢明だろうね。……さて、僕は朝餉の用意に取り掛かるが、貴殿も主の為の支度の途中だったんだろう? 咎めについての話は此れで終いにするから、早いところ作業に戻ると良い。でないと、ただでさえ腹を空かせて待っているであろう彼女に申し訳ないからね」
「おっと。うっかりすっかり忘れてしまうところだった。俺の所為で飯を食うのが遅くなってすまなかったな、主人よ。今急いで拵えるから、もう暫し待っていてくれ」
「あいよ。……と応えたは良いが、既に色々な意味でお腹いっぱいだから、程々で待ってるよ」
「その節は誠に申し訳なく……ッ」
「十二分に反省してるの分かってるから、もう良いってばね」
 そんなこんなでお説教タイムはお開きとなり、サッと簡単に作り上げる筈がすっかり遅くなってしまった軽食を拵え、詫びも込めて丁重に審神者へと献上するのだった。


 ――その後、少し遅れてやって来た噂の伊達男は、何知らぬ顔でいつも通り第一声として元気良くよく通る声で朝の挨拶を口にした。
「やぁ、おはよう歌仙君。孫六さんも、おはよう! おや、今日は随分と早起きだね主?」
「応。おはよう、みっちゃん。今日も格好良く決まってんね」
「うんっ、おはよう。そして、お褒めに与り光栄だよ。今日の調子は如何かな? もしかして、またよく眠れなかったのかい?」
「うーんっと……今日のは別にそういう訳でなくって、単純に薬の効果が切れた事で自然と目が覚めてしまったというか……」
「そっか……っ。その様子から察するに、寝直そうにも寝付けなくて起きちゃったって感じだね? でも、其れだと明らかに寝不足なんじゃないかい?」
「だとしても、下手に寝ると夜眠れんくなるし……ただでさえ日中は遣る事多いから、さっさと片付けてしまった方が憂いも無くなって気持ちも落ち着くしね。という訳で、そんまま起きて飯を食う事にしたのである」
「うんうんっ。食べる事は大事だよ。特に、食事量が足りてない君にとっては、少しでも何かお腹に入れて体に栄養を付けてあげなくっちゃ! 孫六さんは、主の護衛がてら偶々行き合った流れで御飯を作ってくれた、ってところかな?」
「流石は黎明期から居られる古参殿。ご明察の通り、厨当番の奴等も起きてきていない内の早朝帯から起きて飯も食わずして居た主人を取っ捕まえて、厨まで引っ張ってきて今に至るという訳さ。…………まぁ、途中ちょっとばかし寄り道というか道草というか、盛大な脱線事故というか、兎に角まぁ此処で語るには少々気まずい出来事がなくもなかったり……?」
 挨拶がてらにその日の体調を窺ってくるのも最早恒例行事。慣れた調子で受け答えていれば、話題は先程しっかりとお灸を据えられた孫六へと振られる。其れに、言葉尻に行く程声を小さく萎めて、途中言葉を曖昧に濁した。そんな孫六の様子に、先の現場に居なかった燭台切は不思議そうに小首を傾げて、厨当番の者として朝餉の準備作業へと加わっていく。
 その折に、何やら包丁捌きが荒々しい歌仙の様子に気付いた燭台切は、それとなく声をかけた。
「歌仙君、今日は何だかご機嫌斜めみたいだけれど……どうかした? 何か悩み事があるのなら話くらい聞くよ?」
「聞いてくれるかい?」
「うん。時間が惜しいから、作業の片手間になっちゃうけれども」
「構わないよ。実はだね……君が来る少し前に、この神聖なる厨を穢す不届き者が不貞を働こうとしていたものだから、誅罰をくれてやったところだったのさ」
「ええっ!? 其れは大変だったね……! 敢えて今は詳しくは聞かないけれど、厨を守る番人仲間として立派な働きをしてくれて有難う歌仙君! 君の働きは素晴らしいものだ! 僕が不在の間に厨を守ってくれて本当に助かったよ!」
「そうだね。讃えられる程の事をしたつもりはないけれども、賛辞と労いの言葉は素直に受け取っておくとするよ。有難う、燭台切……。敢えて、この場で不貞を働いた不埒な不届き者の名を挙げる事は、彼の名誉を傷付ける事であり、尚且つ主にも事が飛び火するというよしでしないでおくが……。この怒りは後々爆発しかねないと我ながらに思うので、時間の空いた時にでも改めて話の場を設けてくれると助かる」
「OK! お安い御用さ!」
 彼等二振りが一見穏やかそうに会話する後ろで、露骨に肩をビクつかせてぎこちない乾いた笑みを浮かべてその場を遣り過ごそうとする刀が居たとは、審神者のみぞ知るところであったり。


執筆日:2024.10.23
公開日:2024.11.05
加筆修正日:2024.11.17