今日は仕事に身が入らない。何だかそういう気分だったんだと思う。
精神疾患を患ってから、気分の浮き沈みが激しく、時に何もかもへのやる気を失って何も手に付かなくなる事がある。恐らく、今日はそういうパターンの日だ。
目の前にある仕事と真摯に向き合わねばならないと頭では理解しているものの、目を通していた書類の内容は読んだ端から横滑りするというか、必死で意識を集中させようと文字を目で追っていたのだが、どうしても目が滑って内容が頭に入って来ない。此れでは全く仕事にならない。
審神者として処理しなければならない、審神者本人の判押し待ちの書類が幾つか纏った束になっているのを視界に収めるも、どうも身が入らない。此れは、一度、気分の切り替えを行ってやる気を取り戻さない限り、永遠に終わらなさそうだ。
徐ろに深々とした溜め息を吐き出して、意味も無く眼鏡を外して目頭を揉んでいたら、何かと聡い二筋樋が反応を示して心配そうに此方を見た。
「どうした、相棒? 疲れた顔をしてるな……」
「……仕事せにゃならんってのは分かってるんだが……何か、どうにも調子が出ないというか……端的に言って、全く身が入らず集中出来ない……。このままじゃ何も進まんから、ちょっと一旦、外の空気でも吸いに散歩して来るわ。ついでに気分転換して来る……」
「伴は付けなくて平気か? 本丸内とは言え、危険が
「いや……お前は此処で細かい雑務進めといてくれ。俺の最終確認と判子が必要な書類は、重要度高い順に仕分けといてくれたら、後で戻ってから確認する。……すまんが、今は一人になりたい気分なんだ。分かってくれ」
「……分かった。但し、何かあったらすぐに必ず誰かしら応援を呼ぶ事を条件にだ。何かあれば、すぐに駆け付ける」
「心配性だな……。まぁ、本当に何かあった時はちゃんと呼ぶよ。だから心配すんな」
「心配の一つや二つするに決まってるだろう? あんたは、この本丸の大将であり、俺の唯一無二の相棒なんだからな」
「わぁーった、わぁーったから……。んじゃ、ちょっくら出て来るなァ〜」
「はい、行ってらっしゃい。気を付けてな」
そんな遣り取りを交わすなり部屋を出てすぐに、ぐるりと離れの外周を行くように角へと曲がった。
そのすぐ後、先程外した眼鏡をうっかりそのまま机上へと置いた状態のまま出て行った事に気が付いた二筋樋は、慌てて眼鏡を持って駆け出す。
「おい、相棒! 眼鏡、机の上に置き忘れてってる…………って、あれ……? もう居ない……? つい今しがた部屋から出たばかりなら、そう離れてはいない場所に居る筈だが……一体何処に行ったんだ?」
彼女が出て程なくして飛び出した筈が、まるで突然その姿が消えてしまったかのような出来事であった。
部屋を出る前の審神者の様子が可笑しかった点も含めて訝しんだ二筋樋は、刀のお巡りさんとしての勘を働かせて、審神者の捜索に出る事を選んだ。
「……ったく、何処に行ったんだ、あの相棒は……っ。裸眼のままじゃ、ろくすっぽ見えない癖にうっかり忘れて行くなんて、どうかしているだろう? 視界が利かないと動く時に不便だし、何より不安になる筈だ。早く見付け出して渡してやらないと……っ」
審神者が掛けていた眼鏡を胸ポケットへと仕舞い込むと、一先ず、離れ周辺近辺から捜索を開始する事に決めた二筋樋は、先程彼女が歩いて行った方向を目指してぐるりと角を曲がった。直後、足元に何かを引っ掛けて、たたらを踏むように立ち止まる。
「うおっ!? っとと……危ない危ない。……んん? 何でこんな処に衣類なんて落ち、て…………あれ。此れ、ついさっきまで相棒が羽織ってた半纏じゃ……」
危うく踏みかけた布地の物を拾い上げると、其れはつい今しがたまで審神者が上着として羽織っていた筈の半纏であった。
何故、こんな物がこんな場所に無造作に落ちているのか。疑問に思い、視線を再び床へと落とすと、半纏の他にも幾つかの衣類が点々と裏庭に面した縁側へ沿う形で落ちていた。
「どういう、事だ……? 相棒は、一体何処に消えてしまったと言うんだ……? ハッ、こんな事してる場合じゃない! 本丸の皆に異常事態が発生してる事を伝えなくては……っ!」
不可解な点に、暫し呆然としてしまっていたが、事態の異常さに気付いた二筋樋は、彼女が残していった証拠となる服を引っ掴んで母屋の方へと慌ただしい足音を立てて駆けて行った。
その数秒後、床下のスペースから顔を覗かせた猫は、しなやかにその場から抜け出して広い庭先へと姿を消した。
白と黒のハチワレ猫は、細長い尻尾を揺らしながら、素早く野を駆け、器用に屋根を伝い、蔵がある地点までやって来る。其れに気が付いた、蔵番長の大典太は、自分専用に与えられた蔵の出入口前に置いた椅子に腰掛けたまま、猫へと視線を寄越し、口を開く。
「此処に来るのは久し振りか? 俺の膝の上に乗るか?」
「ぅあ〜う」
「まだまだ花冷えする季節だからな。好きなだけ此処で日向ぼっこしていくと良い。ついでに、花見もしていったらどうだ? 丁度、桜の蕾が綻んで、見頃の時期だぞ」
「ぅるるわん」
大典太の膝上に跳び乗った猫は、心地良い陽だまりの温度を感じながら、穏やかに降り注ぐ桜の花弁を玩具にしつつ、上機嫌に喉を鳴らした。遊びに飽きたら、そのまま暫く大典太の膝上で寛ぐ事にしたのか、猫はぐみょ〜んと気伸びをした後に丸くなって、うたた寝モードへと移る。
そうして、猫らしく気儘に過ごしていたら、何やら忙しない足音を立てる人物が近寄ってきたのに逸早く察知し、つい今しがたまでお昼寝に微睡んでいたとは思えないくらいスッと頭を起こし、ぴょんっと軽々と飛び降りてしまった。其れを名残惜しく思った大典太は、口惜しげにその背へと声をかけた。
「もう行くのか……? もっとのんびりしていても構わなかったんだぞ?」
「なぁお」
「気が変わったのなら仕方がないな……。あんたは自由だ、好きにすると良い。気が向いたら、また此処に来い。次は、鰹節を持って待っている」
「まぉう」
猫が去ってすぐ、足音の
「大典太光世! すまないが、俺の相棒が何処に行ったか見ていないか!? 仕事に身が入らないと言い出すなり、息抜きついでに散歩に出ると言って部屋を出て行った瞬間、忽然と姿が消えたんだ!! 現場には、この服だけが残されていた!! 何か心当たりはないか!?」
「あんたの相棒……という事は、つまり、俺達の主の事を指すんだが……その主がどうしたって?」
「居なくなったんだよ!! しかも、不可解な形で姿を消した!! 此れは、恐らくだが、本丸に紛れ込んだ怪異か何かに
「……服だけを現場に残して消えたのか?」
「現場に残された証拠品と直前までの状況を鑑みるに、そのように見て間違いないと思うが……」
「……成程。あんたに残されたのは、その現場に残された服だけという事か……」
「相棒は、霊感体質なのも相俟って、怪異や神性生物に狙われやすいと話は聞いている。もしかすると、今回の謎の失踪も、その線が濃厚なんじゃないかと、俺は考えている。そうでなくちゃ、辻褄が合わない……っ」
「…………まさかな……」
やけに狼狽えている二筋樋の様子に、彼が到着前に耳聡く気配を察知して姿を消した猫の存在を脳裏に浮かべた大典太は、ボソリ、口の中で呟くように言葉を口にする。その視線は、自然と先程猫が去って行った方角を見つめていた。
しかし、よく聞き取れなかったらしい二筋樋は、反射的に訊き返すも、大典太が向ける視線の動きは熟考している時の動作と捉えて深くは追及しなかった。
「悪い、今何か言っただろうか? よく聞き取れなくて……っ」
「……いや。俺も何か掴めたら、あんたに知らせよう。取り敢えずは、俺は俺で主の行方を探しておくから、蔵一帯のエリアは俺に任せてくれ」
「助太刀感謝する……! では、俺は別の場所を当たってみる! 俺の方も何か分かり次第、情報を共有しよう!」
「あぁ……」
嵐のように二筋樋の存在が去って行くのを見送ったのち、静かに椅子から腰を上げた大典太は、ボソリ、呟く。
「はぁ……またぞろ面倒な厄介事の気配か。此れも、一種の新刃へと課される通過儀礼ってヤツかな……? やれやれ……巻き込まれる俺の身にもなって欲しいものだが。頼まれた以上は、手伝ってやるか……」
重い腰を上げて椅子を畳んだ大典太は、蔵番長の名に相応しく蔵一帯付近を見て回る事にした。お目当ての人物が居る前提ではなく、飽く迄も暇潰し程度に付き合う
蔵の屋根上より一部始終の様子を観察していた猫は、二筋樋が向かった方向とは真逆へと足を向けて、屋根伝いに建物と建物の間を移動して行った。
そうして、本丸と外界とを結ぶ鳥居門の程近い場所に建つ物見櫓まで足を運んだ。途端、物見櫓にて交代で見張りに付いていた者達が、猫の出現に気付くなりパッと顔を明るくして歓迎した。
「あっ、猫ちゃんだ!」
「おっ、本当だ! 久し振りですねぇ!」
「わざわざ、こんな処にまで巡回に来てくれるなんて嬉しいなぁ〜! 抱っこしても良い?」
「ぅわぁう、んなんな」
「抱っこ許可が下りたっぽいですよ?」
「やったぁ! えへへっ、猫ちゃんからしか得られない栄養素ってあると思うんだぁ〜俺! ん〜っ、ふわふわふかふかで最高!」
「あっ、浦島さんだけ狡い。僕にも抱っこさせてください、代わり番子で」
「堀川は良いじゃん、既に厚着してるんだからさっ!」
「じゃあ、この上着と襟巻き貸してあげますから、ハチワレさんと交換してください!」
「むぅ〜っ、しょうがないなぁ。其処まで言うんなら、代わってあげても良いよ?」
「んだよ、やけにそっち賑やかじゃねぇか?」
「ハチワレさんが巡回という名の遊びに来てくれたんですよー!」
「マジで!? 俺も触りたい……っ!」
「服に毛が付いても知らねぇぞー」
「そんなの、五虎退のデカイ虎毎日相手にしてっから慣れてらぁ! おーい! 良かったらコッチまで湯たんぽの出張頼めるかぁー?」
「鳥居の上を渡って行くみたいですんで、受け止めキャッチのスタンバイ宜しくお願いしまぁーっす!」
鳥居を挟むように建てられた物見櫓の間を器用に渡って移動した猫は、鳥居を渡り終える寸でで強く後ろ足を蹴ってジャンピングダイブの体勢に入る。其れを慣れた様子で両手を広げて上手い具合に胸元で受け止めた厚は、そのままの勢いでむぎゅっと懐に抱っこした。
「あ〜、やっぱお猫様のヌクモリティはあったけぇ〜」
「ゔゔゔぅ゙〜〜〜っ」
「あ、やべっ……つい力強く抱き締め過ぎちまってたか! 悪い悪い! 久し振りに見れたから嬉しくてさ! 鎧やら防具やらで痛くして御免な?」
「む゙ぉぅ゙ぅ゙ぅ゙〜〜〜っ、フシャーッ!」
「ふぎゅっ! ッ痛ゥ〜……顔面踏み台にされた……だが其処が良い。肉球の感触を直に受けたって事になるから……」
「お前、其処まで猫派だったか……?」
「大将の無類の猫好きに感化された自覚は有る。あと、兄弟に五虎退の虎とか居たから、必然的に猫科動物相手にするのに慣れてるというか……」
「その割に扱いミスって機嫌損ねさせちまってるけどな」
「其れは言うなよ!」
厚の顔を踏み台にして弾丸のように腕の拘束から抜け出した猫は、直ぐ側に居た同田貫の肩へと跳び乗った。まるで、初めから其処は己の縄張りであり特等席だと示すように身を落ち着けると、同田貫の横っ面に頭突きをかますような勢いで頭を擦り寄せた。
「……んだよ。俺に甘えてきたって、今は何も持っちゃいねぇーぞ」
「ゴロゴロゴロゴロゴロ……」
「めっちゃ喉鳴らしてんじゃん、羨ま……」
「肩の上でゴロゴロ鳴らされるとダイナミックに頭やら首やら肩に響くな、コレ……。エンジン音かよ」
「お猫様のゴロゴロ音は医療的にも素晴らしいものだって証明されてるからな!」
「何か段々マッサージ機当てられてるみてぇな気分になってきたわ」
「同田貫さん良いなぁ〜! 俺も猫ちゃんのゴロゴロ音浴びたい!」
「パスしてぇところだけどよ、此奴自身が動く気にならねぇ限り無理なんだわ。諦めて見張りに戻ろうぜ」
「あっ、でも時間的にそろそろ交代の時間だと思うんで、たぶん、もうじき次の見張番役の人達が来る頃だと……」
一つの物見櫓に対し二人制で見張りを務めていた見張番達は、それぞれ持っていた懐中時計を取り出して時間を確認し、次の見張番を務める仲間達が到着するのを待つ。
程なくして、交代の見張番達が姿を見せる。
「見張番おっつ〜。何か変わった事とかあった?」
「お疲れ様です、加州さん! 交代有難う御座います! 異変的なものは何もありませんでしたが、代わりに、ハチワレさんがわざわざ此処まで巡回という名の遊びに来てくれたんですよ! 今、ハチワレさんは、同田貫さんの肩を特等席に我が物顔で居座ってます」
「おっ! ハチワレさん久し振りじゃん! 俺の懐入る? ぬっくぬくだよ〜!」
「信濃、お前……アイデンティティはどうしたよ? いつもは逆じゃん。信濃って言ったら、懐に入れる側じゃなくて懐に入る側だろ」
「
「めんこいのぉ〜! ウグチャンや八ッチョンから話は聞いてたけど、こうして間近で見るとめんこ〜い! 俺の懐も空いてるから来て良いよ〜!」
交代役としてやって来た加州・後藤ペアと信濃・信房ペアに、それぞれから歓迎の意を受けた猫。しかし、動く気分ではなかったのか、その場から動く意思は全く見せず、しぱしぱと目を瞬かせたかと思えば、そのままお休みモードへと入ってしまった。
上機嫌だからか、お休みモードに入ってもゴロゴロ音は絶えず鳴り響いており、同田貫の頭部や肩へとダイナミック振動を与える。その反応に、分かりやすく“意地でも此処からは動かんぞ”という固い意思を感じられた者達は、皆一様に“お猫様相手だからしょうがないか”と満場一致で心を一つにし、同田貫へと羨望と嫉妬の混じった視線を向けた。
「ハチワレさんは、そのまま同田貫が責任持って本丸の建物内まで運んでやってね」
「どのみち此奴自身が退く意思見せねぇ限りは引き剥がせねぇからなー……ったく、しゃーねぇ……」
「今思ったんだけどさぁ、今回の見張番役……襟巻き要員多くね? 半分は襟巻きしてる勢じゃん、やばぁ」
「ソレ、俺も思った!」
「えー、じゃあ何? 襟巻きしてない俺達は仲間外れだって言いたい訳……? そういうの亀吉だって怒ると思うなー! 仲間外れはんたぁーい!」
「ハイハイ。ほら、交代役来たんで戻りますよ〜!」
「ちぇっ……!」
「じゃあの〜! 次会ったら頭撫でさせてくれな〜!」
終始和やかなムードで見張番を交代した彼等は、猫を同田貫の肩に乗せたまま、本丸の建物内へと移動を開始した。
時を同じくする頃に、二筋樋は、だだっ広い城内の
「あれ……? 二筋樋さん、どうしたんだろう? 何か探してるみたいに、キョロキョロしながら、行ったり来たりしてますけど。落とし物でもしたんですかね?」
「この広い本丸で失せ物探しは難易度高くない?」
「何か困ってそうだから声かけてみっか。おーい! 二筋樋さぁーん! そんな処で何してるんだぁー?」
かなり離れた場所に居たにも関わらず、新参者の困っている様子を放っておけなかった面倒見の良い刀達が大声を発した瞬間、それまで不動という意思の固さで同田貫の肩から動かなかった猫が、不意にその身をのそりと起こすと、何事もなかったかのように直ぐ側の濡れ縁へと跳び移った。猫は気紛れな性質故に、その行動も単に気持ち良く寝ていたところを邪魔されたから別の場所へ移動する……といった具合だろう。
肩に伸し掛かっていた重みが無くなった事を楽に思いはすれど、“来る者拒まず去る者追わず”な気質の同田貫は、「またなぁー」という気安い感じのあっさりとした別れ挨拶を告げるだけに留める。
其処へ、
「単刀直入で悪いが、俺の相棒を見なかったか!? 仕事の途中で外の空気を吸いに散歩に出ると言った直後、不可解な形で忽然と姿を消してから、まだ一度も見付かっていないんだ……! ちなみに、現場に残されていたのは、俺と別れる直前まで着ていたこの服が証拠品となる! 発見当時、相棒の服はまるで中身だけが消えて居なくなったような脱け殻状態だった……!! 何でも良い、何か情報を知っていたら教えてくれないか!?」
「えっ……主さん居なくなっちゃったの!?」
「あぁ……消え方が不可解過ぎるから、怪異や神性生物辺りにでも攫われたんじゃと危惧しているんだが……クソッ。俺があの場で強引にも同行していれば、こんな事には……っ」
「あのー、一旦落ち着いて、状況を整理してみましょう。つかぬ事をお伺いしますが、主さんは、二筋樋さんと別れる前、一言断りを挟んでから部屋を出ましたか?」
「え? あ、あぁ……仕事にどうしても身が入らないから、気分転換も兼ねて外の空気を吸いに散歩にでも行ってくる、と…………。何か分かった事でもあるのか?」
「今回の場合におきましては、主さんの方からきちんと前振りとして断りを挟んだ上でお散歩に出られたみたいなんで、特に問題はないですよ。そのまま、主さんに言われた通り、執務室の方で待っていたら、気が済んだ頃にちゃんと戻って来ますから。あっ、但し、脱け殻として残されてた衣服は、出来る限り現場から動かさずに元の位置に戻しておいて頂けると、僕等的にも助かるので。其処だけ注意してもらえれば大丈夫です!」
「…………言っている意味が、よく分からないんだが……」
「なぁ……コレ、もしかして彼奴、話してねぇんじゃねーの?」
「あ゙ー、うん……何かそれっぽい気がしてきたわ……」
「は……? あの、さっきから話が全くと言って良い程見えて来ないんだが……っ。一体どういう事なんだ、つまり……?」
困惑顔を浮かべる二筋樋の様子に、偶然居合わせた見張番だった四人は、揃いも揃って「アチャ〜ッ! やっちまってんなぁ、こりゃあ!」という顔を浮かべて盛大なる溜め息を吐き出した。そして、大阪城で縁のあった粟田口派を代表して、厚が控えめに挙手しながら、二筋樋が目撃するに至った不可解な現象についての内訳を語り始める。
「ウチの大将が悪い……新参者に対して碌な説明してなくて……。実は、大将、普段はちゃんと人間らしく過ごしてるんだけど……ストレスが規定値に達すると、人間辞めちまうタイプの御人なんだ……」
「――は……?」
「初見だと、皆さん決まってそういうリアクションされるんですけど……今の話、嘘じゃなくてマジです」
「実際に目の前で変化するところを見てもらった方が早いんだけど、肝心の本人がどっか行っちまってるからなぁ〜、今……っ」
「そういえば、いつの間にか居なくなっちゃってるね? 主さん。ほんのついさっきまで同田貫さんの肩に居たのにさぁ」
「肩に居た、とは……??」
「あー……あのハチワレ猫なら、厚の奴があんたに声かけた時点で濡れ縁に跳び移って、颯爽と姿
「事件の真相は……ただ、相棒が、猫の姿になっていた……というだけなのか……?」
「はい! その通りです!」
「どっかで大将本人から聞いてないか? 自分の魂を割ったとかどうとかって話」
「その話なら、相棒が怪異掃討戦で負傷して入院となった折に、少しだけ……。そもそもの話、そんな事って本当に出来る事なのか?」
「俺達の主さんなら、其れが可能になっちゃうんだよなぁ〜!」
「まぁ、大将って無駄に想像力豊かだからな……事と次第によっちゃあ、不可能を可能に変えちまう御人なんだよ。その分、滅茶苦茶無茶して死にかけてるけど」
「あーいう在り方でしか生き方を知らねぇ以上は、俺達が何言おうがしょうがねぇよ。主は、審神者でありながら希死念慮を持つ自殺志願者だ。だから、自己犠牲精神の
ざっくばらんとだが、大まかに必要な部位だけを掻い摘んで説明する役を買って出た同田貫が、本体を肩に担いでそのように話を締め括ると、途中から口を挟む余裕すら無くなっていた二筋樋は、ただ呆然と黙って話を聞くしかなかった。
暫く、気まずい沈黙がその場に流れて、双方共に口を開くタイミングを推し量っていれば、不意に第三者の声が沈黙を破った。
「もし……探し人でしたら、此方にいらっしゃいますが、如何なさいましょ……?」
「えっ? 三郎さん??」
「あっ、ハチワレさん! 三郎さんが連れて来てくださったんですか?」
「はい〜っ。偶々其処な濡れ縁を通りかかりましたら、随分別嬪さんな御仁がいらっしゃると思えば、吃驚くりくりく〜りくりっな方でしたから、そりゃもう鶴さんじゃないですがおったまげましたとも! んで、お話伺ってみましたら、其処なお巡りさんが自分の事をお探しだと言うじゃないですか〜! そんでもって、連れて行ってくれと頼まれましてね? 私、猫繋がりの縁が御座いますから、そんな頼み事されたら断れる訳ないでしょ。そんな訳で、此方が
鶴の声の如し介入で登場した三郎は、腕に大事に大事に抱えていた一匹の白と黒のハチワレ猫をそっと自身の居る足元へと降ろした。其れを見た二筋樋は、呆然とした様子でその猫を見下ろした。
「……本当に、相棒なのか……?」
不安で揺れ動く紺青色の瞳を見た途端、猫は後ろ足を高く蹴って思い切り良く二筋樋の居る方へと飛んだ。咄嗟に、受け止めようと前傾姿勢で腕を広げたところで、猫であった者の姿が綻び、元あった姿形へと戻った瞬間、審神者が目一杯伸ばした両腕が二筋樋の首に届く。
突然目の前で不可解な現象が起きた事にも驚くが、それ以上に元の人の姿に戻った彼女の格好に驚いて、その場は一気に騒然となった。真っ先に声を上げたのは三郎であった。
「きゃあーっっっ!! 破廉恥極まりない!! 猫の毛皮を纏っていた訳でなかったのなら、戻る前に何か一言くださいよ! もうっ!! 目の遣り場に困りましたねぇ〜!!」
「うるせぇ……ソハヤの奴が手合せした後うんざりする気持ちが分かるぜ。つーか、何で主本人じゃなくて、あんたが乙女みてぇな悲鳴上げてんだ、
「まぁっ! たぬきさんたら酷い!! 私を
「お前マジでうるせぇからもう引っ込め」
「あ゙あ゙あ゙ッ……そんな力強く私の頭鷲掴みしないでくださいまし……! 私の頭は鞠じゃ御座いません事よ……っ!」
「分かってやってる」
「ひぃッッッ!! どうかお助けを……!!」
「ちょっと此奴
「お気を付けて〜」
同じ古参刀且つ古株同士故に見慣れた同田貫の暴行現場という光景を、ごくありふれた日常風景として見送った堀川の絵面は酷かった。残りの二人もちょっと呆れてはいるものの、同じく見慣れた光景の一部として片付けた模様で、高貴そうな御刀様である三郎が無惨にも引き摺られていく様を無視した。
その数秒後、断末魔みたいな短い悲鳴が聞こえてきても、弊本丸では儘ある事だとした。慣れとは末恐ろしいものである。そんな話はさておかれ。
己の首に抱き着いたまま微動だにしない彼女の様子を心配した二筋樋が、そっと口を開いた。
「相棒…………?」
「――……んなしゃい」
「えっ……?」
「……勝手に試すような真似して、御免なしゃい……。お願いだから、嫌いにならないで…………っ」
「嫌うなんて、そんな事思う訳ないだろう……!?」
「……でも、驚かせたし……嫌な思いさせた……。幾ら、調子が振るわない日だからって言っても、こういう遣り方は良くなかった……。だから、御免…………」
漸く口を利いたかと思えば、謝意を募る言葉だった。恐らく、事の始まりは、新刃教育の一環であったのだろう。しかし、敢えて一部の情報を伏せていた事で、些か事が大きくなってしまった。審神者は、その事について謝りたいのだ。そして、一方的であった事を悔い、深く自省し、自己嫌悪に苛まれていた。故の、歳にそぐわない幼子のような問いかけが口を衝いて出た。
ふと、二筋樋の首に巻き付いていた審神者の腕の力が強まる。謝罪の言葉を紡ぐ審神者の声は小さくくぐもっていたが、語尾の音が不自然に揺れているのが分かった。自責の念に駆られ過ぎて、精神的に不安定になっている所為だろう。泣くのを堪えて、必死に感情を押し込めようとした結果として、噛み殺し切れなかった息が、震えとして表れた。
二筋樋は、華奢で薄い体をした彼女の事をしっかりと抱き留めるように抱えてから、改めて口を開く。
「俺は、この本丸に配属となってまだ数ヶ月の新刃だ。新参者には、当然諸先輩方からの愛の鞭とやらの試練が待ち構えているものとは考えちゃいたが……まさか、相棒自らその試練を与えてくるとは思わなかった……。だが、今回の俺は、未熟が故に、最も簡単で有効的な方法に考えが行き着かなかった。だから、こうして、あんたの事を自分の一人だけの力で探し出す事が叶わなかった……。すまない。目に映るものでしか物事を測れなかった俺は、刀のお巡りさんである前に、あんたの番剣として失格だ。あんたの刀であるならば、自分と繋がる霊力を辿って探すべきだった。その事に、思い至れなかったのが、刀剣男士の風上にも置けない程情けなく思う……」
「まぁ、二筋樋さんの場合、顕現した時期が、丁度主さんの体調が絶不調の時で、霊力的な部分もだいぶ弱ってましたから、顕現後に影響が出たとしても可笑しくないかもしれません」
「いや、相棒は今回何も悪くないだろう……! 不甲斐無い結果になってしまったのは、全て俺の未熟が故の至らなさが原因だ! 相棒の示したものは、何一つ間違っちゃいない……!」
「飽く迄も仮定の域を出ない話ですよ。でも、有り得ない事ではないという事を、念頭に置いておいてくださいね。もし、仮に今後も主さんに何かあった際に、霊力探知出来ない状況に陥った場合、今のままの二筋樋さんでは助けられない事になるかもしれないんです。今回は偶々、霊力探知能力で主さんの存在位置を割り出すのが最も最適解な答えだったというだけで、三郎さんみたいに縁を辿る方法で対象を見付け出す事も出来たんです。つまり、正解は一つじゃなくて無限通りであったのかも。今回みたいなケースは、各々の特性を活かして動くのが最適解に近いと思います。今日の失敗は明日へと活かせば良いだけですよ」
「確かに、今回二筋樋さんに与えられた試練は、何通りもの答えがあっただろうしな! だから、二筋樋さんも俺達みたいに人間レベルの経験値積もうぜ!」
「……そうだな。
「取り敢えず、一旦、主さんの事離してあげてください。彼女、下は三郎さんの羽織で何とか隠れちゃいますが……上は下着姿のままなので……せめて、何か上に掛けてあげてください。じゃないと風邪引いちゃいますから」
「ハッ!! 悪い!! 今すぐ降ろすから、ちょっと待っててくれ……ッ!!」
堀川の言葉で忘れかけていた事実を思い出し、慌てて濡れ縁の方へと審神者の身を降ろした。
彼女の足がちゃんと床の上に立っている事を確認したのちに、改めて姿形を見上げると、何とも扇情的な格好であった。そんな姿の彼女と今の今までガッツリ熱烈な抱擁を交わしていたのかと思うと、忽ち頭が沸騰しそうな勢いで茹だった。
思わず、急いで自身が肩に羽織っていたジャケットを被せる。
「本当にすまない……大事な部分を忘れていて……っ」
「二筋樋さん……混乱してるのは分かるけど、主さんの服持って来ちゃってるのなら、其れを渡してあげようよ……。彼ジャケに憧れる気持ちも、同じ男として分からなくもないけどさぁ」
「えっ!? あっ……! ッ〜〜〜、本気ですまん……!! 無意識だった……!」
「その自白必要か……?」
「決して下心があったとか、わざとじゃないからな!? 断じて……っ!!」
「この場で下手に言い訳すると逆に肯定するみたいな流れになってきちゃいますから、弁解の程はその辺で。二筋樋さんは御自身のジャケットで、僕達は主さんが上を着たら、三郎さんが巻き付けた羽織をカーテン代わりに使って主さんを隠します! 他の方々の目に留まる前に急ぎますよ!」
「あ、あぁ! 了解した!」
堀川のせっつきで何とか持ち直して、審神者がきちんと服を着るところまで持って行けた。後は、仕上げとして、二筋樋が預かってくれていた眼鏡を掛けさせてもらい。それから、室内へと入る前に、猫の姿の時に素足で歩き回ったであろう両手足を綺麗に拭いて、一先ずは作業完了である。
元居た離れの執務室まで戻ってきたが、本来変える事の出来ない筈の魂の器を歪めていた後遺症だろうか。猫の姿で居た時の名残のようなものが暫く尾を引いて残り、受け止めた時と同じく抱っこ状態で部屋まで運んで来た影響も加味してか、二筋樋が座布団へ腰を下ろしても審神者はくっついたままだった。其れが気になった二筋樋は、恐る恐る口を開いた。
「あー……その……相棒? 何でまだ俺にずっと引っ付いたままなんだ? いや、決して嫌とかではなくて、単純に腕が疲れないかとか気になってだな……っ?」
「んむ……そうだね……。お仕事の事もあるし、離れるのが正解なんだろう事は分かってるんだけど……何か、名残惜しいというか……離れ難さみたいなものを感じて……つい……」
「そ、そうか……っ。相棒が、このままの方が落ち着くと言うのなら、気が済むまでこのままで居てくれても構わない。さっきの御詫びの代わりにもならないかもしれないが」
「貞宗さんは、嫌とかじゃない……? 普通に仕事の邪魔でしょ、俺」
「ははっ……こんな愛らしい妨害の仕方されたら、猫じゃなくても可愛くて、俺の方が手放し難くなるに決まってるだろう?」
「ンミ°ッ」
急にメロイ爆弾を落とされて、一瞬我に返った審神者は、言葉にならない短い悲鳴を上げた。その奇妙な悲鳴は、まるで猫の鳴き声のようにも捉えられてしまった為、二筋樋は彼女がリアクションとして猫の鳴き真似をしたのだと思ったらしかった。
「俺の相棒は、本当に猫だったんだなぁ。まさか、本物の猫の姿になれるとは思いもしなかったが。ただ次にやる時は事前に言ってくれ。……元の姿に戻った時の格好があんな薄着の下着姿だなんて、心臓に悪いから」
「言うて、季節的に上は長袖インナー着とったから、露出やばいんはパンツだけしか穿いとらんかった下半身の方だけでは……?」
「体のラインが分かる服装の時点で、刀のお巡りさん的にはアウトだ。下着だけでも身に着けてるからセーフな訳ないだろう。寧ろ逆にアウトだ。分かったな……?」
「ん……分かった……」
「よし、良い子だ。……っと、流石の此れはあんたの年齢を考えると子供扱いが過ぎたか?」
「んーん……貞宗さんに頭ポンポンされるの嬉しいし、頭ナデナデされるのも気持ち良いから、もっとしても良いよ」
「ん゙ん゙ッ……不意打ちでそういう発言は止してくれ、相棒……不覚にも軽くカウンター攻撃を食らったような気分に陥るから。勘違いさせるような発言は控えてくれ……」
「うん……? よく分かんにゃいけど、分かった」
そう言って、ぽややんとした頭で頷いた審神者は、その後、二筋樋の胡座の間にちょこんと座りながら書類に目を通している内に、二筋樋の柔らかい胸筋と高めの体温が丁度良い具合に眠気を誘ってしまい、そのまま彼に寄り掛かって寝落ちるのだった。
加筆修正日:2026.05.17
初出日:2026.05.17
公開日:2026.05.20