秋の微風に黒き花は揺れる
あんなに厳しかった残暑も、気付けば風が通り過ぎていったように涼しく和らいでいて。
その代わりにというように、秋に相応しく冷えた風が肌を柔く凪ぐように吹いていた。
『茹だる程暑かった残暑もすっかり過ぎて秋らしくなってきたねぇ〜…。九月入ったばっかの頃はまだ夏みたいに暑かったのに、一ヶ月経った今ではだいぶ過ごしやすいくらいに落ち着いてきたなぁ…。秋らしい季節になったって事なんだろうかね?いやはや…暑いの苦手人間としちゃ一番助かるよぉ〜。』
「アンタ、暑さ弱いもんな。」
『うん。何せ私、冬生まれだからね。寒いのはある程度我慢出来ても、暑いのは無理だわ…!』
「いや…其れって関係あんのか?つーか、アンタ冬生まれだったのな。」
『うんっ、そだよー。寒さ厳しい真冬のど真ん中な季節に私は生まれたんだ〜。だからね、私が生まれた日は冬の中でも一番寒い日になってね、大抵雪が降るのさ…!学生時は其れが地味に辛かったな…!!寒いけど女子は制服スカートで学校行かなきゃいけない決まりだったから!そんで、時期的にテスト期間が被るのと、成人式の日が近いってので周りに忘れ去られやすい日だったというね…!地味に悲しかったよな!あはは…っ!!』
「悲しいのに笑うってのは可笑しくねぇか…?」
『え?だって、そんな学生の頃とかもうとっくの昔の事だし、大人になってからはそんな祝われる程の余裕とか暇とかも無い訳だしね。今となっちゃ懐かしき思い出の一つみたいなもんかな?良くも悪くもお笑い話ってね。』
「人間ってのは大変だな〜…。俺達刀と違って生きれる時間が短ぇから、限られた中で精一杯やってよ。たった数年前の出来事でも、アンタにとっちゃ過ぎ去っちまった記憶の一部になっちまうんだな…。」
『ふふふ…っ、だから人間ってのは強くて簡単には折れないんだよ?短い人生という生涯の中で、何れだけの思い出を残せるかってね。強かに居ないと、時代という波に生き残れないからね。皆、生きるのに必死なんだよ。』
「…だからアンタも、地味に渋とく生きてるんだな。」
『ふっふふん…っ、そうだよ。せっかく生きてるんだもん。何だかんだあったって、自分の好きな事して楽しく生きていたいもんだよね…!人生謳歌するも良し、青春謳歌するも良し!生きてる限りは楽しんだもん勝ちってな…!!』
「はは…っ、アンタらしいな。強かな女なアンタらしいよ。」
『そう…?でも、私そんなに強かって程強くもないけどなぁ…。』
「いや、十分強ぇだろアンタは。俺達みたいな喧嘩っ早い個性豊かな荒くれ者共を纏め上げて、その上その頂点に立つ者なんだからよ。自信持てよ。」
『はははっ、その自信が持てたら苦労しないって…!』
他愛ない雑談を交わしながら、本丸の庭がよく見える離れの縁側にて腰掛け、季節に移ろいゆく景色を眺めていた。
陽はだいぶ傾いた夕暮れ時の時刻。
穏やかな空気の流れる時間だった。
夕日に照らされた秋桜が風に揺られて美しい風景を作り上げている。
『風が涼しくて気持ち良いねぇ〜。夕日も綺麗だし、最高のロケーションだよね、本丸敷地内の景色って。』
「まぁ、その本丸を築き上げたのはアンタだけどな。」
『でも、この神域と基礎となる建物を用意してくれたのは政府だよ…?』
「其れでも、此処まででっかく広げたのはこの本丸の主であるアンタだろ。…アンタは、何時も十分過ぎる程頑張ってんだよ。」
『う〜ん…まぁ、そう言われちゃあしょうがないか。へへへ…っ。』
「アンタは謙虚過ぎるんだよ…。偶には、俺達に遠慮する事無く豪語するくらい欲を言ってみろってんだ。」
『んにゃ〜今でも十分過ぎるくらい幸せなのに、これ以上何か望めと言われてもねぇ〜…そう思い付かないかにゃ。』
「アンタって変に無欲だよなぁ…人間なら、もっと強欲でいるくらいが丁度良いと思うのにさ。」
同じようにして隣で寛ぐたぬさんがそう零して、私の方を見つめてきた。
もう日課の仕事は終わって、近侍としての仕事も終わっているのに、こうして私の側に付いたまま暇を潰すのに付き合ってくれている。
まぁ、近侍以外の仕事は今日は担当させていなかったし、他に何も遣る事が無いからそのまま付き合ってくれているんだろう。
気怠げなところは変わらないけど、そうやって近付き過ぎず離れ過ぎずな距離感で居てくれる事が心地好かった。
『そういえば、秋と言えば食欲の秋、だよね…!芸術ともスポーツの秋とも言うけど…!他にも、観光とか旅行とか、行楽も楽しめる季節だよね。今年も秋の名物な紅葉見れるかなぁ〜…?去年の紅葉、めちゃくちゃ綺麗だったからなぁ〜。今年はライトアップver.も拝みたいなぁ〜…博多君と小判の相談かな?』
「あー、そういやそんな時期になんのか…。秋って言やぁ、芋とか栗とか秋の味覚が美味くなるんだっけか?」
『そう…っ!お芋さんが美味しくなる季節なんですよぅ…っ!!』
「アンタ、芋好きだよな。」
『さつまいもは好きだよ〜!主食の御飯としても食べれるし、甘ぁ〜いおやつとしても食べれるからね!!蒸しても焼いてもどっちも美味しい…っ!私、栗も好きだけど、秋の味覚と言ったらやっぱお芋さんかなぁ〜。とか言ってたら、何か芋系の物食べたくなってきたな…。』
「確か畑に植わってたのが収穫時だったな…。明日辺りにでも取って持ってきてやろうか?」
『マジで…?わぁーい、やったあ〜っ!じゃあ、少し日を置かせて熟したら皆で焼き芋大会しよ!!絶対美味しい…っ!!』
「なら、明日畑当番の奴等にそう言っとくか。あと、暇で手が空いてそうな奴にも。」
『あ、もしアレだったら私も手伝おうか?芋掘りとか、小学生以来だけど。』
「アンタがやりたいんならやりゃあ良いんでねぇの?ただ、アンタにはアンタの仕事があっから、手伝うにしてもちょっとだけにしとけよ。後で疲れてバテられても、アンタが直接遣んないといけねぇ仕事は手伝えねぇからさ。」
『流石に其処までにはならないようにするよ〜っ。無茶しない程度に皆と一緒にお手伝いするだけ。…っふふ、言ったらむっちゃんとか短刀ちゃん達喜ぶだろうなぁ〜!皆の喜ぶ姿が目に浮かぶね。季節限定の行事って楽しいし、新刃君な子達にとっちゃ初めての事だから、どう反応してくれるのかが楽しみだわ…!』
「…アンタは、何時も周りを楽しませる事を優先させるな。」
『だって、皆が楽しそうにしてたら私も楽しいし、皆が笑顔になってたら私も自然と笑顔になれてるんじゃないかなって思うし。まぁ、皆が幸せで居られたら其れが私の幸せ…みたいな感じかな。』
「そうかよ…。」
サワサワと吹き抜ける微風に前髪と余り髪の横髪を浚われ、弄ばれて顔に掛かり、むず痒くうざったいと手櫛で整えようとする。
すると、横から手が伸びてきて、顔に邪魔に掛かっていた髪をするりと取られ、片耳に掛けられた。
そのせいで、いつの間にか近付いていた距離と、頬と耳に掠めた手の感触に妙に脈が速まってドクドクとした鼓動の音が耳を突いた。
触れられていた手はすぐにサッと引っ込められたが、触れられた箇所が何時までも熱を持ったようにじわじわと彼の残り温度を訴えてくる。
私は其れを敢えて無視して、きょとんとしながら礼を返した。
『…有難う。』
「別に…邪魔そうにしてたから俺は避けてやっただけだ。」
『うん…。髪、また伸びてきたなぁ〜…。』
「切るのか?」
『う〜ん…そろそろ切りたいなとは思ってるんだけど、どうしようか迷ってる。どっちみち、この長さだと邪魔になってくるから切るつもりではあるんだけども。髪型どうしよっかなーってのに迷ってる。…あんまし自分に似合う髪型とかが解んないのと、特に此れといった希望が無いんだよなぁ…。おかっぱ頭だけは昔して似合わなかったの知ってるからしないけど。あと、ぱっつんも。』
「ふーん…。まぁ、俺は見目を着飾る事には詳しくねぇから何とも言えねぇけど、どんな髪型でもアンタには似合うんでねーの…?どんなんになっても、アンタはアンタで変わりはないと思うしな。」
『おっま……ッ、軽率にそういう事言うんじゃないよ…!』
「は…?何でだよ…思った事言っただけだろ?」
『ぅ゙ぐ…っ、それはそうなんだろうけどさ…。その、何つーか…あ゙ーのアレだよ…!!女子的には複雑いみたいな事だよ…っ!』
「意味が解んねーよ…。」
何だか急に超絶擽ったい感情に襲われて、私は半ば投げやりに強引に誤魔化してこの会話を終了させた。
駄目だ、今の甘酸っぱさ匂わせる感じの空気と遣り取り…。
自分の柄じゃないと内心で頭を振って空気を霧散させた。
『秋と言えばさ…そろそろ秋桜も終わりの季節だよね。本来なら九月の始め頃までが秋桜の時季らしいんだけど、せっかく手に入れた景趣だったからね。思った以上に綺麗だったから暫く使ってみたかったんだよなぁ…。ま、流石に十月となる明日には変えるけど。』
「景趣変えるのか?」
『うん。せっかく秋らしい景趣持ってるんだもん。そっちの景趣に変えるよ。本丸から眺める景色も、出来るだけ現世と同じ四季に寄せたいからね。』
態とらしいかもしれないけど、そう話題を変え、元の秋の話題に沿った会話へと話を持っていく。
その様子に、一瞬チラリと横目にたぬさんから視線をもらった気がしたが、気付いてない振りをして話を続けた。
私の視線は目の前の庭でそよぐ綺麗な秋桜畑に固定されたままだ。
「景趣変えるんなら、その前に数本摘んでアンタの執務室の花瓶にでも生けといてやるよ。数日しかもたねぇだろうけどさ。」
『あ、良いね、其れ。ちょっぴり雅だし。花が飾られてるのと飾られてないのとでは、部屋の雰囲気ガラッと変わるしね。』
「…まぁ、アンタが喜ぶんなら、適当に見繕ってくるわ。」
『えへへ…っ、有難うたぬさん。何だかんだ言いつつ、たぬさんは優しいよね。』
「…そんなんじゃねーよ。俺は、ただ……、」
『………ん?』
「……何でもねぇ。」
『そう。』
ふと何かを言いかけた風だったたぬさんは、その先を言わずに口を閉じた。
私は其れを小首を傾げて見遣るだけに留めた。
『そろそろ晩御飯が出来る頃だよねぇ〜。めっちゃ良い匂いが此処まで漂ってきてるし。今日の晩御飯何なんだろね…?』
「…さぁなー。たぶん、魚じゃねえか?昼間厨当番の奴等が言ってたから。」
『お魚…!何のお魚かな。鮭?鯖?それとも秋の風物詩な秋刀魚…?』
「其処までは俺も知らねえよ。飯出て来る時になったら解んじゃねーの…。」
『其れもそうだね。』
他愛ない会話が心地好い間を空けて弾む。
その空間が絶妙に砕けていて、楽だった。
例え会話が途切れても、彼との間に流れる静寂は苦じゃなかった。
夕日に照らされながら微風に揺られる秋桜を静かに眺める。
微かに横顔にたぬさんからの視線をもらう。
でも、その目と合わせてしまったら、何だか平常を保っていられなくなりそうだったから、敢えて其方を向かないようにしていた。
たぬさんの方も、その事を特に指摘する事も無く、ただただ黙って時折ジッと此方に視線を投げてくるのみだった。
曖昧なのだろう…私も、彼も。
でも、そうでしか居れない内は、その距離感で居たいと私は思う。
―翌日、朝起きて朝餉の前に執務室に向かったら、たぬさんが居た。
誰よりも早起きで、近侍に据えたままの彼が先に部屋に居る事など珍しくは無いが、食事よりも前に来ている事は珍しかった。
何か用があって訊ねに来たのだろうか。
『どうしたの、たぬさん?こんな朝早くから…。』
「昨日言ってた此れ、摘んだから生けに来た。まだ少し暑い昼間に摘むよりか、朝の涼しい内に摘んどいた方が花も元気だろ。」
『わざわざその為だけにこんな朝早くから…?嬉しいけど、お前ちゃんと寝れてんの?何時も早起きなのは知ってるけどさ…。』
「俺は十分寝れてっから、そう心配すんな。それよか…ほら此れ、他の秋桜に混じって珍しい色のが咲いてたから摘んできた。」
『え…?わ、本当だ。珍しいね…!黒い秋桜とかって。』
「アンタなら物珍しいつって気に入りそうだったから、摘んできたんだよ。…どうだ、気に入ったか?」
『うん…っ!有難うたぬさん!!ふわぁ…っ、綺麗〜!黒色の秋桜なんて初めて見たなぁ〜!普通ピンク色っぽいような紫がかったような色した秋桜なら多いし見た事あったけど、黒い色した秋桜なんてのもあったんだねぇ〜。何だか凄いの見付けちゃったって感じするな…!』
「そんなに凄い事なのか…?ただ珍しい色した花一輪見付けた程度が。」
『私にとっちゃあ凄い事に入るのさ…!えへへ、何かめっちゃ嬉しい…っ。見付けてきてくれた上に摘んできてくれてありがとね、たぬさん!』
「…礼言われる程の事はしてねーよ。まぁ、アンタが喜んでくれたなら、其れで…。」
朝から思わぬ贈り物付きで逢えた事によって、無条件に喜ぶみたいにはしゃいでしまった。
つい子供みたく興奮してしまったが、引かれたりしなかっただろうか…。
そんな小さな感情が胸に沸き起こってきて、少しだけ落ち着こうと控えめに声を落とした。
『ねぇねぇ、この黒い秋桜って他にも咲いてたの?』
「いや…見た限り咲いてたのはその一輪だけだったな。」
『へぇ〜、そっか。じゃあ、此れめっちゃ貴重じゃんね!一輪だけだけど他のに混じって咲いてたとか、健気だけども凛としてて可愛い。…んふふっ、せっかく珍しいの見付けたんだもの、少し飾って愛でたら枯れない内に押し花にでもしよっかな…!』
「アンタがその一輪だけにそんなに喜ぶとは予想以上だったわ…。まさか、アンタが其処まで喜ぶとはな。そんなに嬉しかったのか…?」
『そりゃ嬉しいに決まってるでしょ…!こんな朝早くから私の為を思って摘んできてくれただけでなく、こんな素敵な一輪までプレゼントしてくれたんだもの。嬉しくならない訳がないでしょ?』
「いや、まぁ…そりゃ俺としても、摘んできた身としちゃ喜ばれた方が嬉しいけどよ…。んな風に全開で喜ばれんのもな…調子狂うっつーか、何っつーか…。」
私が秋桜を摘んできてもらった御礼とばかりに言葉を紡げば、たぬさんは其れを照れくさそうな様子でそっぽを向き、頬を掻いた。
直接面と向かって礼を言われる事に慣れずに気恥ずかしくなったのだろう。
その様子が彼らしい反応だと微笑ましくなって、クスクスと小さな笑みが漏れた。
其れに更に気まずくなったらしいたぬさんが、“あ゙ー、”だの“ゔー、”だの意味を成さない声を漏らしながら頭を掻き毟り始める。
段々と面白くなってきてしまい、ついには笑い声が漏れてしまった。
「…ッ、何だよ、笑うなっての…!」
『っふは、ごめ…っ!何かたぬさんの反応が面白くなってきちゃって……、っふふふ!』
「だから、笑うなってぇの…!!」
『ははは…っ、ごめんて…!不可抗力…っ!』
「何が不可抗力だよ…っ、くそ……っ。」
『も〜怒んないで?馬鹿にした訳じゃないから。』
「別に怒ってねぇよ…。」
『ふふ…っ、なら良かった!』
彼から受け取った一輪の黒い秋桜を大切に胸に抱いて笑う。
その刹那、彼から何処か熱を持った視線で見つめられる。
私はその意図が解らずに首を傾げるだけ。
最近、ごく偶にだが、こうした遣り取りをたぬさんとしている気がする。
意味はよく解っていないのだけれど。
寸分ジ…ッと見つめられていたが、私の手の中にある花に移るように目が伏せられた事で視線が外された。
私も同じように花の方に視線を遣って、再び小さく微笑んだ。
他の色鮮やかな秋桜に混じって一輪だけその身を際立たせるように咲いていたのだろう黒の秋桜が、まるでたぬさんのように思えた私は、何だか堪らず愛おしく思えてきて、思っていた事が口を突くようにして出ていった。
『…この子、何だかたぬさんみたいだね。』
「……!」
『たくさん咲いてる色鮮やかな花達の中で、一輪だけ真っ黒で存在を際立たせるように咲いてるところがさ、何だかたぬさんみたい。一輪だけでも、強く気高く根を張って生きてたんだと思うとね…凄く愛おしいなぁって。』
そう言葉を紡いでおいて、言った後から「あれ…今自分何かこっぱずかしい事言った…?」と気付いて、慌てて誤魔化すように取り繕った。
『…って、何言ってんのかって話だよね…!ごめん、変な事言ったわ。忘れて…っ、』
「……んで、アンタは…。」
『え……?すまん、何て…。』
「…何で、アンタは…そう、軽々しく言えるんだよ……ッ。アンタは、まだ気付いてもいない癖に………ッ、」
『え……………?』
顔を上げると、何処か苦しそうに顔を歪めたたぬさんが此方を見つめてそう呟いていた。
何を言っているのかが解らなくて、聞き返すように声を漏らす。
どうして、そんな辛そうな表情をしているのか。
問いたいと思った言葉は浮かんできたが、其れを口にするには憚られて、喉に詰まったように出てこなかった。
代わりに、意識だけが無意識に熱を巡らせて、頬に熱を持たせた。
変に火照ってくる顔と思考とがぐちゃぐちゃになって、何を言おうとしていたのかが解らなくなる。
妙に空気がざわめいて呼吸が乱れてくる感覚がした。
自分の今の感情が解らなくなって混乱している内に、何故かたぬさんから手が伸びてきていて頬に触れる。
その感触と温度に戸惑って、私は変に肩をビクつかせてしまった。
再び、彼と視線が合わさる。
『…ぁ……っ、』
その瞬間、熱の込もった金の眼に射抜かれて、動けなくなった。
視線を逸らす事も出来なくなって小さく声を漏らしたところに、より距離を詰めてきたたぬさんの顔が近付く。
更に何をどうしたら良いのか解らなくなって、私はギュッと目を瞑った。
至近距離にある彼の熱い吐息が顔にかかる。
混乱の極みに立って心のメーターが振り切れて泣きそうになってしまったところで、部屋の外から声がかかった。
その声にハッとして、感情を振り切るようにして廊下の方を見遣った。
すると、浦島君が部屋の入口付近から此方を覗き込むようにして立っていた。
浦島君の位置からだと、たぶん私はたぬさんが影になって見えていないだろう。
私は、浦島君からの呼びかけに声を大きくして返した。
「おーい、主さぁ〜ん!朝飯出来てるぞぉー!冷めない内に食べようよ〜っ!」
『あ…っ、はぁーい!手ぇ洗ったらそっち向かうから、先食べててぇー…っ!!』
「ほ〜い、解った!皆にもそう伝えてくるね〜!」
ただ呼びに来ただけなのだろう浦島君が去っていく足音を聞いて、ホッと息を吐くと同時に肩の力を抜く。
が、逆にさっきまでの緊張感が戻ってきて、心臓がドクドクとうるさく脈を訴えてきた。
早まった鼓動と顔の熱が引かず、どうしようもなく遣り場を失った感情を持て余して狼狽える。
浦島君の声が介入してきた事で場の空気は壊されたが、互いの間に流れる微妙な空気は漂ったままだった。
「……悪かったな。変に触ったりしてよ。俺なんかに触れられて、嫌だったろ…?」
『え、…っと、……嫌って訳じゃあないけど…ただ急な事に吃驚してしまっただけというか…テンパってしまっただけというか………そんな感じです…。断じて、たぬさんの事を拒絶した訳じゃない、よ……?』
「………そうかよ…。」
浦島君が来た事でサッと身を離したたぬさんは、そのまま背を向けて部屋の出入口の方へと向かってしまう。
其れが何だか寂しくなって、意味も無く無意識に彼の背中へと手を伸ばした。
その手は、何も掴む事無きまま宙を空振るだけに終える。
今の自分がどうあるのか考えないまま、「待って………っ、」と彼の後を追おうと追い縋った。
すると、此方を振り返ったたぬさんが顔を顰めるように険しげに歪めて見つめてきた。
「…アンタさぁ、んな風に呼ばなくても俺は何処にも行かねぇっての。…先に母屋の方に戻ろうとしただけだ。」
『あ…何だ、そうだったの…。変に勘違いしちゃって早とちりしちゃったや。ごめんね。』
「………謝んなら、勝手に急いちまった俺の方だろ…。」
『へ……?』
「…んな事よりかさぁ、アンタ母屋に来る前にいっぺん鏡見てきた方が良いぜ?ちょっと他の奴等には見せらんねぇ顔してるからよ…。」
『え…………ごめん、自分じゃどんな顔してんのか解んないんだけど…今俺どんな顔してんの?』
「………………自分で見てきた方が解ると思うぜ。」
『は……………。』
それだけ告げたたぬさんは屈めていた背を戻して去っていく。
私は慌てて離れに在る洗面所の方まで走った。
そうして鏡を覗き込んだら、半泣きみたいに涙で目を潤ませて困ったように眉を下げた真っ赤な自分の顔が映り込んでいた。
予想だにしない自分の現状に私は絶句して、その場に崩れ落ちるようにして蹲った。
『…ゔぅ゙……っ。卑怯でしょ…、あんな言い方ぁ……………ッ。』
“他の奴等には見せられない”って事は、即ち“自分にだけは見せて欲しい”という風に捉えられる言葉だ。
其れじゃ、まるで私の事を好いているみたいな…。
其処まで考えが至った時点で、私の頭は爆散した。
む、無理だ…っ、今の私には処理出来なくてキャパオーバーだ……ッ。
洗面台のシンクに縋り付くように額をくっ付けて項垂れる。
『…急にそんな風に接されても…私にはまだ踏み込む勇気が無いよ……。てか、何時そんな素振り見せたんだ彼奴…いや、無かっただろんな素振り……。俺が無自覚なだけ?……うん…解らんわ…。』
この感情と事態を解決する糸口が見付けられない。
真っ赤に染まってしまった顔の熱は未だ暫く引きそうにない。
『………このままじゃ母屋戻れないし、飯食えないじゃん…。其れどころか、皆にどう繕えば良いのか解らんし、たぬさんと顔合わせる時どういう顔して逢えば良いのよ………ッ!たぬさん近侍だから、しょっちゅう顔合わせる事になるよ…!でも、この事を理由に外すのもどうかと思うし、逆に拗れそうだよね…!!詰んだよ、乙……ッッッ!!』
完全に感情の遣り場を失って途方に暮れた。
今日は飛んでもない朝だ、と溜め息を零しながらぼやいた自分の声が空しく洗面所内に響いて木霊した。
加筆修正日:2020.04.09
参考元:「あの人にお花貰った―♪」(790557)