この話は、野良猫を拾う話から始まった。
―雨の日に拾った。
近くで火事があったばかりの場所に捨てられていた猫。
誰にも拾われず、濡れ鼠になっている姿を見て、何だか情が沸いたと思ったら、気付いた時にはその猫を段ボール箱から抱き上げていた。
傘を放置して両の手で抱き上げた私はずぶ濡れだ。
だがしかし、今はそんなのどうだっていい。
『…お前、
家に来るか?』
仕事で疲れに疲れきった思考はまともに考える事などしなかった。
特に先の事を考えもせずに、捨て猫を拾う。
「にゃあー…。」
鴉に襲われでもしたか、近場の大人の猫に喧嘩でも吹っ掛けられたか。
汚れてボサボサの毛並みの黒猫は、怪我をしていた。
片目だけ、浅黒く血がこびり付いたように固まっていて上手く開けないみたいだ。
それでもこの猫は懸命に生きようと藻掻いていた。
鞄の中に突っ込んでいた、中身が雨に濡れないように防ぐ用で持っていたタオルを引っ張り出し、抱き上げていた猫を包む。
胸に抱き直すと、今度はちゃんと傘を差して、これ以上猫が濡れないようにする。
『さて、帰るか…俺の家に。』
そう呟いた私に、猫は「にゃぁ…?」と首を傾げて見上げた。
恐らく、見た目からも分かる通り女なのに男みたいな一人称を使ったからだろう。
今は素だからどうしても地が出ちゃうんだよな…。
まぁ、特に気にせずお構い無しに歩き始める。
家に着く頃には、憎たらしい事に雨は止んでいた。
片手に猫を抱えて、玄関のドアの鍵を開ける。
その際、何故か腕の中出ようと逃げかけたから、肩に登りかけた所で力で捩じ伏せ、担ぐような形で家の中に入れた。
そして鞄と共に猫を床に下ろすと、逃げられないように素早く外に置いていた広げっ放しの傘を閉じ、玄関のドアを閉め、ロックを掛ける。
どうせ夜だし、今日はもう外に出る事は無いんだ。
チェーンも掛けて二重ロックで良いだろう。
漸く猫の方へ振り返ると、怯えた様子で此方を見上げていた。
このまま風呂場に連れていこうと目の前に屈めば、警戒して毛を逆立たせ、低く唸り声を上げる。
見れば、包んでいた筈のタオルは落ち、床に開けて汚れた面を見せていた。
タオルに付いた汚れは、この猫の雨雫を拭ってやった時に付いたものだろう。
やはり、捨てられていた分、かなり汚れているようだ。
黒い毛並みで解りづらいかもしれんが、明らかに毛艶が無い。
相当汚れているんだろう。
雨にも打たれて身体を冷やしているだろうし、早急に風呂場へ向かう必要があった。
『初対面で恐い気持ちは分かるが、そう警戒せんでくれ。俺は君を綺麗にしてやりたいだけなんだ。』
私自身も、雨に濡れて体温が下がっていて寒い。
早めに着替えるか、温まらないと風邪を引くだろう。
此処はとにかく腹を括ろう。
今のこの状況で抱き上げれば、引っ掻かれる又は噛み付かれる事は必須だが、致し方ない。
猫がこれ以上傷付かないよう加減をしながら、なるべく優しく抱き上げ、風呂場へ連れていく。
やはりというか、予想通り、猫は暴れて腕やら手の甲を引っ掻いていった。
だが、めげずに胸に抱き込む力を強めて風呂場へ連行した。
風呂場に着いてタイルの上に下ろしてやると、すぐさま私から飛び退き距離を取った。
私はそれに構わず、仕事着で着ていた服のジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖を捲る。
『こーら、いつまでそうやって警戒心剥き出しにしてんの?洗ってやるから、こっち来なさい。』
ほれほれ、と自身の方へ来るよう手招きする。
『私だって濡れて寒いんだから、さっさと来なってば。』
一人称を女のそれに戻すと、ピクリと反応した猫は、未だ警戒はするものの、少しだけ私に近寄ってきてくれた。
その機を逃さず、むんずと首根っこを掴み懐に寄せると、シャワーを捻り、毛並みを濡らした。
「ふぎゃ…っ!?」
猫は驚いて再び暴れようとするが押さえ付け、何とか身体を洗ってやる事に成功した。
ただ身体の汚れを落としてくれているだけなのだと理解した猫も、途中から大人しくなり、洗ってやる手を拒まなくなった。
猫を洗い上げたら、今度は自分の番だと一度風呂場の戸を開けて着ていた服を適当に脱いだ。
そして、猫を湯の張った洗面器の中に入れると、シャワーの蛇口を捻った。
帰ってきてから大分時間が経っていたせいか、身体は随分と冷え切っていた。
しっかり温まるまで時間を要したが、漸く温まりきるとシャワーを止めた。
風呂に入ったついでだと、クレンジングオイルでメイクを落として、身体や髪も洗ってしまおう。
いつもなら、メイク落としを使って化粧を落とした後、クレンジング専用石鹸で洗い落とすのだが…今日はめんどい。
全てを済ますとシャワーを止め、上半身のみ風呂場の外へ出して腕を伸ばし、近くに掛けてあったタオルを取る。
それで身体の水気を拭き取ると、それまで大人しくしていた猫を抱き上げ、今度は此方の水気を拭き取ってやる。
風呂から出れば、手早く服を着てからドライヤーで猫の身体を乾かしてやる。
洗ったおかげか、随分綺麗になり毛艶も戻ったようだ。
自身の髪も乾かした後、猫の傷の手当てに移った。
消毒液を染み込ませたコットンを猫の目の近くにちょんちょんと当てる。
粘膜辺りは流石に悪いだろうと、目のギリギリ辺りまでにしておく。
取り敢えず、消毒だけは済ませた。
後は、どうしようか。
人間みたいに眼帯を付ける訳にはいかないだろうから、このままでいいのだろうか。
取り敢えず、翌朝、週末で仕事が休みだったのもあって病院に連れていった。
軽い栄養失調と衰弱と診断されたが、それ以外は片目の怪我だけで後は何の心配も無いと言われた。
ただ片目は、怪我が影響で今後視えなくなるかもしれないとの事だった。
だが、あと少し保護が遅れていたら死んでいたかもしれないと言われ、何だかんだありつつも拾って良かったと思った。
それ以来、彼はウチの子となった。
元々猫が好きだった事も由縁し、彼が無事に元気になってからも大事に育てた。
まだ幼く若かった猫は、みるみる内に成長し大きくなる。
気付けば、猫用グッズが増えて部屋が手狭になっていたが、それもまた良しとして思う事にした。
猫の名は、首輪に付いていた名前の通り“光忠”と呼んでいる。
元の飼い主が付けた名前だろうが、捨てるに至るまでは大切にされていたのだろう。
そう感じられるくらいには、彼は人を恐れなかった。
拾った最初こそ警戒されたものの、あれは手負いの獣状態だったのだから仕方ないと思う事にしている。
…手の甲の傷が痛々しく残ってしまったけれど。
―そうして彼はウチの子となり、痕は残るも怪我が治った片目の視えなくなった猫は、すっかり家に溶け込んだ頃に恩返しをする為、人の身を得るのだった。
執筆日:2019.08.21
加筆修正日:2020.02.02