初めまして、こんにちは。


いつもの流れをこなすように仕事を終え、帰りの電車が来るまでの間を駅近場のとある喫茶店で時間を潰す。

時間を潰す…というよりは、仕事での疲れを癒す為の束の間の休息と言えようか。

一度、この店に入ってみてから気に入って以来、電車を待つ少しの時間の間、此処で一日の疲れを癒すのだ。

この喫茶店を教えてくれたのは、小学校の頃からの友人で、色んな所へ出掛ける彼女は、自分が知らないような店を含めた色んな場所を知っていた。

故に、お洒落なのに何処か落ち着いた雰囲気のあるこの喫茶店を教わった。

最初は、ただ話に聞いた程度であまり興味は湧かず、店を見かけても入る事はしなかった。

しかし、仕事にとんと疲れてしまった或る日、自分はどうかしていたのか。

はたまた、どういった風の吹き回しか。

帰り道の道中、その店がやけに目に入ってきたのだ。

そして、不思議とその店へと足が動いてしまった。

店の前に来ると、腕が勝手にドアの方へと伸び、ドアノブを掴んでゆるりと開く。

ドアに付けられた鈴がカランカランと入店の合図を鳴らして、何の気無しに入ってしまった自分の緊張を増させた。

中を覗き込むように頭だけを差し入れてみる。

次いで、そろりと上半身を捩じ込み、片足を店の中へと入れた。

すると、近くのテーブルを拭いていた店員が此方に気付いて、顔を上げ、近付いてきた。


「いらっしゃいませ。もしかして、此方は初めてですか?」
「え…あっ、はい。初めて、です…っ。」
「それなら勝手が分からないですよね。このお店は、よく常連さんばかりがいらっしゃるから、見かけない顔だなぁって思ったんです。空いてるお好きな席へどうぞ。メニューとおしぼりをお持ちしますので、掛けてお待ちください。」


随分と手慣れた対応の店員だった。

初めて来店したお客に対しての言葉選びも、素晴らしく気の利いたものだった。

社会人を始めて経歴の浅い自分としては、見習うべきものだと思ったものである。

取り敢えず、奥の窓際の席へ腰掛け、カウンターの方を見遣っていると、先程の店員がやって来てメニュー表とおしぼりを持ってきた。


「此方、おしぼりとメニュー表になります。メニューがお決まりになりましたら、お近くの店員にお声掛けなさるか、其方にあるベルをお鳴らしください。すぐに店員の者が参りますので。」


ぎこちなくメニューを受け取った自分を訝しむ事もなく、寧ろ人当たりの良い笑顔でにこりと微笑んだ。

彼は、間違いなく好青年であり、女性客には大層人気な事間違いないだろう。

そして、恋愛というものに殊更疎く興味の無い自身でさえ、何か錯覚を起こしたような気になって、普段飲みもしない且つ飲めもしない珈琲なんて物を選び、頼んだのだった。

程なくして、薫り豊かな香ばしい薫りが店に漂い始め、店の雰囲気を更に高め始めた。


(成程、この店は豆を挽くところから珈琲を作るのか…。)


そんな事をぼんやりと考えながら窓の外を見遣る。

普段から目にする、自身が利用する駅周辺の変わり映えしない景色が広がるばかりだ。

車が行ったり来たりと忙しなく行き通り、時折行き交う人々達の喧騒が聞こえる。

だが、この店に居る間は、そんな空間から少し切り離されてゆったりと過ごせそうな空気である。

壁に立て掛けられた時計を見遣ると、入店してからまだほんのちょっとの時間しか経っておらず、電車までの時間にはまだ大分ありそうだった。

思わず、小さく鼻息で嘆息を零したところへ、カチャリと食器の鳴る音がすぐ側でした。

ハッと窓から視線を外してすぐ側の反対側を見遣ると、先程の好青年が珈琲を手に立っていた。


「お待たせ致しました。ご注文の珈琲になります。此方、当店自慢の珈琲となっておりますので、楽しんで味わって頂けたら嬉しいです。それでは、ごゆっくりと。」


丁寧に一礼して顔を上げたら、またにこりと笑んだ彼。

絶対に彼女居るだろ。

失礼な事を思いつつも、此方も何となくぺこりと返してしまい、ぎこちない動きでテーブルの上へと視線を遣った。

挽いた豆から作った淹れ立ての香ばしい珈琲の匂いが鼻腔を擽る。

お好みにとテーブルに置かれたミルクと砂糖のスティックを手に取り、両方入れる。

飲めもしない珈琲故に、足りないだろう量だが…珈琲を扱う店に入った手前、少しくらいの苦さは我慢して飲み切ろうと口にする。

だが、いざ飲もうにも、苦いのが嫌いで普段飲みもしなかった飲み物を前に、手が一瞬躊躇うように口の前で止まった。

自然と作られる眉間の皺は、ほぼ無意識だ。

ふーふーと息を吹きかけ冷まし、意を決したようにカップに口を付ける。

すると、どうだろうか。

思っていたものとは全く違う味がして、思わず口を離してからカップの中身を凝視する。

別に変哲もない、ただの珈琲だ。

可笑しなところなど、変わったところなどもある訳がない。

ぱちくりと目を瞬かせてから、もう一口と口を付けてみる。

やはり、味は先程と一緒である。


「………苦く、ない……。」


心の中で思った事が、無意識に口から出ていって、そう呟いた。

素直に言って、凄く美味しい。

苦みが苦手で、珈琲を苦手とする自身でさえ、飲みやすい口当たりと味わい。

ひたすら驚きに呆然と珈琲を見遣っていると、様子を見に来た青年がクスリと笑んで話しかけてきた。


「お客さん、普段珈琲自体をあまりお飲みになられないんですか…?何だか、凄く驚かれてたようだったので。」
「あ…っ、はい……実は、私、珈琲飲めない人だったんです…。苦いのがどうしても苦手で…っ。」
「えっ!そうだったんですか…!?真っ先に珈琲を頼まれたので、てっきり珈琲がお好きな方なんだと…っ。」
「お恥ずかしい話ですが…、私、社会人になってからも全く飲めなかった奴なんです…っ。でも、今日、此処で初めて飲んでみたら、その…全然苦くなくて…。寧ろ、ほんの少し甘くて、初心者な私でも飲みやすくて、凄く美味しいです……!」
「…ふふっ、それは良かったです。何しろ、当店自慢の珈琲ですからね。ご満足頂けたようで何よりです。」


銀のお盆を手に蕩けるような笑みを浮かべて、此方へ微笑みかけてきた青年。

どうしよう。

精神衛生上、免疫無さ過ぎて全く宜しくない。

イケメンの煌めき加減にクラリと眩暈を起こしたような錯覚を感じて、一度顔を俯かせた。

気分を損ねさせてしまったのかと勘違いした青年が再び声を掛けてきたが、「大丈夫です、何でもありません…っ。」と咄嗟に誤魔化した。

そうして、すぐに去るかと思われた青年だが、何故かまだその場に居座り、此方を見つめていた。

訳が分からず、訝し気に見遣ると、青年は首を傾げた。

いや、それ私がしたい方。


「…?あの、何か?」
「あ、いえ…、何でまだ此方に居るのかなぁ…っと思いまして。…あの、お仕事されなくても良いんですか?」
「っああ…!そういう事だったんですね!それなら大丈夫です…っ!今、お客さんは貴女お一人しか居ないので、特に遣る事が無いんです。」


いや、それならそれで他に遣る事を見付けて遣れば良いと思うのだが、そう思うのは常に社畜に塗れた生活に身を置いているが故だろうか。

どうでも良いが、自分なんかに構わないでいて欲しいのだが…。

ただでさえ、此方はコミュ障を拗らせた身である。

初対面の他人なんかと会話をするだなんて、そんな難易度の高い事無理だ。

思わず眉間に皺を寄せてしまい、如何にも「迷惑です。」と頬に書いた表情かおで青年を見遣った。


「…あの、私なんかに構わず、お店の事された方が良いんじゃないでしょうか…?」
「まぁ、そう言わずに…っ。少しだけ僕とお喋りしませんか…?今の時間、丁度お客さんが少ない時間帯で、変に時間が空いて暇なんです。」


カウンター席に座った訳でもないのに話しかけられて、既に此方は迷惑しているのに。

この青年ときたら、「お喋りしませんか?」だなんて誘ってきやがった。

丁重にお断りだ、馬鹿が。

…なーんて、初対面の人間に言える筈もなく、仕方なく場に流されるように少しだけお喋りに興じる事にしたのだった。


執筆日:2018.03.19
加筆修正日:2020.03.10