内容は、至極単純なものだった。
初対面の人間と会話を始めるといったら、まずはお互いの自己紹介と場は決まっている。
故に、彼は自分の自己紹介を始めた。
「僕は、長船光忠と言います。このお店でバイトを始めてからもう二、三年は経ちます。なので、お店の常連さんなんかが来ると、よくこうやってお喋りしてるんです。」
「へぇ…そうだったんですか。」
適当に相槌を打ちつつ珈琲を啜り、さっさと店から出てやろうと画策する。
青年の方をあまり視界に入れないよう飲んでいると、青年がまた首を傾げて此方を見てきた。
「…あのー。」
「はい…?」
「貴女のお名前は…、教えてもらえないんでしょうか?良ければ、知りたいなぁと思ったんですが…。」
窺わしげに此方を見遣る彼は、上目遣いだ。
此奴…っ、分かってやってんだろ…!
小動物とかそんなか弱い生き物みたいな目で見られたら、教えない訳にはいかなくなるじゃないか。
とはいえ、これは質が悪い遣り取りのように思えてならない。
大人しげな奴と見せかけて、案外こういう手の人は軟派な事が多い。
今まで二十数年生きてはいるが、その中で何度かナンパなるものを吹っかけられた事がある。
その殆どがまともに相手なんてしてやった事は無いが。
そんな不必要とも言える経験から、今の現状を冷静に分析していた。
自分の名前を教える事なんて実に簡単である。
しかし、今の世の中、そう簡単に自身の名前を名乗れる程、生易しくはない。
名前一つで個人情報なんてものは幾らでも引き出せるような物騒な世の中なのだ。
だから、警戒を怠らずに事を穏便に運ぶ為にも、此処はそれとなく名前っぽい名前を名乗れば事は収まるだろうし、この何とも言えない空気から解放してくれるだろう。
「…私の名前なんて、何処にでも居そうな感じのありふれた名前ですよ…?」
「それでも、僕は貴女の名前を知りたいんです。…教えて頂けませんか…?」
「…そこまで仰るんでしたら、まぁ教えなくもないですけど…本当に大した名前じゃないですよ?」
「それでも構わないんです…っ!」
「やけに知りたがるんですね…っ。そんなに私の名前が知りたいんですか?」
心の底からの疑問を思い切りぶつけてやると、彼は至極当然とばかりに答えた。
「だって…、初めてお逢いしたにも関わらず、貴女のその何者も惹き寄せなさそうな独特の雰囲気に一目惚れしてしまったんです…っ。だから、せめてお名前だけでも…と。」
青年は、少しだけ顔を赤らめて俯きがちにお盆で顔を隠した。
背が高い男性にしては何とも可愛らしい反応だが、全くもってときめかない。
いや、ちょっとだけときめいたかもしれない。
誤作動の範囲だ。
気にするまでもない。
どうせ免疫が無いせいである。
心の内でそっと溜め息を吐いてから、小さく息を吸った。
名乗る名前は…そうだな、アレにしようか。
「…えーっと、一先ず、一目惚れかどうかについては敢えて触れませんが…私の名前、お教えしても構いませんよ?」
「ほ、本当ですか…っ!?」
「え、えぇ…っ。(やけに食い気味にくるなぁ…。)」
そんな風に思いながら、前のめりに名前を問うてくる彼から少しだけ身を引き、答える。
「私の名前は、
小鳴です、
小鳴奈乃…。もしかしたら、またこのお店に来るかもしれませんので、その時は、また美味しい珈琲を飲みに来ますね?」
上辺だけの愛想笑いを浮かべて、にこりと笑ってみせた。
どうだ、これで満足か。
そんな意を込めて見遣れば、彼は大層嬉しげに頬を染め、「有難うございます…っ!!」だなんて礼を述べてきた。
さっきはあんな事を言ったが、それは“もし次来る事があれば、”な話で、仮に来たとしても彼の居ない時を狙って来るだろう。
彼のシフト形態など知ったこっちゃではないが、流石に毎日来るという訳でもなかろう。
そこが狙い目というところか。
本人を目の前にして、どれだけ失礼極まりない事を考えているとは露知らずに、彼は満足したのか、店の仕事に戻る素振りをみせた。
よし、今こそがチャンスだ。
最後にカップ底に少しだけ残っていた珈琲をグビリと飲み干して、席を立った。
「あの…、珈琲有難うございました。そろそろ時間なので、私、帰りますね。すみませんが、お会計の方をお願いします。」
「あ…っ、はい!畏まりました!お会計は此方になります…っ!」
急に帰る様子を見せたからか、慌てた様子でレジへと向かう青年こと長船さん。
鞄と財布を持って会計を済ませるべく、さっさとレジの元へと向かう。
珈琲一つしか頼まなかったので大した額の出費はなく、払う金額も少なくて済みそうだ。
漸く変な空気から解放されるとあって油断したのか、小さく息を吐いていると、お釣りとレシートを受け取る際に突如としてその手を柔く握られる。
思わず吃驚して、肩をビクリと揺らしてしまった。
彼の方を見遣ると、何故か真剣な眼差しを向けていて、意を決したように口を開いた。
「あの…っ!是非、またこのお店にいらっしゃってください…!何時でも、僕、待ってますから……っ。」
何処となく切なそうな表情で、感情を抑えたような声で、そう告げられた。
いや、別に彼が待っていようとも、私には全く関係の無い事なのだが。
寧ろ、待っていてくれない方が此方としては大いに嬉しいのだが。
どうせ、この店に来る女性全員に告げている台詞なんだろう?
店繁盛の為だとか、そんなもので。
イケメンを有効活用するには打って付けの仕事だろうな。
そんでもって、この長船さんなら簡単にこなせてしまうのだろうな。
まぁ、そんなの私にとっては全く以ってどうでも良い話だが。
「あの…っ、これ、僕のアドレスです…!良かったら、お暇な時間などにでも連絡ください…っ。何時でも大歓迎しますから…!」
「は、はぁ…っ。えぇ…っと、取り敢えず有難うございます…?ご連絡するかどうかは別として……っ。」
取り敢えず、貰った紙切れを適当に鞄の中に仕舞いつつ、手を離された事を良い事にこの場を脱するべく急いで出入口へと向かった。
すると、彼も付いてきた。
まだ何かあるのか…!?
ドアの目の前で立ち止まり、何だと振り返れば、彼は自分の横に立ち、ドアを開いてお見送りしてくれるようだった。
「本日はお店に来てくれて有難うございました…!是非、また来て頂けるのを心待ちにしていますね!次にまた来られた時は、今日よりもっと美味しい珈琲を提供出来るよう頑張りますんで…っ!お気を付けてお帰り下さいね。」
最後にまた蕩けるような笑みを向けられて、意識していないのに何故か顔が赤くなるのを感じて、取り急ぎぺこりと会釈だけ返すと足早に店を出て行った。
―駅に着けば、時間は丁度電車が来るには程良いくらいの頃だった。
予想以上に店に居座っていたようだ。
それもそうだ。
彼、長船さんがお構い無しに話しかけてきたからだ。
まぁ、退屈にはならずに時間潰しは出来たから良しとするが…。
「ふぅー…っ。何か、無駄に疲れたなぁ…。」
でも、嘘は抜きで珈琲は本当に美味しかった。
気が向けば、また行ってみるとしようか。
その時は、是非とも彼が居ない事を祈って。
ホームに電車が入ってくるチャイムが鳴り響き始める。
程なくして、乗るべき電車がホームへと入ってくる。
自動的に開かれた扉に足を踏み出し、電車内へと乗り込んでいく。
適当に目に入った席に身を沈め、溜め息を吐いた。
徐に、先程適当に鞄に仕舞い込んだ紙切れを取り出して、眺める。
其処には、二つの連絡先が書き記されていた。
一つは、彼の携帯番号と思しき番号。
もう一つは、LINEか何かのSNSらしきアドレスだった。
(…私、LINEとかSNSの類いは一切してないんだけどなぁ…。ま、連絡取る事なんて、これから先一度も無いだろうし…放っておいてもいっか。彼、学生ぽかったし…。まぁ、これは完全なる私の憶測でしかないけど…言動からして、たぶん歳下だろうし。告白紛いの事をしてきたのも、たぶん一時の気の迷いからくるようなものだろう…。そもそも、私は社会人だし、相手になんないって。)
湧き上がってきた欠伸にふわりと欠伸し、ゆるりと体勢を崩して、背凭れを存分に有効活用して目を閉じた。
携帯のアラーム機能は、既にバイブレーションが鳴るように設定してある。
降りるべき駅に着くまで、束の間の眠りに就く事にするのだった。
―それが、私が彼と出逢った初めての日の出来事であり、その店の事を知った日だったのである。
執筆日:2018.03.19
加筆修正日:2020.03.10