#35:懐かしい匂い



束の間の雨宿りをし、家路に着いた頃には、雨は止んでいた。

相変わらず、靴はびしょ濡れの状態なので、不快感極まりないのは変わらない。

しかし、複雑に波立っていた心は、今は何故か静かに落ち着いている。

不思議な面持ちのまま、梨トは自宅のドアを開き、玄関へ上がる。

そして、何処かぼんやりとした雰囲気のまま靴を脱ぎ、その場で靴下も脱いでいると…。

奥から母親の佳奈絵が片手にタオルを持って出てきた。


「おかえりなさい。雨、酷かったでしょ…?大丈夫だった?はい、これタオル。足濡れたでしょ、これで拭きなさい。」
『うん…ただいま、母さん。有難う。』
「あら、梨ト、その服どうしたの…?朝着てた服装と違うけど…しかもそれ、男物じゃない。」
『…あぁ、あんまりにも雨と風酷かったから、知り合いの所で雨宿りさせてもらってたの。案の定、朝着てた服はびしょ濡れになったから、代わりの服借りたんだ。』
「そう。今度、その人に御礼しなきゃね。」
『うん…。分かってる。』


あまり抑揚なく淡々と返事を返した梨トは、濡れた靴下を洗濯籠に突っ込んだ後、そのまま二階の部屋へと上がって行った。

佳奈絵は、何かを思いながら先を見つめ、彼女の濡れた靴を顧みた。


(どうやら、“彼”が世話を焼いたようね…。)


クスリッ、と僅かに口角を上げた佳奈絵は、リビングへとゆったりとした歩みで戻りつつ、ズボンの後ろポケットに仕舞っていた携帯を取り出した。

自室へと戻った梨トは、雨で濡れたバッグを降ろし、タオルで保護していたお陰で何とか濡れずに済んだ教科書類を机の上に広げた。

濡れたバッグは適当な場所に吊るしておき、次に使う時の為に乾かしておく。

ベッドへ腰掛けようとしたところで、帰宅して尚、彼から借り受けたマフラーを首に巻き付けたままだった事に気付き、結び目を解いて外す。

外したそれを無言で見つめ、ベッドへ腰掛けると、そのまま後ろへ倒れた。


―煙草の匂い…。

あの人、見た目に反して、煙草とか吸うんだ。

…意外だな。


今、自身が身に纏う衣服は、彼より借り受けた物。

今しがた外したばかりのマフラーも、同じく彼の物だ。

その何方からも、ふわりとだが、微かに煙草の香りがした。

恐らく、彼が喫煙者だから付いたものなのだろう。

でなければ、煙草の匂いなど、そう簡単には付きまい。

自分以外の周りの人間で、喫煙者が居れば話は別だが…生憎、彼は一人であの工藤邸に暮らしている。

と、なると…必然的に、彼が喫煙者であるとの答えが導き出される。

だが、彼女はそんな事を考えている訳ではなかった。

それとはもっと別の…彼女の深層心理に働きかけるような事だった。


―私…この煙草の匂い、知ってる…。

随分前に、嗅いだ事のある匂いだ。

何でだろう…。

何だか懐かしいや……。


マフラーを大切そうに抱き締め、身を踞るようにして丸まる。

何故だか懐かしい匂いに、記憶の海に沈んでいた欠片を思い浮かべる。

自身の服に着替えぬまま、梨トはマフラーに顔を埋め、目蓋を閉じた。


―短い夢を見た。

だが、その夢は、彼女にとってはとても懐かしきものだった。

灰色にぼやけた景色が映る。

確か、あの日も、今日みたいな雨だった。

母国ドイツに滞在していた頃で、学校の帰り道の途中だったと思うのだが。

突然のスコールに見舞われ、足止めを食らったのである。

家までの距離はまだ大分あり、仕方無しに近場の店の軒下に駆け込んだのではなかったか…。

激しく屋根に打ち付ける雨を眺めながら、不安気な表情を浮かべて、「早く止まないかな、弱まらないかな?」と願っていた。

そうして、止む気配の無い雨を降らせる空を見上げていると、目の前に、まるで夜の闇に溶けてしまいそうな黒色の車が止まった。

何処かで見た事のある車だった。

父の知り合いに、愛車として所持する人が居たような気がする。

確か、この車の車種はシボレーだった筈…。

父の影響で、それなりに車の種類に詳しくなった梨トは、取り敢えず、目の前に止まったそれを見つめた。

もし、不躾にも見つめ過ぎていて、乗っている運転手に怒鳴られたら怖いな…、と。

そんな思考が過り、視線を外そうとしていると、不意に車のウィンドウが開き、中から此方を見ていた人物が顔を覗かせた。


「―やぁ、ギムレットのお嬢さん。こんな酷い雨の中、雨宿りかい?」
『あ…、――さん……っ!』


車を運転していた人物とは知り合いだったようで、幼き梨トは、彼の人物の名前を呼んだ。

しかし、彼の名前の部分だけは覚えていないのか…はっきりとは聞こえなかった。


『どうしたの?こんなところで…。』
「粗方仕事に片が付いてな。少しドライブでもしようかと思っていたんだが…生憎、この雨に降られてしまってね。雨が止むまで何処かで暇を潰そうと走らせていたんだ。お嬢さんは、学校の帰りといったところかな…?」
『うん。でも、その途中で降られちゃって…。学校行く時は晴れてたし、傘は持ってこなかったから、雨宿りしてたんだ。家まではまだ大分掛かるし、どうしようかなって思ってたところだったの…。』
「それは丁度良かった。偶々ではあるが、俺が通り掛かったのも何かの縁だ。良ければ送っていくが…乗るかい?」
『良いの…っ!?』
「構わんさ。どうせ、このまま止むのを待っていても、暫く雨は止まんだろう…。それに、遅くまで君を此処に一人にしておいたら、か弱い子猫を狙った不埒な輩に拐われ兼ねんからな。」


男は不敵に微笑み、不安気に空を見つめていた彼女の心を安堵させる。

更に誘うように車を降りると、長き黒髪を靡かせながら後部座席のドアを開いた。

嬉々として笑みを浮かべた梨トは、吸い込まれるように男が開けたその車の後部座席へと乗り込んだ。

しっかりと乗り込んだ事を確認した彼は、再び運転席へと戻ると、慣れた手付きで車を発進させる。

男の車の中は、強い煙草の匂いがした。

その証拠に、火を消したばかりなんだろう煙草の吸い殻がポケットの中に埋もれていた。

後部座席から見る男の運転する後ろ姿は、様になっていて格好良かった。


「…暇を潰すついでだ。君を家まで送った後、君のお父さんに顔でも見せるとしようかな…?ついでに、晩御飯もご一緒させてもらおう。」
『ご飯も一緒に食べれるの!?やったぁ…っ!』
「まぁ、君のご両親が許しをくれたらの話だがね。」


落ち着いた口調で話す優しい低音は、聞いていてとても心地の良いものだった。


―そこで、ぱちり、と目を覚ました梨トは、目蓋を開けた。

朧気に覚えている夢の内容を頭の中で思い出しながら、緩慢に身を起こす。


(―あ……っ。服、着替えないまんま寝ちゃってたや…。)


ふと見下ろした自分の格好に気付いた梨トは、ぼんやりとそう思った。

だが、今更着替えるのも面倒だと感じた彼女は、そのままで居る事を選び、時計を見遣れば夕飯の時刻を指していた。


(もう、ご飯の時間だ…。結構寝てたんだなぁ……。)


手櫛で寝癖の付いた髪の毛を梳かし、リビングへと向かう為、廊下へ出た。

すると、同じく夕飯を摂ろうと部屋から出てきたのだろう、静かに歩み寄ってきた遥都が側に来る。


「おぉ、帰ってたのか。おかえり。帰ってから今まで寝ていたのか…?」
『うん…ただいま。うん、寝てたよ。土砂降りの雨に降られて、色々と疲れちゃったからね…。』
「そうか。この雨に降られるとは災難だったな。お疲れ様。もう夕飯だ…。早く食べて、風呂に入って、そして寝ろ。」
『…うん。』
「そういえば…その服、どうした…?」


ふと目に入った服が気になったようで、彼女の服を指差して問うた。


『あぁ…この服…?知り合いに借りたんだ。あまりに雨が酷かったから、大学帰りに近くで雨宿りしてね…。その時、向こうが貸してくれた服がコレなの。ほら…、例の工藤邸に仮住まいしてる、沖矢昴さん。その人だよ。』
「へぇ…あの男が、ね…。」


彼がそうした事に何かしらの意味がある事を感じ取った遥都は、表情を固くする。

そんな様子には気付かずに、梨トは彼の前を通り過ぎていった。

その時、独特の匂いが、微かに鼻を掠めた。

匂いに覚えがあった遥都は、瞠目し、彼女の方へ勢い良く視線を遣った。


―今の匂い…っ、奴が愛飲していた煙草と同じ匂い…!?


薄暗き廊下に取り残された彼は、密かにその表情を顰めさせたのだった。


執筆日:2016.09.20
加筆修正日:2020.05.15

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