Trick devil monster


今日は日勤での出勤且つ、平和な一日で終われば通常業務だけで終わるだろう。

そんな風に思って宿舎から出社してきた朝早い時間、珍しくまだ誰も出社してきていなくて、何時も何かと賑やかで騒がしい筈の一係が静かだった。

偶々、今日は自分が朝一番の出社だっただけかと思って、深くは考えず自分の席に着いて他の人達の出社を待った。

パソコンを起動させる傍ら、手首のデバイスで今日一日のスケジュールを確認していると、ふと聞き慣れたカツコツと床の音を鳴らす革靴の音が聞こえて顔を上げる。

この足音は彼女のものだな、と確信を持って扉の方へ目を向けてからギョッと目を剥いた。

なんと、普段通りの彼女と思いきやその出で立ちは違って、何やら真っ白な大きな布に二つの穴を開けて顔らしきものを描いた物を頭からすっぽりと被っていた。

一体全体どうしたというのだろうか。

よく見れば、頭から被る布はかなり大きいのか、小柄な彼女の身の丈全体を覆わんとするぐらいの長さに裾を靡かせていた。

片手には何か小さな鞄でも持っているのか、その部分だけ布が不自然に膨らんで弛んで見えた。

一瞬、国防軍時代の何処かで見た旧時代の本に載っていた“メジェド”なるものが脳裏に過ったが、其れとよく似ている様で異なる気がしてかぶりを振った。


「えー………あ…っと、露罹さん…、ですよね?」


一応、本人だとは思うが、万が一という事もある為問うてみたが返事は無い。

試しに、朝一番に会った時の挨拶も口にしてみたが、見事玉砕という感じで無言の応答無しという対応を突き返された。

自分は、何か気付かぬ内に彼女を怒らせる様な事を仕出かしたのか、はたまた、彼女の気に障る様な態度でも取ってしまったのだろうか…?

昨夜までの記憶を遡ってみるも、如何せん何一つ思い当たる節が無くて頭を悩ませた。

早速状況に行き詰まってしまい、困ってしまった。

ちらり、と再び彼女へ視線を向けてみるも、相変わらずの無言の直立不動でその場に佇み続けていた。

こうなると、いよいよ以て不気味に思えてくる。

取り敢えず、もう一度勇気を出して声をかけてみようと口を開きかけた途端、真っ白な布お化け状態の彼女から声が発せられた。


『―Trick or treat.』
「っ…、は?」
『貴方は今お菓子を持ってる…?――Well, please choose.(さぁ、選んで。)』
「え…っ?あ、其れはさっき言われた言葉に対する意味の問いですよね…?えと、その、すみません!今は何も持ってないです…っ、」
『じゃあ…――trick、だね。』
「―え………っ、」


自分の答えた言葉に食い気味に反応した彼女が、不意に突然動いた。

大きな布を翻していきなり距離を詰めてきた彼女に驚く間もなく、目の前に迫り来た鋭い刃物に目を剥いて、咄嗟に反射的に躰を仰け反らせて攻撃を避ける。

いきなり何て事をするんだ。

突然の奇襲的素早い動きに戸惑いが勝って思考は鈍るものの、積み重ねてきた経験から躰は勝手に動き、彼女から繰り出される攻撃を払い除けつつその場を後退した。


「いきなり何するんですか…っ!!そんな物を向けて、危ないじゃないですか!!其れに、急にどうしされたんですか露罹さん…!?どうして突然こんな真似をするんです!?自分が誰か分からないんですかっ!?」


いつの間にか、始めに持っていたのだろう物は床の上に投げ捨てられていて、見れば、其れは小さなプラスチック製のバケツの様だった。

一体何に使う予定で持ってきた物だったのだろうか。

いまいち彼女の意図が読めずに緊張が走った。

もしや、彼女は今正気を失っているのか…?

だから、此方からの言葉にはまともに応じてくれないのだろうか。

何にせよ、今の彼女をこのままにしておく訳にはいかない。

兎にも角にも、まずは彼女の手に在る武器を弾き飛ばすかして奪わなければ危険だ。

女性である彼女の身になるだけ乱暴な真似はしたくなかったが致し方ない。

此処は腹を括ってでも彼女を止めなくては…っ。

この際、場所が公安局刑事課フロア内だとしても関係無い。

本格的に挑まねば自分の命が危うい。

そう思って構えれば、彼女の方も体勢を低く落とした後に再び俺に突っ込んできた。

振り翳されるナイフの切っ先を器用に避けながら彼女の攻撃を往なし払っていると、段々と向こうも余裕を失くしてきたのか、攻撃の手が緩まり荒くなってきた。

お陰で生まれた隙を狙って突けば、彼女がよろめき体勢を崩した。

そのまま後ろに倒れて頭を打ってはいけないと、咄嗟に手を伸ばすも…罠――よろめいた拍子に体勢を崩したと見せかけた巧妙な手にまんまと騙され、くるりとバク転する要素で俺は彼女からの痛い蹴り一撃を一発顎に食らってしまった。

その衝撃で一瞬此方が怯んだ隙に体勢を立て直した彼女が、今度は俺の足元を狙って鋭い足払いを掛け、俺を転ばせる。

流石の形勢逆転は不味いと焦って身を起こそうと躰を捻ったところで彼女から間接技を決められ、うつ伏せた状態のまま地に押さえ付けられた。

全てが全て速い上に読まれている…っ。

そう思った時には、肩甲骨辺りが強く軋んで痛かった。

そして、俺の背に馬乗りで跨がった彼女が嬉々として俺の首筋にナイフの切っ先を向けてきた時、終わったと思ってしまった。

しかし、予想外にも彼女は俺の耳元に口を寄せて言い放った。


『Checkmate.――悪戯成功…っ。公安局内だからと言って、あんま油断してると私みたいな悪ぅ〜いお姉さんに狙われるから気を付けなね?』
「―………はっ?」


今の今まで命懸けの真剣勝負をしていたとは思えない台詞に、俺の思考は真っ白に飛んでいった。

呆然としたまま彼女の事を下から見上げたら、此処に来て初めて被っていた謎の大きな布を外し素顔を見せてくれた。

その顔には、今しがたまで激しく動いていたせいで少しばかり汗が滲んでいたが、浮かべる表情は場違いにも子供の様に楽しそうに笑んだものだった。


「…なん……っ、ぇえ…??」
『あははっ、おっはよう須郷さん…!ものすっごい間抜けな顔してんねぇ!朝一発目は是非とも須郷さんから仕掛けてやろうと思って待ってたんだけど、驚いた?』
「は………、え?」


彼女が何を言っているのかが全く理解出来ずに顔を顰める。

その反応から、「あれ…?」と零した彼女は何かに気付いた様子で首を傾げた。


『もしかして…須郷さん、ハロウィンの事知らない?』
「な、何ですか?其れは……っ。」
『えっとね、此れは旧時代にあった文化の一つで、嘗て昔は秋の収穫祭を祝う為の行事だったんだけど…。』
「…其れと今のが、どう関係するって言うんです…?」
『いやぁー…旧時代で言う今日、10月31日はハロウィンの日とされていて、昔は其れなりに盛り上がったイベントでね。皆仮装やら何やらでお化けに扮して街を練り歩いたりなんてものがあったのよ…。其れで、ハロウィンと言えば、子供達が近所のお家に訪問して“trick or treat.”――“お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ?”って言葉を唱えるのが定番でね、お菓子を用意してるお家は“Happy halloween!”って言いながらお菓子を渡す風習だったんだよ。まぁ、今言った後者のは本場外国の方の話だけども…。前者は主に日本での話で、単なる仮装大会と化した文化だったって話。勿論、今言ったお決まり文句は当然使われてたみたいだけど、ちょっとしたお遊びレベルなものだったらしいよ?』
「はぁ…そう、だったんですか……。いまいち、まだ現状が飲み込めていませんが…自分が先程答えた答えは、今の話で言うところの“No”という意味に値する様でしたが…その場合の対応は、本来ならばどうするのが正しかったんでしょうか…?」
『うん、須郷さんみたくお菓子を持っていない場合の人の時はね、“trick”って答えるのがルールなんだ。つまり、“お菓子を持っていない代わりに悪戯しても良いよ”っていう意味になるんだ!』
「其れで…今しがた自分は貴女に“悪戯を仕掛けられた”という事でしょうか……?」
『そぉーなるかなぁ〜………っ、あは。何にも知らなかったんだったら、いきなりの事で戸惑うのも無理なかったよねぇ〜…御免。素直に怒って良いよ。』
「悪戯にしては質が悪過ぎますよ、今のはァ…ッ!」
『ごめぇ〜ん…っ!だって、せっかくだから須郷さんにも楽しんで欲しくて、年甲斐もなくはしゃいじゃった…!テヘペロ☆』


種を明かされてホッと息を吐いたが、一瞬前まで俺は殺す気で襲い掛かられていたと思うと生きた心地がしなかった。

本当に心臓に悪い事この上ない事を仕出かしてくれたものである。

明らかに、今のは“楽しいイベント事だから、ついはしゃいでしまいました”というレベルを超えていた気がする。

否、確実に超えていただろう。

全くなんて真似をしてくれるんだ、この人は…。

呆れを通り越して、最早感心してしまいそうな勢いであった。

そんなこんな彼女から今日という日の事の説明を受けていると、常守監視官と宜野座執行官がやって来て驚いていた。


「おはようございまぁー……って、えええっ!?ちょっ、どういう状況ですかコレはァ…っ!?」
「うわっ、朝から何大声を上げてるんだ常守監視官…、と…何で須郷の上に技を掛けながら馬乗りになってるんだ、お前は?」
『あ、どーもお二人さん。おはようございま〜すっ。』
「お、おはようございます…って其れどころじゃないですよ!!何やってるんですか未有ちゃん…っ!!須郷さんと何か喧嘩でもされたんですか!?」
『いんにゃ?違う違う。コレ、今ハロウィンの悪戯を仕掛けて成功したところ、種明かししていたところだったんです〜っ。』
「嗚呼、そういや今日は10月31日…旧時代で言うところのハロウィンという日だったか。もうそんな時季になっていたとは、一年が過ぎるのは早いもんだな…。」
「そういえば…前に一係の皆さんと唐之杜さんも交えて一緒にパーティーしたりしましたっけ。皆で一つの部屋に集まってわいわいお酒を飲んだり、縢君が作ってくれたケーキやらお菓子を摘まんだりして凄く楽しかったなぁ〜。思い出したら、何だか懐かしくなってきちゃいましたね…っ。」
「其れはそうと…何時まで須郷の上に乗っかってるつもりだ?露罹。いい加減可哀想だから降りてやれ。ついでに、腕の方も忘れず解放しといてやれよ。」
『おっと、うっかりうっかり…っ!御免ね、須郷さん。一応手を抜いてたとはいえ、痛かったよね?』
「アレで手を抜いてたんですか……。」
「お前、本当どんな悪戯を仕掛けたんだ…?」


二人が来てから若干の空気になりつつあったのを宜野座さんの一声により漸く解放してもらえた身。

重み自体は軽く其れ程苦ではなかったが…流石に力加減をされていたとは言え、かなり腕を絞め上げられていたのは痛かったので、起き上がってから肩の動きを確認しながらぐるぐると回した。

俺のその様子を気にかけてか、宜野座さんから気遣わしげな言葉をかけられたのは地味に嬉しかった。

常守監視官の方は、露罹さんの悪戯にしては過ぎる暴挙に対して叱り付ける様な言葉を投げかけていた。

其れを話し半分に聞き返事を返していた彼女はというと、途中入口付近に投げ捨てた小さなバケツを拾い上げに室内を移動していた。

そして、大きく長い布を片腕に掛けた状態で俺の元へと戻ってきた露罹さんは、さっき驚かせてしまったお詫びだと言って、本物のカカオから作られたチョコレート菓子を二つ、三つとくれた。

お酒のツマミにも合うから、是非ともお酒のお供に食べてくれ…との事らしい。

彼女から貰える物ならば、と有難く頂戴した。


「で…?結局のところ、お前は須郷に何をやらかしたんだ?」
「あっ、其れ、私も正直気になってました…!今回はどんな悪戯を仕掛けたんですか?」
『特に何かを準備したとかは無いんだけどさ。このおっきな真っ白い布を頭から被ってお化けに扮して、まだ誰も来てないとこに須郷さんが一番乗りで出社していくのを宿舎からこっそり見守って…油断し切ってるところにお決まり文句を告げて、いざ勝負!――ってな具合にいきなりこの偽物パチもんのナイフを突き付けてちょっくら脅かして、数分やり合ったところで相手の注意を引いて隙を生ませ、足払いした後に組み敷いたらさっきみたく技を掛けてた…ってな訳ですん!いやぁ、須郷さんが何にも知らなかったと聞いた時にゃ、我ながらちょっと焦ったよね…っ!!あっ、あとコレ見て見てぇ〜!よく出来たナイフでしょ〜?モノホンじゃあないから勿論簡単に切れる事はないんだけどさ!本物そっくりな見た目で脅威感マシマシでしょ!?』
「この大馬鹿者…ッ!!悪戯の領域で本気で相手を脅かす奴があるか!!」
「やっぱり、宜野座さんからしても、さっきのは悪戯の範疇を超えていると思われますよね…っ。」
「流石に私から見ても今聞いた流れは色々とやり過ぎですよ、未有ちゃん…!?」
『あいやぁ〜…まさか須郷さんの方も本気になるとは思ってなくてにゃぁ…面目ない…っ。』
「スパークリングの相手が欲しかったのなら、今度から俺が相手してやろう、露罹…。貴様が満足するまでたっぷりとしごいてやるから、精々覚悟を決めておくんだな?」
『ひえぇ〜っ!?宜野さん相手とか無理っすよぉ…!絶対にスパルタの手加減無しじゃないっすかァ!!やだァ〜ッ!!』
「喧しい…っ!須郷を悪戯に弄んだ罰だ!今度お前とトレーニングする事があった暁には、俺から特別メニューを授けてやるから光栄に思え…!!」
『うわぁ〜んっ!宜野さんの女王様出たァ〜!!』
「誰が女王様だ、誰が…ッ!!貴様、今すぐその減らず口閉じないと、今回の件の始末書を書かせるぞ!!良いのかァ!?」
『に゙ゃ゙あ゙ーッ!!其れは嫌ァーッッッ!!』


最早コントみたいな漫才を繰り広げる宜野座さんと露罹さんに唖然としていたら、近付いてきた常守監視官がこっそりと耳打ちで教えてくれた。


「実はね、あの二人…昔からあんな風に言い合う時があるの。今はだいぶマシになったけど、宜野座さんがまだ監視官だった頃は、当時執行官として配属されてた縢君って子に“ガミガミ眼鏡”なんて渾名を付けられてたぐらい怒りっぽかったんです。未有ちゃんはその頃からずっと一係に居たから、すっかりアレが板に付いちゃってて…偶に言い合いになっちゃうと未だにあんな風な騒ぎになっちゃうんです。」
「そうだったんですか…。確かに、我々と比べてやけに親しげと言いますか、強い信頼感は感じていましたが…自分はまだ配属されてから日が浅い方ですので、あまり詳しい事は知りませんでした。」
「ふふふ…っ、ああ見えて未有ちゃんも宜野座さんも揃って素直じゃない人ですから。余程今日の事を楽しみにしてたんですね、未有ちゃんは。今の刑事課は随分と人手が減っただけに限らず、前と比べて空気も暗くなったり常に多忙極まってたりで、季節のイベント事をする余裕も考える暇も失くなっちゃいましたから…きっと寂しかったんだと思います。あ、一応補足しときますが、此れは悪までも完全私個人の考えですので、実際のところは分かりませんよ…!でも、たぶんそんな感じだと思うんです。悪戯を仕掛けられた側の須郷さんは大変吃驚されたでしょうが、今回の未有ちゃんの悪戯の件はどうか大目に見てあげてくださいね。」
「……はい、了解です。」


自分には、まだ知らない彼女の一面が沢山あるのだな、と改めて思い知らされた出来事だった。


―その後、特に何事も無く平和に仕事を終えた夜…俺は、露罹さんを誘って酒を飲む事にした。

あまり酒に強くないという露罹さんには、度数低めの甘めなカクテルを出してお迎えする。


『まさか、今日の今日で須郷さんの方からお誘いを受けるとは思ってなかったっす…。』
「今朝の事は、もう気にしてませんから…っ。そんなに構えないでください。」
『いや…ほんま怒って良かったんやで?須郷さんは。其れだけの事をした自覚はありますんで…。いっそ、思い切り頬か腹に一発拳入れるくらいで丁度お相子なレベルっすよ。』
「女性に対して乱暴な事はしたくないですし、ましてや自分の先輩に当たる様な方に手を上げる真似なんて出来ませんよ…!」
『そこら辺、須郷さんて紳士よねぇ〜。ぶっちゃけ、年齢的に言ったら須郷さんの方が歳上なんすから、遠慮しなくてええんよ?』
「そ、そうでしょうか…っ。」
『うんうん。須郷さんはもうちょい素ぅ出してぶつかってきて良いレベルだと思う。たぶん、コレ思ってるの私だけじゃないと思うなぁ…。』


そう言ってご自身で部屋から持参されたお菓子を口にしつつ、俺が作った酒をちみちみと含んでいく露罹さん。

ちなみに、今朝方の出来事で見たあの謎の小さなバケツは、どうやら今日の日の為の物だったらしい…――つまりは、お菓子入れ。

そのバケツには、あの後刑事課の皆から貰ったというお菓子が沢山詰まっていた。

其れはさておき…やはり、度数が低いとは言えど元から酒に弱いせいか、既に顔全体が赤らんできている様だ。

酔ってきているのもあってか、何時もはキリリと研ぎ澄まされた瞳もとろり…っ、と蕩けて伏し目がちである。

何だか普段の彼女から見てギャップを感じる上に、妙な艶かしさというか艶やかさや色っぽさを感じて、ついゴクリと生唾を飲み込んでしまった。

このまま楽しく酒を飲み交わすのも良いかもしれないが、自分の理性的な問題の方が持つか分からない。

あまり変な事を仕出かさない内に程々でお開きにして返そう。

よし、そうしよう。

俺の内心の葛藤など露知らず…彼女は一つ瞬きをした後、視線を落として憂いの溜め息を吐き、向かい合わせだった席から俺の隣へとやって来ると、徐に俺の方へとしな垂れ掛かって甘えてきた。

直後、俺の心臓は馬鹿みたいに跳ねてバクバクとうるさく耳元で脈打った。


「は、…え、露罹、さん………ッ?」


名前を呼んでみたが、今朝の時と同様に返答は無く。

代わりに、彼女は俺の腕に擦り寄る様に抱き付くと、小さく微笑みを浮かべて笑った。


『…何だか、須郷さんの近くは落ち着くや……。何でかな…ちょっと前まで居た人達に似てるからかな…?』
「露罹さん…。」
『ん……、御免…何か、今日は昔の事色々思い出しちゃってついつい湿っぽくなっちゃうや……っ。ダメだなぁ、せっかく楽しくお酒飲もうって誘ってもらってんのに…台無しになっちゃうじゃん。』
「…その、自分は気にしませんから…無理はしないでください。」
『………うん。有難う、須郷さん…今は、その優しさがあったかいよ。』


俺よりも遥かに小さな躰付きをしているのに、その内には俺の想像なんかじゃ及ばない程の沢山の哀しみを秘めているのだろう。

酔った勢いというのもあるのだろうが、今その身に仕舞われていた一欠片分だけでも零してくれたのは心の底から嬉しかった。

―俺は、この人の事を守りたい…。

出来れば、その身に余る哀しみを背負う彼女の事を彼女の一番側から支えてやれる人間になりたいと思っている。

…なれるだろうか、俺の様な人間でも。

既に数多くの大切な人達の命を屠ってきた俺が、そんな立場に成り得るのだろうか。

分からない。

自分には、彼女に心から許してもらえる様な人間になれる自信も無いから。

そんな風に考えていたら、無意識に膝の上で作っていた握り拳を、彼女の小さく華奢な掌が触れた。

俯けていた視線を上げれば、自然と此方を向いていた彼女の優しげに細められた目と合う。


『須郷さんこそ…あんま色々抱え込み過ぎちゃダメだよ…?辛い時は、何時だって誰かに吐き出して良いんだからね。』


励まされるべきは、俺じゃない。

露罹さんの方なのに…彼女は何時だって他人を優先して考える人だ。

始めに、元気を無くしていたのは何方だ?

彼女の方だろう。

ならば、今、彼女を元気付けるのは俺の役目だ。

そう自覚して、俺は改めて彼女の方へと向き合った。


「…露罹さん、今朝やってたアレってまだ可能ですか…?」
『へ…っ?今朝の…って、ハロウィンの悪戯がどうのって話?』
「はい…っ。実は、自分からも露罹さんに試してみたいなと思いまして…もし、まだ時効じゃないのでしたら宜しいでしょうか?」
『お…っ?という事は、須郷さんもハロウィンに乗っかっちゃう感じっすかぁ?良いよ良いよ〜!勿論だよ〜っ!!だってまだ日付変わる前だし、全然OK…っ!!』
「では…露罹さんに、“trick or treat”です…っ!」


今、この部屋には彼女が持ってきているお菓子があるから、きっと彼女はそのお菓子からまた幾つかを差し出してくるのだろう。

てっきりそのつもりだと踏んで待っていたら、彼女からは予想外の正反対な台詞をもらってしまった。


『んっふっふ〜…答えは、ずばり“trick”なのです!だから、好きに悪戯してどうぞぉ〜っ。』
「え………っっっ!?」
『あいぇ…?もしかして、私が“treat”って答えると思ってた…?』
「だ、だって…、此処にお菓子がありましたから……!てっきり、自分は其れをくれるものかと…。」
『あいやぁ…こりゃすまなんだや〜。まさか須郷さんがお菓子欲しがるとは思ってなくてそう答えちゃったんだなぁ〜っ。…別に、欲しいなら今からでもあげるよ?好きなだけ持っておいき。』
「いえ…っ、自分が言ったのはそういう意味では…!」
『遠慮せんと、好きなだけお食べ〜。私が食べるのは、基本本物の材料で作られた美味っしいお菓子なんだから…っ、美味しい物は皆で分け合って食べた方がうんまいからねぇ!須郷さんにもあげゆ。』
「え、あ、はい…っ、どうも有難うございます。頂きます…。」


思い切り出鼻を挫かれたが、今度こそはと心に決めると、彼女の方も何かを察したのか、唐突にキリリとキメ顔を決めて俺を見つめ返してきた。

…今思ったが、既に微妙に言動が怪しくなってきているところを見るに、彼女は酔っ払ってしまっているらしい。

此れはチャンスだ…!


「露罹さん…!そ、その……っ!」


ええい、一思いに言ってしまえ自分…っ!


『ん…っ、ええよ。悪戯やろ…?須郷しゃんのお好きな様にやっちまっちゃってくだしゃい…!!そりゃもう思い切りドーンッと何でもおkですぜぃっ!!』
「な、何でも宜しいんですか……っ!?」
『うん…っ。らって私…朝、須郷しゃんに思い切りぶちかましちまいやしたからぁ……っ!さぁ、須郷しゃんも遠慮なさらず、どぉぞなのれす…!!』
「…で、では…少し失礼して……、少しの間、目を閉じていてもらっても宜しいでしょうか…?」
『ばっちこぉ〜い…っ!』


最早呂律はやばいしテンションも可笑しい気がするが、酔っ払っていてくれるならその方が有難い。

後々、酔いが抜けた後に訊いても“よく覚えていない”で通るだろうから。


(―我ながら卑怯な手を使う様ですが、どうかお許しください…っ。)


そう胸の内で呟いてから、無防備に素直に目を瞑ってくれている彼女の頬へと手を添えて、自身の顔を鼻先まで寄せる。

あと数cmで唇が触れ合うという距離まで来たところで、今一度躊躇いが生じて踏み留まりかけた。

しかし、其処へ目を閉じたままの彼女から間延びした声音で催促を受け、もう儘よ…!と振り切り、とうとう彼女の唇へと口付けてしまった。

好きでもない相手にこんな無体を働かれたと知った時は、きっと深く悲しみ傷付けてしまうだろう。

其れでも良い。

嫌われても良いから、今この時だけは貴女に触れさせていてください…っ。

そう願いながら触れた彼女の唇はとても柔らかくて、不思議なくらい甘く良い匂いがした。

嗚呼、不味いな…脳が痺れるみたいな感覚だ、此れは。

麻薬の様に浸透していく心地に、俺は暫く陶酔した。

何れだけの時間、彼女の唇を塞いでいたのかは分からない。

恐らく、感覚的に長くも短くもないくらいだろう。

流石にあまり長い事塞がれていては彼女も気付いてしまうだろうしな。

名残惜しく思ったが、そろそろ離してやろうと潔くすんなりと唇を離せば、独特のリップノイズが小さく響いた。

見れば、彼女の唇は先程よりも赤く色付いて、且つ俺の唾液が付いて艶やかに光っていた。

ついでに、口付けた拍子に彼女の唾液も自身に移ったのか、仄かに甘い味がした。

ゔ…っ、此れは、視界だけでなく今の精神衛生上には悪過ぎる絵面だ…ッ。

反射的に自身の唇を拭おうとして顔を逸らしかければ、ユルユルと睫毛を震わせて目蓋を開いた彼女と目が合ってしまった。

途端、全身が沸騰したみたく顔に熱が集まってきて狼狽えた。


「あ…っ!?や、の、コレは………ッ!!」
『すごぉーさん…?』
「や、その…っ、悪戯という事でしたから、ほんの意趣返しのつもりで…っ!あの、だから、で、出来心だったんです!!す、すすすみませんでしたァ…ッッッ!!」
『…んぇ…、何ですごぉーさん謝ってるの……?』
「ぇ………っ、だって、自分は、露罹さんの初めてを奪って…………、」
『ぅん…?んー…よく分かんないけど…私、今何されたの?』
「え゙……ッ、」
『何かふわって不思議な匂い…、うん?香りって言った方が良いのかなぁ?…がした様な、ふわふわした心地になったんだけど……何だったんだろ?ねぇ、すごぉーさん教えて…?』
「なn…ッ!?」
『さっきのね、何か凄く気持ち良かった気がするの…。せっかくだから、一回だけじゃよく分かんなかったし、物足りなかったからさ…もう一回やってみて欲しいなぁ。』
「え…ま、ちょっ、露罹さ……ッ、!!」


気付いた時には、俺は彼女に膝乗りされていて、後ろ背はソファーの壁で逃げられない状況に陥っていた。

いや、もうコレは流石に不味過ぎる展開だと寸でのところで彼女を押し留め様とした瞬間、彼女が蕩けた目をして囁きかけてきたのだ。


『―ねぇ、すごぉーさん…さっきのもう一回お願い…?』


理性と良心との天秤が傾き、欲望の方へと思考が陥落した瞬間だった。


「ッ………、もう止めろと言われても…止める自信はありませんよ、露罹さん…!」


そう告げると同時に噛み付く様に彼女の唇を塞げば、途端に鼻から抜ける様な甘い声を漏らした露罹さんに、男の性が煽られてより深く深く口付けた。

全ての呼吸すらも奪う様に何度も何度も角度を変えて啄む。

次第に触れ合う唇を通して躰中が熱くなり、俺は荒々しい手付きで自分のシャツのボタンを外した。

ついでに、窮屈そうだった彼女の胸元も緩めてやってから、再びキスをした。

今度は肉体的な本能的なキスだった。

彼女の薄く開かれた口を舌で抉じ開けて咥内を蹂躙する。

堪らない感覚だった。

縮こまり奥へと逃げ込む彼女の舌先を追いかけて絡め取り、その柔らかな舌先に吸い付く。

刹那、彼女の目蓋が震えてくぐもった声を上げた。

その声をもっと聞きたい、でも此れ以上下手には出来ない。

理性と良心とが再びぐらつき始め、そこで漸く彼女の唇を解放した。

酔った勢いとは言え、流石の此れはいけない事だろうと思いはするものの、視界に入った互いの間を結ぶ透明な糸が艶かしくも現実を指している様で胸が高鳴った。

一先ず、繋がる糸を切る様に自身の唇を舐め、彼女の濡れた口許を拭って綺麗にしておこう。

気も落ち着いて心に余裕が戻ってきた頃になり、ふとそういえばやけに彼女が静かだなと見遣れば…いつの間に眠ったのか、スヤスヤと寝息を立てて無防備にも寝顔を晒す彼女の姿があった。

今しがたまでの色っぽく女性らしさを滲ませた姿は何処へ行ったのやら。

あどけない顔付きで俺の腕の中で眠りに就いていた。


―この状況下で寝れるのか…っ。


そう思わずには居られないオチであった。

まぁ、本物のアルコールが入っていたのだから致し方ないと言えば致し方ない事であるか。

故に、ここは素直に彼女を寝かせたままにしておこうと思った。

…が、彼女の部屋に運ぼうにも、女性の部屋へ無断で踏み入るのは憚られた。

よって、仕方なくこのまま自身の部屋のベッドで寝かせようと力の抜け切った彼女を抱え、寝室まで運んでいく。

男の自分が使っているベッドだから多少汗臭いと思うし、寝心地も悪いかもしれないが我慢してもらおう。

起こさない様に気を付けて壊れ物を扱う様にそ…っと横にならせると、不意に彼女が眠りの淵を漂いながら小さく呟いた。


『―…ん…、すご………さ、………んふふ…っ。』


なんて愛らしい様子で俺の名を呼ぶんだ…!

暫くその場で天を仰ぎながら顔を覆い、悶絶したのは此処だけの秘密である。


―ちなみに、翌日何事も無かったかの様にふらりと起きてきた露罹さんに問うたら、やはり昨夜の記憶は途中からぷっつりと途切れていて覚えていないという事だった。

覚えていなくて良かったと安堵すると共に、ちょっぴり残念に思った気持ちは自分の胸の中だけに仕舞っておく事にするのだった。


執筆日:2020.10.30

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