夢を見たらしい


揺蕩う意識の中で、あの人が笑っていた。

まだ正式に潜在犯認定を受けていない頃だ。

懐かしい、朧気な記憶を甦らせる様に映画のフィルムが回る。

師匠の元で貧しいながらも満ち足りた生活をしていたあの頃に、突然あの人はやって来た。

あの人は、何時も穏やかな笑みを湛えて私を導き、時には支えてくれた。

その人が今、私の前で微笑んでいる。

何時もの様に私の頭に手を置いて、さぁ行くぞと促してくれている。

私はその声に頷いて後ろ背を追い駆けていく。

逞しく頼りがいのある、あの大きくて広い背に追い付く為に。

私の親も飼い主も別に居たけども、まるで本当の親子の様に慕い、懐いた子犬の様に付いて回った。

その人は、今や現実には居ない人だというのは理解していた。

過ぎ去ってしまった過去は変えられない。

あの人の背に何時までも憧憬を重ねながら、追い駆けた。

ふと、誰かに肩を揺す振られた様に思えて意識が揺らぐ。

同時に、目蓋の裏で見ていた景色はぼんやりと消え去って余韻だけを残していった。

誰かの私を呼ぶ呼び声が聴こえる。

そこで漸く俯けていた頭をもたげて、沈んでいた思考を拾い上げた。


「露罹さん…っ、起きてください、露罹さん…!」


薄ら明るみを射す視界をぼんやりと開けば、其処は薄暗い黒い箱の中――護送車の中だった。

口を開けた箱の先には、公安局の駐車場内と思しき景色が見えた。

嗚呼…、そういえば自分は任務を遂行し終えた後、何時もの如く護送車に乗り込んで帰路に着いていたのだっけか。

硬い壁に預けっ放しになっていたんだろう背中が少し痛んだ。


「余程お疲れだったんですね…護送車に乗り込んだ後すぐに舟を漕ぎ始めたご様子だったので。もう公安局の地下駐車場に着きましたよ?」
『…ん……ごめ、面倒掛けちゃって…起こしてくれて有難う。』
「いえ…その、大丈夫ですか…?」
『…うん?何が…?』
「え……っ、もしかして気付かれてないんですか…?」
『……?御免、何の事…?』


純粋に分からなくてそう問うたら、彼の大きく温かな手が私の頬へと伸びてきて目元を擽った。

反射的に片目を瞑って彼の動向を探る様に見つめる。

何かを拭い去る様に触れた彼の手が離れた時、その指先には小さな透明の滴が付いてきらり、と光っていた。


「もしや、悪い夢か悲しい夢でも見られているのかと思って一度声をかけたのですが…思った以上に深く眠られていたご様子だったので、帰り着くまでは…とそっとしておきました。…眠ったまま泣いてしまう程嫌な夢を見られてたんですか…?」
『……いや…寧ろ、私的には幸せな部類のものだったんだけど…――そうか、あれは夢だったんだなぁ…。』
「露罹さん…?」
『…ふふっ、どうやら私は夢を見ていたらしいね…其れも、とても懐かしいものだったよ。』


まだ眦に残っていた涙の欠片を拭ってそう笑いかけると、彼は困惑した様な少し困った顔で私の事を見つめた。


「あの…差し出がましい事とは存じておりますが、何か思い悩んでいる様な事があるのでしたら、自分で良ければ話を聞きます…っ。なので、どうか思い詰める様な真似はしないでください…見ている此方が辛く苦しくなってしまうので。」


何やら勘違いしたらしい彼に明後日な方向な言葉を貰ってしまった。

何故彼がそんな顔をするのかは分からなかったが、私は笑って言葉を返した。


『私の言い方が悪かったかな…?御免。見てた夢の内容だけど、須郷さんが心配する程のものではないよ。懐かしいものだったってのは本当。勿論、此れは良い意味での方ね。』
「え…あ、そう…だったんですね。すみません…っ、つい早とちりして変に勘違いした様な言葉を言ってしまいました。我ながら恥ずかしい真似を…っ、その、今のは忘れてください…!」
『ははは…っ、別にそんな気にしてないから謝んなくても良いって。須郷さんたら真面目だなぁ…。』


素直な後輩の平謝りする姿に苦笑を漏らしながら、彼の手を借りて腰を上げ、黒い箱の外へと出る。

中に居た人間が居なくなった箱は自動運転で定位置の場所へと戻っていった。

そのまま何となく彼の手を握ったまま、宿舎の方へと歩いていく。


『…ねぇ、私が何の夢を見ていたのか、知りたい…?』
「え、っと…自分が聞いても良い、という話でしたら…是非ともお聞かせ願えませんでしょうか?」
『うん…、良いよ。――実は、夢に出てきた人の内の一人はね…須郷さんにも関わりのある人で、須郷さんも知ってる人なんだよ。…誰だと思う?当ててごらんよ。』
「えっ、自分に関わりがあり且つ自分も知っている人物、ですか…?えぇ…っ、誰でしょうか…。その方は、公安局に携わっている方ですか?」
『うん…っ、私達刑事課と縁深い人だったよ。』
「…“だった”という事は、過去形……つまり、既に亡くなられているか、もしくは現在この場には居ない人…という事ですよね。そう考えて思い当たる人物なんて、自分には一人しか居ません。――もしかして…その人物とは、征陸執行官の事じゃありませんか?」


彼が真剣に考えた末に出した答えを、私は彼を見つめ返す事で肯定した。

慈しみすら抱くその眼差しを受けた彼が、少しだけ悲しげに顔を歪めた。


『ふふふ…っ、流石は須郷さん。正解…っ。――そう、私が見てた夢に出てきた内の一人は、征陸智己執行官こととっつぁん…その人だよ。もう一人は、私に色んな事を教えてくれた師匠と呼んでた人の事ね。こっちは、須郷さんは知らない…というか、今の刑事課に居る人達皆知らない人になるだろうから敢えて詳しい説明は省くけど、師匠もとっつぁんと同じくらい良い人で、沢山世話になった人なんだ…。何方ももう、この世には居なくなっちゃったけどね。悲しくても、其れが現実…受け入れなきゃいけない事実だ。…だから、夢に出てきた時も、まるで嘗ての頃に戻ったかの様に錯覚するくらいには現実味を帯びていて…凄く懐かしかった。』


私の隣を歩きながら話を聞く須郷さんは、静かに黙って耳を傾けてくれている。

私は其れに促される様に口を開いた。


『決して悲しくはない…と言ったら嘘になるけれども、夢でも何でもあの人達とまた言葉を交わして笑い合える事が嬉しかったの。…かけがえのない、大切で大好きな人達だったから。今でも目を瞑れば、鮮明に思い出せるよ…あの頃の、まだ私も幼稚で幼い子供でしかなかった短い日々の光景を。あの人達と笑い合いながら、薄汚れた古い建物の中で鍋をつつき合ったりした想い出を。』


思い出せば思い出す程に溢れ来る記憶と其れに伴う感情に、思わず言葉尻の声が震えてしまった。

―まだ、私は前を向けていないのだろうか…?

否、ただ玉響たまゆらに感傷的になってしまっているだけだ。

私は、歩き続けなければならない。

亡くなった彼等の分も背負って強く生きねば…。

だから、足を止める事は許されない。

失ったものは数多くとも、其れを抱いて前へと進む――其れが、今、私に課せられた道だ。


『―嗚呼…懐かしいなぁ、』


零れた言葉の端に天を仰げば、また一筋の涙が頬を伝い落ちる感触がした。

いつの間にか、歩んでいた足は止まっていて、中途半端なところで立ち止まっていた。

此処は人通りも疎らな通路だから、別にこのまま立ち止まっていても邪魔にはならなかっただろうが、一応はまだ勤務中の時間だと思い出して歩みを再開する。

繋いだままの掌が温かくて、有難かった。

隣の須郷さんは何も言わない。

もしかしたら、何も言えないでいるのかもしれなかったけれど、そんなの何方でも構わなかった。

彼の存在が、今は酷く心地が好い。


「―フロアへ戻る前に…一度休憩所へと寄りましょうか。其処で、何か温かい飲み物でも飲んだら、少しは落ち着くと思います…。今のままの貴女を放っておく事は出来ません。」


少し力強い感覚で私の手を引っ張って先を歩き出した彼の背が、少しだけ彼の人の背と重なった様に見えて、胸が詰まった。

上がってきそうになる嗚咽を堪えて、息が苦しくなる。

其れでも、繋がれた掌は離れる事無く私の手を掴んでいた。


―結局、お互いのデバイスにそれぞれ常守監視官と宜野座執行官のコールが入るまでおサボりする形となってしまった。

彼のお陰で落ち着きはしたものの、泣きっ面を元の状態に戻すまでには時間が足りなくて、そのまま不細工な面を下げたまま一係フロアまで戻ると大層驚かれて大袈裟に心配されてしまうのだった。


執筆日:2020.11.08
Title by:toy

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