
期待の新人と気儘な道草飯
美味しそうな匂いがする。一仕事を終えたところに、辺りを漂う匂いに鼻をひくつかせて俯けていた顔を上げた。次いで、匂いの源を探るように更にふんふんと鼻先を動かし、嗅覚に集中して方角を定める。
この美味しそうな匂いの元は何だ。何処からだろう。何の匂いだ。これまでに嗅いだ事のある匂いの種類に、過去の記憶を遡ってゆく。そうして辿り着いた答えに、ピコンッと頭を閃かせてパッと表情を明るくした。
「お肉の匂いだ! 其れも、たぶん生姜焼きとかそういった感じの……っ!」
其れまで無言であったところに突然喜色に富んだ声を発したからだろう。目標を叩く為に先行して駆け出していた己の後を追って遅れてやって来た監視官が呆れ顔を浮かべて小言を呟く。
「執行官が監視官の俺を置いて先に行くんじゃないって、この前も忠告した筈だぞ……! ――で、何の匂いがするって?」
「お肉を調理するような匂いがする! たぶん、方角的にこの先を行った角の辺りからだと思う!」
「確かに……言われてみれば、そんな匂いがするな」
「近くに屋台か何かあるのかもなぁ。ちなみに、具体的にはどんな匂いだい?」
監視官に遅れて此方も合流となった征陸執行官が話に混ざってきて問う。其れに再び鼻をふんふん言わせて匂いの種類を判別し、うーむ、という顔付きを浮かべて返した。
「えっとねぇ……最初は生姜焼きか何かに近い匂いだと思ったんだけど、よくよく嗅いでみると焼き肉系の匂いかもしんないッスね」
「嬢ちゃんは鼻がよく利くなぁ」
「まるで犬みたいな嗅覚だ」
「まぁ、今やリアルに猟犬やってるんで強ち間違ってはいないですけど」
「あっ、いや、別にそんなつもりで言ったんじゃなくて……っ」
「分かってますよぅ。でも、鼻が利くのは元々の話なんで、犬みたいと例えられても何ら問題にも感じないんで気遣い無用ッスよ」
対象は鎮圧出来たし、後片付けという名の現場処理はドローンが処理してくれるし、自分達の残る仕事と言ったら後は帰投して報告書を作成後速やかに提出するだけである。しかし、ただこのまま真っ直ぐに帰投しただけでは何だか勿体無い気がした。こんな機会、
屹度滅多に無いものだろう。
短い間に一頻り思考を回し、自己完結させた新人執行官である娘がぱかりと口を開く。
「監視官、この後の件で一つご提案があるのですが、意見よろしいでしょうか?」
「ん? 何だ、言ってみろ」
「恐らく通常通りならこのまま真っ直ぐ帰投するのがベストな解答だとは存じ上げておりますが、自分としては敢えて此処は寄り道してから帰る事を希望します!」
「やけに真面目な口調で言い出したかと思えば、お前という奴は……」
「まぁまぁ、取り敢えず嬢ちゃんの話を最後まで聞いてみてやろうじゃねぇか、コウ」
「全く……とっつぁんは少し此奴を甘やかし過ぎだぞ」
「はははっ、確かにその自覚はあるなぁ! だが、孫か娘が出来たみたいで可愛くて、ついつい甘やかしちまうのは大目に見てくれや」
「はぁ〜……っ。後々ギノにどやされたとしても知らないからな」
「伸元には内緒にしときゃバレやしねぇさ。……で、嬢ちゃんは何が目的だい?」
どうやら、この娘の企みに賛同の意を示してくれるらしい征陸執行官が、監視官との間を取り持ってくれるらしい。流石は年長者、話を分かってくれて有難い。
まだまだ未熟な新人執行官は、一仕事終えた御褒美を所望すべく、少しばかりしなを作って上目遣い気味にお強請りした。
「お二人さえ良ければ、本部へ帰投する前に、ちょいと寄り道と称して御飯行きません……? 対象は鎮圧済みですし、どうせこの後は真っ直ぐ帰投するだけでしょう? だったら、ちょっと御飯行くくらいは然して問題無くないですか?」
「おまっ……本気で言っているのか?」
「何か問題でも??」
「今しがたエレミネーターで執行して血腥い場面を見たばかりだというのに、よくそんなすぐに飯へと切り替えれるな……。本当に執行官始めて一ヶ月目の新人か?」
「R-18Gレベルのグロなら、ホラゲーの実況動画とか見ながら平気で飯食ってた人間なので、
無問題です……っ!」
「そんな元気に返されてもな……。というか、露罹……お前、ホラーゲームとか平気なタイプだったのか」
「自分がプレイするかは別の話ですけど、見る分には面白いんで、偶に見てましたかねぇ」
「しかし、今嬢ちゃんが言ったレベルのタイプの物って言ったら、大体が旧時代に流行ったモンで、普通色相が濁るとか何とかで規制が掛かってる類なモンの筈だろう? よく見ようだなんて思い至ったなぁ」
「何事にもコアなファンや人気な派閥というものは付き物でしてね……探せば出て来るモンなんすよ、意外と」
無駄にドヤ顔をキメて己の経験値が如何程のものかを示してみせた。が、大して響かなかったらしい監視官は、胡乱げな表情を浮かべて彼女の側頭部を軽く小突く。地味に痛かったらしい其れに、彼女は不服と言った顔をして小突かれた箇所を擦った。暴力反対である。確かに監視官は己の飼い主様で従うべき上司だが、躾けるのに何も暴力を行使しなくても良いだろう。其れを訴えるべく口を開こうとするも、先手を打つように先に口を開いた彼が言う。
「そんなに腹が減ったのか……?」
「へっ……?」
「腹、空いたから飯の誘いと称して俺達に訊いてきたんじゃないのか?」
「……うす、ソウデッス」
「なら、最初から回りくどい言い方なんかせずに、素直に腹が減ったと言え。時間も時間帯だし、報告書に取り掛かる前に何か腹に入れるのは俺も賛成だ。走り回って俺も腹ペコだしな」
「えっ、じゃあ……」
期待を抱かせるような応答にぱちくりと瞬きを繰り返して窺えば、ふすんっ、と一息漏らした彼が、くるりと首を巡らせてもう一人の方へ声をかける。
「そんな訳だから……とっつぁんも異論は無いな?」
「応とも。俺もすっかり腹ペコなのは同じなんでね。早めに飯に有り付けるに越した事はねぇさ」
「と、いう事は……?」
「お前の案に乗っかった」
「やったぁ!! 二人共有難う〜っ!!」
「但し、ギノには内緒だからな。後でバレると
五月蝿くて厄介だ。佐々山にも内緒にしとけよ?」
「了解であります、監視官!! 自分、狡噛監視官に一生付いて行くッス……!!」
「大袈裟過ぎだ……。だが、まぁ……偶には寄り道したって許されるだろうさ」
「わぁ〜っい! へへっ、久々にお外でのお肉だぁ〜!」
「あんまりはしゃぎ過ぎて転ぶなよ、嬢ちゃ〜んっ」
大した事でもないのに、賛同を得られてそんなに嬉しかったのか。くるくると小躍りするように先を行く彼女の事を、遅れて付いて行く年長者の執行官が控えめな口調で注意する。其れに「はぁ〜いっ」と明るく弾んだ声音で返事を返す彼女は、一旦小躍りするのをやめて監視官の側へと戻ってきた。そして、満面の笑みを浮かべて彼を見上げつつ言う。
「私、狡噛さんのそういうところ、大好きです……っ!」
「ッ……!?」
思いもよらぬ事を言われて咄嗟に返す言葉に詰まった監視官。しかし、別段何か返事を返される事などは求めていなかったようで、言うだけ言って満足した新人執行官は足取り軽く先を駆けて行き、目的地の方角を指し示す。どうやら、先程彼女が言った通り、この先の角を曲がった先に目的の店はあるらしい。
いまいち動揺を隠し切れなかった彼は、僅かに赤らむ顔を隠さんとして片手で口元を覆い隠した。其れを横へ並ぶ形で歩いていた年長者がニヤニヤと口元を緩ませて見遣る。
「はははっ、青春だねぇ〜。今のくらいで動揺するとは、コウもまだまだだな」
「ッ〜〜〜、今のはどう反応をするのが正解だったんだ!?」
「はははっ。まぁ、大して深い意味の無い気紛れな発言として流す程度が丁度良いさ。恐らく、嬢ちゃんの方も特に意味は込めてなかっただろうしな。ありゃあ、単に嬉しかったからその反射で出て来た台詞だろうよ。それにしても、今のは罪深いねぇ〜。こいつぁ思ってたよりも大物に育ちそうだ。ひょっとしたら、魔性のタイプを引いたかもな?」
「魔性…………」
遅れて付いて来る男二人組が何を話しているかなどそっちのけで「お二人共早く早く〜っ!」と急かし催促する彼女は気付かない。仕事ではないからとのんびり歩きながら角を曲がる手前で追い付いてやれば、ニコニコとした顔を浮かべて目の先にある店を指差して言う。
「美味しそうな匂いは、ズバリ彼処から漂ってきている模様です……!」
「おぉ、近くまで来るとより美味そうな匂いが漂ってくるなぁ。腹の虫が鳴りそうだ」
「見るからに個人がやってるっぽい小ぢんまりとした店みたいだな」
「賑やかそうな声が聞こえてきてるのから察するに、それなりに繁盛してるっぽいですね! 此れは期待出来るかも……っ!」
「其れは良い事だが……俺達は今しがたまで血腥い仕事をしてたんだぞ? 本当に食えるのか? というか、返り血被ってたりはしてないだろうなぁ?」
「ハッ……! お店入る前にチェックしとかなきゃじゃん! 狡噛さん、気付かせてくれて有難うございます……っ!」
指摘されてハッとした新人執行官は、思い出したかのように自身の
身形を確認し、返り血を被ったり服が汚れていないかを急いでチェックした。幸い、心配する程の汚れは無く、スラックスの裾や靴先に微かに其れっぽいような汚れが見受けられたが、時間帯が既に日も沈んだ暗い時間帯なだけにあまり気にしなくとも良さそうだ。ホッと息を
吐いたところで、指摘していた張本人が気まずそうに言葉を零した。
「いや、まぁ……此処、廃棄区画寄りの場所とは言え、一応一般人が居る場所だからな。其れに、執行したのはお前だから、念には念をと思って言っただけだ。今回頑張ったのは露罹だし、立派に仕事を努めた対価として褒美を与えたとしても、上司である俺としては何も問題は無いと思っている。腹が減ってるのは事実だしな」
「この後も報告書で一頑張りするなら、飯を入れといても罰は当たらんさ。“腹が減っては戦は出来ぬ”と昔から言うしな。空腹状態のままじゃ何か考えようにも頭は回らんだろう」
「昔の
諺ってヤツですね? とっても良き言葉にゃのです……! 尚、返り血については気にする程度ではありませんでした故、実質大丈夫そうです!」
「じゃあ、いっちょ覗いてみるとしようかねぇ」
早くもネクタイを緩めた征陸執行官が先頭を行く形で店の中へと入っていく。店へ入る前の軒先辺りの時点で既に空腹を刺激するような
香しい匂いが鼻腔を擽る。其れに促されるように今の時代には不釣り合いなアナクロな引き戸を横へ引いて暖簾を搔き分ければ、来店した客の存在に気付いた店主と店員らしき者がそれぞれに顔を上げて声を張り、威勢の良い声を上げた。
「らっしゃっせぇー!」
「何名様でいらっしゃいましょう?」
「俺とツレ二人を含めた三名になるんだが、席の方は空いてるかい?」
「三名様ですね! カウンター席の方ならすぐに通せやすが、如何致しやしょう?」
「じゃあ、カウンター席で頼むとしようかい」
「へいっ! 三名様入りまーす!」
やたら男臭い感じの空気と応答に、今時の若者はちょっぴり吃驚した風に気圧されて年長者の影に隠れるようにして続く。其れを小さく笑って三人揃ってカウンター席へ並ぶ形で腰を下ろした。
人数分の水が運ばれてくると共に、この店の店主と思しき男がカウンター越しに問うてくる。
「お客さん、此処らじゃ見ねぇ顔だが、ウチは初めてかい?」
「あぁ。仕事で近くまで来たんで、腹も減ったしと思って美味そうな匂い漂うのに誘われるまま来たって訳さ。隣の若い二人はツレで仕事仲間だ。良ければ、大将のオススメってヤツを聞きたいところだねぇ」
「ウチは肉を専門に取り扱ってる店よ! 看板飯はズバリ、スタミナたっぷりの焼肉丼でぃ!! 漢は黙ってガッツリ肉食っときな! あとは、焼肉定食ってのも売りで、他にも人気なメニューはあるが……どれにする?」
「そうさなぁ。俺は看板飯だって言う焼肉丼が気になるんで其れにしようかと思うが……二人はどうする?」
初めて訪れた店の割に慣れた様子で店主と遣り取りしていた征陸執行官が、ふと話の流れを振ってきた。此れに、すぐ真隣の位置に座っていた彼女はおっかな吃驚と言った風に肩を跳ねさせ、おずおずと口を開いて答える。
「じゃあ……
折角だから、私も
同じのでお願いします。狡噛さんの方はどうします……?」
「俺もとっつぁんと露罹二人と同じで構わない」
「御飯の盛りは、大盛り・中盛り・普通盛りの三種ありますが、何方に致しやしょう?」
「俺とコウ男二人は大盛りで、嬢ちゃんのは普通盛りで良いか?」
「其れで大丈夫ッス」
「んじゃ、其れでお願いするよ大将」
「ハイ! 注文承りやしたぁ!! 肉丼大盛り二丁、肉丼普通盛り一丁入りやしたぁ!!」
注文を受けた瞬間に元気良く内容を大声で復唱した店主の声が店内に響き渡る。何とも活気の良い店だ。雰囲気に飲まれてポカンとしていた若者二人も、徐々に慣れたのか笑みを浮かべて顔を見合わす余裕を取り戻したらしい。
間髪入れず、注文を受けて一旦厨房の奥へ引っ込んだかに見えた店主が再び目の前へ顔を見せて口早に問う。
「お客さん、お酒の方はどうします?」
「おっ、何が揃ってるんだ?」
「そりゃあ、モノホンのヤツをそれなりに揃えてやすぜぃ!」
「ほぉ、そいつぁ良い! どうせ後は帰るだけだし、一杯だけなら良いだろう? なぁ、コウ……?」
「後でギノにバレて叱られても責任取らなくて良いなら……一杯だけなら良いんじゃないか?」
「おや、狡噛さん意外とそこら辺緩い感じ?」
「程々に留めてくれるなら、俺だってガミガミ言ったりしないさ。そういうのはギノの担当だからな。俺の出る幕じゃない」
「だってさ、征陸さんや」
「じゃあ、日本酒をお冷で一本頼むわ大将!」
「へい! かしこまりぃ〜!!」
追加でお酒の注文も受けてご機嫌な様子の店主が景気の良い笑みを浮かべて厨房へ引っ込んでいく。
程無くして、よく冷えた徳利とお猪口のセットが御盆に乗せられてきた。其れを受け取った征陸執行官は、早速お猪口へとキンキンに冷えた日本酒を注いで口へ運んでいく。そして、グイッと呷ると「ッかぁー! 堪らん!」と何ともオッサン臭い台詞を吐いた。実際、彼は巷で言うところの“おじさん”呼ばわりされる頃合いの年齢である為、強ち間違ってはいないのが何とも言いづらいところである。
大好きなお酒を飲めて上機嫌となったのか、ニコニコと表情筋を緩めた様子の征陸執行官はゆるゆると口を開いて言った。
「いやぁ〜、嬢ちゃんが此処へ連れて来てくれなかったら、この酒にも有り付けなかったと思うと貴重な一杯だぜ。有難うなぁ〜嬢ちゃん。こんな機会滅多に無いんだ、二人共一杯飲んでみないか?」
「えっ」
「おいおい、とっつぁん……酔っ払うにゃちと早過ぎるぜ」
「まぁまぁ、どうせこのご時世本物のアルコールなんざそう安々と手に入らないんだ。飲める時に飲んでおいた方が良いぞ。物は試しってヤツだ。嬢ちゃんも飲んでみるかい?」
「うーん……未だに一度もまともなアルコール飲んだ経験無いんだけど、大丈夫かな?」
「まぁ、慣れねぇ初めの内は、お猪口一杯と言わず一口ぐらいで試してみると良い。無理そうならやめとけば良いってだけさ。コウも試してみるか?」
「いや、俺は……っ、」
監視官が左隣で言い淀んでいる内に答えを決めたらしい彼女が意を決した風に口を挟む。
「日本酒、前々から興味あったので、ほんのちょっとの一口だけ飲んでみたいッス……!」
「おっ、流石は嬢ちゃん! その意気だぞ〜!」
「おまっ、正気か!? 本物のアルコールだぞ!?」
「色相濁るのがどうしても気になるんでしたら、狡噛さんだけ飲まなかったら良いのでは?」
「ぐッ……! 新人のお前が飲んで、立場上上司である俺が飲まないという訳にもいかないだろう……っ」
「いや、こういう場にまで其処まで立場張る必要あります? 本当に嫌なら別に無理してまで飲まなくても良いんですよ……? そもそも、征陸さんもアルハラしたくて言った訳じゃないと思いますし」
「いいや……其れだと俺だけ何だか負けた気がして嫌だから飲むッ……!」
「はははっ……コウの奴もなかなかに素直じゃねぇなぁ〜。まっ、一緒に付き合ってくれるってんなら喜んで受け入れるけどな。大将、ツレの奴にも酒を注いでやりたいんで、お猪口もう一つ貰えるかい?」
「応! お安い御用でさぁ! 飯の方はもうちっと待っててくだせぇや……!!」
気前が良いのか、あっさりもう一つのお猪口を用意してくれた店主。気が利く人だ。
征陸執行官の御酌で注がれた一杯に期待を滲ませて、恐る恐る口を付けてみる。しかし、ちびりと一口だけ口に含んだだけで無理と判断したのか、すぐにパッと呑み口から口を離した新人執行官は、瞬間的に口元を手で押さえて唸った。
「ゔぅ゙〜ッ、かりゃい……!! 度数何度あるのコレェ!? ほんのちょびっと舐めた程度なのに、舌がピリピリするわ喉がカッカッするわで想像以上の刺激に吃驚だわ!!」
「ははははっ! 嬢ちゃんにはまだ早かったか〜」
「だ、大丈夫か? 露罹……っ。無理はするな。水飲むか??」
「ゔ〜ッ……此処は大人しくお水飲んどきます……っ。残りは狡噛さんにあげます!」
「えっ? あ、俺にか……??」
「私一人だけこんな目に遭うのは何となく癪に障るので、どうせなら狡噛さんも同じ目に遭えば良いのです……っ」
「いや、まぁ……飲むと言った手前だから飲むけども……」
「さぁて、コウはどういう反応をするかねぇ。お手並み拝見と行こうか」
初めて手にする本物のアルコールを含む酒を前にして、些か緊張した面持ちになった監視官が、覚悟を決めたように一拍深く息を吸った直後、手に持っていたお猪口を一気に呷った。其れを横目に見ていた彼女はハラハラとした様子で見守る。
カンッ、と勢い良く卓上へ下ろされたお猪口を見れば、見事に綺麗な空となっていた。残っていた全てを一気に口に含んだ彼の喉仏がゴクリと嚥下する。途端、「ぶはぁっ!」と息を吐き出した監視官は口元と喉元をそれぞれに押さえて呻いた。
「な゙んっだコレ……! 喉に通った瞬間、焼けるような感覚を覚えたんだが……ッ。コレが本物の酒を飲んだ時特有の感覚というやつか!? んぐッ……ゲホ、ちょっと刺激が強過ぎて、すぐには慣れそうになさそうだ……! ゲホッ、」
「あわわわッ、み、水水! 狡噛さん水飲んでください!!」
「あ゙ぁ゙……すまん、有難う……ッ」
「ははははっ! コウにもちっとばかし早かったみたいだなぁ。まぁ、酒の味は次第に慣れていけば良いさ。焦るこたぁない。俺としちゃあ、こうして一口でも一杯でも付き合ってくれただけで嬉しいんでな」
「流石はとっつぁんだな……」
「まるで水でも飲むかの如くスルスルと飲んじゃうなんて……渋格好良いッス」
「単なる慣れだよ。酒なんてモンは、元々好き好き分かれる嗜好品だが、慣れれば日本酒独特の味を楽しみながら飲む事だって出来るようになるさ。まっ、慣れねぇ内は度数の低いヤツから始めるのが良いだろうな。もし興味があるなら、俺の秘蔵の酒から良さげなのを幾つか見繕っといてやるから、今度飲みに付き合え」
「非番の前夜に飲むのがベストかな……?」
「次の日醜態を曝したくなけりゃ、その方が無難だし賢明な判断だろう……」
「またお互いのシフトが被る日があったら、お声がけ頼んますね、征陸さん」
「おぉ、そんときゃ他の呑兵衛共も呼んで飲み会と洒落込もうや」
「えへへっ……次の約束出来ちゃいましたね」
「そうだな」
小さな事で何とも嬉しそうな笑みを浮かべて笑った彼女に釣られて彼も口元に笑みを湛えた。その様子をまた何処か微笑ましそうに且つ嬉しそうに眺める年長者が居たのであった。
そんなこんなな遣り取りをしている内に、注文していた焼肉丼の普通盛り一人前と大盛り二人前が運ばれてくる。冷めない内にと据え置きの割り箸を手に取った三人は、それぞれに手を合わせて『頂きます』と食前の挨拶を口にして食べ始める。濃い味付けのタレがたっぷり絡んだ肉は見るからに食欲を
唆る見た目をしていて、一口試しに口の中へと運んでみれば、直ぐ様御飯を掻き込みたくなる美味さであった。
偶々仕事終わりに現場近くを漂っていた匂いの元を辿って来てみたのが事の発端だが、此れは当たりを引いたかもしれない。否、此れは確実に当たりである。そんな謎に確信めいた気持ちに突き動かされるようにして、丼の中身をガツガツと掻き込んでいく。余程美味しかったのか、食事中は自然と無言で食べ進めていた。
そうして、一仕事終えたばかりの腹ペコ三人組はあっという間に頼んだ焼肉丼を腹の中へと収め、満腹となった腹を擦りながら一息
吐いた。同時に箸を置いた三人は揃って『ご馳走様でした』と食後の挨拶を告げて席を立つ。次いで、店の店主へと“美味しかった”との感想と併せて“次にまた寄る機会があれば是非とも別のメニューの物も食べてみたい”とのコメントを会計時に言い残してから店を出た。
店から出た頃には、すっかり空はとっぷりと暗くなっており、月や星が遠くで顔を覗かせていた。そんな夜空を見上げつつ、腹も満たされてほんのりお酒も入ってほろ酔い気分な三人は喜色の滲んだ顔付きで帰路に着く。
「焼肉丼、美味しかったですねぇ! やっぱり、私の直感は間違っていなかった……!」
「まさしく犬の如し嗅覚だよ」
「今回ばかしは嬢ちゃんに天晴だなぁ」
「えへへっ、また今度近くに寄る事がありましたら、次の時は焼肉定食なんかも良いですねぇ! あっ、でも、物凄く個人的な事を言うと、旨塩カルビ丼ってヤツが焼肉定食と並ぶレベルで気になりました。めっちゃ気になる、旨塩カルビ丼……。お肉は何食べても美味い……じゅるり」
「まぁ、また今度な」
「やっぱ食事は本物が一番ッスね〜」
そう言って、酔いも相俟ってふわふわとした思考で歩き始めた彼女の横顔を見遣った際に、ふと店先では気付かなかった或る違和感に気付き、監視官はやんわりと声をかけた。
「……露罹、左頬から顎にかけてのラインに何か付いてるぞ」
「えっ!? もしかして、さっき食べた焼肉丼のタレが跳ねちゃってたのかな……っ。一応、店出る前に一度、口の周り汚してないかって据え置きの紙ナプキンで拭ったつもりだったんですが、拭い切れてませんでしたかね?」
「いや……色合い的にたぶんさっきの焼肉丼のタレじゃなさそうだぞ? ちょっと待ってろ。今拭いてやるから……」
そう言って、懐より未使用のハンカチを取り出した監視官は、新人執行官の左頬のラインに付着していた汚れなるものを拭き取った。そして、改めてその汚れとやらを確認し、理解する。
「此れ……たぶん、対象を執行した時に飛び散った返り血の一部だろう。既に酸化して赤茶けたように黒ずんでいるが、十中八九血だぞ」
「え゙ッ!? 嘘!! 顔にまで飛んだ記憶無いのに!?」
「あ゙〜、まぁ今回のはエリミネーターでの執行だったし、執行完了した時点でだいぶ暗くなってきてる時間帯だったからなぁ……。今回対象が逃げたのが廃棄区画寄りの地点だった事も相俟って、街灯も少なくて全体的に暗い中での事だったから気が付かなかったんだろう。良かったなぁ、大した跡付いてなくて」
「あとは、たぶん……横髪が顔に掛かるような感じだったから、比較的明るい店内に居た時でも気付けなかったんだろうな。まぁ、怪我とかが無くて安心したよ」
そう言って、ふわりと優しく微笑んだ監視官の笑みに、一瞬と言えど見惚れてしまった彼女は、直後ハッとしてぷるぷると
頭を振って突然湧き起こりかけた謎の感情を消し去る。無意識に起こしたその行動にクスリと笑んだ彼は、今しがた血痕が付着していた左頬を指の背で撫ぜるように触れた。そして、何気無い言葉を落としていくのだ。
「次の時は気を付けろよ」
「ッ……! ぅあ、は、ハイッ……! 善処します……!!」
「ん。なら良い」
帰り道は少しだけいつもと違う感覚が彼女の胸の内を占める。けれど、その感情にまだ名前を付ける事が出来ない未熟な新人執行官は、「慣れないお酒を飲んだ所為かな?」と見当違いなところへ当たりを付けるのだった。
執筆日:2024.05.21
公開日:2024.06.26
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