泣くのって、どうしてこんなに疲れるのだろう。
一度、堰を切ったように溢れ出すと、途中途中落ち着きかけはするものの、なかなか思うようにピタリとは止まってくれない。そうして意味も無くずるずると涙を垂れ流して、体内の水気を浪費して、発散して。
何で、人という生き物は泣いた後疲れてしまうんだろう。泣いてすぐはまだ良いのだ。しかしながら、暫く時間を置くと、何故か異様に眠たくなってくる。泣くという行為は、想像以上に体力を消耗するものだ。
ならば、何故泣くのか。無駄に疲れてしまうくらいなら、初めから泣かなければ良いだろうに。
だが、気付けば泣いている事も有り得るのだ、人という生き物は。生産性も何も無い、非効率的な事だとしても。
ただまぁ、泣けば、何とは言い表し難い、胸中に渦巻く真っ黒な感情や口には出来なかったごちゃごちゃとした蟠りのようなものが、少し落ち着く気がするのだ。其れを、別の言葉に変えて言えば、ストレス発散と言うのだろう。
つまりは、最終的に何が言いたいのかというとだ――目蓋が腫れて目が開きづらくなるまで泣き過ぎて疲れた後に残る感情は、虚無に尽きるという事だ。
最早、泣くという感情すら持っている事に疲れたと思える程に泣いてしまった。その始まりは何だ。何でも良い。否、始まりなどどうだって良いのだ。ただ、もう、何もかもに疲れ果ててしまったのである。
自分の存在意義や生きる価値を探して見出そうとするのにも、他人を慮るのも、他者を敬うのにも。全部、全部、疲れた。いっそ、生きる事すら諦めてしまったのだ。もう、息をする事にも疲れた。
常にダブルバインドが付き纏う日常、
全ての物事に諦感を抱くだけで何の希望も見出せない。……否、
結局のところ、泣きながらぐるぐると考えていた事はそんなところに行き着き、諦めが感情すらも削ぎ落としてゆくのだ。
励ましなど慰めにもならない。心の拠り所など、
こんな処で生きている価値など無い。還る場所も無い。なら、どうするのか。
何処か遠くへ行きたい。此処じゃない、何処かへ。
いっその事、神隠しでも何だって良い。今すぐ此処じゃない何処かへ連れ去ってはくれまいか。
家族も友も知り合いも誰も居ない、遠く遠く離れた処へ。
どうしようもない、檻のような感情に囚われ、時間も体力も浪費してしまうくらいなら。今、此処で息をする私の時間を止めてはくれないか。
そうやって、己の感情の遣り場にほとほと困り果てて蹲っていれば、近くを通りかかったのだろう彼が見兼ねたように涙を拭える物を差し出してきた。
彼は、何も言わない。何も言わないが、黙って側まで寄り、頻りに荒く呼吸を繰り返す背中を
其れだけではない。彼は、私が落ち着くまでの途中、数回程、毀れ物を扱うが如く優しく頭を撫でてくれた。
その優しさが、気遣いが、また胸の内を押し上げるから、嗚咽が漏れて、止まりかけた筈の涙がまたゆるゆると視界に波打って零れ落ちる。
優しさが痛い、気遣いが痛い。私なんかに、そんなものくれなくて良いから。放って、とっとと去ってくれて構わないから。
どうか、今、優しくなんてしないでくれ。
止まりそうだった涙がまた出てきて、余計に体力を奪うから。より疲れてしまうから。疲れてしまったら、今度は眠たくなってしまって。そうすると、誰かの咎める罵声や怒号が飛んできてしまうかもしれないから。
怒られるのも、叱られるのも、もう沢山だから。くどくどと一方的に責められるのは、もう聞きたくないから。
だから、私なんて存在放っておいてくれ。
何をしたって、何もしなくたって、気にかけてくれなくて良い。ただ、一人で居たい。何者にも縛られていたくない。本当の意味での自由で居たい。
無言で差し出される其れを受け取って、喉を潤し、息を
泣いて体力を消耗しているし、疲れているだろうから、取り敢えず水分と糖分を補給しろ……という事なのだろうか。
一先ず、受け取った其れ等を無心で口に放り込んで咀嚼してみると、疲れた体には沁みる仄かな甘味が口の中いっぱいに広がった。優しい味わいに舌鼓を打って、何とは無しに庭先へ視線を投げれば、その視線を追った彼の目もまた同じ方向を見た。
すぐ近くという位置に座っていた彼が腰を上げて動く。其れを、やはり何とは無しに見つめて追っていけば、彼は何も言わぬまま部屋を出て行き、何も言わずに戻ってきた。
その手には、水で濡らされたタオルと凍った保冷剤が握られていた。隣の位置に再び腰を下ろしてきた彼が、小振りの細長い保冷剤を綺麗に小さく折り畳んだ濡れタオルで包むと、今度は其れをまた無言で手渡してくる。私は其れを黙って受け取り、目元に押し当てた。すっかり赤く腫れ上がった目蓋に、冷たく冷えたのが気持ち好くて丁度良かった。
そうやって、上向いて保冷剤で冷やされた濡れタオルの感触を味わっていると。ちょいちょいと肩口を
其れから一時、無言のまま二人大人しくその場から動かなかった。
彼が何を考えているかなんて事は分からなかったが、まぁ、何も語られない分には何も困る事は無かったので、敢えて此方から指摘する事も、わざわざその為だけに口を開く事も無かった。
――暫くして、目元がだいぶマシになったぐらいで、目の上に乗せていたタオルを退けた。
そして、閉じていた目蓋を開いてぱちぱちと瞬きを繰り返していたら。頭を浮かせた事で察したのだろう。隣の彼も動いて、龍の鱗模様の這う腕が此方へそっと伸びてきた。
あたたかな温度をした指先が、そっと目元を擽って確かめるように触れてくる。其処で、其れまでずっと無言のままだった彼が、漸く口を開いた。
「だいぶ赤みも腫れも引いたな……。此れなら、もう動いても差し支えないだろう」
嗚呼……たぶん、此れで
彼が二言目を話そうと、また口を開く。
「今の状態ならば、誰もアンタが泣いていたかどうかなんて問うてくる奴は居ないだろうし、気付かないだろうからな。気にせず部屋を移動しても、問題は無いだろ」
淡々と事実を告げる彼の口から零れた言葉は、やはり優しさに満ちたものだった。
何処までも気遣いの滲む其れに、小さく苦い笑みが口許を歪めても、彼は気にした素振りを見せなかった。
「まだ暫くは一人の方が気楽で良いだろう……。俺はもう行く。他に何かあれば、近くに居る奴にでも声をかけ――、」
素っ気無く接するのは彼の性分、今更な事だ。だけれど、今はその素っ気無さが逆に有難かった。
部屋を出て行こうとした彼の服の裾を摘まんで引き留める。びんっ、と引っ張られた其れに気付いた彼が、足を止めて此方を振り返る。
そして、何も言わない代わりに、視線だけが雄弁に物語っていた。“何だ”……と。
極める以前の彼であったなら、
邪険にもせず、ただ黙って此方が何か発するのを待ってくれている。成長、したのだなぁ……と、変にしみじみと感慨深く思った。打って変わって、私は何も変われていないのだなぁ、と改めて思い知る事になるのである。
勝手に一人惨めな気持ちになって、自分の感情を制御出来ずに自分の薄暗い醜い感情に打ちのめされて。馬鹿みたいだった。泣くのも烏滸がましいくらいに。
だけど、自分一人の感情すらも持て余すから、何処か遠く離れた処で一人になりたくて。そして、誰にも知られぬ処で死にたくて。兎に角、そっとしておいて欲しくて……。
けれども、今ばかりは彼に側に居て欲しいかな……なんて、都合の良い、虫の良い話だった。
「――ぁっ……ご、御免……っ。な……でも、無い……から…………っ、」
下手な誤魔化し文句を口にすれば、彼は半身だけ振り向かせていた体を真正面から向き合うように正して言う。
「何でも無くはないから、俺を引き留めたんだろう……?」
そう言ってきた彼の声音は、やはり優しかった。
「言いたくないなら、言わなくて良い。言葉にしづらい事を無理矢理口にしなくても良い。……俺は、別に急いだりなんかしていない。だから、変に気にする必要も無い」
「……え、っと……、」
「焦らずゆっくりで良い……アンタの思ってる事、言いたい事を吐き出してみろ」
服の裾を摘まんでいた手を、するりと取られて、柔く握られる。おまけに、そっと優しく促すように、親指で触れた部分を
其れに背中を押されて、私はようやっと重い口を開いて絞り出す。
「……ちょっとだけで良いから、側に居てもらっても良いかな……って思って」
拒絶されても構わない体で、そう告げた。すると、彼は一呼吸挟んだくらいの間を空けて、頷いた。
「アンタがそう望むのなら……好きにすれば良い」
ちゃんと言いたい事を言えて偉いな、と言わんばかりに掌が己の頭の上を撫でていく。
適度に保たれた距離感が、本当に救いだった。
部屋から出てすぐの濡れ縁に二人して腰掛け、静かに黙ったまま庭先で咲き誇る華々を眺めた。無言の間が、緩やかに穏やかに過ぎていく。
そうして、暫く何をするでもなく景色を眺めてぼーっとしてから、ふと思っていた事をぽつりと吐き出してみた。
「……実はさ、私、どっか遠くに行きたいなって思ってるんだぁ」
「遠く、か……。具体的にはどの辺りまでだ?」
「んー……はっきりとは、まだ決めてない。……でも、此処じゃない何処か遠く離れた場所だったら、何処でも良いかなぁ〜って風にはぼんやり思ってる……っ」
「……そうか」
「……駄目、とかって事は言わないんだね?」
「逆に訊くが……今のアンタの台詞に、否定的な事を言う必要性があったのか?」
「……ふふふっ……そっか、咎めたりは無いのかぁ……」
漠然とした未来しか思い描けない自分の、この先に待つ運命を思うと、やはり行き着く先の答えは変わらなかった。
「……伽羅ちゃんは、優しいよね」
「其れを言うなら、アンタの方が優し過ぎるくらいに優しいだろう……。他人の事を考え過ぎて、
「ははは……っ。本当、馬鹿みたいだよねぇ……」
乾いた笑みが貼り付いたように零れた。
「――もう、疲れたや……生きてるのにも、何もかも……。全部、全部、もうどうでも良いや……」
天を仰ぐように顔を上向ければ、その顔を誰からも見られないように隠すみたいに彼の掌が被せられる。
彼と居ると、全てが気楽になれるから良かった。
「神隠しでも何でも良いよ…………私を、誰も居ない処に連れてって」
其れだけ、私の心は、精神は、とっくの昔に病み切ってしまっていたのだ。歯止めが効かない程に、静かに、穏やかに。誰も傷付けまいと抑え込んだ結果、自分自身で身を滅ぼしたのだ。
憐れというのか――否、滑稽な事だろう。
ただ一人勝手に自滅したに過ぎない、馬鹿な人間の女の末路だ。笑いたきゃ、どうぞ好きに勝手に笑ってくれ。罵倒なり、何なり、好きにするが良い。私は其れを黙って甘んじていよう。
所詮、誰かの愚痴の吐き溜め場所ぐらいにしか存在価値など無いのだから。
「……もう、生きていたくない。この世からおさらばして、さっさと楽になりたい……っ」
先程短時間にも関わらずあまりにも沢山泣き過ぎたせいか、涙は出て来なかった。けれども、その代わりに、今はとてつもなく酷い顔をしているだろう。
そんな醜い顔を、誰にも見せたくはなかったから、私は膝を抱えて蹲り、顔を伏せた。
「其れが、アンタの願いか……?」
静かに、此方の呟く言葉へ耳を傾けてくれていた彼が、そう問うてきた。私は、静かに首を縦に振った。
其れに、再びそっと掌を伸ばしてきた彼が、私の横顔へと触れ、優しく顔の向きを変えさせるようにして覗き込んでくる。
「なら……アンタのその望み、俺が叶えてやる。此れ以上、アンタが思い悩む事も苦しむ事も無いように。……アンタが望むよう、此処じゃない何処か遠く離れた処へ、連れ出してやる。――其れで良いか?」
確固たる意思を以てして見つめてくる目に、私は迷う事無く頷いた。
「……うん、其れで良いよ。其れが、良い……。どうか、お願い……今すぐ、私を解放して」
最早縋るような思いだった。彼は、そんな私の願いを聞き届けてくれたのか、一つ目だけで頷くと、真剣必殺の時にしか見られない耀きを纏わせて私を見つめた。
「念の為に訊いておく……。今の答えに、後悔は無いな?」
「……後悔なら、もう山程してきたから、今更だよ……っ」
そう笑って言った私の事を、非道く優しげな目で見つめてきたのを最後に、私の記憶はふつりと消えた。たぶん、
其れを最後に、私はとても嬉しく思った。嗚呼、漸く私は楽になれるんだね……と。