命の注ぎ方

 何処とも知れぬ、街中と言った場所からは遠く離れたような田舎の、長閑で静かな道端のど真ん中に、ぽつり、突っ立っていた。
 此処は、何処なのだろうか。気が付いたら、そんな場所に突っ立っていた。
 ぱちくりと瞬きをして、ゆるりと首を巡らし、辺りを見渡してみる。すると、嘗て暮らしていた日本らしい和の趣溢れる場所とは百八十度異なる処である事が、視覚情報として知る事が出来た。端的に言って、異国情緒を感じるような処――その道端に、何故か立ち尽くしていた。
 そういえば、今思ったが、嘗て暮らしていた・・・・・・・・とは、一体どういう事なのだろうか。私は、以前、此処ではない何処かに居たのだろうか。
 分からない。何も、分からない。
 けれど、不思議と厭な不安を抱く事は無かった。寧ろ、反対に、安心感すら抱いているような状況であった。
 何故なのだろうか。でも、まぁ、何でも良いや。細かい事は気にしない方向で行こう。
 取り敢えず、今立っている場所から移動してみる事にしようか。流石に、何処とも知れぬ道端に突っ立ったままというのは頂けない。
 棒のように突っ立った状態のままだった足を動かし始め、歩き出す。
 そういえば、何時いつから私はこんな外なんて場所に居たのだろう。まぁ、別に然程気にならないから良いけれど。
 あれ……でも、私は此処に来るまで、何をしていたのだっけ。そもそもが、どうしてあんな道端に突っ立っていたのだっけ。何の用で此処まで来たのだろう。
 一先ず、少し歩いて、周りの景色でも見ながら考えを纏めてみよう。其れからでも、此れからの事を考えたって良い筈だ。
 ぽてぽてと歩き進み、長く伸びる一本道の脇に建っていた民家の庭先へ視線を投げる。
 其処は、とても綺麗に手が行き届いた庭で、彩り豊かな沢山の花達が風に揺られていた。自然の豊かさが目に見えて分かる景色に、疲れて消耗していた心が洗われるような気がした。
 庭木にハーブなどの香りの強い花でも植えているのか、淡く良い匂いが鼻腔を擽る。思わず、入口だろう小さな門扉に手を付いて、息を吸った。途端、花木の良い匂いが肺いっぱいに満たされて、堪らず笑みが零れた。
 其処へ、眺めていた庭の持ち主であろう住民が、家から顔を出して声をかけてきた。
『――Hi there, sweetie. You like my garden? It would be admirable. This is all my wife's work. Stunning, right? It's my family's little point of pride. (やぁ、こんにちは、お嬢さん。ウチの庭がお気に召したかい? 立派なもんだろう。コレ、全部ウチのかみさんが作ったものなんだ。見事だろう? 我が家の小さな自慢さ)』
 たぶん、異国の言葉だったのではないかと推測する。挨拶的な言葉をかけられたのだろうという事ぐらいは理解出来たが、言葉の意味までを理解する事は出来なかった。
 私は首を傾げて、住民である男性の方を見つめた。
 男性は、お歳を召した方だった。人の良さそうな雰囲気で、しわくちゃな顔に穏やかな笑みを浮かべて、窓枠に手を付くようにして此方へ話しかけていた。
『Would you like to come up to my house? I just made a pot of tea. I was looking for someone to talk to. If you're not too busy, why don't you come and join me in this old man's story? (良かったら、ウチへ上がっていくかい? 丁度、お茶を淹れたばかりでね。話し相手を探しているところだったんだ。暇をしているなら、この老いぼれの話にでも付き合ってくれないかい?)」
 言葉の意味は全く理解出来なかったが、一先ず、邪険にはされていないようだし、更には何やら招かれているらしい様子であったので、素直に受け入れてみる事にした。
 手を置いていた小さな門扉を押し、庭の広がる民家の敷地内へと足を踏み入れる。そうして、導かれるまま、誰とも知らぬお爺さんの家へと招かれた。
 恐る恐る顔を覗かせた民家の中は、一見シンプルだけども落ち着いた雰囲気の、暖かみのあるお洒落な内装で纏まっていた。
 きょろきょろと興味深げに視線を彷徨わせていたら、さっきのお爺さんの奥様だろうか、此方もまたお歳を召したご婦人が奥からやって来て、にこやかに笑って案内してくれた。
『I'm sorry that my husband came out of nowhere. He would stop in my yard and invite everyone he saw to come up and take a look. and then he invites them to come up and show off their work. But thank you for being so accommodating to my husband's selfishness. I may not be able to offer much hospitality, but I just now baked some bread. You're welcome to have some if you'd like. (ウチの主人が突然御免なさいね。あの人、ウチの庭を立ち止まって見る人見る人に声をかけては、“どうぞ上がっていってくれ!”って招いて自慢しちゃうんだから、困ったものだわっ。でも、そんな主人の我が儘に付き合ってくれて有難う。大したおもてなしは出来ないかもしれないけれど、今さっきパンが焼けたところでね。良かったら食べていって頂戴な)』
 やっぱり何て言われたのかは分からなかったが、取り敢えずは適当にその場を取り繕っておく為にも相槌を打って、にこりと笑っておいた。
 すると、ご婦人は顔を綻ばせて、部屋の奥――キッチンだろう方向へと引っ込んでしまった。
 案内された部屋の出入口で所在無さげにぽつんと突っ立っていれば、気付いたお爺さんが自分の腰掛けていたソファーの斜め向かいに位置する一人掛け用の椅子へと手招き、腰を落ち着かせた。座った椅子はふかふかのソファーで、自分一人が座るには十分過ぎるくらいにゆったりと余裕があって、とても座り心地が好かった。
『Go ahead, eat it before it gets cold! It's tea brewed with tea leaves grown in our garden. This tea is one of their specialties, and it's very tasty. I bet you'll like it too. (さぁ、どうぞ、冷めない内に召し上がれ! ウチの庭で育てた茶葉で淹れた紅茶だよ。この紅茶も自慢の一つで、とっても美味しいんだ。屹度きっと、お嬢さんも気に入るに違いないさ)』
 何だかにこやかに話しかけられた事に戸惑いつつも、取り敢えずは控えめな応対として笑って頷いておく。お爺さんは、尚も変わらずにこやかに会話を続けた。
『Yup, yup, glad you like it! By the way, …… I don't see your face around here, where are you from? For sightseeing, though, you don't seem to have any baggage or anything with you……. Have you found a place to stay yet? (うんうん、気に入ってくれて何よりだ! ところで……此処等では見かけない顔だが、何処から来たんだい? 観光にしては、手荷物とか何にも持っていないようだけれど……。泊まる場所は、もう決まっているのかい?)』
 何やら一気に話しかけられてしまっている空気は察せられたが、如何せん、さっきから言葉が全く理解出来ていないのだ。故に、困惑し切った風に困った顔を貼り付けていると、奥の部屋へと消えていたご婦人がパンらしき物を乗せた皿を手に戻ってきて喋り出した。
『Hey, you, don't ask me all at once like that, you'll get her in trouble! (ちょっとアンタ、そんな一気に訊かれちゃあ、お嬢さんが困っちまうじゃないかい!)』
『Hahahahaha! Oh no, excuse me for this! I got distracted. Did I offend you out of the blue? I'm sorry. Forgive me for being an old man's joke. (ハハハハッ! いやぁ〜、此れは失礼! つい気が逸ってしまってねぇ。いきなりで気を悪くしてしまったかな? すまないね、老人の戯れとして許しておくれ)』
『He's totally already……, he's a troubled man. Please don't be offended, okay? He's like this, no matter who you are. Leave people like this out of it……Hi, fresh bread! Enjoy it while it's warm! (全くもう……っ、困った人なんだから。どうか気を悪くしないで頂戴ね? この人、誰彼構わずこうなのよ。こんな人の事は置いておいて……ハイ、焼き立てのパン! あったかい内に召し上がれ!)』
 よく分からない内に、目の前へと美味しそうな焼き立てホカホカのパンを差し出されて、コクリと頷きながら受け取る。一先ず受け取ったは良いが、食べても良いものか分からずにお皿の上のパンを指差し、首を傾げて分かりやすくジェスチャーで伝えてみた。すると、ご婦人もお爺さんもにこやかな笑みで一つ頷いたので、有難く頂戴する事にした。
 丁度、お腹も減っていた事だ。ふわふわと柔らかな生地をしたパンを両手で持ち上げ、少し躊躇った後に、そのまま真ん中から大胆にかぶり付いてみる。そしたら、忽ちバターと小麦の焼けた香ばしい薫りが鼻に抜けて、もちもちとした食感の甘みある味が口の中にいっぱい広がって、食欲を刺激した。
 こんなに美味しいパンを食べれたのは、久し振りだ。あれ、そういえば前に……最後にパンを食べたのって、何時いつだったっけ?
 あまりに美味しくて、夢中でモグモグと口の中へ押し込んでいたら、私の食べっぷりが気に入ったのだろう。大層気を良くしたらしいご婦人が、嬉しそうに笑みを浮かべて言った。
『Oh, dear, oh, dear! You must be really hungry. There's plenty more to come, so please eat as much as you like. It's just the two of us anyway, but when I cook, I tend to make too many and have too much left over, out of old habits. So I usually go out and hand them out to the neighbors……I'm glad I didn't have to do that today, since I have you, who seems to eat a lot! It's fine because we like to cook and it's fun, but we are too old to walk so much. Please, don't mind us, eat up! If you want, you could have taken the extra home as a souvenir! Let me know when you're full and satisfied. I'll bag the extras so you can take them home with you anytime.(あらあら、まぁまぁ! よっぽどお腹が減っていたのねぇ。まだまだ沢山あるから、好きなだけ召し上がっていって。どうせ私達夫婦二人だけなのに、作り出すとつい昔の癖で沢山作り過ぎて余っちゃうのよ。其れで、いつもはご近所さんに配り歩きに行ったりするんだけど……今日は、沢山食べてくれそうな貴女が居るから、その手間も省けて助かったわ! 作るのは好きだし楽しいから良いのだけど、私達も歳だから、あんまり歩けなくってねぇ。どうか、私達の事は気にせず、いっぱい食べてね! 何だったら、余った分はお土産として持ち帰ってくれてたって良いわ! お腹も膨れて満足したら、言って頂戴ね。何時いつでも持って帰れるように、余った分を袋に詰めておくから)』
 何を言われているかは不明のままだったが、その言葉にコクリとだけ頷いて、口の中の物を飲み込んでから紅茶を含んだ。
 何方もとても美味しくて、恐らくだけども、食べている間はずっときらきらと目を輝かせていたに違いないと思う。
『I'm glad you liked it. After all, my wife makes the best bread in the world! (気に入ってもらえたようで良かったよ。何せ、ウチのかみさんの作るパンは天下一品だからね!)』
『Oh my goodness, you're just being a sycophant here……! Hmmm……but I'm glad to hear you eat so well like that. They must have been hungry and in trouble. If you have no money and are in need of food, come to our house. At our house, it's just the two of us, we have extra room, and we can always have a hot meal. Don't be shy, eat up! (あらまぁ、此処ぞとばかりにおべっかかいちゃって……! ふふふっ、でもそんな風に美味しそうに食べてもらえて、私も嬉しいわ。屹度きっと、お腹を空かせて困ってたのね。お金が無くて食べるのに困っているなら、ウチへお出でなさいな。ウチなら二人だけで部屋も余ってるし、何時いつだって温かい御飯が食べれるわ。遠慮しないで、たーんとお食べ)』
『Yeah, yeah, that's good. This is a small country town, far from the hustle and bustle of the city, and no one is racist, black or white. It's a quiet and peaceful place. If you like it, by all means live here. It must be inconvenient and difficult to have no relatives and no place to stay, right? (うんうん、其れが良い。此処はしがない田舎町だが、都会のような喧騒とは遠く離れた場所だし、やれ黒人だの白人だのと人種差別する奴も居ない。長閑で静かな処さ。気に入ったなら、是非とも此処で暮らしていきなさい。身寄りも無くて泊まる宿も無いのは、不便で大変だろう?)』
『Yeah, yeah, my husband is right. It's a peaceful town. There are no tourist attractions in the area, but it is a place where you can live and have a normal life. I'm sure you'll find it comfortable and you'll love it. (えぇえぇ、主人の言う通りだわ。此処は穏やかな町よ。観光名所なんて場所は特に何にも無いような場所だけれど、普通に暮らして生活していくだけなら困らない場所よ。屹度きっと貴女も過ごしやすいと思うし、気に入ると思うわ)』
 とっても優しくされているのだろう、という事だけは何となく分かった。けれど、終始何を言われているのかが分からなくて、途方に暮れてしまい。とうとう食べる手も止まって、困ったように眉を下げ、静止してしまった。
 さっきまであんなに勢い良くがっついて食べていた手すらも止めて俯き加減になると、私が困っている様子を察したのだろう、ご年配のご夫婦は二人して顔を見合わせた。たぶん、私が此処に来て一言も口を利いていない事から、困らせてしまったのだろう。申し訳ない事をした。
 一先ず、手を付けたパンと紅茶は食べ切ってしまってからお暇させてもらう事にしよう。せっかく戴いた物だ、中途半端に残していくのは失礼だろう。
 其れに、訳も分からない人間をこのまま置いておくなんて事も憚られよう。端的に言って、此れ以上の迷惑は掛けられないと思った。
 だって、見ず知らずの人間に此処まで優しくしてくれるような良い人達だから……。出来る事なら、嫌われるような事は避けたいと思ってしまったのだ。ほんの短時間の事であろうとも。
 しかし、ずっとこうして黙って俯いたまま居る訳にも行かぬだろうと顔を上げた時、ご婦人はご主人だろうお爺さんに何やら二言三言告げて、リビングの奥へ移動してしまった。何をしているのか分からなくて無言のまま様子を窺っていたら、戻ってきたご婦人がまた数言ご主人と言葉を交わして、此方へ向き直る。
『I just called someone I know who is similar to you, from the Orient. Maybe because……our language may not be understood. First of all, let's rely on people who seem to understand the language! (今、貴女と似たような、東洋の出の知り合いの人を呼んだわ。たぶんだけれど……私達の言葉が通じていないのかもしれないから。一先ずは、言葉の通じそうな人を頼ってみましょう)』
『I am sorry for chatting with you even though I don't understand your language. It must have been very confusing, right? (言葉が分からないのにも関わらず、色々ペチャクチャと話しかけて悪かったね。凄く戸惑っただろう?)』
『I'm sorry I didn't realize it sooner. (すぐに気付いてあげられなくて、御免なさいね)』
 雰囲気からして、何だか謝られている空気なのを察した。分からないなりに、私は返事を返そうと首を横に振ってにこりと微笑んだ。
 もしかしたら、何の手荷物も持っていなかった事から、私の事情を察したのかもしれない。だが、その事に不都合は無かった。
 邪魔と思われたのならば、出て行けば良いだけ。要らぬ存在と邪険にされたならば、消えて居なくなってしまえば良いだけ。前もそうしてきただろう。……あれ、そういえば前って、どうしてたんだっけ。
 考えようとすると、もやのように頭の奥がかすみがかって、思考が遮られて分からなくなる。
 何で、私は、過去の事を何も覚えていない・・・・・・・・・・・・・のだろう。ふと、不思議に思って頭を抱えるように額に触れ、首をもたげた。
 その様子を見ていた二人は、殊更心配そうな顔をして、私の方を見つめてくるのだった。

 ――暫く、お互いの間を気まずい沈黙が降りて、どれだけの時間が経ったのだろう。
 数分の事かもしれないし、数十分の事かもしれない。兎に角、体感では其れなりに長い時間が経過した頃に、不意に来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
 その音に、いつの間にかまた俯いてしまっていた顔を上げ、部屋を出ていくご婦人の背を見送る。来客の応対に出て行ったのだろう。玄関先から、夫婦以外の者の声が聞こえてきた。其れは、流暢そうな喋りの若い男の声だった。
 程無くして、私とは別の客人を引き連れたご婦人が戻ってきた。
『I'll introduce you. He's a young man I know who lives nearby. He is a young man who just arrived recently, but he is already very familiar with this town. Her name is Kara, and I think she is from the same country as you. His skin color is completely different from yours, though. But you two have a similar vibe, and I'm sure you'll be able to communicate with him. (紹介するわね。彼は、この近くに住む知り合いの青年よ。つい最近やって来た若い人だけど、もうすっかりこの町に馴染んでいるの。名前は“カラ”と言ってね、貴女と同じ国の方の出じゃないのかと思うの。肌の色は、貴女とは全く違うけれどもね。でも、貴女達何だか雰囲気が似ているし、彼となら屹度きっと言葉も通じると思うわ)』
『Is this the person she was talking about on the phone or………?(彼女が、電話口で言っていた人か……?)』
『Yes, it is. Sorry to have you come on such short notice. (えぇ、そうよ。急な連絡だったのにも関わらずに、来てもらっちゃって悪いわね)』
『No…… I usually take care of you and your wife. It was also just when I had some free time, so don't worry about it. (いや……アンタ達夫婦には普段から世話になっているしな。丁度暇をしていた時でもあったんで、気にしなくても良い)』
 何やら今しがたやって来た客人の男性を紹介され、取り敢えずコクリと頷いて様子を窺うように静かに見守る。すると、若い男性の方から私の目の前へやって来て。目線を合わせる為か、腰を屈めて膝を付いた状態で口を開いた。
「――アンタ、俺の言葉は分かるか?」
 此処に来て初めて己の知る言葉――日本語で以て話しかけられて、驚く。此れでやっと意志疎通が取れると安堵し、大仰に何度も頷いた。
「よし。じゃあ、まずは自己紹介からするが……俺は、元々は日本の出の者だ。ちょっとした思い付きで、一度生まれた国より離れた場所へと出てみたくなったんで、この町に来ていると言ったところだ。ちなみに、俺はこの近くの家に住まわせてもらっている。所謂、“ご近所さん”と言ったやつだな……。此処の夫婦二人には、何かと世話になってるんでな、アンタの力になってくれないかと頼まれてやって来た訳だ。名前は、伽羅からでも廣光でも、好きなように呼ぶと良い」
 いきなりの流れに付いて行けずにまごついていると、彼は再び口を開いて優しい言葉をかけてくれた。
「まぁ、そう焦らなくても良いさ。まずは、ハジメマシテ・・・・・・の挨拶として、アンタの名前を知りたい。自分の名は言えるか……? もしくは、憶えているか・・・・・・?」
 そう、彼に問われて、改めて考えてみれば……自分の名前が何だったのかも分からなくなっている事に気付いた。気付いたところで、どうするという事も無いが……。取り敢えず、ハタと思い至った事実を伝えようと口を開いた。
「…………、っ……!? ……っ、ッッッ……!?」
 すると、思いもよらぬ事が起きた。言葉を発しようとするも、声が全く出ないのだ。何とか声が出ないものかと、必死に吐息を絞り出そうとするも、掠れた空気みたいなものが出ていくだけで、音として発する事が出来ない。どうして声が出なくなってしまったのか。記憶を探るも、以前の自分が何をしていたかの過去すらも思い出せず、原因は分からない。
 そうこうパクパクと空白を発するだけで喉を押さえた状態で四苦八苦していれば、状況を理解したらしい彼が苦い顔を作りながらも冷静に言葉を継いだ。
「初めから口が利けない……というよりは、“喋れなくなっている”、という事で合っているな……?」
 どうやらそのようだと、肯定を示す為に一つ頷く。其れに対して、了解したとの意で頷いた彼は、次に先程も告げたもう一つの質問を繰り返した。
「じゃあ……自分の名前は、憶えているか?」
 今度は、分かりやすいくらいに首を横に振って否定した。其れに、彼は言葉を続けて問う。
「その他は? 例えば、自分は何処に居て何をしていた、とか……其れ以外でも何でも良い。何か憶えていないか?」
 この問いにはホトホト困り、兎に角自分は何も分からないとの意を示す為に、ふるふると力無く横へ首を振った。
「記憶喪失、か……厄介だな。再度問うが、本当に何も憶えてはいないのか?」
 答えは変わらず、首を横に振るしかない。
「何一つも?」
 一辺倒なように首を振り続ける。その反応に、参ったな……とでも言うような空気を滲ませて溜め息をく彼に、私は申し訳なくなってしまい、つい口パクで“御免なさい”と口にした。すると、読唇術でも心得ていたのか、彼は其れを正確に読み取り、返事を返してきた。
「何故謝る……?」
 どう答えたら良いのか、空に人差し指を泳がせて、何か文字を書ける物が無いかをジェスチャーで問うた。此れも何となく意図を汲み取ったらしい彼は、持参してきたリュクサックの中から使いかけのスケッチブックと筆記具を取り出し、手渡してきた。どうやら、此方の意図は正しく伝わったようだ。
 早速、白いページを開いて、サラサラと日本語で言葉を書き記してみた。其れを読み取った彼は、再び口を開く。
「“迷惑を掛けて申し訳なく思ったから”、か……。別に謝らなくても良い。今のところ、俺はアンタから迷惑を掛けられたとは思っていないからな。寧ろ、そんな状態になっている事に気付いてやれなくてすまない……」
 反対に詫びの言葉を返されて、慌てて首を横に振った。その調子に、少しばかり相好を崩した彼が、僅かに口角を上げて笑む。其れにホッとして微笑み返せば、「……そうか」と言葉短めに呟いた。
 物静かな人なのだろうか。あんまり怒ったりなどはしなさそうな印象の人だった。不思議と一緒に居て気楽というか、落ち着くというか。何だか、初めて逢った気がしない・・・・・・・・・・・、といった感じの人だった。
 彼は、私の返事を聞いた後、静かに立ち上がって、後ろで黙って様子を見守っていた夫婦と向き直り、幾つかの言葉を取り交わす。彼から何言かを聞いた直後、夫婦はショックを受けたように顔色を変えて私の方を気遣わしげに見つめてきたが、また何言か言葉を交わして納得したのか、頻りに頷いて感情いっぱいに返事をしていた。
 一通り話が終わったのか、立ち位置を変わるようにして目の前へやって来た夫婦二人が、涙ぐんだ様子で何言かを私に告げてきた。
『I'm sure you've been through a lot of pain and suffering that you can't even imagine……. Don't worry, this town is made up of such people. No one will judge you, no one will pry into your affairs. Please, go in peace. (屹度きっと想像も出来ないような辛く苦しい思いをしてきたんだね……っ。大丈夫、此処はそんな者達の集まりで出来たような町さ。誰も君を咎めたりなどしないし、詮索なんて事をする奴も居ない。どうか、気を安らかに過ごして行きなさい)』
『I can't believe you can't even remember anything about yourself. How much of a shock that must have been. He may not be able to communicate with you unless you ask him to translate your words, but we will always be on your side! Even if you don't speak the language, there are so many ways to convey your feelings! I don't need any more hard feelings. If you don't have a place to live, live in this house. No one will reject you. No more suffering, let's live happily ever after. (自分の事すら何一つとして思い出せないだなんて……っ、どれだけのショックだったんでしょうね……。言葉は、彼に通訳してもらわない限り伝わらないかもしれないけれど、気持ちとしては、何時いつだって私達は貴女の味方よ! 言葉が通じなくたって、思いを伝える方法は幾らでもあるもの! もう辛い思いなんてしなくても良いわ……っ。住む場所が無いなら、この家に暮らしなさい。誰も貴女を拒みはしないわ。苦しむのはもう終わり、此れからは幸せに生きましょう……っ!)』
 意味が分からなくて、私は傍らに控えていた彼の方を見遣った。端的に、「通訳してくれ」という意味であった。
 彼は今の流れを意に介した様子も無く、淡々と夫婦の言ってきた言葉の意味を通訳してくれた。
「記憶喪失なアンタの事を、この人等は受け入れてくれるそうだ。衣食住も保証してくれるらしい。……アンタは、もう苦労せずに生きて良いんだとさ」
 何て返すのが正解か、言葉を探している内に彼が再び口を開く。
「帰る処も住む場所も無いんだったら、この町で暮らして行けば良い……。此処は、そういう町だ。小さな町かもしれないが、此れからは自分の幸せの為に生きろ……と、この二人は言っているぞ。俺としても、二人の意見には賛成だ。身寄りの無いアンタの事を一人追い出す程、冷たい人間も居なければ、後ろ指指すような“ロクデナシ野郎”も居ない。……最終的には、アンタ次第だ。好きに決めろ」
 彼はそう言って口を閉ざし、私が答えるまでをゆっくりと待った。
 私は、その言葉に促されて、一つ決意を固めて、スケッチブックへと思いを綴って見せた。
「ん……“有難うございます。私なんかの存在を受け入れてくれて、本当に感謝致します。皆さんの言うように、私には何処にも帰る場所が無い為、心機一転する為にも、この町で気持ちを新たに生きてみようと思います。何も覚えてはいませんが、その分全てが新鮮に感じる事が出来ると思うから……前向きに、また、生きてみようと思います”……か。嗚呼、其れで良いんじゃないか。分からない事があれば、俺が助けになろう」
 彼の読み上げに、ハタ、とまた何かに気付いて目を瞬かせた。今、何とは無しに書いた“また”とは、どういう事なのだろう……と。
 屹度きっと、忘れてしまった記憶の中で似たような事があったのかもしれない。そんな風に思う事にして、今はあまり気に留めない事にした。
 私の思いを綴った言葉の意味を、彼が通訳して夫婦の方へと伝える。すると、心優しい二人は、私の手を取って大いに喜んでくれた。
 そして、食べかけだったパンを勧められ、私は再びパンに囓り付くのだった。空っぽになっていたカップには、おかわりの紅茶が並々と注がれる。さあ、お茶の時間の続きをしようという流れとなって、招かれた彼も一緒に紅茶とパンを頂いた。
 何だか、凄く久々に心穏やかな時間を過ごせたようだった。


 ――其れからというもの……。
 私は、新たな名前を名乗る事になった。元の名前は、過去の記憶として忘れ去ってしまっていたからだ。
 よって、新しい名前は、日本人らしい雰囲気をという事で、葵と決まった。名付け親となった彼――伽羅が付けてくれた名前だ。不思議と馴染む感じがして、とても気に入っている。
 取り敢えずの仮住まいの家は、夫婦二人の家に決まった。勿論、衣食についてもバッチリ保証付きである。だがしかし、言葉の通じない環境での生活は大変だろうという事で、一通りの準備が整ったら伽羅の家に住まわせてもらう事が決定している。曰く、どうも一人で住むには広過ぎる家だから……、だそうだ。私にとってみれば、衣食住に困らないというだけで万々歳である。
 生活が落ち着いたら、何処か働ける場所が無いか探してみるのも良いだろう。其れまではゆっくりと身を落ち着けるように、と夫婦に諭された。どうやら、二人から見て、私はだいぶ窶れて痩せ細った風に見えたらしい。全く自覚が無かったが為に半ば押し切られるように諸々を取り決められたが、まぁ特に此れといった不満は無いので、すんなり受け入れている。
 一日三食も温かくて美味しい御飯が出てくるし。服に至っては、ご婦人の昔着ていた古着や嘗て一緒に暮らしていたと言う娘さんの置いていった服を貰えたし。更には、ちゃんとしたお風呂にも入れて、ふかふかのお布団のベッド付きと至れり尽くせりだ。
 おまけに、部屋が余っているからと、私専用に部屋一つ分を丸々と貸し与えてまでくれたのだ。此れで文句があるというのなら、“何て贅沢な奴なんだ!”と思うところである。
 文句の付けようなんて無いくらいに尽くされた、幸せな限りだった。


 ――其れからまた少し経ち、此処での生活にもすっかり慣れた頃……。
 もうじき、彼の家へと住まいを移せそうだと知らされた、ある日、彼は私に訊ねてきた。
「なぁ、葵……アンタは、此れからはずっとこの町で暮らしていくのか?」
 今やすっかり日常となった筆記での遣り取りに、慣れた手付きでスケッチブックへと筆を滑らせる。そうして、私が一頻り文章を書き終えると、彼が其れを読み上げる。
「“今のところは、そのつもりで居る予定。何故ならば、私には、此処以外に住む場所なんて無ければ、いつか何処かで別の場所に移すというつもりも無いから。暫定的に、此処に居る事になると思う”……か。なら、いっその事、ずっと俺と共に暮らしてみないか……? 俺ならば、アンタと意志疎通が出来ないなんて事にはならないし、持ち得る感性も似ていて理解もしやすいと思う。……どうだ、悪い話じゃないだろう?」
 彼の提案へと返事を返す為、再び筆を取り、文字を書き記していく。書き終えるなり、彼が読み上げやすいようにと掲げて見せると、彼はその通りにした。
「“とても素敵なお話だと思う……。けども、私は、何も覚えていない分、きっと沢山迷惑かけてしまうよ”……と。其れについては、全て初めから理解した上での話だ。俺は、アンタの……アンタ自身の本当の気持ちを知りたい」
 ――私の、本当の気持ち……?
 私は首を傾げて悩んだ。
 伽羅は、何時いつだって急かさず、私が答えれるようになるまで辛抱強く待った。優しく先を促しすみたいに、真っ直ぐと私の事を見つめて。
 ……そんな彼に、惹かれない訳がなかった。
 時間としては、とても短い時間だったかもしれないけれども、出逢ってから濃厚な時を過ごした分、例え短かったとしても信頼を抱くには十分な期間だったと思う。故に、私は思い切った決断を下した。
 新たに筆を取って書き記した言葉を――思いを、彼へと伝える。
「……“もし、私なんて人で良いのなら、どうか、此れからもずっと伽羅の側に居させてもらえたら……其れ以上に幸せな事は無い”……か。――俺は、アンタが笑っていてくれさえいれば、俺は其れだけで十分幸せなんだよ」
 切なささえ滲む笑みを浮かべて返してきた彼に、私は再び言葉を綴った。
「“じゃあ、おんなじだね”……か。嗚呼、そうだな……俺とお前は、此れからも一緒だ。お前が望む限り、何時いつまでも、何処までも、ずっと…………」
 隣に居る彼が、控えめに私の手に触れるから、私はその手に応えるように触り返すと。彼の手がそっと私の手に絡んできて、優しく隙間無く繋がれる。
 何処かで見た事のあるような、龍の尾っぽの描かれた刺青の左腕が、その手の先に伸びていた。今みたく触れてくる彼の手の感触は、ずっと前の昔から馴染んでいたようにあったかくて、心地が好かった。
 何もかも忘れてしまったけれど、幸せを享受出来る日々が訪れて、心穏やかな暮らしであった。
 そうやって、私の……葵としての新しい生活は始まったのであった。


執筆日:2021.03.22
加筆修正日:2023.01.27