大天使ミカエル・T


 不思議な話だと思った。同じ夢を何度と見るのだ。
 普通、一度見た夢はその一度切りだけで、二度同じものを見る事は稀だ。だが、私は、その稀な経験をした。其れも、一度や二度じゃない。幾度という数回に渡って同じ夢を見た。
 何故、同じ夢を見ているのかと気付いたのか。其れは、或る時になって気付いたのだ。似たような夢を見た、二度目辺りだった。夢を見ている最中にふと、“あれ……私、この間も同じ夢見なかったっけ?”と思ったのだ。夢の中で見た内容が、前に一度見た内容とそっくりだったからだ。故に、自分は一度見た夢と同じ夢を見ているのだと気付いた。しかし、起きた後に思い出そうとしても、見ていた夢の内容は上手く思い出せない。何となく“こんな夢だったかなぁ……?”という印象は残れど、はっきりとは覚えていない上に、やはり朧気にしか思い出せない。何故ならば、其れは夢の話だからだ。寝ている間に見るものをそうはっきりと覚えていたら、其れは起きているも同然である。まぁ、余程強く印象に残るような内容の夢だったならば、覚えていても不思議ではないが。兎に角、同じ夢を何度と私は繰り返し見たのだ。
 その夢では、気付いた時、いつも私は石畳の敷かれた道を歩いていた。外国のような街並みをしていた。決して広くはない道だったが、石畳の通路を挟んだ側には小さな店が建ち並び、お店のウィンドウに反射し映っている自分の歩く姿を、通りすがりの視界の端に見た。そして、何処かへと向かうのだ。行き先は知らない。けれど、確かな目的を持って何処かへ向かっていた。気付けば、場面は移り変わっていて、水辺……川か何かだろうか、橋のように架かる飛び石の上をぴょこぴょこ跳ねるように飛び移って渡っていく。そしたら、恐らくきっと目的の場所へ辿り着くのだ。何故そう思うのかは、飛び石の上を渡った先が己の向かう先であったからで、其処で誰ぞと逢うのである。“恐らくきっと”と表現したのは、渡った先の夢の内容を知らない、もしくは覚えていないからだ。夢から覚めて起きた時には、いつも記憶は朧気で、確かに見ていた筈の夢の内容をはっきりとは思い出せなかった。夢なのだから仕方のない事だ、と言われれば其れまでであるが。何とも不思議で、何とも腑に落ちぬ話であった。

 そんな事が続いた、とある日の事である。いつもは覚えていない夢の先の続きを見たのだ。石畳の街並みを横目に見つめながら道を進み、飛び石の上をぴょこぴょこと飛び移って渡った先の話だ。またもや石畳の敷かれた道が現れた先に、開けた場所が広がっていた。其処には、遺跡のような何かの建造物の跡が遺されていて、陽の射すその中心辺りの所に誰ぞ立っている姿が見えた。身の丈や体躯から見て、たぶんだけれども男性のように思えた。顔は逆光になっていて、よく見えない。しかし、男性はきっと穏やかににこやかな笑みを浮かべて此方を見つめているのだ。その視線には、親愛以上の慈しみの込もった熱を感じた気がした。逆光で見えない筈なのに、どうしてそんな風に思えるのか。其れは、彼が此方側へ向かって手招くように優しく手を差し伸べてくるからだ。夢の中の私は、その手に誘われるように陽の射すその場所へ足を踏み出していく。そして、彼の手を取って、彼の顔を真正面から見つめ直すのだ。そうすると、逆光でよく見えなかったが、彼のにこりと微笑む口許が見えた。真正面から改めて見つめ直してみても、やはり逆光のせいで顔全貌は分からなかったが、男の髪が綺麗な金髪をしている事だけは分かった。太陽の光を受けてキラキラとまばゆく光り輝く様は、まるでお伽噺に出て来る天使様の如く美しかった。その綺麗な姿と美しさに見惚れるように見つめていたらば、彼がクスリ、と笑った気がした。そうして、微笑んだのちに、その腕へ愛しげに私を抱き竦めるのだ。まるで、もう離しはしないとでも言うみたいに、情熱的に抱き締めて腕の中へと閉じ込める。なんてドラマチックな場面なのだろう。半ばそんな風に、他人事のように客観的に眺めていた。

 ――そんな良いところで、夢は覚めてしまった。ちょっと残念であった。出来る事なら、もう少しだけ、あの情熱的でドラマチックな夢を味わっていたかった。何故ならば、夢に見たような経験を実際の現実上ではした事が無かったからである。故に、どうせなら最後の最後まで見たかったな……と思ってしまった。
 だが、所詮は夢の話なのだ。そう何度と同じ夢を繰り返し見る事自体稀なのだから、続きを見れただけで良しとしようじゃないか。その時の私はそう思う事にして、ベッドから出て朝御飯を食べる支度をする事にした。
 今日も変わらぬ日常があるのだ。社会人たるもの、仕事が待っている。遅れる訳にはいかないと、せっせと支度を済ませては家を後にしていく。取り敢えず、今日も良い夢を見れたと、休憩時にでも同僚の友人へ話そう。今日はどんな一日になるだろうか。どうせ、いつもと代わり映えのしない日となるだろうが。そんな事を思い抱きながら、私は勤め先の会社へ出勤するべく、最寄りの駅を目指した。
 そして、一度ある事は二度ある……というように、急ぎ足で歩いていた私は、会社近くの駅の歩道橋を降りていた途中で足を滑らせた。まだ階段を降り始めて数段目の高さだった。うわ最悪だ、とこの先に待っている展開を予測しつつ、宙に浮く体の体勢をなるべく崩さないように保って、足が着くまでを構える。周りの人間は、あからさまに嫌な顔をして、巻き込まれないようにと避けていく。嗚呼、ハイハイ御免なさいねドジ踏んじゃって。せめて巻き込まれないように避けといてくれ頼むから。自身の顔すらも歪めながら、早くこの嫌な瞬間よ終わってくれと願った。その時である。
 最後の二段目、一段目辺りになって漸く地に足が着地出来そうかとなった刹那、目の前に現れた人物に抱き留められた。驚きのあまり、受け止められた事で受けた衝撃よりも、其方の方に吃驚してしまって声も出なかった。人間、驚き過ぎると声が出ないとか絶句するとか言う話は本当だったんだな。……なんて明後日な方向へ思考を飛ばして呆けていたら、見事キャッチしてくれたらしい人物が私の身を地に降ろして、無事を問いかけてくる。
「大丈夫ですか!? 何処か、お怪我をなされたりなどはありませんかでしたか……っ!?」
「え……あ、や、いえっ……だ、大丈夫、です……っ。何処も怪我してません……」
「其れは良かった……っ。突然空から女性が降ってくるものですから……思わず、天使でも舞い降りたのかと思ってしまいましたよ」
「あ、ははは……っ、ご冗談がお上手ですね……!」
「これからは気を付けてくださいね。この時間は通勤通学客の多い時間帯ですから、他の方が巻き込まれなくて良かった……っ」
「ええ、本当に……っ。自分の不注意から大変な事故に巻き込んでしまうとか、冗談にもなりませんもの……! 受け止めてくださった貴方も無事で本当に何よりでした!」
「私の事はお気になさらず……。貴女が無事であったなら何よりです。どうか、お体は大事になさってくださいね。それでは、私は此れで」
「アッ、ハイ! この度は、助けて頂き有難うございました……っ!!」
「礼には及びませんよ。貴女に怪我が無かった事が何よりですから」
 そう言って、私を助けてくださった外国人男性っぽい方は、駅を利用する為に去っていった。まるで夢みたいな出来事に、暫くその場で放心してしまっていたが、自分の目的を思い出し、ハッとして腕時計の時間を確認した。歩道橋の階段から落ちる云々があったせいで、予定時刻よりも少し遅れてしまっている事に気が付く。私は慌てて駆け出し、会社までの道のりを急いだ。其れが、今朝にあった一連の出来事であった。
 昼休憩の時間、御飯のお供に語ってみせた話に、同僚である友人は苦笑を浮かべて某珈琲ショップで購入したドリンクを啜る。
「朝から災難だったわねぇ〜、アンタ……。でも、無事に済んで良かったじゃない? 夢みたいな体験までしちゃってさ。普通無いよ? そんな如何にもな漫画みたいな展開」
「うん、普通は無い無い……っ。大抵の人が避けて巻き込まれないようにすんのが当たり前の流れだもん……っ」
「でも、偶々助けてくれたその人はそうではなかったって訳だ」
「そう。一瞬話した程度ですぐ別れちゃったからよく見てなかったけども……何か見た目外国人っぽい男の人だったよ?」
「へぇ〜、綺麗系だった? それとも格好良い系だった?」
「うーん……何分、盛大に階段から落ちた衝撃とキャッチされた衝撃とが大きくて其れどころじゃなかったから、よく分かんない……っ」
「まぁ〜そりゃそっか。御礼言った時、名前とかは訊いたの?」
「いや、其れが、その時マジでそんな余裕とか無くてテンパりまくってたから、御礼言うだけで精一杯だった……。あの時の人、巻き込んでしまって本当に申し訳ない……っ!」
「ん〜、其れは惜しい事したねぇ……! だって、もしかしたら、運命の出逢いを果たすチャンスだったかもしんないんだし……っ!」
「いや、現実じゃあ其れどころじゃなかったからね……? ただでさえ階段の上の方から落ちたって事に色々必死だったんだから……っ。おまけにそのせいで出社ギリギリになるし……朝からめっちゃ焦って疲れたわぁー……っ」
「ハイハイ、お疲れさん。けど、アンタのそのドジっ子なとこ、マジでどうにかした方が良いわよ? 今回は運が良かったから無事に済んだものの、次もそうなるとは限らないからね?」
「ウッス……気を付けまっす……」
 そう言って、項垂れていた頭を上げて、止めていた食事を再開する。近場のコンビニで買っただけのお握りに食らい付き、モグモグとのんびり咀嚼していたらば、隣でサンドイッチを食べていた友人が再び口を開いてくる。
「ねぇねぇ、そういえばあの例の夢の話、どうなった?」
「えっ? 御免、何て……?」
「アンタが前に話してくれた、同じ夢を繰り返し何度も見てるっていう、不思議な話の事よ〜! あれから何か進展あったの?」
「あぁ、その事か……っ。其れなら、今回あの続きっぽいのを見たよ〜」
「どんな内容だったの!?」
 話の内容に興味津々なのか、いつもお昼を共にするその女友達は、食い気味に問うてきた。私は満更でもなさげに例の夢の続きを見た話を伝えた。いつものように、外国のような場所である石畳の街並みを横目に見つめながら、飛び石のある川辺を渡って、その先を目指した先で、遺跡のような場所に辿り着き、其処で誰か男の人っぽい人が立っていた事を……。そして、夢の中の自分は、その人に手招かれるままにその場所へと足を踏み入れ、その男性と思しき人に情熱的に抱き締められたのだと。まこと、夢のような話であったと語り終えると、友人である彼女は興奮気味にはしゃいで肘鉄を食らわす勢いでつついてきた。地味に痛い其れを回避するように身を引けば、代わりに腕を掴まれて興奮に輝く目を向けられる。
「何ソレ、超々ロマンチックな展開じゃない!? やだぁ〜! アタシもそんな夢見てみたぁ〜いっ!!」
「でも、本当不思議なんだよなぁ〜この夢……。いつも唐突に始まったかと思えば途中で終わるみたく目ぇ覚めちゃってさ……。まぁ、話の続きが気にならないとは言わないけれども……普通、そんな何度と同じ内容の夢見るかなぁ〜……?」
「もしかしたら、アンタ何かに憑かれてるのかもね!」
「やだ! 縁起でもない事言わないでよ、もぉ……っ!!」
「でもさでもさ? その夢に出て来る男性とリアルに現実で出逢えたら、もう運命的以上の話じゃない……っ!?」
「いや、無い無いそんな夢物語……っ。あったら、今朝あったみたいな最悪な事件とか霞んじゃうから。私にゃ、もう二度と歩道橋の階段から落ちないようにする事だけで手一杯だから……」
「二度ある事は三度あるってね!」
「ヤメロ! そういう事言うの……っ! 冗談にもならないからマジでやめて!!」
 なんて非難したのが、今日のお昼の出来事で……。
 その夜に、また例の夢を見る事になろうとは思わなかった。


 ここ最近、夢を見る時は、決まって同じ夢を見た。例の不思議な夢だ。外国の雰囲気漂う石畳の街並みを行き交う人々を横目に見ながら、外国情緒溢れる景色を楽しむ。そして、飛び石の架かる川辺を渡り、また少し石畳の道を進んだ先で、昨日見た続きの場所が現れるのだ。
 遺跡のような建造物の跡地である其処は開けた場所になっていて、美しき天使様のように佇む彼以外に人は誰も居ない。まるで、その場所だけ空間を切り取ったみたく幻想的な光景であった。射し込む陽の光を受けて、美しく耀く金の御髪おぐしは絹糸のようだ。そうして見惚れていたらば、此方を見た彼は逆光に見えぬ顔を蕩けさせて微笑むのだ。次いで、いざなう如く私へ向かって手を差し伸べてくる。「此方側へおいで」と手招くように、優しく慈愛に満ちた視線と共に。
 私は其れに抗う事無く、少しの石段を駆け上っていく。昨夜の夢では見られなかった物だ。何だか、回を重ねる毎に夢の景色は鮮明さを増しているように思えた。最後の一段を上り終えるというところで、私はつまづいて、体勢を崩しかけた。咄嗟に、「あっ……!」という声が漏れた気がした。無様にも地に手を付いてしまう……という瞬間、夢の中の私の体は誰かに支えられていた。勿論、此処に居た人間でそんな事が出来るのは、彼以外に居ない。私は慌てふためいて謝罪の言葉を口にした。けれど、彼は一切気にしていないという風に私を立たせると、口許の笑みを少しだけ崩して口を開いた。
「――Είσαι πολύ χαλαρός……. Λοιπόν, αυτή η χαζομάρα είναι επίσης αξιαγάπητη. (貴女は本当に気の置けない人だ……まぁ、そんなおっちょこちょいなところも愛らしいですが)」
 何て言ったのか、一切理解出来なかった。度々耳にする機会の多い英語や中国語や韓国語、イタリア語やフランス語でも無かったように思える。一体、何処の国の言葉だろうか……。初めて耳にした彼の言葉に、呆然としながら彼の手を握っていれば、其れに気付いた彼が口許へ人差し指を翳して笑みを深める。
「Shhh――…ッ」
 まるで、今聞いた事は聞かなかった事にしてくれ、または内緒だよ、という風に捉えられた。一先ず、私はそう解釈して頷き、一瞬自身の口を覆い隠した上で、改めて口を開き、礼の言葉を口にする。
「――Σας ευχαριστώ. (有難う)」
 その時、私の口から飛び出たのは、またも外国の言葉と思しき言語だった。私は内心で大層驚いた。どうして、私まで喋れぬ筈の国の言語で話せたのだろう。訳が分からなかったが、きっと夢の中の事だからなのだろうと思う事にした。だって、所詮は夢の中の出来事だ。夢というもの程、何でもありな空間は無い。私はそう思う事にして、彼に笑みを向けた。
 そしたらば、逆光でよく見えなかった筈の彼の顔が、此方を支える為に少し屈んでいたからか、乱れて落ちたのだろう前髪に隠れがちになりながらも一瞬だけ見えた。綺麗な蒼い瞳だった。金糸の髪の影の下、一瞬だけ見えた片目は、とても澄んだ美しき色をした瞳だった。まるで、宝石のようにさえ思える美しさは、天使様のように美しい彼にぴったりなものだと思った。口許だけしか見えぬものと思っていた彼の新たな一面を知れて、私は嬉しく思った。
だからだろうか……。夢の中の私は大胆にも彼へ迫る仕草を見せた。逆光で一瞬しか見えなかった彼の瞳を、美しき顔の半面をもう一度見たいと、せがむように彼の左頬へ手を伸ばし触れて言う。
「ねぇ、お願い……もう一度だけで良いの、貴方の美しい顔をよく見せて頂戴?」
 今度はまごう事無き日本語であった。嗚呼、良かった。でないと、私が私でなくなったみたいに思えて落ち着かなかったから……。
 しかし、彼はその願いを拒むように私の手を掴むと、ゆっくりと優しく引き剥がし、ふるふると首を横に振った。そして、応えられぬ代わりに、せめてものお詫びだと言わんばかりに指先へと触れるだけの口付けを落とした。
 其処で私は察してしまった。彼は、先に発した言葉以外に言葉を発する事は出来ないのではないのか、と……。もしかしたら、彼とは此処でしか逢う事が叶わないのではなかろうか。其れならば、今までの不思議で奇妙な流れは頷ける。誰も居ない、ひっそりとした静かな場所へ、彼と逢う為だけに訪れる。なんてロマンチックなお話だろうか。
私は一人頷き、其れ以上の口は開かぬという風に微笑み、言葉を交わす代わりに彼を求めた。彼は其れに応え、昨日の夢で見た時同様に熱い抱擁で私を包んだ。その時、ふと僅かであったが、淡くも甘い匂いが鼻先に触れた。彼の匂いだろうか。香水のようにかおった馨りは、私の好むタイプの匂いだと思った。ますます夢のような話だと思った。夢だけに。

 其処で夢は途切れ、私は目を覚ました。ぼんやりと移ろう頭の端で、アラームを告げるスマホの音楽が鳴り響いていた。私は音楽を止め、ベッドから起き上がり、欠伸を零しながら洗面所へと向かう。今日も仕事だ、会社へ行く日だ、代わり映えのしない平日だ。未だ夢の余韻を引き摺る頭を起こすべく、冷たい水で顔を洗った。寝惚けていないで、さっさと身支度を整えて、朝飯を食べて出掛けなくては……っ。電車の時刻に遅れてしまう。一分一秒の遅れが会社への遅刻になり兼ねんと脳内を占めていく。手早く用を済ませながら、時計を確認し、出掛ける準備を整えていく。そうして、いつものルーティンをこなして、家を後にする。
 さぁて、今日も仕事だ仕事だ……っ。最寄りの駅へ駆け込み、時間通りの電車へ乗り、目的地まで揺られる。会社近くの駅へと着いたら、改札口を通って歩道橋を目指す。例に漏れず、いつも使っている歩道橋へと差し掛かると、昨日友人と交わした言葉が脳裏に甦った。
 『二度ある事は三度ある』とは、有名なことわざである。まさか、そんな……ある訳無いだろうと、高を括って階段を降り始めた時である。急ぎ足でもしっかりと気を付けて階段を下っていた足を滑らせたのだ。デジャヴである。私は血の気を引かせ、咄嗟に階下の状態を確認した。またもやという具合に、側を通っていた人達は皆一様に迷惑そうな顔を張り付けて、横へ端へと露骨に避けていく。其れで良い。巻き込んで大変な目に遭わすよりかはよっぽどマシだ。何せ、事故っても自分が怪我するだけで済むからだ。着地を失敗しないよう、足元へ力を込めて着地に備える。昨日が例外なだけで、普通なら先日のように、結果足を挫く事になろうが自分一人の力で何とか着地したのだ。頼むから、上手く着地出来ますように……!
 願いは届いたかのように、足元が地面に触れた感覚を掴んだ。最後の一、二段目の辺りでの着地だったが、何とか上手くいった。けれど、その後の勢いを殺せず、駆け足気味で数歩歩いた先で小石に爪先が当たり、つんのめった。このまま行けば、硬いコンクリート地面へ盛大にダイブである。私は受け身を取るべく、両手を前に突き出した。もうじき地面とガチ恋距離だと覚悟した瞬間、第三者の手が私を受け止めた。私は、衝撃に息を詰めて目を瞑る。直後、頭上から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――Είσαι πραγματικά επικίνδυνο άτομο……. (貴方は本当に危なっかしい人だ……っ)」
 今朝方まで夢で見た人の声とおんなじであった。私は「えっ」と思い、耳を疑った。次いで、夢の時のように流れるような手付きで私を立たせてくれると、その人は言った。
「どうも、昨日お逢いしたばかりでしたね。またもや飛んだ出逢い方で以てお逢いしてしまいましたが……お怪我はありませんでしたか?」
「え……あ、はい……っ、お陰様で、無事に済みました……。あの、二度も助けて頂き、有難うございます……っ」
「いえいえ、此れくらいの事気にしないでください。貴女が無事であったのなら、其れで良いんです」
 にこりと微笑んだその人は、そう言って私の無事を心から喜んでいる風に安堵の表情を見せた。私は半ば呆然と助けてくれたその人の顔を見つめながら、呟いた。
「夢で見た天使様に似てる…………?」
「えっ……?」
「あっ……いや、その、な、何でも無いです……っ! 気にしないでください!」
「そうですか……。其れにしても、またとなく貴女とお逢い出来る機会があって幸運でした。まぁ、貴女の方はまたも危なげなところでしたが……っ」
「いや、本当に仰る通りで……っ。初対面の方に対し、お恥ずかしいところばかりで申し訳ない限りです……!」
「見たところ、またもや階段から滑り落ちたかのように見えましたが……?」
「ええ、ハイ、まぁ……その通りでして……っ。何とか着地は成功したものの、勢いまでは殺せずにすっ転びかけていたところを、貴方に救われました、という感じでして……。二度にも渡って飛んでもないご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございませんでした……ッ!」
「嗚呼、いえ……私の方は本当に気にしておりませんから。貴女に怪我が無く済んで良かった……っ。あの、本当に怪我は無いんですよね……?」
「えっ? あぁ、大丈夫ですよ。もし何かあったとしても、足首の捻挫くらいですから……其れくらいの怪我なら、最早日常茶飯事なので慣れっこで……、」
「其れはいけません! 捻挫も放置していては大変な事になるんですよ! 体は大事にしませんと……っ! ――嗚呼、彼処に丁度ベンチがありますね。念の為、彼処で診ておきましょう。万が一があっては大変ですからね」
「ええっ……!? あの、本当に大丈夫ですから……っ! というか、あのっ、電車間に合わなくなっちゃいますよ!? 会社に遅刻したら、其れこそ大変というか、私が申し訳なくなるので、気にしないで行ってください……っ!」
「貴女の事以上に大事な事などありません! さぁ、私に掴まってください。無理に歩かせて悪化しては大変ですから……っ」
「いや! あのっ、本っ当〜に大丈夫ですんで! 構わないでくださいってば……! お願いですから、私の話を聞いて……っ」
「貴女に怪我があってからでは遅いんですよ! ごねる前に、早く怪我の有無を確認させてください! そうでなくては私の気が収まらないのです……!」
 いきなりの大声に吃驚して固まってしまえば、その人はハッとして気まずげに目を逸らし、溜め息を吐き出してから、改めて口を開き直す。
「すみません……っ、いきなり大声で怒鳴ったりして……。私の事はお気になさらず。最悪、タクシーを飛ばせばどうにかなりますから……。其れよりも、貴女の身の心配をさせてください」
「えっと……私こそ、意固地になったみたく言っちゃってすみませんでした……。でも、本当、挫いた程度なら慣れっこなので、ご心配には及びませんよ……?」
「其れでも、一応は確認しておきたいのです……。どうか、私のお願いを聞き届けてくださりませんか……?」
「えーっとぉ……じゃあ、分かりましたので……彼処のベンチまで行きましょうか。あ、別に自分で歩けますので、結構です」
「そうですか……」
 再び私の身を抱えるかどうこうしようと伸ばされた彼の手を制しながら、近場のベンチまで歩いていく。其処に腰掛けると、止める前に跪いた彼が一言断りを入れて私の左足を持ち上げる。そして、靴を脱がせ、自身の片膝の上に乗せると右や左へと足首を柔く曲げて動きを診た。
「痛くはありませんか……? 痛かったりしたら、遠慮せずに言ってくださいね」
「ア、ハイ……今のところ、何とも無いです」
「そうですか。では、もう片方の足も念の為診ておきましょうか。……右足、失礼致しますね」
「……あの、今更かもしれないんですが、どうして貴方は其処まで私を気にかけるんでしょうか……?」
「ふふふっ……愚問ですね。貴女の事が心配だからですよ」
「えっ……其れだけですか?」
「其れだけで十分な理由となりますよ」
「いや、でも……私、まだ貴方のお名前すらも知らない立場の人間ですし……」
「……此れは失念しておりました。そういえば、自己紹介もまだの段階で私達は会話を続けていましたね……。其れは不審がられても仕方がありません。失礼……っ。私の事は、“ミハイル”とでもお呼びください」
「ミハイル……って言うんですか?」
「此方の言語に合わせて言えば、になりますかね。貴女のお名前の方は、何て言うのでしょうか……?」
 そう、綺麗な顔を向けられて上目遣いで訊ねられ、私は一瞬「う゛っ、」と喉を詰まらせた。そんな綺麗な人に真っ直ぐと見つめられた事も、丁寧に名前を訊ねられた事も無かったせいである。端的に言って、免疫の無さから来る故の反応だ。私は顔に熱が集中してくるのを感じながら、控えめな声でボソリと告げた。
来栖くるす真希まき……です。改めまして、宜しくお願い致します……っ」
 平凡な名前だと思った。けれど、彼は私の名を聞いた途端、とっても嬉しそうな表情を浮かべて笑ったのだ。涼しげな切れ長の目尻を緩ませて、花が綻ぶみたいに美しく。まるで、お伽噺に出て来るような天使様みたいに笑うから、私は驚きのあまりに一瞬惚けてしまった。瞬きすらも忘れてその表情を魅入っていると、彼はクスリ、と微笑み、私の頬へ触れて言った。
「そんなに見つめられてしまいますと、勘違いしてしまいそうですよ……? まぁ、貴女になら、どれだけ熱い視線を送られようと構いませんが」
「へっ……!? や、あのっ、すっ、すみませんでした……っ!! 貴方が、その、あまりにも美しく微笑むから……っ、つい、見惚れてしまいまして……! って、私、何言ってんだかって話ですよね!? ハハハッ……その、今言った事は忘れてください……っ」
「ふふっ……出来れば、私の事は“ミハイル”とお呼びください」
「えっ、あ、えと……ミ、ミハイル、さん……?」
「はい。私の方も、貴女の事を“来栖”とお呼びしますので……。此れで、私と貴女は赤の他人ではなくなりました。ですから……これからは、遠慮せず、何かあれば私の名をお呼びください。何処へでも駆け付けて差し上げますから……」
「ひえっ……! イケメン力凄まじ過ぎて目が潰れそう……っ!」
「はい?」
「あっ、いえ何でも無いです! こっちの話です、気にしないでください……!」
 一先ず、足も無事何とも無かった事を確認し終え、お互い揃って立ち上がった。そして、改めて礼を述べつつ、時計の時刻を確認すれば、出社時刻まであとギリギリという時刻になっていた。私は顔面蒼白になって急いでその場を後にする事にした。
「すみません!! 会社に遅刻しそうなので、私は此れで……っ!! ミハイルさんも急いだ方が良いですよ……!」
「ご心配有難うございます。それでは、来栖もお気を付けて」
 最後の方はほとんど聞いておらず、私は慌てて会社までの道のりを猛ダッシュで駆けていった。もう必死過ぎて、ヒールの付いたパンプスを履いていようがお構い無しであった。よって、盛大にカツカツと音を響き渡らせながら駅からの道のりを走った。その後、別れた後のミハイルさんが会社に間に合ったかどうかは不明である。何故ならば、お互い漸く名前を聞き合っただけで連絡先の交換などまでする余裕は無かったからだ。主に、私の方は、だったかもしれないが……。
 兎に角、全力疾走で猛ダッシュしたお陰か、会社にはギリギリ遅刻せずに間に合った。息は絶え絶えで朝からビッショリ汗をかくわ、せっかくセットした筈の髪もぐちゃぐちゃに乱れてしまうわだったが……まぁ、ギリ何とか間に合ったのだから良しとしよう。明日以降、筋肉痛になるかもしれないけれども。
 ギリギリの出社を果たした私の様子を離れた席から確認したらしき同僚の友人は、その日の休憩時間、あからさまに驚いた口調で話しかけてきた。
「やっほー、真希〜。アンタ、朝珍しくギリギリだったけど……どうしたの? 何かあった?」
「其れが……アンタが昨日予言したみたく、二度ある事は三度あったって話でね……っ」
「えっ、嘘、アンタマジでまた歩道橋の階段から足滑らせた訳?」
「いや、まぁ……何とか着地には成功して事無きを得たんだけどね……? 問題はその後でさ……着地には成功したものの、勢いまで殺す事は出来なくって、駆け足気味のまま走ってたら足つんのめっちゃって、危うく地面へ顔面ダイブするところだったわ……。其処を、またもや通りがかりの例の人が助けてくれてねー……寸でのところで回避したって訳ッスよ」
「無事に済んだなら良かったじゃない。なのに、何でアンタ朝からそんな疲れた顔張り付けてんのよ?」
「いやな……助けてもらったまでは良かったんだよ……。けど、その後が、足挫いてないか否かで揉めて、こっちは平気だから大丈夫だって言ったんだけど、“何か心配で気が気じゃないから本当に怪我してないか確認するまでは離れません!”って感じに言う事聞いてくれなくて……仕方なく、ベンチまで歩いていって診てもらったって訳……。そうこうしてたら、時間ギリギリになってて、慌ててお別れして、駅から猛ダッシュしてきたのよ〜……っ。もう、朝から全力疾走とかマジ勘弁願いたいんだけど……。お陰で、結局足挫く羽目になったし……まぁ、慣れてるから良いけどさぁ……っ」
「何つーか、御愁傷様としか言い様が無いわね〜……っ。朝からお疲れ様です」
「本当もう無理……挫くのは平気だけど、靴擦れ起きんのは嫌だから……っ」
「あちゃーっ。でも、パンプス履いて全力疾走したらそうなるわよね〜。絆創膏要る?」
「一応、鞄に突っ込んでたのがあって間に合ったから大丈夫……気持ちだけ貰っとくわ、有難う〜」
「其れにしても、本当に二度ある事が三度あるとはねぇ〜……っ。アンタ、やっぱ何か憑かれてるんじゃない? ただのドジも其処まで行ったら流石の心配になるわよ。二度も助けてくれたらしいってその出来た紳士さんじゃなくてもね」
「う゛ぅ゛……っ、私呪われでもしとるんかいな……? マジで近い内どっかでお祓い行っとくべき?」
「近場で良さげな神社探しといてあげよっか?」
「頼んだ……。こうも嫌な事立て続けにあったらヘコむわ……っ」
「まぁまぁ。取り敢えず、御飯でも食べて落ち着きなさい」
「うん……食べる……」
「デザートに袋菓子系の甘いおやつ買ってるけど、食べる……?」
「うん、食べるぅ……っ。有難う、優しさが沁みるよぉ……っ」
「此処で泣くなよー。泣くならせめてお家帰ってからね? じゃないと、メイク剥げるぞ〜」
「うぐっ……頑張って我慢する……っ」
「よし、偉い。そんな良い子にはチョコレートあげようね……! ハイ、チ●ルチョコ。まだ幾つかあるから、好きなだけお食べ」
「有難う……っ。持つべきものは友だな……!」
「まぁ、小中ん頃からの付き合いだしねぇ〜。困った時はお互い様ってヤツよ!」
「私、オマエ、好き……ッ」
「ハイハイ、分かったから、御飯お食べ。お昼休憩無くなっちゃうよ」
 友人のその一言で気を持ち直し、御飯を食べるべく、昨日と同じメニューであるコンビニお握りをパクつきながら、例の不思議な夢の話へと会話は移り変わっていく。
「そういえば、此処んところいつも見てる夢の続き見たよー」
「おっ、今回のはどんな感じだった?」
「何かね……昨日見た遺跡みたいな場所にまた来てて、其処でたぶん前回逢った人と同じ人に逢った感じなんだよね〜……」
「へぇ〜、其れで其れで?」
「んで、夢ん中でも私ドジッ子発揮してんのか、石段上がり切る手前でけつまづいちゃって……其処を、今朝あった出来事みたいにキャッチされたんだよね〜」
「わお、そりゃ良かったじゃない! その先は……?」
「その後、何言かを言われたんだけど……何て言われたのかさっぱり分かんなくて……っ」
「うん? どういう事……?」
「其れがさぁ、聞き慣れない外国語っぽい言葉で言われたから、意味分かんなくて……。アレ、何語だったんだろ? ゲームとか漫画の世界で有りがちな造語とかだったら、もうさっぱりだぞ」
「あー……まぁ、夢ん中の事なんだし、そういう展開あっても可笑しく無いわよね〜。……その後の続きは?」
「うん……まぁ、何か寸ででキャッチしてもらった事の御礼告げた後、彼が無事で良かったって風に超絶美しい美貌を煌めかせて笑うからさ……つい、見惚れてしまいまして……。いやぁ〜っ、人ってガチで吃驚すると声出ないもんだね!」
「へぇ〜っ、そんなイケメンだった訳? その夢の中の御仁は」
「いや、イケメンとか言う語彙力を遥かに越えた次元に居る人だよ、アレは……! 何とか捻り出して美しいって言葉でしか表現出来ないレベルだもの!」
「そりゃ凄い! 絶世の美女ならぬ美丈夫ってか?」
「まさしくそんな感じ……! なので、私は内心個人的にその人の事を“天使様”って呼んでる!」
「天使様て……っ! ちょっ、アンタの表現力にウケるんだけど……!!」
「いやマジな話でそう表現するしかないくらい美しいんだって……っ!!」
「ハイハイ、分かったから……続きどうぞ!」
 私の語彙力の無さのせいで変にツボったらしい彼女が笑いながら先を促してくる。其れに私は応えるべく、手元のお握りを囓りながら覚えている限りの記憶を手繰り寄せて話す。
「えっと……その後は微妙によく覚えてなくて……最後にまた熱烈なハグで抱き締められたまでは覚えてるんだけど、今回も其処までで目が覚めちゃったのよねぇ……っ。うーん、先が気になり過ぎるオチよ……」
「よく分かんないけど、ロマンチックで素敵じゃない? いつか、その素敵な人と巡り逢えたら良いわよね……! その時が来たら、アタシに教えて頂戴よ! 祝福パーティーやるんだから!!」
「えぇっ……? そんな大仰な……っ。でも、まぁ、祝福してもらえるのは純粋に嬉しくは思うかな……? 実際にそんな素敵な人と出逢えたらの話だけれど」
「案外、既に出逢っちゃってたりしてね……! 例えば、二度もアンタの事を救ってくれたイケメンな紳士さんとか!」
「いや、アレは偶々偶然の話で……! あの人はそんなんじゃないって……!」
「でも、逢うの二回目なんだったら、名前くらいは聞いたんじゃない?」
「あ、うん……其れは確かに聞いたけれども……。えっと、記憶が確かなら、“ミハイル”……とかって言ってたかなぁ?何となく外国人っぽく思ってたから、如何にも其れっぽい名前だな〜とくらいにしか思わなかったけど」
「へぇ〜、“ミハイル”さんね……! 確かに何か其れっぽい感じの名前よね!」
「でも、名前聞いた時、何かこっちの発音とかイントネーションに寄せた感じみたいな事言ってたなぁ……」
「もしかしたら、実際の言い方ではちょっと違う発音で言うって事かしら……?」
「たぶん、そういう事なんだと思うんだけど……っ。一瞬だけ、夢に出て来る天使様とミハイルさんが重なって見えた気がするんだよなぁ……気のせいだと思うけどさ」
「んふふっ……さっきアタシが言った事、案外リアルな話だったりしてね」
「え? 御免、何か言った……?」
「いんにゃっ、なぁ〜んにも言ってないよ……っ! 早く御飯食べ上げてお化粧直ししなくっちゃね……!」
 そう言う友人の言葉に促されるように、私は食事を進める事に集中した。その間、頭の奥では今朝方ミハイルさんと交わした言葉がグルグルと思考を占拠していたのだった。何だか、また出逢う事になるのではないか……そんな妙に確信めいた感覚すら覚えて。私は不思議に思いながらお昼を食べ上げ、ついでに友人からの慰めで貰ったチョコレートも食べて、束の間の癒しを得たのだった。
 その日の夜は、朝の件で疲れていたせいか、夢を見る事も無くぐっすりと爆睡であった。


後書き
※原文は此方↓
Tより。
初出日:2022.06.26/加筆修正日:2024.05.08