耽溺性行動

 錬度が頭打ちを迎えてからというもの、暫く戦に出ずっぱりだった事も踏まえて、時折遠征や内番をこなす以外では非番となり、めっきり遣る事が無くなって途端に暇を持て余すようになった。これまでは何かとこなさねばならぬ事が山積みになっていた分、その反動も大きい。――が、全くの無趣味という事もない為、暇の潰し方は心得ていた。審神者やその他大勢の刀達から声がかからない内は、書斎から持ち出した書籍の類を日がな一日中読み耽るのである。此れもまた乙なもので、自分の見知らぬ知識を知れて楽しい。暇さえあれば本を積み上げ、書斎なり自室なりに籠もる。お陰で、審神者が住む現代への知識の吸収は恐ろしく早かった。
 本日は完全なる非番ではなく、内番を割り当てられていた事もあって、幾分か気晴らしが出来た。未だ関わった事の無い刀達と触れ合う機会にもなって、交流が広がる。今回自分と共に馬当番へと組まれた相手は、一文字のご隠居ともあって、気心知れた仲である分気負わなくて良くなるから遣りやすい。自分より若い見た目で顕現した癖に、やれ腰が痛いなど老体をこき扱うななどと漏らすのには呆れた目を送ったが、他愛ない会話に耳を傾けるのも人の身故の面白味であった。
「孫六兼元並びに一文字則宗、頼まれていた馬当番を終えた故、報告に参った。報告ついでに、二・三訊きたい事があって直接話をしたいんだが……部屋に入っても良いか、主人?」
「どうぞー……っ」
 一通りの仕事を終えたのち、汚れた衣服を着替え、身形を整えて審神者へ内番終了の報告に入室の是非を問えば、中から気の抜けた声で以ての返事が返ってきた。其れに従って、執務室の戸を開けて中の様子を見遣れば、何やら疲れた様子で座椅子の上で姿勢悪くずり落ちたような恰好で端末を弄くる審神者の姿があった。よくよく見ると、その目が疲労からか死んだ魚の目の如く生気が抜けている事が窺えた。自分の知らぬところで何があったのやらを問いたくて、傍らで簡単な書類片付けをしていた近侍刀へ視線を向ける。すると、その方も視線に気付いたらしく、気さくな声で挨拶をくれた。
「よぉ、関の義兄弟の孫六。今日は馬当番に組まされてたんだって? 思ってたよりも馬の数が多くて世話すんの大変だったろう。全部政府から報酬として賜った神馬だが、慣れねぇ内は苦労すんだろ? お勤めご苦労さん」
「あぁ、そういえば今日の近侍は之定の和泉守の方だったか。その内番の報告も兼ねて話をしに来たんだが……些か主人の様子が気になってな。俺が馬と戯れている内に何があったんだ……?」
「特別な事はなぁ〜んも無ェよ。主のコレは、単に眠気と疲労から来てるヤツだから気にすんな。イベント周回中は定期で見る状態だからな」
「定期で見るものとは……。確かに、戦力拡充計画とやらが終わって間髪入れずに次の催物の知らせが届いたとは聞き及んでいたが……成程、此れぞ“脳死周回”というものか。道理で死んだ魚みたいな目をしている訳だ」
 孫六の言葉に、近侍であった和泉守は労いの言葉をかけつつ、審神者の現状に対しての問に苦笑を滲ませながら答えた。
「脳死周回の絵面は審神者界隈じゃよく見られる話だぜ。ただ、まぁ……今の主の場合は、ちっと他と違うかもな」
「と、いうと……?」
「主の奴、昨晩あんま眠れなかったらしくてな。睡眠自体は一応取れたらしいんだが、眠りが浅かった所為で十分な質が取れなかったんだと。おまけに、花粉症の症状抑えんのに眠気の出る薬を服用したもんだから、この有り様っつー訳だ」
「其れはまた難儀な……っ。眠りが浅かったとは、何か気になる事でもあったのか?」
 片眉を吊り上げて心配の意を漂わせた彼の視線を受けた審神者は、手元の端末から視線を上げずにそのままの体勢で答えを寄越した。
「別に、心配するような事は何も無いぞー。単純に眠りが浅くて、あんま寝れた気がしなかっただけ。元々昔から眠りの浅い質だから、今に始まった事じゃない。定期であるこったで、其処まで心配する事じゃないぞ……」
「でも、睡眠は人間が生きる上で食べる事の次には最も大切な事だろう?」
「確かに、三大欲求の内の一つを占めるくらいには大事なもんではある……。が、体質上そういう事も有り得るという話さね。別段、俺に限った話でもない……。世の中、眠りが浅くて困ってる人間は五万と居る」
「其れでも、仕事中に眠気と疲労でそんな状態に陥っているなら、仮眠でも何でも休憩を挟んで休んだ方が良くないか? でないと、思ったように仕事も片付かずに非効率だろう?」
「今寝たら確実に爆睡して今日のノルマ片付けらんなくなっちゃうから、やだ……」
「一応、俺からも言ったんだけどよ。こうなると、主は梃子でも動かねぇぜ」
「駄々っ子か……子供じゃあるまいし」
「バブ化してオギャるよかマシだろー……っ」
 疲労からあまりにも怠く姿勢を保っていられなかったのか、座椅子の上なのにずり落ちたような体勢で端末から進軍の指示を出す審神者。その目は現在進行形で眠気と闘っているのか、ショボショボしており、今にも瞑れてしまいそうである。此れでは、話をしようにも出来まい。孫六は呆れの溜め息をいて出直しを考えた。
 しかし、そんな空気を察したのだろう和泉守が再び口を開いた。
「報告ついでに話があるって言ってたな。俺で良けりゃあ、代わりに聞いとくぜ」
「助かる。では、報告に移らせてもらうが……。頼まれていた一通りの仕事は滞り無く終わらせてきた。ただ、厩の清掃途中に気付いた事が一つあって、一番奥の馬房の柵が老朽化して脆くなっていた。今日は各馬房内の清掃だけで手一杯だったんでな。明日馬当番になる者達に修理しておく事を伝えておいてくれないか? 他もう一点、馬房内の清掃で外へ連れ出して戻す際に何頭かが愚図ってな……。あれはたぶん、あまり戦闘には出さない方の馬達だろう。其奴等のストレスが溜まっているみたいだったから、馬を走らせるのが好きな奴や暇な奴が居たら声をかけてやってくれないか? 軽くでも走らせてやれば多少落ち着きが戻るだろう。俺が内番をこなしてて気付いた事はそんなところかな。……後は、縁があるからという意味で組んだんだろうが、出来れば今後暫く馬当番と畑当番の時は則宗とは組まないでもらえると助かる……っ。手合せでは問題無いんだが……彼奴、何かと理由付けてサボろうとするから困ったもんだ。主人から直接言えば多少改善はしてくれるだろうから、是非とも手が空いた時にでも喝を入れといてやってくれ」
「はははっ、則さんはあー言う御仁だからな。分かったよ。後で主か初期刀の加州辺りにでも相談しとく。一先ず、諸々の小細、了解した。後で纏めて主に伝えて改善策を練るよう、当番の編成についても言っとくぜ。報告ありがとさん! にしてもアンタ、俺達と一緒で馬には乗って来なかった質なのに、よく見てるなぁ〜」
「ははっ。まぁな。動物好きな主人にでも似たかな」
「だとよ、主……!」
 眠気に負けてぐんにゃりと体勢を崩して溶ける審神者へ、ニヤついた顔を向ける近侍。その意図は明らかに揶揄からかい混じりのものと分かるが、疲労も重なって画面以外の事に意識を割けない彼女は無言の返事を返した。ともすれば、舟を漕ぎかけてカクリと頭を傾ぐ。限界が近いのだろう。徐ろに審神者が呻きを上げて机の下へ滑り落ちる勢いでずり落ちた。お行儀の悪い事とは分かっていようとも、眠気と疲労で頭が馬鹿になっているところに其処までを気にする余裕は最早残っていないらしい。
 既に背凭れに凭れたまま下へ下へとずり落ちた所為で、上着として身に纏う羽織の裾が捲れて盛大に乱れていた。流石に此れは不味いと思ったらしい近侍の和泉守は、しょうがない奴だと言わんばかりの口調で軽く小言を漏らした。
「おーい、主ぃ〜。そんなに眠いなら一旦止めにしねぇか? 服凄ェ事になってんぞ。あと、姿勢もやべぇし。之定の奴に見付かったらどやされちまうから、取り敢えず姿勢だけでもちゃんと元に戻せ? その体勢じゃあ、端末持つ腕保つのもキツいだろ……」
「ん゛〜〜〜……っ」
「あ゛ー、こりゃもう駄目だな……っ」
「随分な有り様だなぁ、主人……。いつもの凛とした姿とは打って変わって見る影も無い」
「幻滅させちまったか……?」
「いや。其れだけ気を許されているんだろう、という風に受け取っておこう。……単に周りを気に掛ける余裕も無くなっているだけな線もなくはないが」
「いや、其れこそ違うぜ。主の奴ァ、本当に気を許してない奴の前じゃこんな風に有りの儘の姿を見せようとはしねぇ。だから、アンタは、既に主ん中では懐に入れる程気を許した相手として認められてるって事だ。良かったな!」
「ははっ……だと嬉しいがね」
 溶けて間もなく寝落ちてしまいそうな空気漂う審神者へ、慈しむような目線を向けて口元に笑みを浮かべた孫六。その二人の様子を外野として見た近侍は、何処となくその目に保護者目線とは異なる別の感情を感じ取って、内心ハッとした。もしや、もしかしなくとも、もしかしてしまうのではないか……?――と期待して。思わずニヤつきそうになった口元を静かに覆い隠して、心の中で早く誰かにこの件を共有したい気持ちでいっぱいになった。勿論、極めて其れなりに経つ彼が容易に悟らせるような事はしない。面では、真面目に機嫌良さげな笑みを浮かべてる風だけに留めて格好良さを保つ。時代の最先端を行く、格好良くて強いが自慢の刀だ。新刃刀にバレてしまわぬよう、慎重さを期してこの事を密かに他へ共有せねばと使命感に駆られているとは、誰も気付きまい。
 そうこう見守っている内に、のそのそと体勢を立て直した審神者が狭い座椅子の上で身動ぐ。一度端末を机上へ安置してみせたので、漸く重い腰を上げての休憩かに見えた。その予測は間違ってはいなかったようで、マジで限界値を迎えたらしき審神者は、猫のようにその身を小さく丸めて丸まった。斯くして、座椅子の上には審神者の団子が出来上がった。しかも、何気に律儀に布団の代わりとでも言うように防寒対策で膝掛けに使っていたベビー毛布に包まって、である。此れには予想外だったのか、ズッコケそうな雰囲気でガクリと構えを崩した孫六に再び近侍は苦笑を浮かべた。
「出たぜ、主のごめん寝ポーズ。コレ出るとマジで本気で眠いんだなぁ〜ってのが分かって、ある種の指標みたくなってんだけど、主分かってんのかな……」
「何でよりによってそのポーズなんだ……ッ! いや、ついうっかり可愛いとか思ったりはしていないが……!」
「ツンデレかよ、義兄弟様よぉ」
「否、そういうのでは決してなく……っ。というか、こうなるくらいなら、途中で素直に止めに入るのが近侍の仕事なんじゃないのか!?」
「いやぁ、一応は主が無理しねぇ程度には見張ってるぜ? 今回のは諸々が重なっての事だから仕方ねぇって。まっ、大目に見てやってくれや」
「随分緩いんだな、此処の規律は……っ」
「まぁな。他所様の事は知らねぇぜ? 中には、軍隊みたく規則正しくビシバシ鍛えてる連中も居る。けど、何も他所と同じにしなくとも良いだろう? だもんで、“ウチはウチ、ヨソはヨソ”方針でウチは比較的緩めの運営スタイル取ってんだ。此れでも、初期の初期も黎明期と比べるとかなり活動的になった方だぜ? 俺達が顕現したての頃なんざ、本丸の回し方もよく分からずに皆見様見真似で主の指示に従って動いてただけだかんなぁ。その頃と比べりゃ、イベントへも意欲的に走るようになったし、目標に向かって脳死周回通り越して鬼周回したりなんてな! 俺達もだが、主も良い審神者目指して此処まで汗水垂らして頑張ってきたんだ……そう考えると、偶の緩みくらい大目に見たって良いと思わねぇか?」
 審神者が団子状に丸くなった傍らで微笑ましそうに頬杖を付いて言う和泉守の表情は、何とも保護者らしい目線のものだった。其れを見た孫六もまた、「フッ」と笑みを零して肯定の意思表示か、その目を伏せて腰を下ろした。どうやら、審神者が体を起こすまでは居座る事にしたらしい。最悪、彼女が本気で寝転ける前に奥の間へと運び入れるつもりだろう。容易に紐解けた先の未来に、審神者と黎明期を共にした和泉守は静かに微笑んだ。正しく、後方支援面の保護者面であった。
 小烏丸の修行解禁が決まって、この本丸でもまた一振りと新たに修行の旅へと旅立って行った。其れを喜びつつも、その裏では寂しがりが顔を覗かせる。おのが身を極める為と分かってはいても、本丸の者が一振りでも欠ける度に面では平気そうな顔を装いその内では不安を燻らせる。目に見えた強がり且つ虚勢であった。しかし、其れを悪い事とは思わない。彼女の審神者としての矜持を考えれば、其れもまた分かり得る事だ。
 恐らく、今回の眠りの浅さも、小烏丸の修行解禁が決まった事への影響であろう。無自覚に、でも確実に、己が懐へと許した刀達が離れるのは一時的なものとしても不安なのだろう。まんま猫の如く丸まってごめん寝ポーズを曝す審神者に、和泉守はしょうがねぇ奴だとばかりの笑みを漏らした。
「ところで……主人のコレは何時いつまで続くんだ?」
「んーっと、基本的には大体数分程度で起き上がるが……ガチで眠い時は軽くそんまま寝落ちちまう事もあるから、最悪無理矢理にでも起こして奥の部屋に転がすかな? 一応、教えとくと……主の布団は、押入れの中に仕舞われてるか部屋の隅に畳んで置かれてあっから、主がそんまま寝落ちちまった場合は、今言った場所から布団引っ張り出して寝かしてやってくれ。主曰く、審神者なる前の時に勤めてた会社で忙殺されて疲れ果ててた際に、家帰り着いてごめん寝ポーズで座り込んだらうっかりそんまま寝落ちて朝迎えた事が多々あったらしいから……其れだけ気を付けといてくれりゃあ大丈夫だ」
「うん……? 今何かサラッと重大な事を言われたか……?? この見るからに人では寝辛かろうポーズのまま朝まで寝落ちた事がある、だと?? そんな話があって良いのか……??」
「良くねぇから、念には念を入れて今教えといたんだよ。本丸での顕現歴としては俺のが先輩だからな。人間への扱いも主の扱いもある程度は心得てるんで、何か困った事があった時は頼りにしてくれや」
 急に落とされた爆弾に、不可解なものでも見るような目で審神者を見遣った孫六。その気持ち、分からないでもない。彼女の生態を理解した事で、その在り方が何とも危うげである事を再認識した彼は、心底呆れた風な溜め息を吐き出して顔を覆った。
「……取り分け、主人という御仁が他の人間達に比べて死に急ぎ野郎なんだって事は理解したよ……。全く困ったもんだね……っ」
「ははっ、まぁそう言ってやんなよ新刃さんよ。アレで主も必死に頑張って生きてきたんだ。其れを否定する事だけはしないでやってくれねぇか? 主はさ……俺達が思ってるより繊細に出来てるんだ。だから、些細な言動で傷付くし泣きもする。その事を主も嫌ってるみたいで、下手な事言わねぇように努めてるらしいんだ。自分の言葉には力が宿るって分かって以来、特に言葉には気を付けるようになったんだと。……まぁ、早い話、主は強がりな質な訳よ。だから、注意深く見てやってくれないか? ウチの主様は変な時ばかり本音を隠そうとするんでねぇ〜。俺達が分かる範囲は汲み取ってやってるが、其れでも分からねぇ事もたぶんある……。主の事、隅に置けねぇ奴だと思うなら、今言った事も含めてしっかり見ててやってくれ。じゃねぇーと、また何時いつ死のうとなんて自棄起こすか分かったもんじゃねぇからな……。まだまだ若ェ娘さんだってのになぁ」
 未だ丸まったまま起きる様子の無い審神者の背を労るようにポンポンと軽く優しい力で叩く和泉守に、孫六は前髪の向こうで静かに影を落とした。敢えて今はまだ何も返さないでいるのは、立場を弁えてか、或いは……。
 不意に、近侍の置いた掌の下が震えたのを察して、和泉守は「おっ?」という顔をして手を退けた。程無くして、審神者がのそりとその身を起こし、呻きながら再び伏せたかと思うと猫のように伸びをした。ぐみょ〜んと丸まって固くなった背中と腰回りの筋肉を解すみたく、軽い柔軟運動ならぬストレッチをして気が済んだのか、ふにゃりとはしているが先程までとは随分とマシな姿勢で座り直した。どうやら、休憩は終わりにして仕事を再開する気らしい。くあり、これまた猫みたいな大欠伸を漏らして目をしぱしぱさせる。一気にその場の空気が緩んだ気がした。
 孫六はクスリ、と含み笑みを漏らして口を開いた。
「ご起床かね、主人……?」
「ん゙〜…………うん」
「そんじゃあ、俺は仕事再開する主の為に眠気覚ましの茶でも入れてくっとしますかね……っ!」
「う゛ぃ゙……あざます、兼しゃん……。出来れば、ココアをお願いします……。圧倒的糖分の不足を感じるので……糖分を……我に糖分をお恵みくだせぇ……っ」
「ハイハイ、わぁーったから。大人しく待ってろ」
「う゛ぃ゙……おなしゃします……」
 眠気と糖分不足で頭が働かないのか、最早何を言っているのか分からない風である。近侍の彼は此れに苦笑を漏らして、軽く頭を撫でた後に手を振ってから部屋を出て行った。
 離れから厨まではだいぶ距離がある為、彼が戻ってくるまで少し時間を要すだろう。審神者は正した身を乗り出し、机の隅へと避難させていたマグカップを取るのに腕を伸ばした。手に取ったマグカップは、ほぼほぼ湯呑みと化している物だ。使い込まれて年季が入っている所為か、真っ白だった筈の陶器の肌は何処となく色褪せて日に焼けた風な色合いとなっていた。中身は、もう随分前に淹れたお茶が僅かに底の方に残るだけである。其れを覗き込んだのちに、残りを傾けグッと飲み干した。
 空になったマグカップを机上へと戻した審神者は、その手を側の小物入れへと伸ばして、中の物を手に取った。背中を座椅子の背凭れへと戻すなり、手にした一つを傍らに控えたまま無言で様子を見守っていた孫六へ「ん、」と差し出す。前置き無く目の前へ突き出された其れに、彼は腕組みをしたポーズのまま目を瞬かせキョトンとした。
「えっと……此れは受け取れ、という意味で合っているか?」
「うん……孫六さんにあげる」
「成程。それじゃあ有難く」
 腕組みを解いて差し出された物を受け取るべく片手の掌を上向けにすれば、拳を開いた彼女がその手に握っていた物をころりと其処へ落とす。見ると、其れは透明な包み紙に包まれた飴だった。黄金色の甘い匂いのする其れは、見るからに砂糖を煮詰めて作ったような菓子である。孫六はその飴を掌に転がして見つめた。
「何かと思えば、飴だったのか。此れを俺にくれると……?」
「そう……お仕事頑張った孫六さんに、お疲れ様の意を込めてあげましゅ。……ちっちゃいご褒美で恐縮だけど、今渡せるのこんくらいしか無いから……」
「いや、十分嬉しいさ。主人からねぎらわれたという事実そのものが、既にご褒美みたいなものなんでね。此れは有難く頂くとするよ。まさか、内番をこなして報告に来たついでに褒美と称して主人から飴を賜るとは……こりゃ報告役を担って得したな。後で則宗に自慢してやろう」
「ふふっ……そんな大したモンじゃないがね」
 先に封を開けて口の中へと転がした審神者が笑う。其れを見た彼もまた同じようにして飴を口へと放り込んだ。途端、上品な甘さが口の中に広がり、孫六は「成程、確かに此れは美味い」と思って笑みを零した。舌で転がす甘みが疲れた脳髄にまで沁み渡っていくようだ。こんなご褒美を貰えるなんて、報告役を買って出た事を心の底から褒め称えた。
 二人してコロコロと甘い黄金色の飴を転がして笑い合う。前言撤回。此れは、誰にも言いたくない。そんな事を思った孫六は、相当彼女に入れ込んでいる事を自覚した。顕現してすぐの頃は、そんな事を微塵にも考えてなどいなかった癖に……。惹き付けて止まない彼女の魅力に魅了されてしまったのか、気付けば目で追うようになっていたし、ずっと傍らに付いていたいなどと思うようになった。ただの用心棒にはあるまじき思想である。だが、そう思い抱くと同時に彼女相手ならば惹かれて当然だったのだろうとも考えた。何故ならば、彼女と己を繋ぐ枝葉がそうさせたから。
 人の子と我等を結ぶ縁は特別だ。他には無い力を持つ。故に、一度ひとたび懐に入れてしまえば離し難くなってしまう。其れがあるから一定の距離感を保つつもりで居たのだが……気付けば、その一線を踏み越えて居たらしい。彼は密かに自嘲気味な笑みを口端に浮かべた。どうやら、自分は気付かぬ内に審神者の事を離し難く思う程にまで入れ込んでしまったらしい。もう、“今ならまだ逃がしてやれる”だなんて甘っちょろい事は言ってやれないだろう。其れ程までの執着心を抱いてしまっている。他の刀共にくれてやる余裕は、あまり無いのかもしれない。其処で初めて孫六は己が神という位を持ってしまった事を後悔した。ただの人の子を此れ程までに愛してしまった事を……。
「飴ちゃん、美味いやろ……? 此れ、疲れた時に丁度良い甘さなんよね」
「……嗚呼、こりゃ美味過ぎてすぐにでも次が欲しくなりそうだな……」
「もう一個欲しかったら、まだあるからあげよか……?」
「いや……今心底本当に疲れているのは主人の方だろう? 俺は其れ程疲れちゃいないから、残りはアンタの今後の為に取っておきな」
「そう……? まぁ、また欲しくなったら言いなね。ウチ、しょっちゅう菓子せびりに来る包丁君が居るから、甘味とかお菓子の類は常備してんのよね〜。お陰で、脳死周回で頭馬鹿になった時の糖分補給には事欠かないんだけど……」
「へぇ、そりゃまた難儀なもんだな」
 当たり障り無い程度に相槌を打ちながら、審神者の口から別の刀の名前が出て来た途端、どろりとしたものが胸中に広がったのを感じた。此れが、人で言うところの“嫉妬”という感情だろうか。七つの大罪の内の一つとされる、“嫉妬”。その欲が過ぎれば、人は鬼と化し、修羅となるとも云われている。口伝でも、古来昔から語られる話には、事実が伴うものだ。己がそうならないように自制せねば。
 ふと、端末を弄っていた審神者が手を止め、徐ろに此方へ首を向けた。そして、コテリと愛らしく小首を傾げて口を開く。
「孫六さん、どうかしたかい……?」
「うん……? 何がだ?」
「いや……何か、何となく、今さっきの応答が雑だったというか……。えっと、孫六さん……もしかして、今一瞬機嫌悪くした?」
「……何故そう思った?」
「え……何となくの感覚で……? 声とか喋る時の抑揚とか、そういうのに人の感情って表れやすいから……色んな人と話してると、いつもとニュアンスが違うなぁ、とかって思う事もあるんだよね。……まぁ、此れは、単に俺が変に気にしいが故に敏感になってるだけなんだろうけど。俺の何気無い発言で相手の機嫌を損ねたくはないからさぁ……ただ、其れだけ」
 当たっている。完全なる図星ではなくとも、少なからず心中を言い当てられて、ドキリとした。孫六はつい思わず眇めた視線を緩めて溜め息と共に吐き出す。
「流石は百余りもの刀共を纏め上げる審神者様だ……っ。素直に参ったと口にしておこう」
「へへっ……伊達に五年以上勤めてないからね」
 人で言うところの五年は長い方だ。この世に生まれ落ちた一生の内の五分の一に相当する時間を、彼女は人為らざる者と共に居る。そして、時の戦の為に尽力を振るっている。泰平の世から遣わされた、戦の事など本当の意味では何も知らない、無垢な人の子。其れを、戦に勝つ為だと兵として駒として召喚されたのだ。物の心を励起する力を有していたばかりに、審神者は本丸という特殊な箱庭へと囲われている。此れを、憐れと称せず何とする。
 本来であらば、その齢的につがいとする相手を見付け、婚姻を結び、子を成している筈の者だ。其れを、此方側が勝手な思惑で縛り付けてしまっている。年頃の娘だ、誰かしら好い人が出来たら手放しに喜び祝福してやるべきだろう。だが、其れを己が出来るかと言えば、そうは思えない。既に彼女から言霊を受けていて、また、己も受け返した後だ。初めから手放す気など無かったに等しい。
 クツリ、と笑みを乗せて彼女を見る。すれば、己の浅葱目と審神者の黒きまなことが交わった。何処となく優越感を得て、先程のどろりとした醜い感情等が消え去っていくのを感じた。そんな彼を見て、審神者も何処か嬉しそうにそのかんばせに笑みを乗せて口を開く。
「ふふっ……孫六さん、機嫌戻ったみたいやねぇ」
「そうかもしれないな……。まぁ、アンタと一緒に居る内は、機嫌良くない事の方が少ないだろう」
「おや、嬉しい事言ってくれるじゃん。今の、遠回しに“ずっと一緒に居たい”的な言い回しに聞こえたけど……?」
「ははっ……察しの良いところは嫌いじゃないよ。まさにその通りだ」
「へぇ。孫六さんてば、案外俺の事気に入ってくれてんだね」
「そうでなくば、アンタが言う“爆速の早さ”で顕現などせんだろうさ」
 黒き髪の隙間からねっとりとした執着の孕んだ視線を寄越す。其れに、彼女の目が一瞬ばかり淡く目を瞠った。けれど、直ぐ様通常通りの色に戻り……何なら、眠気を思い出したかのようにキュウ……ッと細め、欠伸を漏らした。平気そうな口を利いていたかに見えたが、その実まだ眠気が抜けないのだろう。堪えていたらしき凄まじい眠気が再び脳味噌を支配し始めた模様で、審神者は一つ呻きを零して俯いた。
「眠いのか……?」
「睡眠負債に加えて、今日は薬がよく効いてるみたいだからなぁ……現在進行形でものごっつ眠い……っ。さっき、ちょこっとだけ目ぇ瞑って休んだつもりなんだけどなぁ〜…………ッ」
「擦るなよ。眼球を傷める。そんなに眠くて作業が捗らないのなら、一旦きちんと横になって休んだらどうだ……?」
「え゛ぇ゙……っ。今寝たら確実に爆睡決め込む自信しかねぇんだけど……。今横になったら、絶対数時間は寝るに全賭けるベット
「其れでも、このままずっと非効率なまま続けるよりかはマシだろう……?」
 THE・正論をかまされ、ぐうの音も出ない審神者は某電気鼠の如く顔をシワシワにしてシュンとした。どうやら、素直に彼の言う通りにする事にしたようだ。
 端末を手にしたままのそのそと四つん這いで側まで寄ってきたかと思うと、ころりと猫が腹を見せて転がるように身を横たえた。何故か、己の膝を枕にして。
 孫六は彼女が起こした突然の奇行に、ギクリと肩を跳ねさせて驚いた。
「おい……まさかとは思うが、このまま俺の膝を枕にして休む、なんて事言わないよなぁ?」
「枕にするにはちょっと固くて高いけど……ガチ寝防止するには丁度良いかと思いまして。この状態のまま残りのノルマ片付けてしまおうかと」
「あの……主人さん? 本気で仰ってます……??」
「この姿勢だと、下から孫六さんを眺める事になるから、お顔がよく見えて良いね。眼福眼福、目の保養」
「さてはアンタ、既に眠過ぎて脳味噌限界突破してるな……っ!?」
「んふっ……正解だにゃあ」
 乾いた笑みを浮かべて肯定を示した審神者の死んだ魚の目の有り様よ。やけに素直且つ大胆な真似をするかと思えば案の定である。先日のデジャヴを感じた孫六は頭痛を堪えるかの如く頭を抱えた。
 その真下から審神者が呑気にも笑みを零して宣う。
「んふふっ……やっぱり孫六さんの瞳って綺麗やねぇ」
「……眺めて楽しいかい?」
「見られるの、嫌……?」
「いいや。減るものでもなし、気が済むまで見るのは別に構わないぞ。其れで仕事が捗らないと言われても此方の知った事ではないがな」
「にへっ。じゃあ、存分に拝ませてもらおかなぁ」
 下からの視点で審神者に眺められるというのは、新鮮な心地しかない。だが、偶にはこういう視点も悪くはないと思った。彼の膝を枕に寝転んだ審神者が、端末を片手に持ちながら、もう片方の空いた掌を彼の顔へと伸ばす。其れを黙って受け入れ、触れやすく顔を下に下げてやれば、ぴとり、柔らかで華奢な女の掌が頬に触れた。そのまま、彼女は彼の前髪を払うような仕草を取って、目元を擽った。
「ふふっ……俺、孫六さんのお目々、好きだなぁ……っ。真っ黒な色の中に浅葱色が映えて、綺麗やんなぁ……」
「そうか……主人は俺の目が好きか」
「うん……何かね、孫六さんのお目々見てると、不思議と何時いつまでもじっと眺めていたい気持ちに駆られるんだぁ。……何でかね。分かんないけど、妙に惹かれる気がすんのだけは確かかな……」
 サラサラと流れ落ちる前髪を梳くように触れる審神者の手が擽ったい。ついでに、その甘やかな視線が己へと向けられる事も擽ったくて、口元を堅く引き締めたい心地に陥った。現に開いた口から色々なものが漏れて行かないようキュッと閉じる。そうでもしなければ、妙に高鳴る鼓動までもが出て行き兼ねなかったからである。
 だが、審神者に“見るな”とは言わなかった。火傷してしまいそう程熱い視線を注がれてはいたが、気分そのものは大層良かったので。咎める事もせず、彼女の気が済むまで好きにさせるのだった。
 そうしている内に、ココアを作った和泉守が戻ってきたようで、背後で戸の開く音がした。ちょっと飲み物を取りに行くにしては随分と長い間お留守にしていた気がしたが、敢えて突っ込まない方向で背後を振り返る事にする。
「近侍殿が戻られたようだぞ、主人」
「よぉ、待たせたなぁ。……って、主何してんだ?」
「やぁ、兼さんや。ちょいと孫六さんのお膝から失礼しますわよ」
「いや、何で孫六の膝枕にして寝っ転がってんだアンタ……っ」
「あのまま座った体勢だと仕事続けるにしても寝落ちるにしても非効率だと思いました故、孫六さんのお膝を借りてごろんちょする事に致しやした。歌仙相手じゃ、行儀が悪いだの雅じゃないだのと叱られっからな……今日の近侍が兼さんで良かったんだぜ。兼さんを近侍にした俺、偉い!」
「何処を取っても偉かねぇわ、この安本丹アンポンタン……! 之定じゃなくともツッコむは普通! アンタも何平然と許してんだよ!?」
「いや、何。主人が休みつつも仕事が出来るって言うんでな。主人曰く、下から見上げる俺は眼福らしい。ノルマをこなしながらも目の保養として癒しを提供出来るんだったら、膝を貸すぐらいの事はやぶさかじゃないと思って」
「あ゛〜、そういやぁ何時いつぞやにアンタの浅葱の目が綺麗だの何だのとほざいてたっけか……っ? 俺と似たようで似つかないとか何とかっつー有難くも何でもねぇ評価をもらってたの忘れてたわ……」
「ほぉ。俺の居ないところでそんな話をしていたのか、主人は」
「だって、事実ですもん〜。孫六さんのお目々は、誰が何と言おうと綺麗にゃんですぅ〜」
「そんな風に褒められると照れるじゃないか。まぁ、出来ればそういう事は、端末越しじゃなく直接目を見て言ってくれると尚嬉しいんだが……」
「んぎゅっ……其れは今はまだ無理そうだから、端末越しで我慢してちょ」
「変なところで照れるんだな、アンタ……。まぁ、そんなところも愛らしくて良いが」
 自分が敢えて席を外していた間に進展を見せた空気の甘さに、早くも場違いだと耐え切れなくなった和泉守はぎこちなさを隠さずに口を割った。
「あのぉ〜、頼まれてたココア持ってきたんだけど要るか……?」
「いる。甘い物、俺の糧……!」
「ハイハイ……なら、一旦其奴の膝から起き上がってからにしろよ。じゃねぇーと変なところ入って噎せるからな」
「あいあいさー!」
 眠気で頭が馬鹿になった上に妙にハイなテンションとなっているのだろう。変に片言みたくなったかと思えば、舌っ足らずな言葉で返事を返して素直に身を起こした。その様子を目で追い慈しみ溢れた視線を絶えず送り続ける彼に、「此れは黒だな……」と内心思った近侍は、難儀な相手に好かれたもんだと心無しか審神者へ哀れみの目を向けるのだった。

執筆日:2023.11.24
公開日:2023.11.28