9.罅を走らせる

「今…っ、なんて、…言ったの…?」


総司さんがわなわなと震えている。
普段、感情を表に表さない総司さんがわなわなと震え、わたしに“理解できない。”と怒りを表している。だけど、嫌なものは嫌。

どうして愛を確信できない人と、結婚しなくてはならないのか。記憶がなくなったって、本能が “この人は違う” そう叫んでいるのに無視なんてできない。

自分でも思い切った行為だとわかっている。緊張と怖さから、心臓は飛び出しそうなくらいにバクバクと跳ねて暴れる。言葉は途切れ途切れになり、吃音になってしまう。だけど、だけど…


「し、しばらく、ひと、一人にして、欲しいです」
「どうして…僕達は…」
「分からないんです、わたし、本当にあなたと…、その、結婚を、…望んでいたのか…」
「そんな訳ない! ユイちゃんは僕と結婚するって約束してくれた!」
「……覚えていないです」
「ユイちゃん…!」
「総司さんとの思い出が…、ぜんぶ、ないんです。なにも、おぼえて、…ないです……。」


過去にそうだったとしても、今は、嫌なんだ。せめて、日常が戻るまではこの事は保留にしておいてほしい。
強引に気持ちばかりを押し付けられて、わたし自身がもう限界に来ていた。

すべてを忘れたわけじゃない。総司さんの行動一つ一つで思い出すこともある。だけどそれは全て
……総司さんの怖い顔ばかり。
有無を言わせないあの独特の空気…。

その総司さんに怯えている自分。

こんな二人が、本当に愛し合っていたなんて考えられない。

それに、お母さんの言った “了承” という言葉も引っかかる。


「ごめ、んなさい、せ、生活が落ち、着く、までは、もう…」
「…………」


カタン、とパイプ椅子を鳴らしながら立ち上がった総司さんは、項垂れながら部屋から出て行った。


「…………」


わたしの気持ちが全て、伝わったなんて思わない。だけど、心を握り締められたまま一緒になんて絶対に無理…。
強張った肩から力を抜き、思い切りため息を吐き、気分転換のために窓際に目をやった。その視界に入った赤い花をわたしは忌々しい思いでゴミ箱へと投げ捨てた。

わたしは、赤なんて好きじゃない…。

絶対、総司さんと結婚なんて……したくない…!


未だ心臓はバクバクとはねている。けれどいつもまとわり付いていた重たい、暗い気持ちが少し軽くなっていった気がした。

気分転換に、また中庭に行こう。

小銭入れと、この前買った雑誌を持って。
わたしは呪縛から解かれたような心持ちで中庭へと向かった。


「お茶にしよう」


さっき無理やり詰め込んだ柿の味が残ってて、口の中がやたらと甘い。色んな意味でさっぱりとさせたくて、自販機からペットボトルのお茶を選んだ。

前、一人で行った時に座ったベンチが開いている。傍らに木があってちょうどいい木陰を作っていた。陽が当たりすぎても暑いし、葉の影が薄いところに腰掛け、ペットボトルのキャップをまわし、ゆっくりと口を付けた。

お茶のあたたかさが染みる。

今までびくびくと怯えていた憂鬱な日々が嘘のようだ。

本当に、本当に総司さんと将来を約束しているなら、時間はかかっても私の気持ちを汲んでくれるはず。
愛がある、とかじゃないけれど気持ちが労りあえないなら生涯を共に、なんてありえない。
ここでもし、総司さんが私の気持ちを蔑ろにするなら…
結婚なんて絶対にできない。したくない。

頭の中で何度も何度も自分が総司さんと結婚できない理由をまとめていく。
多分、こうして用意しておかないと、また自分の気持ちが押しつぶされてしまうからだ。

ペットボトルの蓋を閉め、思考の坩堝から抜けるため、ほっと息を吐いた。

まだ、私にはやらなければならないこともある。自分自身を回復させる事だ、そして日常に戻すこと。

ベンチの向かいにある、リハビリ室。
わたしも、あそこに通うんだな…。いつまでも足を固定したままだと、動かしづらくなるから、早く杖なしで歩けるようになりたい。


「…っ!!」


先生に連れられて、新しくリハビリ室に入ってきた人に、わたしはまた心臓を掴まれた。

あの人…、さいとう、はじめさん


「はじめ、さん…」


あの日、口から勝手に出てこようとした言葉。
どうしてか滑らかにするすると、言い慣れた名前…


「はじめさん…、はじめさん…」


なぜだろう、この名前を口にすると涙が勝手にあふれ出てくる。


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2016/01/12


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