20.煌めく水面
温かい湯が張られた桶の中に、サポータを外した足をそっと鎮める。
言われた通りに少しづつ、反るようにしてつま先に力を入れた。
「…っいた」
「ああ、ゆっくりでいい。無理はだめだぞ、痛くなったら戻す、動かせるところまで動かす。その繰り返しだ。暫くそうしていくれ」
「はい」
少しづつ、少しづつ。
湯の中で足首を動かす。
「……」
ちゃぷ、ちゃぷん。という波打つ水の音が耳に流れ込む。その音と煌めく水面を眺めていると、自然と軽やかな心地になり、わたしは知らず作業に没頭した。時折、永倉先生が様子を見ては足首をマッサージしに来てくれた。
「あと五分な、今日はそこまでだ。痛くねぇか?」
「はい、大丈夫です」
「その調子で通えば、すぐ歩けるようになるからな」
「はい」
手渡されたタイマーとタオルを握りなおして、もう一度、もう一度とお湯の中で足を動かす作業を繰り返していると、背後でカランと棒のようなものを倒した音が聴こえた。その音に少し驚いて振り返ると
──あの人がわたしを見つめ、呆然と立ち尽くしている姿があった。
「ユイ…っ!?」
「っ!!」
さいとう、はじめさん…!
この人と話がしたかった。わたしの記憶の中にある、この人と…。
「…っ!」
なのに、急に喉が締め付けられたようになって声が出ない。
一さん。そう呼び返したいのに…!
心臓がどくどくと暴れだし、また警告のように頭痛がじわじわとこめかみから広がろうとしている。
嫌だ、やっと、やっと会えたのに。やっと話ができるまでに来られたのに…!
上着のポケットの中の物を、あなたに見てもらいたいのに。
そして、言いたいのに…。
“わたし、なくさず持っていたよ…”
そう、言いたいのに…
「…ぁ、っ、は……」
「ユイ!」
口をパクパクとやって、あえぐように声を出そうとしても、絞り出せもしない。
一さんは慌てて足元に落とした松葉杖を拾い、びっこを引きながらわたしの元へ来ようとする。
それが震えるほど嬉しいのに、どこかから分からない恐怖が湧き上がる。その恐怖は…総司さんに感じたものと少し似ている感じがする。
なのに、なのに同時に愛しさも悲しさも溢れ出してきて、ますます頭が混乱する。
ピピピピピピピピピ!
張り詰めたその空気を切り裂くようにタイマーが終わりの時を告げ、永倉先生が足早にわたしの方へ駆け寄って来た。
「ユイちゃん、終わったかー?」
「………っ、う、…」
「ユイちゃん…? …─大丈夫か!?」
「ユイ!」
頭を押え、身を縮めるわたしの肩を支える永倉先生。先生だけじゃない。触れられる距離に一さんも、いる。
「斎藤、お前、この子の事知ってるのか?」
「…──ユイ…、ユイは…」
「斎藤?」
「……俺の」
永倉先生が一さんに答えを急かす。
大きな声が頭に響いて、そして一さんの答えが怖くて、わたしは耳を塞ぎ更に身を縮めたかぶりを振った。
「──ユイは、……俺と、将来を約束をした人だ」
「はぁ!?」
「………っ!?」
将来を…やく、そく?
一さんと…?わたしが…?
塞いだ手のひらの、隙間から滑り込む一さんの低い声。
知り得た事は総司さんに感じた時のような違和感は無い。むしろ──。
だけどただ、ただ苦しいという気持ちだけが溢れる。
あなたに会えた喜びとあいまった悲しみと、…そして恐怖。誰かに追われるような恐怖。そして、追い詰められた恐怖。
ふわりとそよいだ風が、斎藤さんの香りを運んでくる。呼吸の合間に吸いこんで感じたその香りはわたしの頭の裏を激しく叩き続けた。
「あっ、ぐ…」
「ユイ!」
「斎藤、そのままで居ろ!山南先生呼んでくる!」
「う……!あ……!!」
脈打つごとに割れるような痛みを伴う頭痛。息をするのもやっと。
一さんに寄りかかってしまっている事が、気になっているが身体が言う事を聞かない。
ぐったりとしながら身体を預け、わたしは息を整えながら、その温もりにある覚えを感じた。
わかる。わかる。この感覚。
知ってる感覚。それも全て。
一さんは全てを知っている。わたしが事故にあったことも、そして原因も。
知りたい、聞きたい。話をしたいのに、真実を知ってしまうことをどこかで恐怖している
潜んだ恐怖なのか、それとも現実逃避なのか。
水に藍色のインクが一滴、ぽたりと落とされていく。それは、みるみると広がって心を色濃く染めてゆき、澄んだ青色が広がっていった。
そして藍の中に射し込む一筋の光。細く、だけど強い光。
あの日の、空を掻いた時に目に入った太陽の光と同じ。
眩しくて、目を閉じても強く残像を残して
そしてそれはわたしに告げる。
──もう、にげないで。と。
「はじめ……さん」
─────
2016/04/19
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