21.指先で辿る

「とりあえず、横になりましょう」


山南先生が丸めがねをくい、と上げながら永倉先生に指示をする。
用意された車いすに乗り、わたしは心療内科の診察室に運ばれていった。

リハビリ室を出たせいなのか、あれだけひどかった頭痛も徐々におさまり、言葉を発することができるようになった。


「せ、ん…せぃ」
「おや、ユイさん。具合はどうですか…?」
「もう、平気、です…」
「それは良かった。ですが、無理は禁物ですよ。こちらで様子を見ましょうね。」


至極優しい口調でわたしに語りかける山南先生。
その先生の指した先に、カーテンで仕切られた場所がある。ベッドと、その横の小さなテーブルには蒸気を優しく吹き出すアロマ用の加湿器が置かれていた。
その加湿器は、下からライトが当ててあり煌めきながらゆらゆらと揺れる水面を天井に映し出していた。

先生はゆっくりと灯りを落とし、わたしをベッドへと促す。
横になると視界がそれいっぱいになり、少しづつ眠気のようなものが押し寄せてくる。


「きれい、ですね…」
「でしょう…?水面のゆらぎは、人の心を落ち着かせる効果がありますからね…」
「そうなんですか…?」
「ふふ。あくまで当社比ですがね」


くすりと悪戯な笑みを浮かべながら、山南先生はベッドの横に椅子を置いて腰掛けた。


「わたしは、…これ…落ち着きます…」
「そうですか…」


リハビリ中、お湯の中に足を入れて足を動かす作業をしている時にそう感じたからだ。
無意識に揺らめく水面を見つめていたら、自然と作業に集中できた。

…天井に反射している水面を眺めていると、なんだか海の底にいるような感覚になっていって、次第に身体の力が抜けていく。そしてどんどん重たくなってゆく瞼。


「でも、…眠く、なってしまいます…」
「良いですよ。この状態のほうが、治療もしやすい。」
「……治療…?」
「ふふ。心理的な療法みたいのものです。これも治療のひとつですから」
「………?」


山南先生の言葉の意図も分からないまま、わたしの瞼は数回ゆっくりと瞬きをしたあと…

動かなくなっていった…。



ぽたん、ぽたんと雫が落ちる音が聞こえる。響き渡るその水音は、優しく神経を撫で擦る。

ゆらゆら、ゆらゆらとゆったりとした何かに横になっている気分。
何かは分からない。だってまぶたが開けられないんだもの…。
気持よくて、心地よくてずっと目を開けないでいたいんだもの…。
ずっとこの雫の音を聞いていたい…。


見たくないもの、ばかりなんだもの…
聞きたくない事、ばかりなんだもの…


一定リズムだけど、時折強弱がついて音の深さが違い、飽きることなくずっと聞いていられる。


………ん

……んん



今度は、こぽこぽという空気が上へ上へと登る音が耳に入って、身体が上に上に上がっていく感覚がする…。


「こんなにすぐに寝入ってしまうとは…。ユイさん、あなたよほど眠れていなかったんですね…」

困ったように笑う山南先生の声が遠くに聞こえる。


身体は鉛のようにずしりと重い。
だけど頭だけは異様にはっきりしている。

山南先生の声がダイレクトに鼓膜を揺らし、わたしの声がわたしの頭の中でだけ木霊する。


──はい。ここ数日、わたしは安心して眠ることなんて出来ていませんでした…。


「さて、それは何故でしょうか…?」


──彼の立てる、かすかな生活音。それすらも神経を尖らせて…。自分自信が自分自信を監視する中にいた、気がします…


「彼、とは…?」


──そうじ、さん…?


「疑問形ですね…。そのそうじさん。は、ユイさんとどういうご関係なんですか?」



──……………



「わかりませんか?」



──………こたえ、られない。こたえ、たく、ない、です…。


「わかりました」
「………っ!!」


パチン!という音と共に、部屋の昭明が点けらた。
まぶたを閉じていても顔をしかめたくなるくらい眩しく、わたしは思わずライトから顔を背けた。


「今日はここまでにしましょう。歩けますか?」
「はい、あの…今日はもうこれで終わりなんですか…?」
「そうですね、わたしの治療はここまでです。永倉先生にはわたしから言っておきましょう」
「そう、ですか…」


ベッドから降り、揃えられたスリッパに足を通す。

治療とリハビリが、あっという間に終わってしまったという事と、またあの家に戻らなければならないと考えると、みるみるうちに気持ちが沈んでいった。
山南先生はデスクに座り、クリアファイルに挟まったわたしのカルテに何かを書き込んでいる。肩までの長い髪を耳に掛け、いつまでも診療室から出ようとしないにこりとわたしに、首を傾げながら微笑みかけてきた。


「どうしました?」
「あの…わたしが行ってもいいですか…?」
「………」
「あの……?」


ふーむ。と山南先生は唸り、一度背もたれをぎしりと鳴らしながらさ天井を仰ぎ、顎に手をやって、ふむと頷いた。


「そうですね、永倉先生もとても心配なさっていたので…顔を出して頂けますか?」
「はい!」
「それからユイさん。なるべく睡眠はとってください」
「………ぇ?」
「寝不足では正しい判断が出来なくなりますからね」
「…っ! はい!」


山南先生の心遣いに感謝しながら診察室を出て羽織った上着のポケットに、無意識に手を突っ込んでハッとする。指先に触れた確信の持てる硬い感触が「進め」と、わたしの背中を押してくれた。

─────
2016/04/27


ALICE+