25.上を見て、手を伸ばして

「じゃあ、僕お仕事してくるからいい子で留守番しててね」


総司さんはわたしに家事をさせない。
午前中に家政婦さんが来て、掃除洗濯それからわたしの昼食と、二人分の夕食を用意して帰っていく。

いつも無言で淡々と日々の仕事をこなしていき、声なんて来た時の挨拶と帰る時の挨拶くらいしか聞いたことが無い。その二言ですら 「失礼いたします」 のたった一種類だ。

一度話しかけてはみたが、こちらを見ようともせず 「奥様との私語は、一切禁じられておりますので」 そう突っぱねられてしまう。

彼女が仕事をしている間、何もすることも出来ない。居心地の悪さから、わたしは与えられた部屋に籠もり、何をするでもなく部屋の隅で膝を抱えて時間がすぎるのを待つばかりだった。

リハビリはなぜだかあの日から一切連れて行ってもらえず、一人で入浴中に永倉先生から教わったように、浴槽内で足首を少しづつ動かして慣らす事しか出来なかった。

総司さんも最近お仕事が忙しいのか “遅くなるから、先に寝ててね。おやすみ” と、SMSでの連絡だけ。あのスマホは、もうその連絡以外での役目を果たそうとはしないだろう。

誰とも口を利かず、誰にも会わず、外にも出られず…。


一さん…。


せめて連絡先だけでも聞いておくべきだった。こんな、監禁されるような日々が来るなんて思いもしなかった。

自分の足はもう治りかけて、リハビリの必要もなくなってきてしまっている。

記憶は戻らなくても、実生活になんの影響もないのだから、医者に罹る必要ないと言われたらそれまでだ。

病院へ行く理由もなくなってきてしまった。

一さん、どうして骨折なんてしてしまったんだろう。わたしと同時期に入院していたことに関係あるのかな…。


「はじめさん……」


数日ぶりに出した声は、かさかさに掠れて濁った音。

あの日見た夢は、わたしと一さんの出会いのきっかけ。それから先は、まだ、夢に出てこない。

もう一度でいい、会いたい。


「………!」


ふと、思い立って自分のバッグの中の財布の中身を確認する。

バッグと、バッグの中身だけは、総司さんから与えられたものじゃない、あの日のままの物だ。

いじられてなければ、お金はあるはず。


「あった……」


一万円札と、千円札が数枚…、それから小銭。キャッシュカードも電子マネーのカードもちゃんとある。

タクシーでも、バスでもいい。
あの病院へ行こう。一さんがいるかも知れない病院へ行こう…!

ここで時間が過ぎるのを待ったところで何も始まらない。

カーテンを閉め、なるべく音を立てずにそっと着替え、家政婦さんが洗濯物を干している隙に、わたしは外玄関へ向かった。
靴音が立たないよう爪先立ち、ゆっくりとシリンダーを回して慎重にドアを押し、一人分の隙間を開けて、そこに身体を滑り込ませた。
後ろ手に持ち替えたノブを、また音が立たないようにして、そうっとドアを閉じる。エレベーターへ一気に向かう事ができた時点で、あることに気づいた。

足が、痛くない…。

日々、永倉先生の教えてくれた通りに、少しづつ浴室で足を動かしていたおかげだろう。

わたしは、逃げるための足を手に入れたんだ…!

カチャカチャと下階ボタンを連打し、焦れったい思いでエレベーターを待つ。

早く、早く来て…!

ポーンと、軽い音ともに開かれた扉に飛び込んで、1Fのボタンと閉まるボタンをまた連打し、息を整えながら跳ねまわる心臓を、なんとか抑えた。

部屋出した緊張と、それから解放された安堵と残る不安。

だけどあの部屋にいたのなら何も変わらない。もう、わたしは逃げられるんだ。


「はぁっ…」



マンションのエントランスを出て、一度大きく伸びをして深呼吸する。大きく息を吐いて新鮮な酸素を身体に取り入れ、先生に言われた“慌てるな、焦るな”を心の中で何度も繰り返し唱え辺りを見回した。

駅まで行けば、タクシープールがあるだろう。

知らない街じゃない。自由に動ける!


「よしっ!」


わたしは駅までの道を、小走りで向かった。




「ユイちゃん!?」
「永倉先生、……あの、しばらく来られなくてすみません」
「いや、いいんだ。それよりだいぶ歩けるようになってるじゃねぇか」
「はい。来られない間、先生の言ったとおりに足を動かしていました」
「そっか、偉いな!」


大きな手でわしわしと頭をなでられる。永倉先生は来られなかったことを責めず、わたしの回復をただただ褒めてくれた。


「すこし、関節見せてくれ。完治かどうかだけ、確かめたい」
「は、はい」


本当は一さんのことを聞こうと思っていたから、思わぬ治療開始に少しも気持ちがついていかない。

ちゃんと先生から完治の確認をしてもらわないと…。入院中にも外科の先生から “捻挫を甘く見るな” と釘をさされていたんだから…。そう自分に何度も言い聞かせた。


「こっちにきてくれ」
「はい」


ぬるま湯を張られた桶に足を入れる。先生は慎重に、わたしの足を上下や左右、回して動かし、くるぶしのあたりを押したりした。

ちゃぷんちゃぷんという水の音が、相変わらず耳に心地いい。


「もう、痛みはないか?」
「はい、無いです」
「上出来だ、完治だな」
「ありがとうございます…」


お礼を言うと、不思議そうに首を傾げられる。


「俺は大したことしてねぇよ」
「でも、先生が教えてくれたことを続けてたから…、やっぱり先生のおかげです」
「そうか?そう言われると照れるな」
「ふふ」


頭を掻きながら少し照れくさそうに、先生はわたしの足を湯から出して、手元にあるタオルで水気を拭き取っていった。
そして、聞こえるか聞こえないかの小声で、突然ぽそりと「今日、あいつは退院だ」と呟いた。

初めは意味がわからなくて、今度はわたしが首を傾げてしまったけれど、先生の表情でようやく意味がわかった。


「東の205号室だ。10時にはここから出る。今から行っても間に合うはずだ」
「はい、行ってきます」
「コケるなよ!」
「はい!」


また、以前のようにリハビリ室にいる人たちのくすくすという笑い声が聞こえる。やはりその笑い声も以前と変わらない。あたたかい笑い声。


何度目か、永倉先生に背を押され

わたしは一さんの元へと急いだ。

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2016/05/31


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