26.開き始めた扉
永倉先生に教えられた通り、東館の205号室のネームプレートを確認する。
一さんの名前と、他の患者さんの名前もある…。大部屋になったんだ。
個室と違って大部屋は保安上の理由で半開きになっていた。そっと顔をのぞかせて一さんを探すと、一つだけカーテンの引かれたベッドが窓際にあった。
日の向きで、人影が見える。おそらく、一さんはそこにいるだろう。
半開きのドアを小さくノックしてから一さんの元へと向かい、カーテン越しにそっと声をかけた。
「あの、ユイ、です。…一さん、いますか…?あの、今日、退院って聞いて…」
「…ユイ!?」
バサッと音がしたあと、カーテンが思い切り開けられた。片足をケンケンしながら、またこの前のように驚いた表情で私を見つめる一さん。
やはりこれも以前のように慌ててしまったのか、ベッドから上着も、読んでいたであろう単行本も落としてしまっていた。
「あ、あああ」
「座っててください。拾いますから」
「す、すまない…」
「ふふ。大丈夫ですよ」
ベッドに腰掛けた一さんに落とした単行本を手渡す。ちらりと見た題名は、なんだか難しそうなものだった。
「あ…」
「どうした?」
あの部屋から出ること、そして一さんの元へ行くことばかり考えて…わたし、何も用意できてない…。
せめて何か飲み物くらい買ってくればよかった…。
「わ、たし…、何か、飲み物買ってきますね…」
「いや、いい。ここにいてくれ…」
「……あっ」
くい、と優しく腕を引かれて一さんの腕に包まれる。ふわりと優しく抱きしめるのは、変わらない強さ。
頬に触れる一さんの体温も、顔にかかる髪の優しさも、何もかもが恋しかった。
そして、ここへたどり着くのにも、何もかもが遠すぎて。
一さんの檻に包まれる数か月ぶりのこの心地は、私の涙腺を崩壊させるのに充分な感触だった。
「はじめさん…はじめさん……」
「ユイ…」
しばらくの間、互いの存在を確かめるうようにして抱きしめ合い、何度も何度も互いの名を呼び合った。少しだけ開けられた窓からそよそよと吹き込む風は、もう金木犀の香りを運んではくれない。
だけど、それだけ時間がかかっても、わたし達はやっと抱きしめ合える距離までに戻れたんだ。
「ユイ、少し良いか?」
「…はい」
名残惜し気に少しだけ身体を離し、片手でわたしの涙を拭いながら、まとめてあった荷物のポケットに反対側の手を差し入れた。
その中から銀色に輝く鍵と、小さく折り畳まれた紙を取り出して、それをわたしの手のひらに握らせ、その上に自身の手のひらを重ね、とても真摯な眼差しをわたしに向けた。
「俺の部屋の鍵だ。行先は…その紙に書いてある。今度は、ここへ俺と共に帰ろう…」
「…はじめさん…!」
渡された鍵と、住所。これは一さんのものだろう。
“ここで帰ろう”
この手の中の二つのものは、わたしにそう伝えてくれる。
ぎゅ、とそれを握りしめて、もう一度一さんの胸元に顔を埋めた。
背に回された一さんの腕の力強さがユイというわたしを形どって彩って、あの閉じ込められていた頃のわたしを消していってくれている気がする。
「斎藤くん、準備はできているかー?」
「近藤さん!」
「……っ」
弾かれた様にぱっと身体を離す。
急に体を離したせいで一気に一さんの体温が遠のき、思わず自分で自分の事を抱き締めた。
「どうぞ」
「手続きは終わったぞ。さあ、行こう」
「……あっ」
「・・・ん…?きみ、は、…ユイくんじゃないか!」
確か、この方…、以前。総司さんとロビーで…
「……あっ!!」
思い出した! 近藤さん、て…
わたしがアルバイトしにいっていた会社の社長さんだ…! 近藤さん自ら面接し、自らわたしを会社の人に紹介してくれた方だ…
「以前あった時と別人のようだな、全くわからなかったぞ」
「………?」
先日会ってから数日程度なのに、私の容貌はそんなに変わっただろうか。髪型を変えたわけでもない。不思議に思って頬をペタペタと触っても、なんら自覚が持てない。
「顔つきが…、うん。随分と明るい。やはり、斎藤くんのおかげだな!……心を患ってしまったと聞いて、一時期は心配したぞ」
「えっ?…」
わたしが?心を?
どういう、こと……?
「だが先日…、総司が君を妻だと…おや…?」
「っ!!」
それだけは違う、もう誰にも誤解されたくない!わたしは慌てて首を横に振り、近藤さんに思い切り否定をした。
「違うんです!わたし…、勝手に決められて…!」
「総司がか?!」
総司さんの名を耳にした途端、一さんの顔つきが、とても厳しいものに変わる。
……一さん、どうしたんだろう…。
「勝手に? 総司はそんな事をするような子ではないぞ? …いったい、どういう事だ…?」
「わたしも分からないんです…。あの、わたし…」
事故にあったこと、そのせいで記憶が混濁していること。目が覚めたら総司さんがいて、婚約していたことを告げられたこと。
かいつまんで。ではあるが、自分の言葉や考えを告げる間もなく、濁流に流されるように話が進んでしまっていたことも近藤さんに話した。
近藤さんはまた以前のように “うーん…” と唸りながら困ったように口元を覆った。眉間にシワを蓄え、優しい印象が少し陰ってしまった気がした。
「そういう、ことだったのか…」
「……はい。わたし、本当に覚えがなくて……」
「一さん…?」
近藤さんに話し終えたけれど、一さんの表情は険しくて硬いまま。
一さんはきっと、事故の原因を知っている。
あの時、落ちるときに視界いっぱいになったのは一さんの髪の色の藍色。
だけど、なぜか…それは未だに怖くて聞き出すことが聞けない。
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2016/06/21
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