28.指の先の闇
冬に差し掛かった冷たい風がわたしの髪を巻き上げ、涙で濡れた頬を冷やしていく。瞬きを一つすれば、排気ガスの匂いがして、見慣れた総司さんの車が目の前にあった。
「さあ乗って。家政婦さんにもお仕置きしないとね。ユイちゃんから目を離したんだから」
「……っ!?」
その一言で、離れかけた意識が現実に引き戻されたんだろう。掴まれた腕を思い切り振り払い、わたしは大声で総司さんに抗った。
「家政婦の人は…っ、関係ないじゃないですか!」
「あるよ?ちゃんと見張ってるように言って別料金だって払ってるんだから」
「………っ!? み、見張ってろ…って…」
「当たり前だよ。僕の大切なお嫁さんのお世話をするんだから」
「ちがう!わたしは…あなたとなん、て…」
「……なぁに?ユイちゃん」
「………っ」
そこで、言葉が詰まる。
…そう。ここで彼を拒否すれば、路頭に迷う人がたくさん出てしまう。
言葉に詰まったわたしを見て、総司さんは更に満足気な笑みを浮かべ、そしてわたしの頭をなでた。
「そうだね。偉い偉い」
何度も何度も撫でられ、その手のひらの重さと温かさにただただ苛ついてしまう。
無言で手を払いのければ、肩をすくませて総司さんはやれやれ、とため息混じりにつぶやいた。
「おかあ、さん、と……」
「なぁに?」
「お母さんと…、話、…させてください…」
「もちろん、いいよ。正式にお嫁さんになったら、なかなか会えないもんね」
「………っ」
嫁ぎに行くための挨拶をするためじゃない…!せめてもう一度、お母さんの考えを聞きたいだけ、なのに…!
どこまでも自分の都合の良いように話をねじ曲げられる事に、悔しさも混じって苛立ちがますます溢れてくる…!
だけど、だけど…
きっと、わたしはもう身動きが取れないんだろう…。
総司さんは笑みを湛えたまま助手席側のドアを開け、紳士のように手を差し出し、わたしを車内に招きいれた。
抵抗もできないまま項垂れて、もう何度目かになるだろう、総司さんの所有する車の助手席に座るしか…なかった。
「じゃあ、このままユイちゃんのお家に行こうか。お父さんにも手を合わせないとね」
「……っ!」
"手を合わせる"
その言葉を聞いて、今まで塞いでいた事実と現実に、ものすごい勢いで血の気が引いてゆく。
お父さんは、もうこの世にいないこと…。
わたしは、ユイを殺して…、この人の妻にならなければならないんだ…。
エンジンがかけられ、車するりと動き出す。
景色が動き出すと、また頭が痛くなってきた。
こめかみを何かの器具でギシギシと締め付けられるような痛みが走り、もう、堅く目をつぶる事しかできない。
うつむいていると、余計に痛みが増してくる。
本来ならば、寄りかかりたくないシートの背もたれに体を預け、頭を押さえながら重たい息を吐いた。
病院から家まではそう時間はかからない。私の意志も意識も奪おうとするこの頭痛は、きっと治まらないままだろう。
「また、頭痛いの…?」
「………」
返事をする気力も、ない。
シートに身を預け、背中を向けたまま。
頭を押さえて時間がすぎるのを待った。
「………」
ブレーキ音のあと、サイドブレーキの音が耳に入る。次いでハザードのカチカチと乾いた音の後に運転席のドアが開いた音が聞こえた。
シートベルトを外し、のろのろと助手席のみドアノブに手をかけて外にでる。
馴染のある家の周りのにおい。
もう周りは夕飯時なのか、近所からは何かを煮る匂いがした。
わたしがあたりを見回している間にインターホンを押し、総司さんはお母さんを玄関先に呼んだ。
「急にすみません。お邪魔します」
「まあ、総司さんにユイ…!」
「ユイちゃんがお母さんに挨拶したいそうで…。しばらく親子水入らずで話もしてなかったですし、ユイちゃんもやっと心を決めてくれたみたいなので…」
「そう、ですか…。」
重たい空気の中、ひとりにこやかな総司さん。
全てに先回りをされ、どうにもならない悔しさからギリ、と歯を食いしばった。
「ぼく、車邪魔にならないことろに停めてくるから。どうぞ二人水入らずでね。」
わたしの肩をポンと叩き、総司さんはさっさと玄関先から消えていった。
バタン、と木製の古いドアが軋みながらゆっくりと閉まり、その音と同時にお母さんが大きなため息を吐いた。
「……思い出しちゃったのね…。あのまま忘れておとなしく総司さんのお嫁さんになっていれば、幸せだったのに」
「そんな…! お母さん、わたし、あの人は嫌…!」
「お金も受け取っちゃったのよ。今更戻れないし、工場のみんなはどうするの!? あんたもいい加減斎藤とかいう金のない男なんかに拘ってるんじゃないわよ!」
「…………っ!」
お母さん……
頭の後ろが、一気に冷たくなってゆく。
喉が何かに掴まれたかのように、声が出ない。
力が抜けて、握っていたバッグを落とした気がした…。
「おか…さ…」
「ごめんね…ユイ」
「……っ」
もう、後がない。何も無い。
戻る場所も、居られる場所も…。
わたしには、もう、何も、無い…。
耳を塞ぎたくなるほどの軋む音の後に、ゴウン…。と重たい音を響かせて、逃げるための扉が閉まった気がした。
目の前には、一片の光も射さない絶望的な闇しかない。
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2016/08/31
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