35.もう一度、掴む

あの乾いた空気の秋の空から冬を越え、暖かな陽射し溢れる春の柔らかいうららかな朝。

小さなアパートの一室から、バタバタと慌ただしい音が聞こえる。


「ユイ。準備はいいか?」
「一さん、お弁当」
「ああ…そうだったな」
「ふふ」


今日からわたしたちは、同じ仕事場へ向かう。お父さんの残した会社が近藤さんの子会社となり、一さんはそこで主任として働くことになった。
前からいた従業員の方々に一つ一つ仕事を教わり、わたしも事務員としての研修を終え…今日から一緒に出社だ。

小さな工場には社食がない。お弁当の中身の談笑をしながらちらりと腕時計に目をやった一さんは、わたしの手を取り “良いか?” と目線で合図を送る。


「少し、急ごう」
「はい!」


手を繋ぎあって先のバス停まで走ると、わたしの首元で、蒼い石のペンダントがきらきらと揺れた。それを見た一さんが、息をきらせながら週末の話を始めた。


「…ユイ、土曜日は何か予定はあるか?」
「いえ、特にはないですが…」
「ならば、今度こそ指輪を買いにゆけるな?」
「…あっ、…はい…」


結婚指輪は、わたしに選んでほしいから。と式の日には用意されておらず、代わりにあの菫青石のペンダントが私の首にかけられた。

ペンダントをわたしから外したのは総司さん。それを式の日に、一さん渡したらしい。


「大丈夫か? 明日はあと5分早く出よう」
「……はい」


バス停にたどり着き、わたしは息を整えながら頬の熱をおさえるのに必死だった。


「……」


結婚指輪…。

改めて言われると、少し照れてしまう。

式を上げ、届けを役所に出して

わたしは “斎藤ユイ” になったというのに。一緒に生活をして、もう一ヶ月ほど経つというのに。

結婚しています。という証の指輪。

夫婦としての繋がりを表すアイテムが、わたしにとってはとても大きなもののように感じられてしまって…。

生活を始める準備でばたばたした日々を送り、ようやく軌道に乗り始め、やっと足並み揃えて歩けるまでになって…。色々と細かいものまで頭が回るようになってきた。

という事なんだろう。


ふと見上げてみると、一さんの耳が赤い。


「……はじめさん…?」
「いや、改めて二人のものを選びにゆくとなると…その……」
「!」


一さんも同じだったんだ。
照れ臭そうにわたしから顔を逸し、咳払いをしたところでたまらず吹き出した。


「わ、笑うな」
「…ふふっ。ごめんなさい。だって、わたしも同じなんですもの」
「っ!」


二人して赤い顔をして、二人して吹き出してくすくすと笑いだした。

タイミングよくバスが到着し、二人席に座って、また吹き出す。


「ふふ」


失ってしまっていた分、笑いあっていこう。あの日、そう神様の前で誓い合った。
こういう小さな時も、わたしたちにとって宝物になっていくだろう。

きらきらと輝く時間を、たくさん集めてたくさん経験して、苦しいことも、楽しいこともたくさん、たくさん共有したい。

わたしたち夫婦は、そういう夫婦になりたい。


“──しあわせに、なって”


総司さんとの約束が、わたしたちをもっと深く繋げてくれた。

感謝と、喜びと、苦しみと

すべてをわけあって、やっと一さんのところへ手を伸ばすことが出来た。


あの日、手を伸ばしても掴めなかった


今は、手を伸ばせば掴み返してくれる人がいる。力強く握り返してくれる人がいる。


──その掴んだ手を、もう離さないように。



おわり
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2017/02/10


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