3.優しく包む
あの日から検査もなく、怪我の回復を待つ日々になった。
あとは捻挫だけだね、もうすぐ退院できるよ、と、外科の先生が笑いながら話してくれた。
わたしは歩道橋の階段から落ちて、その時頭を打ってしまったらしい。
日中の街中ということもあって、見ていた人も多くいて、わたしはすぐに救急搬送された。
その中の一人が、沖田さんだった。
沖田さんが言うには、わたしと指輪を買いに行く日で、その時に足を滑らせてしまった、という事だった。
わたしを助けられなかった事を責め、毎日お見舞いに来てくれていたのよ、と母が嬉しそうに話してくれた。
たまたまその時一緒にいたから。なのか何故なのか。
そのせいで沖田さんの事だけが抜け落ちてしまったのかも知れないと先生は話した。
「一時的な記憶の混乱でしょう。単純に、頭を打ったことが原因かもしれませんし、落ちる前に何か精神的ショック…というか、ストレスの様なものがあったのかもしれません」
「………精神的、ショック…?ストレス…って…?思い出したくないことが…ある、とかですか…?」
「一概にそう、とは言えません。ま、生活に支障は来さないし、いずれ落ち着いたら想い出すかもしれないから大丈夫でしょう。無理だけはしないでくださいね」
「はい……」
家に帰れるのは嬉しい。だけどその後の生活だ。
沖田さんと婚約をしているのなら、わたしはいずれ彼と結婚して一緒に生活をする、ということだ。
こんな状態で大丈夫なのかな…。
好きな人だけを忘れるなんて、婚約した人が近くにいて幸せなはずなのに
どうしてこんなにも気持ちが淀んでいくんだろう…。
「そうだ」
鬱々した気持ちを振り払うために、私は中庭に向かった。
母が言っていた金木犀の咲いている中庭に行って景色でも眺めて、少し気分転換をしよう。
開花してからが早いから、退院までに花が保たず落ちちゃうかもしれないし。
「よい、しょ」
クラッチタイプの松葉杖を手にとって、手すりをたどりながら外履きに履き替える。
今日は風が少し強い。上着を羽織ってお財布とタオル、それから読みかけの文庫本の入った小さな手提げを持って病室を出た。
缶のミルクティーを一つ買って、ベンチで一服しよう。
検温の時間はまだ先だ。少しゆっくりできるだろう。
コツ、と硬い音を立てて煉瓦が敷き詰められた中庭に出る。
さぁっと風が吹き抜け、わたしはいっきに金木犀の香りに包まれた。
「うーん、いい香り…」
身体中に染みこむんじゃないかって程にむせかえる金木犀の香り。
甘くて、少し柑橘みたいなスッキリした香り。秋の短い間の、何故か物哀しい香り。
「…………」
毎年毎年感じる、この寂しい香り。
ちゃんと覚えてる。
何か、経験するたびに思い出せる。
わたしは、きっと大丈夫。
沖田さん…の事もきっと思い出せる
欅の木の近くに設置してあるベンチに腰掛け、手提げからミルクティーの缶をとりだす。プルトップに指をかけ、パキ。と音を立て、開いた飲み口からほわりと湯気が登る。火傷をしないようにゆっくりと飲み口に口をつけた。
「あち…」
ほうっと空にため息を吐く。
吐いた息が白くなるような季節じゃないけど、澄み切った冷たい空気をまとう空を少しだけ暖めてみたくなった。
そしていきを思い切り吸い込んで、金木犀の香りを楽しんで、ゆっくりと息を吐きだして身体の力を抜いた。
ボーッとしているのが心地いい。
文庫本を持ってきたものの、なんだか読む気になれなくて、何気なく向かいの病棟に目を向けた。
(リハビリ室だ…)
歩行訓練をしている患者さんに療法士さんが手を差し出している。
一歩一歩。決して早くはないけれど、確実に前に前に進んでいる。
「…………っ!」
わたしも、こんなふうに進めばいいんだ。
不安はもちろんついて回るけど、家に帰れば何が変わるかもしれない。沖田さんのことも思い出せるかもしれない。
“どうしよう”と心配するよりは、行動してみよう。
名も知らない患者さんに力をもらえた気がする。
もう一口、ミルクティーを飲んで一人こっそりと気持ちを奮い立たせた。
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2015/09/17
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