5.違う、違う、ちがう。

「斎藤さん」の部屋で倒れたその日から、わたしは三日程、まともに起き上がることができなかった。

目を瞑ればあの日の空の青、斎藤さんの瞳の藍、沖田さんの持って来た花の赤。それ等の色が目の裏に走り、点滅して神経を尖らせ頭痛を伴ってやってくる。

眠りたくても眠れない。
だけど体力と気力は遠慮なく削られていく。

食欲なんて、もちろん無くなっていって、四日目には睡眠薬入りの点滴を打たれた。
薬の効果はてきめんで、わたしは久しぶりに睡魔というものに襲われ、あっという間に眠りに落ちていった。


「………」


目が覚めた時に、わたしの手を握っていたのは沖田さん。これで二回目だな…なんて思いながら握られた手を握り返してお礼を言った。


「沖田さん…あの…、ありがとうございます…」
「ユイちゃん…」


沖田さんの表情は複雑で、怒っているくせに笑っていて、わたしはどう返事をしたらいいか、いつも分からなくなる。

だけど今回ははっきりしていた。

怒っている、と。


「おき、た…さん…」
「…………」


どうしたらいいかわからない。けれどどうすることもできない。
沖田さんが言葉を発するのを待つしかできないわたしは、こくりと黙って目を閉じて繋がれた手の力を抜いた。

叱られると諦めた子供のように。


「ユイちゃん…」
「………」
「どうして、勝手なことしたの…」
「……?」


“勝手なこと”ってなんだろう。
沖田さんの言う“勝手なこと”って何なんだろう…。

返事しなきゃまた怒られる。
わかっているのに…、わたしの頭の中は真っ白で弁明も言い訳も作り出さない。
ただ、いつも一方的に怒りをぶつけられる事が本当に悲しかった


(…また? いつも?)


また? 
いつ…?わたし“また? いつも”って思った…?どうして…?


「ユイちゃん?どうして、返事してくれないの…!?……ねぇ」
「……っ!」


もうたくさんだ。わたしだっていっぱいいっぱいなのに。

事故にあって記憶の一部が欠けて。気がつけば身体は傷だらけで怪我までしていて。
だけど全てを忘れていない貴方達は、忘れたわたしにいちいち驚いて悲しんで…苛ついて。

一番に驚いているのも、悲しんでいるのも苛ついているもわたし。
なのにまわりの人たちのほうがわたしよりも動揺していて…。


「ユイちゃん!」
「っ!」


握られた手を無理やり振りほどいて布団を掴んで頭からかぶり、ぐする子どもの様に沖田さんから背を向けた。


「ユイちゃん!」
「………っ、やめて、ください!」



これまで、言えなかった言葉を初めて口にした。


“沖田さん、やめて”


短い言葉。だけどわたしにとっては本当に勇気のいる重たく意味のある言葉だった。


反抗…。そう、沖田さんに対する反抗だ。


目覚めてから言うがまま沖田さんの言う通りにしてみたけれど、心がちっともついていかない。

ちがう、そうじゃない。
奥底の、心の小さいかけらがそう言っている。

ちがう、と。


「…………ハァッ」
「………っ!」


ガタッ!


わざとらしいくらいに大きなため息と共に聞こえる椅子を引いた音。
びくん、と身体が恐怖に跳ねたけれどもうたくさんだ。
いう事を聞くだけの人形なんて、たくさんだ。


「…………」


そしてもうひとつ、気づいた。わたしは、わたしは本能で沖田さんにおびえている所がある、と。だからそれで終わるはずがないと、この日察した。

あの日から沖田さんが、あからさまにわたしを見張るようになった。

“心配だから”と就業後も毎日顔を出し、早い時間のお見舞いはこれまで休みの日だけだったのに、有給までとって連日ここに足を運び、無言でベッド脇に座ってただただ本を読む日々。


そして…


「総司さん…」
「なぁに?」


名前で呼ぶことを強要された。
わたしが反抗したあの日の翌日、笑顔でまた赤い花を持ってきて、突然にこう言ってきたのだ。


「ねぇ、その沖田さんっていうのやめて欲しいんだけど」
「…っ!?でも…」
「ユイちゃんは、その“沖田”になるんだし、変でしょ?」
「はい…あの、でも…わた、し…」


はっきりと返事をしないわたしの手を優しく握る沖田さん。その行為とは裏腹に、笑みを向けたまま鋭い視線でわたしを射抜いてくる。


「総司って呼んでよ。以前みたくさ。敬語もなしね?」
「ええっ!? そんな…!」
「…なぁに?」
「急には、無理、…………です。」
「そう? んじゃ、ゆっくりね? でも沖田さんだけはやめてね? いいね?」


あの時の笑顔に、
半ば、いやほぼ無理やりに決められた。
本当に記憶のあった頃、わたしは沖田さんの事を下の名前で呼んでいたんだろうか…。

総司さん、と口にするたびに感じる違和感はなんだろう。


「トイレ、行ってきます…」
「じゃ、僕も行くよ」


一人になると、心配だからね。


「………」


一人にすると、じゃないんだろうか…。


杖をつくわたしを支えながらニコニコと笑顔を絶やさない総司さん。
トイレの前で待っているから、と小さくわたしに手を降る総司さん。

傍から見れば、微笑ましい光景なんだけど、これも監視の一環。

個室に入って、ため息をついて。あの小さな檻に戻される前にひとりごちた。


「あの中庭に、もう一度行きたかったかな…」


金木犀も、もう落ちちゃっただろうな…。



「ユイちゃん、こんにちわ」


沖田さんが来ない日は殆ど無い。
病室にいなければ、あからさまに不機嫌になって部屋中が嫌な空気に支配される。

本当に、わたし、この人と結婚するの…?
お母さんに聞きたい。だけど先回りしているのか、お母さんを沖田さんが病院に連れてくるようになっていて、お母さんと二人きりになって話す機会が持てない。

いつも悪いわね、頼りになる旦那様になるわよ

なんてお母さんは嬉しそうに言っていて

(今は口を閉ざしていたほうがいいかもしれない。)


すべての記憶が戻るまで。

鈍いわたしでも察した。


─────
2015/09/20


ALICE+