21.情交の後

*自身の父の葬儀に、焦点も合わず表情をなくした遺族席にいたあんたに目が離せなかった。

いつも柔らかく暖かい陽だまりのような笑みを湛え、家族と楽しげに談笑していたというのに、そんな姿の欠片も残さず。そして悲しみも苦しみも何も写さず、曇り濁った眼差しで虚空を見ていた。



目が、離せなかった。


だが、一転して火葬場で泣き叫び取り乱すあんたに、衝撃が走った。

雷鳴に打たれた、とはこの事か。

人間という体裁をかなぐり捨てて泣き叫び、身の内から濁流のように流れ出る苦しみ悲しみという気持ちを荒れ狂わせ、先程まで死んだような濁った眼差しをしていた人間が死を拒んで無様に足掻き、棺が焼き場に向かう。まさにその時その場で身も世もなく泣き叫ぶあんたを


─俺は堪らず引き寄せて抱きしめた。


どうしても俺は、抱き締められずにはいられなかった。周りの人間が息を呑むのも構わず、俺はあんたを力の限りに抱きしめた。


何故など、分からぬ。


ただあの時の眼差しは、父の死を受け入れられず認めずにいるのあんたの脆弱さだと気づき、堪らず抱きしめて俺の存在を、俺がいるという事をわからせたかった。


何故かなど、分からぬ。


ただ、ただあんたに、俺という存在を認めて欲しかっただけなのかもしれない。

俺の中の優しかったあんたが、音を立てて脆く崩れてゆくのが堪えられなっただけなのかもしれない。


俺がいる、だから─。


「嫌ぁあ!!」


取り乱したあんたは口汚く俺を罵った。

握りつぶせそうな細い腕
手折れそうな華奢な腰

そのくせ力強く俺をはねのけようと足掻き、涙を流し、己の邪魔をする俺に射殺す程の眼差しを向け、怒りをぶつけ続ける。

離して!いや!!邪魔しないで!
お父さん!お父さんお父さんお父さん!
離して!離して!!
やめて!嫌!やめて離して!!


お父さんが無くなっちゃう…!


否定の言葉を浴びせられれば、浴びせられるほど、あんたを解くわけにゆかぬ。と俺は更に腕の力を込めた



いやあああああ!



鉄製の重い扉が閉じられた時、あんたの慟哭はより一層悲しみを増していった。
コンクリートの床を引っかき足掻き指先から血を流し、必死に俺の身体を剥がそうと暴れていた両腕は


「………………」


気付けば縋るようにして背に回され、悲鳴混じりの泣き声は、いつしか小さな嗚咽へと変わり、力を無くしていった。

泣き、叫ぶ声を俺の胸に閉じ込めて、あんたが父の死を受け入れてゆくのをただただ抱きしめて。


お父さん…


そう呟き、大粒の涙を流し呼吸もままならなくなったあんたは、そのまま意識を失った。



ユイ。あんたは弱い存在だ。

ユイあんたは俺がこうして俺が側にいて繋ぎ止めていなければ、駄目な弱い女なんだ…。

ユイあんたは俺が抱きしめていなければ、ふらふらと浮雲のように、何処かへ揺蕩っていってしまう

そして少し目を離せば、すぐ他の男に手を付けられてしまう。


「…………」


母からあんたの家に差し入れを言い渡されたときは、喜びを抑えるので精一杯だった。あんたはあの時、無邪気に近所のお姉さんの顔をして俺を迎え入れたな。

あの日の事なんてすっかり記憶から削除してしまったのか、在り来りな近所のお姉さんの顔を、あんたはしていた。


“私もお母さんから頼まれ事があって…”


背を向けた時に翻った髪の香りに目眩を覚え、俺は堪らずにあんたにまた手を延ばしていた。

一瞬驚いて、そしてゆっくりと瞳を閉じ俺を受け入れたあんたの愛らしさは、今でもはっきりと覚えている。

遠慮がちに背に回された腕がかすかに震えていた事さえ愛おしい。


儚くて、か弱くて


だから、俺が、あんたを世の全ての愁いから守ると決めた。
弱いあんたを護る事が出来るのは、この俺しか居らぬだろう?

なのに何故、あんたは他の男のもとへと行こうとするのだ。

か弱いふりをして他の男の印を付けてきた時は、己がどうにかなってしまうのではないかという程に怒りに打ち震えた。

世にも認められない俺はまだ子供だ。
世に出たとしても、それでも先に大人になったあんたに俺は到底追いつかない。

だから金が必要だった。

金だ、金さえあれば…、あんたを全てから守ることができる。
余計な害虫共からあんたを守ることができる。


『君が斎藤くんか。娘を頼むよ』
『はい』


大学内で遊んでばかりの頭の悪い、だが親に金のある女をとにかく探した。

ひとりの、大手製薬会社社長の娘。
丁度いいほどに軽く、己の考えなど持たぬ女だった。

家庭教師の仕事の傍ら、これまでもレポートの代筆を引き受け、小銭を稼いだことは多々あった。

だがそれだけでは足りない。

もっと、もっと多くの金が必要だった。



必死にその馬鹿な女共の家族に取り入り、更にその女の妹の家庭教師を引き受け、適当な有明大学にでも合格させてやれば、俺は父親からの絶大な信用を得られる。

そして想像通り、面白いように報酬は跳ね上がっていった。

その後もその女とその妹の大学内での素行を逐一父親に報告し、結婚前の娘二人におかしな男がつかぬよう監視を言い渡され、内偵まがいの事もやった。


周りの人間達から金の亡者と言われ、金に汚いと言われようと…
俺が汚い手を使っているだの、裏の人間と繋がっているだの、大学内で俺とその女との関係を勘ぐる輩も勿論居た、だが有りもしない噂を立てられようとも…

ユイを完全に手に入れる為ならば、そんなくだらぬ噂など、俺にとっては些細な事であって痛くも痒くもない。


頭の悪い女共は、俺の用意した卒論で大学を卒業し、無事にどこかの金持ちに娶られていった。

報酬という名の口止め料。
監視代と手切れ金の額を合わせ、漸く俺の満足の行く額が手に入った。



長かった、やっとだ



やっとあんたを迎えに行ける

その間にあんたが他の男へふらついた事は、俺も許そう。
俺に力が、金がなかったのがすべての原因なのだから

だがもう

そんな心配もない…。


「ユイ…あんたは…俺のものだ…」






──終

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